14.咆哮の魔女
束の間、フィーネは魔女に見惚れた。
歩を再開し、重たげな眼差しを向けながら、片手を灰物の方へと掲げる魔女。五指を折り曲げ、何かを握り締めるように振舞うと、灰物が悲鳴を上げる。纏わりついた灰の鎖がぎりぎりと灰物を締め付け、正しくその巨体を握り潰さんとしていた。
「ま、待って!」
蒼白な血相を更に青くさせて、フィーネは叫ぶ。が、無意味だった。顔色一つ変えないどころか、まるで聴こえていないかの如く、魔女の視線は灰物へと一心に向けられている。鎖の拘束が増したのか、灰物の悲鳴は絶えず、巨体のうねりで大地が断続的な震動を繰り返す。
かつてないほどの焦燥に囚われ、少女は気が付けば魔女の元へと駆け出していた。地を震わせる悲鳴を耳に受け止めながら、もつれる手足を出鱈目に動かして遅鈍な走りを見せる。その合間にも魔女は、フィーネに一瞥すら寄越す事無く、灰物だけを見つめていた。惨めさのようなものが、少女の内に芽生えた。
「待って!!」
もう一度叫ぶ。聞き届けられない事は知っている。だから、フィーネは叫ぶと殆ど同時、体当たり同然で魔女に組み付いた。
褐色の肢体が呆気ないほど簡単に揺らぎ、倒れ込む。魔女を下敷きにして、荒い呼吸を整える。面を上げて魔女の様相を確かめる。
「……」
「っ」
ぬらり、とした顔。少女の内にそれを上手く説明できる言葉は無かった。冷たいような、生温いような。憐れんでいるような、蔑んでいるような。慈しみ、安堵を含んでいるようにも見える。けれど、空虚な。嫌気、怖気、そんな物を同時に感じる。
(また、だ)
既視感。
ぼう、と見つめるフィーネの視線を魔女は緩慢な仕草で黙々と押し退け、立ち上がる。首をもたげ、彼方を見やる。釣られ、遅れて視線を移した少女の瞳孔に、暴れまわる灰物の姿が映えた。鎖が霧散し、灰物は徐々にその身の自由を取り戻していく。
魔女が再び片手を掲げようとするのをフィーネは見逃さなかった。
「待って!!」
投げ出された身体を起こし、魔女の腕にしがみつく。揺らぎ、けれど今度は倒れなかった。代わりに、冷たく固い心地を覚える。
「退け」
何故、を問うこともなく魔女は一言、少女に命じた。
フィーネは駄々をこねる幼子のように頭を振り、必死に瞼を閉じて、両腕を魔女に絡みつかせる。そんな事しか出来ない自分がほとほと嫌になる。ふと、頭上に手の平が乗せられたのを感じた。静かに乗せられたその感触は柔らかく、優しく、そして温かい。
「邪魔だ。退け」
「いや!!」
手の平の感触と違って、魔女の言葉は端的で厳粛だった。胸を締め付けられ、フィーネは叫ぶ。
「あれはベニーなの!」
「知っている」
「わるくない! ベニーはなんにもわるくないの!」
「そうかもな」
淡泊な返し。灰物の絶叫。両腕に力を込める。
「みんなが彼を追い詰めた……私達が彼をあんな風にしてしまったのよ!」
受けて、魔女は一瞬間を置いて言葉を返す。
「やめておけ」
それは、何の制止を意味していたのか、フィーネには分からなかった。だから、だからと少女は思いのままに、か細く叫ぶ。
「もしも、もしも誰かが、私がもっと早く、踏み込んでいたら」
「ああはならなかったかもしれない、か? まったく」
溜息。
フィーネはそれ以上何を言う事も出来なくなった。指先から力が失せていく。
「おい、顔を上げろ」
魔女が言い放つだろう台詞が、予想できる。私の愚かを責め立てる言葉の数々が、私の内側から溢れ出す。
分かっている、解っている。何も出来なかった。目を逸らした。怖かった。踏み込んで、拒まれるのが怖かった。彼を助けたい? 嘘だ、欺瞞だ。思い上がりも甚だしい、愚かな嘘。それを彼は、ベニーは見抜いたのかも知れない。
「おい」
だから、こうなったのかもしれない。だとしたら、そうならば。
「目を開けろッ!!」
髪を鷲掴みにされ、強引に引っ張り上げられる。その痛みと、聞いた事の無い魔女の怒号に驚き、フィーネは目を見開いた。目前の黒い瞳が鋭くこちらを睨んでいる。怖い、と思った。
しばらくそうしていた魔女は徐に、又、強引にフィーネの頭を動かして灰物へと向けさせる。
「見ろ」
顔の位置を揃え、冷たく言う。
「魂はとうに費えた。あれはもはやお前が知っている坊やじゃない、空の死骸が動いているに過ぎないんだよ」
全ての拘束を振り解いた灰物が灰色の空に向かって吠えていた。眼窩からどろりとした膿が流れ、灰物の足元を赤く染めている。目を逸らしたいと思ったが、隣立つ魔女の威圧がそれを許さなかった。
「確かにお前の言う通り、何かが違っていれば、誰かが違っていれば、ああはならなかったのかもしれない。だがな」
重い声音が胸を突き刺す。
「それがなんだというんだ?」
ぬらり、とした言葉だった。
「だから、喰われてやろう……あの厄災を振り撒くだけの死骸に、その歯牙に総身を噛み砕かれながら、それでも伝えてやろうというのか?」
お前は生きていてもよかったのだと。誤ってなどいなかったのだと。謝る必要など無かったのだと。
「お前の両親は、確かにお前が産まれた事を喜び、お前の事を誇りに思っていたのだと」
「ぇ……?」
でなければ。
「でなければ、祝福などという名を付けたりはしない、と。それでも伝えてやるべきだというのか」
それはフィーネには分からない。けれど何か、魔女にだけ視えている何かを少女に気取らせた。
「そうする事に、感傷を満たす以外の何の意味がある? 遅いんだよ、何もかも。お前達があの都市にやって来た時には既に、この結末は決まっていたんだ」
言って、魔女はフィーネの頭を離し、肩を突き放した。倒れ、へたりこみ、もはや立ち上がる余力も尽きた少女に背を向ける。
「この期に及んで出来る事は唯一つ。あの死骸を葬る事だけだ」
帽子の唾を掴み、深々と被り直し、表情を覆い隠す。そうして呟く。
「二度と、もう二度と。誰もあの子を傷付けられないように」
——その後の光景を、フィーネは生涯忘れないだろう。
魔女を覆う白と黒の螺旋の光。束ねられた光の繭。
刹那、灰物が繭へと疾駆する。歪な片腕を突き出し、まるでそれを欲するかのように。救いを求めるかの如く。
灰物の腕が繭に触れたその瞬間、高い咆哮と共に繭が割れ、ソレが孵った。
「 」
人と変わらぬ大きさではあるが、人では無い。
黒く染まった四肢を振り上げ、屍の如き褐色の胴を翻す。その背から生えそびた、宵闇を思わせる翼が羽ばたく。憐れむかの如く、中空から灰物を見据える瞳は、金に煌々と燃えたぎっている。
真白い双角を上げ、灰色の鬣たてがみを流し、眼下の灰物へと爪を突き立てる。灰物は、抗う事もなく茫然としていた。
翼が広がり、灰物を覆って、遡って還るように繭を形作る。繭に向かい、一帯の灰が集束して吸い込まれていく。
ソレはもう一度、咆哮を上げて、寂寞とした余韻を残して泡と弾ける。灰も、灰物も、鳴く声も消え去った花園に月光が射し込み、少女の視界を眩ませる。
思わず目を瞑ったフィーネの脳裏に、言葉がよぎった————竜。




