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13.彼方より

 嵐が過ぎ去り、一面は灰色に覆われていた。

 樹々も、花も、土も。滞留した風が灰を吹き上げ、空までもが白く濁りを帯びている。

 跪いて項垂れた少年の亡骸。それを中心とする閉じた世界。

 伏せた身体を起こし、灰塗(まみ)れの重い(まぶた)を開いたルクルム=シレ―クスの目に飛び込んだのはそんな光景だ。見渡そうにも曖昧な空間に、燻ぶった臭いが立ち込めている。煩わしい耳鳴りに顔を(しか)めながら、眉間に皺を寄せて目を凝らす。現状は男にとって不可解極まりないものだった。


(何が起きたというのだ……?)


 聖女の動向を追跡し、機会あらば恩を売って、彼女に自分を擁護者として認めさせる。その為に豪商の名家、当主たる自らこのような辺境まで出向いたのだ。

 従者の少年が彼女に牙を剝いたのは想定外だったが、好都合でもあった。男の命令によって放たれた弾丸は見事、愚か者の身体を撃ち貫き、聖女の命を掬い上げた……筈だった。直後、灰の嵐が吹き荒れる。それによって五感は奪われた。


(秘術の類……いや、(しか)し)


 どんなに思考を巡らせても、男の知識と経験の中に思い当たる節は無い。自警団員達が次第に一人、二人と起き上がり始める。灰の山から顔を上げた彼等も又、男と同様に困惑の表情を浮かべる。


「聖女だ」


 声を張り上げるルクルム。


「フィーネ様を探せ!」


 その指示で我に返った団員達が、聖女の名前を呼びながら彷徨う。

 それらの様子を横目に、男は更に目を凝らして周囲を見た。徐々に目が馴染んで視界が開けていく。そして。


「いたぞ、あそこだ!」


 一点。灰に埋もれて尚、僅かに煌めきを放つ黄金の髪を指差して叫ぶ。団員の一人がそれに次いで叫んだ。


「フィーネ様!」


 壮年の団員が一目散に駆け寄り、遅れて他の者達も倒れ伏した聖女の元へ集う。抱き起こし、揺り起こす。


「ぅ……」


 幽かな呻きに一同は安堵と幾らかの喝采を呈した。流石は聖女様だ、と。このような事で亡くなられたりはすまい。全ては始祖の思し召し。


「ふん」


 一連を見守り、鼻を鳴らしたルクルムはゆっくりと一団の方へ足を向ける。そうして少しずつ頭の中で計画を練り直す。

 目覚めた聖女になんと言うべきか。なんと声を掛ければ、高値で恩を売る事が出来るか。()ずは恭しく下手に出て、忠誠と信仰心を表する。それから。


「ルクルム殿!」


 ふと、男を呼ぶ声。振り向けば団員の一人が明後日の方角を見ている。怯えた眼差しで、信じられないものを見てしまったかのような。目線の先を追いかける。


「……?」


 そこにあるのは少年、物言わぬ背信者の骸だ。今更取るに足らない代物、その筈である。改めて団員の間抜け面に目をやる。


「アレがどうした」


「今……動いたような」


 馬鹿な。そんな訳がない。あれはもう死んでいる。慌てて骸に視線を戻す……が、微塵も動く様子はない。

 胸を撫で下ろしたルクルムが、戯言を宣った団員を咎めようと口を開きかけたその時だった。


「え」


 と。誰ともなく声を上げた時、“それ”は始まった——


——ぞろり。


 そんな音。

 同時、骸が蠕動する。瞠目の渦中、骸が鳴らす音は次第に地を震わすほどの轟音となり、一団と灰色の世界を震撼させる。


「なん」


 なんだ? 団員の一人がその一言を発しようとして、失敗する。

 喉元に違和感。視界前方、蠕動を止めた骸の腹部から“何か”が伸びている。赤く、黒い何か。その何かは真っ直ぐにこちらへ伸びて。


(……喉、を)


 貫いていた。血溜まりが灰に落ちる。


「なんだ!?」


 ぼたり、と。骸の両腕が剥がれるように地面へ落ちる。

 ぞろり、と。胴の肩口、その断面から更に何かが芽立つ。

 何かは恐ろしい速さで触手を伸ばし、ルクルムの両側に立っていた団員の手足を刺し貫いた。三本の触手が伸縮し、貫いた獲物を乱暴に引き寄せる。まるで喰らうように、或いは粘土細工の人形に別の粘土を足し繋ぐように、悲鳴を上げる肉を取り込んでいく。ぞろり、ぞろり。


「——ッ!!」


 怒号と悲鳴が上がる。幾人かが銃を構え、引き金を引いた。雷火と地鳴り。焦げた肉の臭いが濃厚に増していく。銃弾は骸へと届く前に、骸の背中から生えた触手に妨げられる。触手は一つ一つが意思を持つかの如くうねり動き、そして伸縮する。ぞろり、ぞろり、ぞろり。


「何だと言うのだ……ッ!?」


 怒号はやがて消え失せ、困惑の悲鳴が嵐となって渦巻く。

 蠕動の音が響く度、悲鳴が一つ、また一つと放たれ消えていく。ルクルムが上擦った声を漏らす合間にも数多の命が無数の触手に刈り取られ、肉として喰らわれていく。


「何が起きているんだ!!」


 ぞろり、ぞろり、ぞろり、ぞろり。


「ぅ……」


 騒乱に少女が目を覚ます。

 胡乱(うろん)な意識の少女が周囲を取り巻く事態を把握する時間などない——ぞろり。身体を起こし、瞼を開けた少女の視界に触手が迫る。見開き、声を上げる間もなく襲い掛かる死の匂い。刹那、暗転。


「ご無事、です、か。フィーネさ」


 自身に覆い被さる壮年の団員の顔に、少女は見覚えがあった。

 駐屯所で、教会で。彼女に賛辞と敬愛を唱えた男、その笑んだ口端から血の泡が吹き出る。

 少女の目の前で触手に胸を刺され、絡めとられた男が肉塊と化した骸に吸い込まれていく。枯れ木を折るような渇いた音と共に折り畳まれていく男の身体。それがこの場に居合わせた最後の団員であった事など少女の知る由では無かったが、数多の骨肉を取り込んで蠢く黒ずんだ肉塊が何なのか、何だったのかを少女は悟っていた。


(ベニー)


 声に出したつもりだったが、ぱくぱくと陸に溺れた魚のように口を動かすばかりで喉から音が出ない。

 肉塊は次第に一つの形を成していく。


「かっ……」


 ルクルムの声。


灰物(カイブツ)……!」


 それは知識ではなく、本能的な恐怖が漏洩した言葉。


(灰、物……)


 少女はその言葉を胸中で反芻した。“そういう物”が其処に居る。


「      」


 それは巨大な獣のように見える。

 尤もそう思えるのは輪郭だけである。取り込んだ肉と骨、臓物の数々が血を滴らせながら赤黒い四肢と胴を雑に組み立てている。

 毛は無く、人間の皮膚を裏返した皮膜は所々で(ほつ)れ、そこから取り込んだ者達の首が覗く。それらの首はいずれも眼窩を露わにしていた。

 人骨のあらゆる部位を用いて出鱈目に形成された頭部は胴と等しい大きさで、やはり胴と同じように穴だらけだ。その穴を覆うように敷き詰められた眼球が、四方八方に瞳孔を向けている。

 最も大きな二つの穴、通常の獣であれば両目にあたる部分、それを補うのは眼球ではない。右に心臓、左に脳漿。腫瘍の如く肥大化したそれらが不定期な鼓動に合わせて膨張と収縮を繰り返す。不揃いな双角が上下に揺れる。

 先程まで暴れまわっていた触手が束ねられ、まるで尻尾の様に背後で蠢いている。


(これが灰物。ベニーの、なれの果て……?)


 恐怖よりも忌避、嫌悪感を呼び起こす姿。

 或いは設計を最初から間違いでもしていなければ、形成されるに有り得ないカタチ。

 この世の何処を探しても、同じ物など決して見つからないだろうそれを敢えて何かに例えるなら、山羊だ。

 異様に巨大な頭部、顎を地面に擦り付けながら、それは深淵の底から発せられたかの如く重い呼吸音をぜぇぜぇと吐き出している。


「ェ゛ェ゛ェェア゛ア゛ァァァァッッヅ!!」


 (いなな)きが木霊する。

 咆哮を終えるや否や、山羊は少女に向かって猛進を開始した。巨体を上下左右に揺らし、赤い涎を撒き散らす。無様な疾駆でありながら、その速度は恐ろしい程に(はや)い。

 微塵の迷いも無い一直線の突撃を正面にして少女は微動だにも出来ず、そして衝突の寸前で真横に突き飛ばされた。


「くぅ……!?」


 宙に浮いた身体が地面へと叩きつけられるその間際、少女はたった今まで自分が立っていた場所に立つ女の姿を見た。

 腰の剣、給仕の衣服。昨日に見知ったその姿。体当たりで少女を突き飛ばした女の体勢は前のめりに崩れ、その無力な肢体の横から灰物の双角が大地を抉り差し迫る。


「    」


 女の口が動いた気がした。

 二度目の咆哮を轟かせ、山羊が双角を突き上げる。女の身体が力無く宙へと跳ねた。

 地面に転がる少女。焦点は宙の女から揺るがない。刹那、女の横顔が少女を向く。目が合った。女は虚ろな眼差しで碧い瞳を確かめ——柔らかな笑顔を浮かべた。

 上から下へ、光速で少女の視界を横切る黒い影。影が通り過ぎた後、女の姿が消え去る。異なる方向からどさり、と。何かが激しく地面を叩く音。

 歪曲した女の身体が遠くで転がっている。山羊の尾から放たれる風切り音。ぞろり。


(…………なんで)


 瞬きをする間もなく、目の前で一つの命が曳き潰された。


(……なんで)


 少女の脳裏に一つの言葉が泡のように浮かび、弾けて消えていく。


(なんで)


——ごめんなさい。


 それは少年が秘め続けた言葉。何度も、何度も繰り返し続けた言葉。

 意識を失っている間、少女は少年の夢を見ていた。それは夢ではなく、末期(まつご)の少年が見た走馬灯のようなもの、罪の独白。そうである事を少女は確信している。両の掌を黒く染める灰の名残がそうさせた。

 魂を形作る白き灰と、器を形成する黒き灰。少年から吹き出た灰、即ち少年の器に焼き付いた肉体の記憶に己は触れたのだと。だとすれば。そうならば。


(貴方がしたい事は、こんな事じゃないはずでしょう……?)


 沸き立つ思いが渦を巻く。彼はいつだって誰かの事を思い考えていた。

 誰か、自分以外の誰かの為に。彼自身はそれを「全て自分の為」と信じていたようだが、違う。仮にそうだとして、それが何の罪だというのか。彼は望んでいただけだ。

 生きていたい。死にたくない。誰かに自分を認めてほしい。当たり前だ。そんなのは人間ならば当然の、誰しもが望む思いだ。


(それが)


 人は生まれ出でた瞬間より原罪を背負う……教会の教えはそう伝える。始祖の御許より離れる罪だ。離れ、生を願う。そして死を、始祖の元へ還る事を怖れ拒む。


(そんな事が)


 それが、あんな姿になってしまわなければならない程の罪だというのか。だとすれば、彼を救えなかった私や教会の人々、彼の両親は。それだけじゃない、無辜の人々すらも大罪人ではないか。


(だったら、どうして)


 どうして人は生まれる? どうして人は生を営む? 何故、始祖はそれを赦すのか?

 何故、どうして。


(どうして、貴方だけが赦されないっていうの……!?)


 そんなのは間違っている。彼は、誤っている。


「ベニー」


 ようやく、声が音になった。か細い、けれど確かな響きをもった音に山羊が反応する。頭蓋の眼球が一斉に少女へと振り向き、その華奢な肉体に狙いを定めた。

 立ち上がり、碧い瞳で静かに灰物を見据える。両手を握りしめる。不思議と恐怖は感じない。どころか、忌避も嫌悪も感じなかった。あるのは深い憐憫と——共感。


「ベニー」


 名前を呼ぶ。応じるかのように雄叫びを上げる灰物。それを合図にして、灰物は再び猛進した。

 少女はそれを(かわ)さない。もう彼女を庇う人間はいない。


「ベニー!!」


 叫ぶ。灰物に“言葉”は届かない。地を揺らし、花を刈り、赤く染まった灰物の双角が少女の命をも刈り取らんと迫り来る。そして——


——土は、土に。と呟いた。


「え……?」


 気高く、透き通るような声だった。少女の声ではない。当然、灰物から発せられたわけでもない。

 声が聴こえたと同時、周囲一帯を覆っていた灰が、天地両面から驟雨の如く一点に降り注ぐ。圧倒的な質量が灰物を雁字搦めに縛り付けた。


——塵は、塵に。と言葉は続く。


 灰物を縛る灰が光を放ち、鎖状と化する。鎖は灰物を大地に繋ぎ、時を経る毎に太く、数を増やして拘束力を増す。ぎりぎりと肉を締め上げ、骨を軋ませる。幾十の眼球が忙しなく焦点を動かし、己を縛る鎖の主、存在の有無も分からない何者かを探す。その視界を灰の嵐が覆う。


「これ……」


 少女の耳に、足音が届く。拙く、ふらふらとしていて、どこかで聴いた事がある歩調。

 灰の嵐は灰物に向かって吹き荒ぶ。鎖に自由を奪われた灰物は、悲鳴のような音を全身の穴から噴き出しながら後退する。まるで嵐を恐れる獣のように。そこから訪れる何者かを畏れるように、巨体を屈ませてのたうつ。その轟音の中にあって尚、隔てなど無いように少女の鼓膜を一番に揺らす足音。

 嵐の向こうに目を凝らす。黒く、小さな人影が覚束ない足取りでこちらへと進んで来た。灰を被り、灰に足跡を残す。灰に覆われた世界の外から内側へと踏み込んでやって来る、灰を歩く影。

 次第に大きくなる影は鮮明さを増し、精細な姿を現わしていく。 


 褐色の肌。金の刺繍細工が施された黒い祭祀装束。襤褸の外套。


 深々と被った唾の広い三角帽子。その唾の前面に空いた二つの穴は、まるで獣の双眸を思わせ、そこから灰色の髪と黒い何かが覗く。


 その何かが、彼女の瞳であると理解するのにそれほど時間は要らなかった。黒い瞳というものを少女は、唯一人のものしか知らない。


 星の無い夜のように暗く、研ぎ澄まされた刃の様に鋭い眼光。


 いつか母より語り聴いたお伽話、古い伝説に伝えられる魔性の容貌。


「……“魔女”」


「灰は、灰に」


 少女の中で幾多の記憶が折り重なったその瞬間、それは足を止めた。深々と被った帽子の唾を摘まみ、瞳の全容を覗かせる。

 それから溜息を吐くように、魔女は呟いた。


「仕舞いだ」

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