12.継承
少年は誤っていた。
常に、いつまでも、どこまでも。どうしようもない程……呆れと嫌気の差す程に、誤っていた。
誤りの元を正せば、そもそも生まれてきた事が間違いだったのだと、少年は結論付けている。物心付いて間もなく覚えた、自らの血の味を思い出す度、その思考は同時に巡った。
全身に重くのしかかる鈍痛と、鼻先を潰す土の匂いを感じながら、幽かに感じる頭上の気配へと彼は意識を向ける。
『立て』
と、気配は言った。低く、冷たい声だった。
『まだ終わりではないぞ』
幼き日々に焼き付いたその声は、少年の自我を否定して強硬に命じる。命じられるがままに立ち上がろうとし、けれど指先一つも動かせない少年の無様を睥睨して、気配は何処かに去っていく。
少年は打ち捨てられた死体の如く伏せて、時が過ぎるのを待った。そうして、やがて僅かに力を取り戻した四肢を這わせ、気配の消え去った方向へと進んでいく。
(僕は、また誤った)
胸中にあるのはそれだけだ。
(立つべきなのに。立つべきだったのに)
発令に応えられない己の未熟、己の無力。思い通りにならない事への苛立ちや悲嘆が、洪水のように押し寄せる。矮小な体躯に不釣り合いな呵責を背負い、圧し潰されそうになりながらも、這いつくばって帰路に着く。
それが、少年の日常だった――
――声が語り聞かせて曰く、母は死に瀕していたのだという。
魂を形作る白き灰と、器となりし肉体を築く黒き灰。それらを授けし偉大なる者達、始祖。
その教えに殉じる誓いを立てながら、戒を破り教えに背く大罪人達に、死の誅罰を。
自らの手をも禁忌に染め、破戒の裏切り者として裏切り者達に“救い”を齎さんとする絶対の粛清機関、白き灰の使徒――
――永くその使命と大義に身を浸し、母の器は限界を迎えていたのだ。
差し迫る終の期に際し、母は願い乞うた。己の生きた証を遺したい、と。声……父はその願いを聞き届けた。
それ故に少年は産まれた。顔も知らぬ母の、冷たくなった胸元に抱かれる赤子の姿を思い浮かべて、少年は比喩した。まるで供物のようだと。さもなくば生贄だ。口にすることは無かったが、もしもその思案が父の知るところとなれば、たちまちに自分は命潰えていただろう。
それだけ父は母を愛していたし、母の願いを叶えてやるべく必死だったのだ。でなければ、最愛の命と引き換えに生まれ出でた塵芥を育てようとは考えるまい。
毎夜、書斎の扉の隙間から漏れ聞こえる嗚咽と母の名を聴けば、少年はつくづく思うのだった。
自分は生まれてくるべきではなかった。されど、死ぬべきでもない。
誤り出でで、正される事もままならないのなら。この身は母と、父と、始祖の為にある。
誤りを以て、誤りを正す。少年は正しく、使徒になるべくして生まれてきた。藻掻き、足掻く少年に対して、父が笑いかける事は無かった。
或る日の事だ。何という事もない或る日。
成長し、父と打ち合うにも慣れて、時には勝利寸前まで肉薄する事も増えた或る日。
常の暗闇に在って、父の気配が異常な殺気を放っているのを少年は感じ取った。それまで感じた事のない、圧倒的な恐怖を浴びながら、「そんなはずはない」と疑念を振り払う。だがその疑念は、すぐに真実へと姿を変えた。
踏み込まれ、刃を交えて応える重さ。凡そ人間の技とは思えない、常軌を逸した速度と膂力。
時に正面から、時に背後から、武骨に、狡猾に。確実に少年の息の根を止めんと振るわれる手練手管の数々は、総じて普段とは比べ物にならない苛烈さを以て襲い掛かる。
闇夜に白く浮かび上がる仄かな灯火が、少年に悟らせた。それは使徒が行使する禁忌の一端、白き灰の秘術であると。
使徒が悪戯に秘術を用いる事は無い。用いるならば、必ず殺すという事。そして、殺さなければならない相手だという事。
書から知り、父から聞いた言葉が脳に反芻する。けれど、何故今更?
散らばったピースを繋ぎ合わせようとしても、欠けた情報が埋まる事はない。眼前に迫る刃と灰が示す現実は矢継ぎ早に少年の身体を掠め、翻り、また襲い掛かる。その事実に刃を返し、喰らいつく事で精一杯で、少年の思考が整う隙間は無かった。宵の死闘が与える数多の要素が、少年の心身を蝕んでいく。
やがて辿り着いた結末は、呆気のない代物だった。
決死の覚悟と残り僅かな力、意気を溜めて踏み込んだ先、父の懐に少年の刃が深々と沈む。それまでの熾烈立った殺気が嘘のように消えていき、沈黙が闇を覆い隠す。
『強く在れ』
霞む声が言った。
『正しく在れ』
弱々しくも、気高い響きを失わず、少年の頭を抱き寄せる。
『生きよ、ベネディクト』
声は、初めて少年の名を呼んだ。
『我が魂は始祖の御許に還ろうとも、遺志はお前と共にある』
少年が握る刃と父の肉体の隙間から、白き灰が零れ、逆巻く。
それは継承を意味していた。父が触れし禁忌を、少年が引き継ぐ。逆巻く灰は少年へと降り注ぎ、光を帯びて彼と、父の亡骸を包み込んでいく。
全てが終わり、使徒となった彼はまず屋敷に戻り、父の遺品を整理して身支度を整えた。同胞が彼を迎えに来たのは明朝の事である。
それから。
少年は使徒として、父母の遺志を継ぎ、強く正しく在ろうとし続けた。
強く生きる。他の誰よりも、父よりも優れた使徒になるべく己を研ぎ澄まし、刃を振るう。そんな彼の生き様を見て誰かが言った。お前は誤っている、と。
正しく生きる。教えに従い、教えに殉じる。その為に受け継いだ秘術を、自らという器の限界を無視し、際限なく行使する。ひび割れた彼の有様を見て誰かが言った。お前はまるで死のうとしているようだ、と。
生きて、生きる。最期の時が来ようとも。僕は足掻く。誰かが、言う。お前は、きっと独りで死ぬんだろう、と。
たぶん、その通りだ。
生きて、生きて。他の誰を蹴落とす事になろうとも、父母の遺志を受け継いだものとして、僕には生きる使命と大義がある。
僕はきっと独りで死ぬ。それでいい。そう在るべきだ。そうである事が、僕の望みなのだ。
『本当に、わざとらしいヤツだ』
と、誰かが言った。振り返ると、影が立っていた。辺りはいつかと同じように真っ暗で、けれど彼岸に立つ影は、はっきりと人の輪郭を現している。
「わざとらしい……?」
確かめる言葉に影は「そうさ」と返す。
『わざとらしいんだ。何もかも』
呆れ、嫌気、不快感、憎悪。声が含むニュアンスをこちらも又、影に対して抱く。反射的に抱いたその感覚が、胸に疑問を抱かせる。
「君は、誰だ?」
『お前が一番よく知ってるさ……けど、どうでもいいだろう。そんな事』
佇む影は、言ってこちらを見下した。瞳があるかも分からないのに、そうしているのだと分かる。姿同様に不明瞭な言葉を突き付けられ、腹の中で何かがざわめき立ち、背筋をなぞる。
『この嘘吐きめ。この期に及んでまだ偽り続けるのか』
嘘? 偽り? 何の事か分からない。
『ほら、またそうやって嘘を吐く。本当は分かってる癖に』
繰り返す影。
『父の為、母の為、始祖の為……使徒の大義と嘯くけれど、結局は他人の所為にしたいだけ。自分の意思なんて何処にもない』
言われ、唾を飲む。締め上げられるような痛みを頭部に覚え、こめかみに手をやる。
『誤りを以て誤りを正す? 馬鹿を言うなよ。お前に出来るわけがないじゃないか』
『正しく在る事も、強く在る事も、偽る事すら満足に出来ない。哀れみを求めているのか? 同情してくれる誰かでも待っているのか』
その糾弾を即座に否定する事は出来なかった。胸の内に眠り、自分自身気付いていなかった本音を言い当てられたような。
『どうせ受け取る事も出来ない癖に』
「それは、分かってるさ」
なんとか返す。まるで思考にも影が落ちたようだ。上手く働かない頭を必死に巡らせて、言い訳を探す。
「分かっているからこそ、やめる訳にはいかないんだ」
『何故?』
「何故って」
素朴過ぎる疑問を打たれ、俯いて口ごもる。
「じゃなきゃ、ここまで続けてきた意味がない……」
「意味? あはは!」
影は心底おかしいと言わんばかり、腹を抱えて嗤う。嘲りが永く暗闇を騒ぎ立てる。
小さな二点の光が点った。半月状に歪んだ青い瞳孔の、奥深くに揺れているのは殺意だ。影は心底、僕が憎いのだ。
『意味なんて最初から無いだろ』
分かり切った事を言うようにして、吐き出す。引き裂かれたかの如く浮かび上がった口元が憎悪を増した。人は果てしなく愉快な時、どこまでも不愉快な時、きっと同じ表情をする。
『分かってる筈さ。分かってるんだろう? だって、お前はずっと自分で言ってきたじゃないか』
『自分は、誤っているのだと』
「それは」
そうだけれど、だけど。
『だけど、何だ? お前は最初から誤った存在なのさ。そんなお前に何かを成し遂げられる道理はない』
そうかもしれない、でも。
『その証拠に、お前は今まで何も出来なかったじゃないか』
でも、でも。
『まだ上塗りが足りないのか、恥知らずめ』
でも。
『でも、何だって言うんだ?』
……。
『お前は誤ってきた。お前は誤っている。お前は誤りだ、間違った存在なんだ』
『生きる意味なんて無い、生きる価値なんて無い』
『資格も、権利も、何も! お前の生存が許される理由なんて、この世のどこにも在りはしないんだよ!』
「そういうお前はどうなんだ」
と、僕は言った。
『……』
勢いが失せて、押し黙る影。
「知った風な口振りで……悟ったような事を言う、そういうお前はどうなんだ」
目が、口元が、歪な形で止まる。そこにある澱んだ怖気の色を、僕は見逃さない。
「他人の罪を暴き」
他人の罪を咎め、断罪を宣い。
「浄化を謳うお前はどうなんだ」
影は一歩、後退る。僕は一歩を踏みしめた。半月状の眼差しはいつの間にか反転し、怯えを顕わにしている。
「お前にその資格があるのか。権利があるのか」
『僕には』
否、否だ。そんな資格はお前にはない。
『どうしてそんな事が言い切れるんだ』
言い切れるともさ。だって、僕は知っている。お前がしてきた事を知っている。お前が思い、考えている事なんてお見通しなのだから。
「お前が言ったんだ」
お前の事は、僕が誰よりも知っている。
「お前は、僕だ」
『僕は』
思えば影は、最初から誤っていた。「分かっているはずだ」などと。嘲りを口にしていても、影として現れたのは暴かれる事を恐れたからだ。そうして紡いだ言葉の数々は、全て呵責と自嘲に見せかけた虚飾に過ぎない。
怖いから、否定する。自分が自分を咎める前に、認めた風を装ってしまえば、どこか他人事のように思っていられる。
「お前は僕だ」
お前の名はベネディクト。親殺しの大罪人にして、虚飾に塗れた過ちの存在。それがお前だ。
『それは』
お前は誤っている。いつもだ、常にだ。お前を肯定してくれる者など何処にもいない。お前自身、お前の事を認めていないのだから。
『そうかもしれない、けど』
咎人め、恥を知れ。
『……』
押し黙る。嗚呼、本当に。わざとらしい奴だ。
誤っている。間違っている。臆病で、弱くて、何も出来ず、何も成し得ない無価値な存在。生きる理由も、死ぬ由も他人の意思に委ね、自らの意思から目を逸らしている。
きっと影は今、自らの姿が白日の下に曝され、単なる子供に成り下がっている事にも気付いていないのだろう。
『本当は生きたかった癖に』
だから、父を殺した。
「死にたかった癖に」
だから使徒になった。死に場所を求める為に。
『でも死ねなかった』
迫り来る最期を受け入れられなかった。
『生きようとした』
だから。
『だから』
彼女の力に、救いを求めた。
彼女の、聖女の遺灰に宿る不死の力に――
――不思議な子だった。
どこにでもいる、普通の女の子のようでありながら、どこか違う。
聖女の力を感じ取ったから……ではない。彼女の、フィーネ自身の在り方がそう感じさせた。
無邪気な振る舞いや、厳格な所作。時におどけ、時に大人びた影を落とす口調。全身まで使って一杯に広がる表情。
聞き伝えの過去と、目の前にある今の姿。
どれが、とは言えない。一つ一つは些細なものでも、積み重なって織り上げられた人間性が、言い表せないものとなって表れている。
『こんにちは、私はフィーネ。貴方は?』
それは出会いの時。聖都の門前で馬車の横に立ち、大聖堂の鐘を見上げている彼女の、その姿に見惚れ立ち尽くした時から変わらない印象だった。
「あの時」
彼女と出会った時。
「何かを言えば、変わったのかな」
例えば、そう。自分は使徒だと明かしていれば。何かが今と違ったのだろうか。
「あの時」
彼女がこの心に踏み込もうとした時。
「全てを打ち明けていれば」
変わったのだろうか、何かが。
「あの時」
魔女と対峙した何度かの時の中で。僕は何度、誤ったのだろうか。言う機会は、沢山あったのに。
でも言わなかった。言えなかった。それが僕の誤りだ、お前の罪だ。
お前の心の片隅に、ほんの少しでも正しきを求める意思が残っているというのなら、お前がすべき事は唯一つだ。
『何を、僕は、どうすれば』
まだ嘘を吐くのか。まだ偽るつもりか。無駄だ、僕はお前の全てを知っている。分かっているんだろう。どうすべきか、何をすべきだったのか。
知っていて尚、何もしてこなかったお前に出来る、唯一の事が何なのか。知っているだろう、分かっているだろう。
『でも、僕は、だって、ぼくは』
まだ言い逃れをするつもりか――ベネディクト。
「……」
ぼくは。
『……』
ぼくは、ずっと。
…………。
あやまり続けてきた。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。
産まれてきて、ごめんなさい。
生きようとして、ごめんなさい。
死のうとして、ごめんなさい。
生きたくて、死にたくなくて。
「ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
どうか、どうか。
ぼくを、ゆるして。




