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8.暗闇の元(2)

 焦げた臭いが肺を満たす。いつまでも馴れない不快感。胸のざわつきが、フィーネの身体を強ばらせる。振り向いた先、魔女が変わらぬ様子で座っていた。

 暗い瞳は真っ直ぐにこちらを見つめている……筈なのに、視線はどこか遠くを見ているようで――ふと、既視感を覚える。 


「何ですか」


 細く、無機質な声。受けて、魔女は何度目かの嘲笑を浮かべる。


「そう怖い顔をするなよ。可愛い顔が台無しだぞ?」


 つまらない冗談だ、とフィーネは思った。挑発の矛先を向けられ、改めて少年への同情が沸き立つ。他者に対して激しい苛立ちを感じたのは、生まれて初めての経験である。

 踵を返し、外へ向かおうとするフィーネを、魔女は物憂さげに引き止める。


「だから待てと言っているだろう。坊やなら大丈夫さ」


 大丈夫。それは何の根拠も無い言葉に思えた。けれど何故か、魔女が言うのならそうなのだろうとも思える。安堵と不安を同時に抱くというのも、初めての経験だ。


「どうして大丈夫だって分かるんですか」


 戸惑いながら訊ねると、魔女は懐に手を入れ、何かを取り出す。目を凝らしてみれば、それは小さな薬包紙だった。


「行商の薬も案外、馬鹿に出来ないものだな。曲がりなりにも使徒にあれだけ口を割らせたんなら上出来だ」


 瞬間、フィーネは目を見開いた。頭の中が真っ白になり、すぐに不信と驚愕が思考を染める。


「薬を飲ませたの!?」


 大声を上げて問い質す。無意味な問だ。目の前にある物と発言、そして先の告解における少年ベニーの様子。それらを繋ぎ合わせれば答えは明白である。魔女は少年に薬を盛って、策謀により正常な判断力を奪ったのだ。


「何を驚いている。酒も薬も同じような物だろう。意識を混濁させ、余計な思考を剥ぎ取る。一緒に使えば効果的だ」


 悪びれもせず(のたま)う魔女。言葉尻を聞く前にフィーネは魔女に背中を向ける。


「待て。待て、だ。何度言わせる気なんだ」


 まるで犬の躾をするかのような台詞が、フィーネの琴線を揺らす。


「アナタ、おかしいわ!」


 感情のままに吐き出す言葉の始まりはそれだった。


「告解で薬を盛るなんて!」


「さっきも言ったが、こんな物は酒と同じだ。酒が良くて、薬がいけない理屈は何だ?」


「倫理の問題よ!」


「倫理?」


 復唱し、魔女は鼻を鳴らす。


「は、くだらん。それを掲げて私に何か得があるのか?」


「損得の問題じゃないでしょ!?」


「損得以外に無いだろう。倫理……ソイツは曖昧で、主観的な妄想の(たぐい)だ。お前の妄想を私に押し付けるな」


「ベニーに意見を押し付けていたのはアナタじゃない!」


「そうだな」


 肯定。顔を(しか)め、首を傾げるフィーネ。その表情を見て、魔女は歯を剥き出しにして笑った。


「だが、そのお陰で坊やの“ほんとうのきもち”が分かった訳だ」


 息を呑む。


「お前も知りたかったんだろう? よかったな、本心を聞けて。馬鹿と薬は使いようだ」


 絶句。膨らんでいた怒気が、風船から空気が抜けるように萎れていく。


「……人として、どうかしてる」


「坊やといい、お前といい、私が聖人にでも見えるのか。だとしたら、どうかしているのはそっちの方なんじゃないか?」


 フィーネが絞り出した一言を、魔女は嘆息混じりに一蹴した。


「話を戻すとだな。この薬は効き目が強い。だから焦らずとも、坊やが遠くまで行ける事は無い。今頃は近くで倒れ込んでいるだろう。この辺りの連中が、この屋敷から出てきた人間を襲う事は無い」


 無感情な魔女の言葉が、フィーネの腑に落ちる事は無かった。ふと、眼前に黒い何かが落ちる。視界を通り過ぎたそれを追って眼差しを足元に向けると、小さく身体を丸めた羽虫が、灰に(まみ)れた床の上で息絶えている。

 なんとなく、目が離せなくなった。死してなお死にきれず、羽虫は足先の痙攣を繰り返している。ぼう、とそれを見つめる。思考は空っぽな様でいて、その実、混沌を極めている。


「泣かないんだな」


「……?」


 魔女の言葉。その不明瞭さに困惑するのはこれで何度目か。その度に何か、大切な何かが自分の中から抜け落ちていく様な心地がした。引き止めんとして気を奮い立たせる。


「お芝居はもういいのか?」


「何を」


「どうして泣けなかったんだ?」


「え……」


 その問い掛けも又、理解不能な代物だった。けれど、無意味には思えなかった。


「そういえば、あの時もこんな夜だった」


 分からない。なのに、酷く胸が焦がされる。焦燥、恐怖……否、どんな言葉も当て嵌らない。


「母親の(むくろ)を前にして」


 正体不明の感情は、少女の身体を呪いのように縛り付ける。


「お前は一切の涙を見せなかった。何故だ?」


「……どうして」


 どうして今更。


「私の事、知らないって……」


「思い出したんだよ。その陰気な間抜け面を見ていたら、何処かで見たような気がしてな」


 どうして今。


「……そうですか」


 やっとの事で相槌を打つ。全身に暗い重みがのしかかり、顔を上げるだけの気力すら奪われる。


「で? 答えはまだか。それとも、お前も坊やみたいに駄々をこねてみるか?」


 だから、フィーネは聖女として顔を上げた。


「皆が私を励ましてくれたからです」


「ほぉう、それはそれは」


 魔女の声はどこまでも無感動で、退屈そうで。なのに、嘲笑だけは色濃い。


「皆がいてくれた。優しく私を励まして、気遣ってくれた。それが嬉しかった」


 だから、フィーネは真っ直ぐに魔女を見据えた。


「お母さんが死んでしまったのは悲しかった。だけど、私の周りには沢山の人が居てくれた。私の心に寄り添ってくれた」


「へぇ」


 碧い瞳に爛々とした炎が灯る。虚を切り裂く眼光を魔女へと向け、真っ向に対峙する。


「嬉しくて、心強くて。だから泣かずにいられたの」


「ソイツは良かったな」


 受けて、魔女の声色に乗った嘲りの波は水かさを増した。


「だが今はどうだ? お前の周りには誰が居る? そのお優しい“皆”とやらは何処だ? 死にゆくお前を異邦の土地に放り出して、自分達は家で家族と共に暖かいスープとパンを分け合いながら、数秒お前の事を思い出して、何の足しにもならない祈りを捧げてくれているんだろうよ」


 嗚呼、と言って。大袈裟に口端(くちは)を吊り上げる。


「なんて優しい! 有難い事だなぁ。お前は皆に愛され、さぞ幸せな事だろう」


 嘲笑は遂に目の前の聖女を越えて、確たる背後に向けられる。

 これまでの人生、聖女フィーネの前には幾多の笑顔があった。人の優しさが、暖かさがあった。時には冷たく、寂寞(せきばく)や葛藤を抱えた物もあって、それでも。「それでも」と思える何かがあった。

 心から尊いと思える何かだ。誰に(けな)される(いわ)れも無い、人の繋がり。人の(えにし)

 かけがえの無い、人の絆―― 


――だから、フィーネは。


「そんな事はどうでもいいッ!!」


 激昂(げきこう)。それは叫びというよりも咆哮に近い。フィーネは自分自身、聞いた事の無い己の声を耳にした。


「貴女に何が分かるの? 私の人生が、私を愛してくれた人達の全てが、貴女には見えているのかしら。そうだとしても、そんな事はどうだっていいわ! そんな事……貴女が誰かを嘲笑ってもいい資格にはならない!!」


 溢れだした言葉は止まらない。塞き止める必要を感じなかった。魔女の唇から表情が失せた事も、意に介さない。


 魔女、魔女、魔女。


「何が魔女よ。相手の嫌がる事を言って、それで怒ったり悲しんだりしているのを見るのがそんなに楽しいの? そんなの……子供の悪ふざけと変わらないわ。つまらない、底が知れているのは貴女の方よ」


「貴女は誰の心にも寄り添わない。いいえ、寄り添えないんだわ。だって、貴女には人の心が分からないんだもの。えぇ、そうね。貴女には葬儀士が天職なんでしょうね。誰の心を覗き見ても、その痛みを感じる心が貴女には無いんだから」


 刃先を研ぎ澄まし、鋭利に尖らせた言葉の数々が、聖女自身の心をも抉る。その痛みが更に刃を滑らせた。


「沢山の人に看取られて、お母さんは幸せだったわ。だけど……だけど! 貴女に葬られた事だけは不幸だった! 私は不幸にはならないわ、もう貴女に看取って貰おうなんて思わないッ!!」


「なら聖都に戻るか」


「っ……!」


 咆哮の連鎖を遮って、凍てついた吐息が魔女の口から零れ落ちる。聖女の瞳に燃えていた炎が揺れた。


「勘違いをするなよ、小娘。私はお前達がどうなろうと一向に構わない。お前が死んでも何とも思わないし、お前の亡骸が灰物(かいぶつ)となって、お前を愛してくれたとかいう連中を皆殺しにしたとしても、どうだっていい。“心が無い”からな」


 灯火(ともしび)消えて。ふと、聖女は思い知った。


「私がお前と、あの坊やの葬送を引き受けた理由は唯一(ただひと)つ……金を受け取ったからだ」


 先の告解、少年がどんな気持ちであったのか。


 もう、此処にいたくない。


「私にとってお前達の生き死になんぞ、明日の酒代程度の物でしか無いんだよ」


「やっぱり、魔女(アナタ)は最低だわ」


 そう吐き捨てて。


 少女は今度こそ振り返らず、少年の影を追いかけた。

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