序幕.魔女と新緑の季
新緑の季節を待たずして、私の母は死んだ。
早朝の出来事にも関わらず、葬送の日取りは即日と定められた。聖女アンナの死に触れた大半の者が「ゆとりを設け、入念な準備と公布を施すべきだ」と意見したけれど、教皇レガリアの一声によって沈黙したのである。
「偉大なる聖女の亡骸は、偉大なればこそ早々に灰塵へと還し、その魂を始祖の御許へと送るべきだ。きっと彼女自身もそれを望むだろう」
聖都奥部。日常には聖歌が鳴り、多くの人々がその響きに酔いしれる公会堂の参列席は、一階二階の吹き抜けた空間に敷き詰められており、幾百の人影を以てしても決して埋まらない。
けれど、その日は埋まった。
都内のみに収められた訃報と葬送の公布は、されど都内の全信徒の足を動かすばかりに留まらず、早馬で駆け付けた近隣諸国の王公貴族や教会の上位階級、更には偶然付近に居合わせた旅人達や行商をも招き寄せた。
堂内に入りきらず、周囲広範に広がる庭園に押し寄せた人波を見れば、教皇の判断が正しかった事を誰もが推して知るだろう。
一日、また一日と日取りを待てば待つほどに、それらは留まる事を知らず肥大し、聖都全体の許容を超えて埋め尽くしたに違いないのだ――
――などと言う人のやり取りを、私は黙して聴いていた。
人波の最前線、遺族の参列席に座するのは私と乳母の二人きり。
幾人かの人が、母親の葬送に際し涙を見せない私を、不憫だとか、強い子だとか言って励ましの言葉を寄越したが、それがどうにもバツが悪い。
その時の私は、どういう訳か自分でも分からないが――今にして思えば全く見当違いだったと思うけれど――周囲の人々が泣き咽ぶ声を聞いて「お前は泣いてはいけない」という重圧を感じていたのである。
私は乳母の手を強く握り締めながら、伏し目がちに母の遺体を見つめた。
天井の色彩硝子から射し込んだ陽光が、この世の創造主たる始祖達を象った巨大な彫像を照らす。
彼らの中央に立ち、一際大きく造られた女王の像が見下ろす祭壇に、母の遺体は安置されている。
庭園で育てられた多種多様な草花によって彩られた寝台の上、簡素な純白のドレスを纏い、眠りに就く母。
その前に、幾人もの祭祀官が恭しく進み出ては跪き、人差し指と薬指をつまむように合わせて、自身の胸の前に正円を描く。
簡易的に信仰を示すその動作を何度となく見送り、残すは最後、亡骸を灰へと還すのみとなった頃……その人は現れた。
ゆっくりと開かれた正門の先、黒く光沢を放つ鎧に身を包んだ騎士の隊列が、後光を供に行軍を開始する。
祭壇に向かって敷かれた赤絨毯を挟み、二列縦隊で剣を胸に掲げる彼らの中心点、たった一人赤色の上を歩く彼女の姿は、いつか母より語り聴いた『魔女』の様相を思わせた。
褐色の肌。金の刺繍細工が施された黒い祭祀装束。或いは踊り子の様でもあるそれらは、幼い少女心にも官能的な印象を与えるほど、独特の妖艶さを有している。
深々と被った唾の広い三角帽子。その唾の前面に空いた二つの穴は、まるで獣の双眸を思わせ、そこから灰色の髪と黒い何かが覗く。
その何かが、彼女の瞳であると理解するのには些か時間が要った。黒い瞳というものをこの時、私は初めて見たのだ。
星の無い夜のように暗く、研ぎ澄まされた刃の様に鋭い眼光は、一心不乱に母の遺体へと向けられている。
魔女は一歩、また一歩と歩みを進め、やがて御前へと辿り着いた。他の者と同じように正円を描き、母の胸元へと片手を置く。そうして――
――土は、土に。と呟いた。
その後の光景を、私は今も明瞭に記憶している。
魔女の手と母の胸の隙間から、光が込み上げた。
白と黒の螺旋となって昇る無数の光が、柳の枝のようにしなりを帯びて逆巻いた。光と共に堂内を吹き荒れる風が母を、魔女を、参列者と騎士達を、私の頬を一撫でして去っていく。
驚きの声を漏らして狼狽する人も少なくない中、私の目は光景の中心たる魔女へと釘付けられていた。固唾を飲み、瞬きも忘れてその美しい光景を胸に刻む。
――塵は、塵に。と言葉は続く。
拡散した光は一転、収束して降り注ぐ様に母と魔女とを覆い包んでいく。
形を変え、煌めきを放つそれはまるで繭だ。美醜の感覚に疎い私にも、それが至高の芸術を遥かに凌駕する『本物の美しさ』であると確信が出来た。
背景の始祖像は、普段こそ多くの人々の崇拝と賛美の対象だが、今は路傍の石ほどの存在に成り果てている。不敬ではあるが、きっと私以外の誰にもそのように感じられただろう。
幾重にも折り重ねられる光の束。
全ての光が折り重なった時、最後の言葉は紡がれる――
――灰は、灰に。
ふと、大きく身体が揺れる。
意識が途切れるかの如く、私は目を覚ました。
「……あ」
曖昧な思考、ぼやけた視界に映る質素な荷馬車の内装。
狭く、薄暗い空間を物見の窓から陽射しが覗く。その向こう側で新緑が揺れていた。
固い座席とカビの臭い。蹄鉄が土を蹴飛ばし、車輪が不器用に地面を滑る音が鼓膜を振動させる。
「起きましたか?」
すぐ隣から発せられた明朗な声に、ゆっくりとそちらを見やる。そこには、最近知り合った少年の穏やかな微笑みがあった。
流麗な曲線を描く栗色の短髪。ぱちりと開いた青い目は、月並みの表現ではあるものの、宝石のように輝いている。
歳は私と同じ十四の筈だ。相応の少年らしい柔和な顔立ちは、妙に大人びた端正さを併せ持っている。
いつか「キミ達はよく似ている」と言われた事があったけれど、その意味はちっとも分からない。
今だって利発そうに笑みを湛えた彼の表情と比べ、私は口を開けて間抜けた顔をしているに違いないのだ……と。
そこでようやく、私は羞恥心を取り戻した。
「あ、え……えぇ! ごめんなさい! ええと……っ」
「とても気持ち良さそうに眠っていましたね」
取り乱し、何故か謝ってしまう私の様子を見て、彼はくすりと笑う。そんな風にされても嫌な感じがしないのが不思議だ。
勿論、寝惚けて恥ずかしい所を見せたのは他ならぬ私であり、彼に非は無いという事も知っている。だが乙女の寝姿を覗くのは紳士にあるまじき行いだ。
普段の私であれば、その様に笑われれば少しは文句を言ってもいいだろうと責めたに違いない。
けれど、今はまったく恥じ入るばかりで、私は固く口を結んで俯いた。
顔が熱い。耳が真っ赤になっている事が自覚出来る。
「すみません。あまりに可愛らしい寝顔だったので、起こすのを躊躇ってしまいました」
「う……」
そう言われると、余計に恥ずかしい。
よく見れば、彼の真っ白なワイシャツの襟から肩口にかけて、私の方に向いた片側だけ皺が寄っている。肩を借りて枕にしてしまっていたのだろう。冷静になればなるほど、恥の上塗りに気付いて気持ちが沈んでいく。
「ごめんなさい、ベニー」
今度はしっかりと意味を持って、謝罪の言葉を口にする。
彼、ベニーは微笑みを絶やさぬまま「いいえ」と応えた。まるで悪戯が露見してしまった子供と、それを諭す親の様だ。本当の本当に、彼と私の何処が似ていると言うのだろうか。
「そろそろ着くみたいですよ」
言って、ベニーは窓の方を見る。釣られてそちらに視線を向けると、街道の木々の向こうに聳え立つ巨大な石の外壁が見えた。
ルプステラ大陸南央に位置する商業都市の、城砦の如き外周の石壁は、何処の国にも属さない自治領の守りとして、磐石且つ壮観であると有名だ。
実際、遠目に見てもその様は圧巻であり、どの様な不埒者も決してこれを攻める愚は犯すまいと納得し、感心する。
「あの場所に、居るんですよね」
刹那、語気を重くしてベニーが呟いた。
振り向けば彼の表情からは笑みが消え、顔立ちから矛盾して大人びた面相だけが残っている。
その胸中をなんとなく、私は理解していた。否、共感というべきか。恐らく彼と私は同じ思いを馳せている。
「フィーネは会った事があるんですよね?」
私の視線に気付き、彼は取り繕う様にして笑みを浮かべ、私に訊ねた。
そんな風に気を遣う必要は無いのに、と思いながら、私は敢えてそれを口に出さず彼の問に答える。
「小さい頃に一度だけ、ね。それに遠目で見ているだけだったから、話した事だって無いわ」
殆ど初対面の様なものだ。向かう心持ちはベニーとそう変わらない。
「でも、そうね。あそこに居るんだわ」
再び外壁へと目を向ける。
あの広大な砦の中に、大陸で最も自由と謳われる街がある。
そしてその街の中に、彼女は居るのだ。
「僕達の……」
「……えぇ」
私達の死を看取ってくれる人が。
窓から風が吹き抜ける。
一陣の風はいつかの様に新緑と、私と、ベニーの頬を撫でて去っていった。