ミライのサクラを守るまで
私が上野咲良と出会ったのは、一体いつのことだっただろうか。
何に対しても一生懸命で、誰に対しても変わらない。自分を偽ることもなければ、人を裏切ることもない。私の理想を詰め込んだ、サクラのような彼女。
授業で見当違いなことを言って照れてみたり、好きな男子に声をかけられて挙動不審になってみたり。
季節が移ろうように、彼女の表情はいつも新鮮だった。
☆☆☆☆☆
人には向き不向きがある。
大学のキャンパスは桜色に彩られ、新たな門出を迎えた新入生の笑顔に満ちていた。
学生食堂や売店がある学生棟の入り口には、大量のチラシを持った先輩たちが待ち構えていて、新入生オリエンテーションの後、学食へ向かう新入生にこれでもかと言わんばかりにチラシを押し付けている。笑顔でそれを受け取る人もいれば、断わりたいけれど断り切れずに、苦笑交じりの笑顔を浮かべている人も。気配を消すのが上手い人は、スルスルと人垣を潜り抜けて手ぶらで学生棟へ入っていく。
かくいう私はどれでもない。
ただ茫然と立ち尽くして、挑戦する前に踵を返す。新入生オリエンテーションで受け取った、ネイビーの不織布で作られたトートバッグには、すでに大量の資料が詰め込まれていて、オリエンテーションではこれを全て読んでおくようにと指示された。あの場にいた何人がこの資料の全てに目を通すのか、甚だ疑問だ。
たった一時間のオリエンテーションの為にキャンパスにやってきたわけだが、早々にキャンパスを出て行き、近くのコンビニでおにぎりを二つにサラダを手に取ってレジへと向かう。お腹は空いておらず、いつ食べるのかも定かではない。もし、仲の良い友人でもいれば近くの大型ショッピングモールにでも足を運び、お洒落なカフェテリアで甘いコーヒーの一つで時間を潰せるのだろうが、県外出身者で親しい友人の一人もいない私には、到底あり得ない選択肢だった。
引き落としたばかりの綺麗な一万円を店員に手渡すと、あからさまに嫌な顔をされる。自分と同じくらいの若い女性は、手指が乾燥気味なのかレジ横に置かれたオレンジ色のボールを指で執拗に転がしている。確か、水に浮いたボールを転がすことで適量の水を指につけ、お札が数えやすい状態にする器具だったはずだ。
別に自分が悪いわけではないが、何となく悪いことをした気になりながら六枚のお札と幾らかの小銭を受け取ると、私はそそくさとコンビニを出る。四月に入って何となく気温は高くなっているが、ここの街はそうでもない。私の住んでいた街は、もっと暖かかった気がする。
私は両肩にひっさげたベージュのリュックから手帳を取り出し、今日の予定を確認する。今日中にやらないといけないのは「履修登録」だ。必修科目は自動的に履修されることになっているが、その他は自分で何を履修するか決める必要がある。一年生のうちに第二外国語は取っておいたほうがいいとオリエンテーションで言われているので、それも決めないといけない。
──ポツリ。
手帳に一滴の水の跡ができる。白い雲が空を覆い、日の光を遮っている。それは大きな傘のようだけど、唯一違うのは、その傘には無数の穴が開いていて私達を守ってはくれないということ。
私と同じネイビーのトートバックを肩に担いだ女の子たちは、黄色い声を上げながら点滅している信号を渡っていく。赤になる直前に向こう側へ渡り切った彼女たちは、相も変わらず元気そうに笑っていた。
──やっぱり、人には向き不向きがある。
自分がああなれるわけがないように、彼女たちも私のようにはなれない。一人で冷たいご飯を食べて、たった一人、パソコンに向かって履修登録を済ます。履修登録なんて、どれだけ時間をかけても二十分程度で済んでしまうから、後は誰も読まないだろう資料を眺めるだけ。
一体何をしているんだろう。狭く冷たい部屋で、たった一人そう呟いた。
✿✿✿✿✿
人の心は浮き沈みがあって、私、上野 咲良はそれを見つけるのが特技だ。
──え、なぜかって? だって、頭の上に書いてあるんだもん。
人はそれぞれ色を持っていて、それはいつも頭の上に浮かんでいる。この教室で一番明るそうな彼女。彼女の頭の上には「黄色」が浮かんでいる。あ、本を読んで過ごしている眼鏡の彼。彼は「青色」。たぶん、寂しがりなんだ。筋肉隆々な集団は、みんな「赤色」をしている。情熱的で、夢に満ち溢れているんだろうね。
でも、稀に何も出ない人もいる。
例えば、私の隣に座っている彼女。身長は私よりもちょっと高くて、いつもクールな表情を浮かべている。明るい色の服が好きなのか、いつもベージュや白、レモン色の服を着ていて、偶にネイビーや黒、暖色系の服を挟んでいる。だから、私は彼女のことを心の中で「シロちゃん」と呼んでいる。
今日のファッションは白いトレーナーにブラウンのスカートを合わせている。ファッションにあまり詳しくない私でもお洒落であることは分かる。
そんなシロちゃんは特殊で、私の目をもってしても色が見えない。そういう子には、話しかけるんだ。
「ねぇねぇ、いつも可愛い服着てるけど、どこで買ってるの?」
シロちゃん、反応なし。私は諦めずに肩を叩く。
「ねぇ、服、どこで買ってるの?」
「──え、私?」
「うん、可愛い服だからさ」
シロちゃんは驚いて目を見開いている。いつも横顔しか見ていないから、シロちゃんの目の大きさに少し驚いた。クール系なのかと思っていたけど、案外キュート系なのかもしれない。
シロちゃんは、ぷくっとした唇を小さくもごもごさせていて、視線が色んなところを経由しながら私を向く。……シロちゃん、なんか可愛い。
「……えっと、駅の近くのお店。《Rouge》っていうところなんだけど」
「駅って三島駅?」
「三島駅……? えっと、高須駅だったかな」
「へぇー、結構高いの?」
「ううん、このトレーナーも3,000円くらいだったし、ブラウンのプリーツスカートも同じくらいの値段で売ってたよ」
「え、プリーツ、スカート?」
「こういう縦に折り目があるスカートのこと」
「あー、制服のヤツだ!」
「──ふふ、制服って」
シロちゃんは、手を口元に添えながら上品に笑う。
ここまでの会話で、彼女のことが少しずつ分かってきた。まず、駅名がピンといてなかったようだから、どうやらここらの出身じゃないみたいだ。あと、ファッションについて。……少なくとも私よりは詳しい。
「ねぇ、私がシロちゃんの服着たら似合うと思う?」
「──え、シロちゃん?」
シロちゃん、もとい目の前のお洒落な女子大生は、唐突の「シロちゃん呼び」に小首を傾げている模様。私のなかでは勝手にシロちゃんって呼んでいたもんだから、自然と口に出てしまっていた。
「ごめん、勝手にそう呼んでたんだー。てか、私の名前は上野 咲良。家の近くの丘に桜の木があるから上野 咲良なんだって。駄洒落かよって」
「ふふ、そうなんだ。私は一ノ瀬 未来」
「へぇー、『みらい』ってなんか白色っぽいし、『シロちゃん』で良いよね」
「──え、白っぽい?」
「うん。ほら『お先真っ暗』……って、それじゃ黒か。あのー、全てダメになるの。あれなんて言うんだっけー」
「……白紙に戻る?」
「そう、それ!! シロちゃん、頭いいんだ」
シロちゃんは「そうかな?」と少し頬を赤くしている。頭いい判定は満更でも無いようで、照れている顔は、同性の私から見ても可愛かった。私のボケにも的確に返してくれるし、どっちかと言うと「黄色」かな。私のなかでの彼女の色は、黄色よりに判定されていた。
シロちゃんと話すのが楽しくて、シロちゃんも私を拒まないので、私たちはどんどん仲良くなっていった。
シロちゃんの家は大学から徒歩五分ほどの場所にあるマンションの一室で、私の予想通り県外出身らしい。言葉遣いも標準的だから、なんとなく東京出身なのかと予想していたのだが、彼女の出身は静岡らしい。
いま、私はシロちゃんの住んでいるマンションにお邪魔している。今日は大学が休みだから、午前中はシロちゃん行きつけの《Rouge》に行って服を見繕ってもらい、帰りにショッピングモールで軽食を取ってきた。以前からシロちゃんが見たいと言っていた心霊系のDVDを借りてきて、これから女子会を始めようとしている所だ。
ケースからディスクを取り出すシロちゃんの手は軽やかで、心なしか顔には余裕がある。その反面、私はシロちゃんにバレないよう平静を装っている。
「……シロちゃんって意外と心霊系好きなの?」
「ううん、見たことない」
「え、まぢ?」
「うん、まじ。だからずっと気になってたの」
──だからか、こんなにノリノリなのは。
大人っぽく見えるシロちゃんだけど、意外と遊びをほとんど知らない。大学生になるまで、カラオケもボーリングもやったことがないというのだから相当なものだ。この間カラオケに始めていったシロちゃんは、何を歌っていいかわからなくて童謡を入れていた。……可愛い。
ディスプレイには、名前だけは知っているような俳優さんが映し出され、物語は徐々に展開していく。ショートストーリーが何本も入っているタイプの心霊系DVDで、一本目は旅館ものだった。
何となく展開は読める。しかし、だからと言って怖くないというわけではない。私だけなら絶対に見ないが、隣にはシロちゃんがいる。こんなに心強いことはない。
しかし、物語が進むにつれシロちゃんの口数が減る。私がチラッとシロちゃんのほうを見ると、小刻みに体を震わせるシロちゃんの姿がある。さっきまでは心強く思っていたのに、今の姿はこんなに頼りないことはない。……結局、私達は一本目で早々にギブアップした。
シロちゃんは男女交際についても無知だった。
お洒落だし、モテるのかなと勝手に思っていたけど、彼氏ができたことすらないと言う。もし私が男の子だったら絶対にアタックするのに、世の男性は見る目がないらしい。私がしつこく聞いてしまったから、話は徐々に私の「コイバナ」に発展してしまった。
シロちゃんにはそう言った話が一切ないから、結局私が一方的に過去を暴露した形になった。シロちゃんがずっと楽しそうに話を聞いてくれたから、私も調子に乗って言わなくてもいいことまで話してしまった感は否めないけど。
私はずっとシロちゃんと一緒にいた。ううん、一緒に居たいと思っていた。
☆☆☆☆☆
大学生活は、私が思っていたよりも順風満帆に進んでいた。一人寂しく卒業していくものだと思っていたけれど、急に一人の友達ができた。
彼女は上野 咲良。彼女は私のことを「シロちゃん」と呼び、私は彼女のことを「サクちゃん」と呼ぶようになった。最初は私の来ている服の話題から話すようになり、次は一緒に学食へ行って、そして私の家に彼女を招いて一緒にDVDを見て……。人生初のカラオケも行き、ボーリングも経験した。
サクちゃんのおかげで、私の大学生活は徐々に色づいていった。
サクちゃんはソファに寝ころびながら、スマホを弄っている。外は連日の雨が降っていて、家が遠いサクちゃんはここで雨宿りをしていた。たまに、一限目の授業がある時なんかは私の部屋に泊っていくこともある。明日は金曜日で、サクちゃんの授業は二限目からの予定だから、今日はただの雨宿りなのだろう。
「──ねぇ~、シロちゃんは来年さー、なにやってると思う?」
突然、サクちゃんがそう尋ねる。いつも、サクちゃんは突然変なことを尋ねてくることがあるので、今回のもそうだと思っていた。私が適当に答えると、サクちゃんは自分の意見を話し始めるのだ。
「……分からないけど、何も変わらないんじゃないかな」
「うーん、もしかしたら私が居なくなるかもじゃん!……もし、もしそうなったら、シロちゃんはどうする?」
ただ、今回のサクちゃんは違った。私は、もう一度サクちゃんの質問について考える。
「サクちゃんがいなくなるなんて、考えられないよ。……でも、もし居なくなったら」
「居なくなったら?」
「──また、戻るんじゃないかな。一人ぼっちに」
「それは……。私、責任重大だねぇ~」
サクちゃんはそう言って笑った。なぜか、私の心がざわつく。だからだろうか、私は無意識に言葉を発していた。
「──ねぇ、ずっと一緒にいてくれる?」
言った後になって、それが自分が発した言葉だと気が付いた。我ながら束縛気味なことを言っていると思う。しかし、それが本心だった。
サクちゃんは私の目を見て、少し驚いていた。しかし、すぐにクシャっと笑って……。
「うん、ずっと一緒だよ!」
サクちゃんはそう言った。私はその言葉を聞いてほっと一息つく。私たちはずっと一緒にいるはずだった。
そう……。そのはずだった。
◇
「……ずっと一緒って言ったじゃん」
暗い暗い夜のなか、私は小さなソファに蹲る。私の声は、白い息とともに冷えた部屋のなかに消えていく。季節は、暦上ならばもうひと月も経てば春になるのに、去年とはすべてが違う。去年の春は、上野咲良が私の隣で笑ってくれた。でも、もう彼女の笑顔を見ることは永遠にない。
いくら願っても彼女は帰ってこない。いくら、ここで涙を流しても私の心は軽くはならない。
彼女の死因は心臓の病気で、それが発覚したのは初冬のことだったそうだ。その時には、既にサクちゃんの体は病魔に蝕まれていて、手の施しようがなかったらしい。
それなのに、彼女は私に病気のことを何も言ってくれなかった。ただ、体の調子が悪いから入院すると、ただそれだけしか言ってくれなかった。
サクちゃんが逝ってしまったのは、一昨日。サクちゃんの病気について聞かされたのも、一昨日のことだ。
サクちゃんのお母さんは泣いていて、もっと早く病気に気が付いていたら、とずっと悔やんでいた。私はもう、何がなんだか分からないでいた。
いつか、彼女は言っていた。自分には人の心が色で分かるんだ、と。じゃあ私は何色かと聞くと、彼女は愛らしい笑顔で、秘密と答えた。もう随分前のことで、またサクちゃんのジョークかなって思っていた。
もし、いまサクちゃんがいたら、私の色をなんて答えるだろう。もし、鏡で今の自分の顔を見たならば、涙でぐちゃぐちゃで表情が抜け落ちた抜け殻の自分が映るだろう。もし、サクちゃんが居なくなったら、私は以前の生活に戻るはずだった。そう、戻るはずだったのだ。でも……。
「──もう、戻れるわけないよっ……。ねぇ、サクちゃん!!」
私はただただ泣き続ける。そして、知らない間に意識を手放した。
☆☆☆☆☆
ネイビーのトートバックを肩に担ぎ、学生棟の混雑に辟易しながら進路を変える。初めての登校だから、学食に行こうかと思ったのに、あんなに人がいたんじゃ私には無理だ。と言っても、学食に行っても一人寂しくご飯を食べるだけなんだけど。……ん、一人寂しく?
何かを忘れている気がする。だけど、何を忘れているのか分からない。
仕方がないので、キャンパスを出て近くのコンビニに行く。おにぎりを二つとサラダを手に取ってレジへと向かうと、自分と同じくらいの年齢の若い女性が対応してくれた。私は財布のなかから千円札を取り出してその女性に手渡す。昨日、銀行でお金をおろしてから《Rouge》で買い物をしたから、細かいお札が数枚財布にあった。コンビニの店員さんから小銭を受け取って外に出る。
今日やることは、履修登録だけだ。私は頭のなかのメモ帳に「履修登録」と書き込んで、横断歩道を渡り切る。丁度信号が点滅し始めたところで渡り切ると、渡れなかった女子大生が「あ、雨だ!」と嬉しそうに笑っている。以前は私があっち側だったのに。
──ん、以前は私があっち側?
私は自分の思考に疑いを持つ。この街にやって来たのはつい最近のことで、このコンビニを利用したのも今日が初めてだった。だから、この景色を見るのは初めてのはずだった。
そのはずなのに、私は彼女たちを知っている。自分と同じ、ネイビーのトートバックを肩に下げている彼女たちに見覚えがあった。
信号が青になって、彼女たちは楽しそうに話しながら横断歩道を歩いてくる。私は、歩いてきた道を戻っていく。コンビニを通り越して、細い抜け道を抜けてキャンパスの門をくぐって、ついに学生棟の前まで帰ってきた。違うのは、右手にコンビニで買ったおにぎりとサラダがあるだけ。
それだけのはずなのに、もっと何か違うものがある気がしていた。そう、もっと何か、大事なもの。
──ポツリ。
私の肩に水滴が落ちる。ぱっと空を見上げると、一面にピンクの花弁を身につけた桜の木が私を迎えていた。ひらひらと舞い降りてくるその花は儚く、それでいて優しく私を見ている。
「──!?」
──桜。そうだ、サクラだ!
私は無我夢中に走りだした。学生棟にはビラ配りの先輩たちが集まっていたけど、私はその人垣をすり抜ける。そして、学生棟に入っていくと急いで食堂を進んでいく。
彼女は、言っていた。いつも端っこの席を狙っているんだ、と。
私は一心不乱に歩いていく。
そして、見つけた。──サクラを。
「……ねぇ。未来って何色?」
私は彼女にそう尋ねる。彼女はきょとんとした顔を向けてくるが、口元に手をやって「うーん」と考え出す。普通ならドン引きしてしまうような私の行動でも、彼女は真剣に答えてくれるはずだと確信していた。
彼女は五秒くらい考え込んで、ぱっと私の顔を見る。
「──白色かな!」
そう言って彼女は笑う。それは私がよく知る、私が大好きな笑顔。
「私、一ノ瀬 未来。未来だから……」
私はそこで言葉を失う。自分から「シロちゃん」って呼んでくれなど、絶対に言えない。しかし、次の彼女の言葉に私は声を失う。
「……シロちゃん? うん、シロちゃんがしっくりくるね!」
上野咲良──サクちゃんはそう言って笑った。
──私は自分の胸に誓った。次こそは絶対にこの笑顔を守ると。
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