心の闇
この日。
男は午後から職務を離れ、葛飾小菅にある別荘でのんびりとした時間を過ごしていた。この地でこうして心身を休めるのは久方ぶりのことである。
日暮れ前の時刻。
男は一人、庭園内にある池のほとりを散策した。
夕焼けが目の前の池、そして遠くに見える山々までも紅色に染めている。
広い池に沿って半周したところで、男はふいに足を止め、池の淵に据えられた石に腰をおろした。
――もうすぐ一年か……。
亡き息子の顔が思い浮かぶ。
男はそこでいっとき物思いに沈んでいた。
遠くで犬の鳴き声がした。
我に返った男がそちらに目を向けると、池をはさんだ対岸に数匹の小さな犬が走り出てきた。
数えてみるに、似たような子犬が五匹ほどもいた。
――どうやって?
この敷地は警備が非常に厳重で、野良犬が勝手に何匹も入り込めるような場所ではない。だとすれば、考えられることは限られる。
――管理人だな。
男はほほえましく思った。
憐れみ深く、心根の優しい男のことだ。おそらく捨て犬を見殺しにできず、庭の片隅にでも犬小屋を作り、そこで飯を与えて飼っているのだろう。
――やはり……。
子犬たちのあとを追って、仕事上の部下でもある別荘の管理人が姿を見せた。
管理人が子犬たちを引き連れて歩き始める。これから散歩をさせるのだろう。
男は満足げにうなずいた。
ここ数年。
市中では野良犬が増え、襲われて怪我をする者があとを絶たないと聞く。
――これもなんとか策を打たねば……。
男はそう思った。
葛飾から自邸に帰った男は、人を避け、物思いに沈むことが多くなっていた。別荘で命を救われた子犬を見てからは、牛や馬などの家畜から小さな虫に至るまで、この世に生ける物の命を考えるようになっていたのである。
この日。
男は朝から一人自室にこもっていた。
どうにもならないとわかっているのだが、亡き息子のことがどうしても思い出される。
――なぜ死ななければ……。
同じ思いが頭の中を巡る。
実際、宝のように大切に育てていた。それなのに息子は昨年、わずか五歳であっけなく命を落とした。
――あれは……。
男はこのとき確信した。
あれは因果応報、生き物の命を粗末にしてきた報いなのだ。
次の一瞬。
頭の中で何かがはじけた。
――やらなければ!
男が決断した瞬間だった。
そして。
それはただちに実行に移された。
男が戌年生まれということもあり、犬には特にこだわった。ことさら深い情が注がれた。
一年後。
男は再び葛飾の別荘を訪れた。
夕暮れのなか、管理人と数十匹の犬が男を出迎えてくれた。
ここで保護されている犬たちは、なに不自由なく生きているようだ。だがここを一歩出たら、すべてそうなっているとは聞いていない。
男は管理人に問うた。
「今回の策、町の者たちにはどうも不評らしいな」
「たしかに一部ではそのようなことも。ですが、野犬に襲われる者はずいぶん減って、町中は以前よりかなり安全になっております」
「なら良いが、はたして本当に良かったかと、私は今も案じているのだよ」
男の声は沈んでいた。
「はたして本当に……」
男は反芻するように漏らし、それから暮れゆく空遠くに目を向けた。
夕闇が男の顔を暗くつつんでいた。
主人のその横顔に、管理人は深い心の闇を見たような気がした。
「綱吉様……」