ヴェンドニア戦記 2
雪解けの季節まで、暇さえあれば俺はバッヘルベルの地図を眺め続けていた。
山がちなバッヘルベル男爵領の小高い土地に居城がある。
恐らくは戦時には領民を避難させる役割があるはずだ。
集落は2つ、片方には教会がある。
規模はいまいち伝わらないが僻地のことだ。人口はさほどでもないだろう。
耕作地は少ないようだが大きな川がある。
木材は川から輸送できるし、山から石材が採れるかもしれない。
「……やはり山だな。王都の鍛冶ギルドに山師を借りてもいい」
さすがに男爵領でも調査はしているだろうが、王都の技術とは違うだろう。
「ギルド側にも採掘権などを渡せば利のあることだ。流通には商会ギルドに声をかけるのはどうだろうか」
俺にとってバッヘルベルは見たこともない土地だ。まさしく机上の空論だとは自分でも思う。
だが、やめられない。楽しいのだ。
(地図を見るだけでいくらでも妄想が湧き出てくる。この街道まで道をこう……拓けるかもしれないぞ)
自分が緊張と期待で興奮しているのを感じる。
こんな気持ちになったのは初めて女を抱いた時か、初陣以来のことだ。
「また見ているのか。まるで恋でもしたみたいだな」
弟のハンスに声をかけられ、俺はハッと我に返った。
ハンスは俺より2才下の弟だ。
実際には叔父の子、従兄弟らしいが物心つくまでにウチに養子として引き取られているし、法的にも心情的にも兄弟以外の何者でもない。
「恋か、なるほど恋だな。燃えるように焦がれている。我が弟は詩人だ」
「ふん、敬愛する我が兄よ。兄が馬上槍試合以外にも興味があるのを知らなかった弟を許せ」
芝居がかった口調で軽口を挟みながらハンスが「飲むか?」とゴブレットを手渡してくれた。
中身は水で薄めた上に臭い消しにハーブをこれでもかとぶちこんだ安物のワインだ。
古くなっており、むれた兜のような臭いが鼻につく。
「まあ飲むがね。ひどいワインだ」
「そうだな。男爵閣下の支援が待ち遠しいよ」
最近、家督を継いだばかりのハンスは連日あいさつ回りでお疲れ気味だ。
言葉に少しトゲがある。
慣れるまでは気疲れもあるだろうが、元々ハンスは当主の予備として教育を受けた次男だ。
能力や知識に問題はない。
「ハンスは読んだか? ベーリヒの手紙を」
「おう、読んだぜ。田舎の助祭ごときが厚かましい」
ベーリヒからの手紙によると、男爵領唯一の教会が集落を1つ寺領として寄進しろとねじ込んできているらしい。
要は正統性が低い継承に乗じて『言うこと聞かないとゴネちゃうよ』と言いたいのだろう。
バカバカしいが教会の影響力は侮れない。
受け入れる必要は皆無だが、無下すれば領民を扇動して一揆を起こしかねないのが教会なのだ。
教会は王権の中に組み込まれておらず、たびたびに問題を起こす。
だが、味方につければ先代男爵から遠い相続者である俺の正統性を補強してくれるだろう。
少なくとも領内を掌握するまでは敵にすべきではない。
「相続に乗じて喜捨をせびるのはいつもの手口だな。主の御心ってやつさ」
「ふん、助祭にまでこき使われて黙ってる天にまします我らが主にも問題があるとは思わないか?」
ちなみに俺とハンスはかなり教会、聖天の教えには冷笑的だ。
紋章官として歴史や記録に接するうちに『知らなくてもよいこと』を知りすぎたのだ。
ゆえに高貴な血統や神の奇跡などを聞くと鼻で笑ってしまう。
たしかに世の中には神の御業と考えなければ合理的な説明できないことが多すぎる。
俺もハンスも神の存在は疑わない。
だが、それは強欲な聖職者が語る便利な方便ではないはずだ。
だが、それゆえに教会の力や神の教えに背くことがいかに恐ろしいかも知りつくしている。
領民にとって教会の、聖職者の言葉は神の言葉なのだ。
対立すれば厄介では済まない事態になるだろう。
「こいつは我がメーベルト家が誇る守護天使の出番かな? ご当主ハンス殿の許可をいただければ、だがね」
「こっちも使い古されたいつもの手だな。ハデな紋章官の外套も使うか? 前当主だしな」
古来より伝令や軍使は誤認や誤殺を避けるために王家の紋章があしらわれた外套や旗を用いる。
それは紋章官も例外ではなく、メーベルト家の外套は非常に派手なのだ。
こうした見た目の立派さは田舎者を威圧するには効果的なのである。
「春になれば俺も行こう。紋章官としてメーベルト・バッヘルベル家の紋章を調べなきゃいかんしな」
俺はハンスの言葉を聞き、肩をすくめて「やれやれ」と苦笑した。
屋敷や領地にはバッヘルベルの紋章があふれているはず、ガラリと変えれば大変な予算と手間がかかる。
俺がわざわざ紋章を入れ換えるはずがないのだ。
それを知りながら田舎で物見遊山としゃれこむ腹積もりなのだろう。
「でもな、俺が地方に行っても良かったんだぜ? わざわざ兄貴が隠居しなくてもよ」
「飽きたんだよ。紋章官は戦に出ても近侍ばかりでつまらんのさ。辺境なら戦も多かろう」
今度は俺の言葉でハンスが「やれやれ」と肩をすくめた。
そもそも王の側で騎士や軍勢の紋章を判別するのは紋章官の役割だ。
それを飽きたと言われて呆れているらしい。
「槍を振り回したくて男爵になるのか。領民はたまらんな」
「そう言うな。俺が地方で、お前が中央さ。うまくやれば我が家は太くなるぞ」
そう、中央と地方。
双方ともに吹けば飛ぶほどささやかではあるが、うまく両輪として回せば……ちいさな政争に噛めるくらいには存在感がでるかもしれない。
「それじゃ、新人男爵の恋心に」
「メーベルトの野心に」
俺とハンスは改めて悪臭を放つワインで乾杯した。
たかが地方の男爵領。だが、そこに利があれば群がる者もいる。
それはメーベルト家も同様である。
【聖天教会】
この世界、地域で絶対的な権威のある一神教。
大まかに修道士からはじまり助祭、司祭、主教、大主教、総主教の順に位階がある(細かな職域や役職は省略)。
教義は寛容、忍耐、慈悲、節制、勇気、貞節、謙虚、勤勉、信仰の九徳を守り神に仕えよというシンプルなものである。
排他的で他の宗教と折り合いが悪いが、教義の細かなところは地域にそくした生活の知恵も多く、信徒は神の恩寵を感じやすい。