5話
そう、俺が生き残る為に唯一残された道がこの死海の森に入る事だ。
メル一族でも有数の実力を持つ者しか入ることの出来ないこの森でもしも生き抜く事が出来れば、比類ない強さを身に付ける事が出来るだろう。
鬼蟲という存在はそれ程、常軌を逸した存在なのだ。この世界は本来ならば鬼蟲に乗っ取られていてもおかしくはない。
トゥーンランドが人類の都であるのはメル一族のお陰でもあるのだ。
それ程危険な森を目の前にして、俺はゴクリと生唾を飲む。
俺は強くならねばならない。
強くならねば、あの悲劇の日に死んでしまう。
俺はまだ死にたくない。
ならば……強くならねばならない……俺は思いっきり巨壁を蹴った。
タンっと地面に着地して俺は辺りを見渡す。
50mの落差があったというのに微塵も足には衝撃が来ない。
優秀な己の肉体に驚きながらも静かに辺りを見渡す。
ここからは一片の気を緩むことの出来ない弱肉強食の世界だ。
その時、ブゥゥーンという目障りな音と共に、醜悪な虫の化け物が姿を現す。
目は両目共に赤黒く輝き、正気の無い瞳で俺を見つめる。
2対のトンボのような羽と、8対程はあるだろうか、沢山の足がざわざわと蠢いている。
体長はおよそ2m、ブゥゥーンという気味の悪い羽音が静寂を支配する。
「うわっ……キモっ!」
こいつこそが人類の大敵、鬼蟲だ。
俺は独りごちながら油断無く鬼蟲を見つめる。
こいつは……確か鬼蟲でも弱い部類だったはず。だがなんだこの薄気味悪さは?
生気の無い赤黒い瞳を見ると思わず背筋が凍る……これが鬼蟲か!
と、その時、鬼蟲が動き出した。
ブゥゥーンという気色の悪い羽音を立てて、2mもあるトンボ型の鬼蟲は左右上下、縦横無尽に飛び回る。
「は……速い!」
俺は恐怖に抗いながら集中する。
ここは平和だった日本とは違う、常に死の危険が伴う世界だ。
俺は当然ながら今まで死のやり取りなどした事はない。
しかし残業300時間や自爆営業ですり減った精神は確実に死の危険を孕んでいた。
常に上司の目を気にしながら奴隷のように働かされる日々……。
そんな毎日にいったい何の意味があるのだろうか?
それに比べて今はどうだ。確かに死の危険が常に纏わり付いているが、この世界の理は非常にシンプルだ。
強さこそが全て、強さこそが正義なのだ。
全ての死亡フラグを乗り越え、全ての敵を倒し終えた先に待っているのは…………自由だ。
真の自由が俺を待っているのだ。だから……。
「絶対に……絶対に生き残ってやるぞ!」
俺は叫びながら鬼蟲の全てを感じ取る。
気色の悪い羽音、高速移動する影の残滓、皮膚に感じる羽の羽ばたき、鬼蟲の悪寒のような不気味な気配。
その全てを感じながら深く集中していると変化が起こった。
1対の鋭く尖った顎をこちらに向けて、弾丸のような速度で突進を始めた鬼蟲の動きが、やけにゆっくりに感じたのだ。
俺は最小限の動きで鬼蟲の突進を躱す。
そして腰に下げていた刀を抜き、袈裟斬りに胴体部分を切り裂く。
「ギ……ギギッ!」
鬼蟲は悲鳴のような鳴き声を上げ、その生気の無い瞳をより赤黒く輝かせて俺を見据えていた。
俺は油断なく距離を開け、鬼蟲を警戒しながらも、確かな手応えを感じた。
これはいける! 見える! 鬼蟲の動きの全てが! これがメル一族の力なのか!
メル一族が最優だと言われる所以は五感がとにかく優れているという所にある。
弾丸を見切る程の動体視力、高機能レーダーのような皮膚感覚、1km離れた鳥の羽ばたきすらも捉える異常な聴力。
そのあまりにも優れた五感が戦闘時に遺憾なく発揮されるのである。
俺は改めてこの優秀な体に驚きながら、鬼蟲を注視していると、鬼蟲は急に頬を膨らませた。
……まずい!
俺は慌てて横へ回避しようとすると、鬼蟲は口から散弾銃のようにたくさんの細かい液体を吐き出してきた。
俺は一つ一つの弾丸を見切り、回避していくが、数があまりにも多すぎた。
「……ぐぁっ!」
その一つが肩に被弾し、じゅぅという肉の焼ける不快な音が耳に残る。
……これは酸か! ぐぅぅ、痛い、痛い、痛い!
現代社会で生き、痛みにあまり慣れていない俺は思わず集中を乱してしまった。
その瞬間、背後で背中につららを差し込まれたような悪寒を感じ、慌てて仰け反る。
ガキンッ!
と金属音のような音が鳴り響き、顔を向けると背後に鬼蟲が回り込んでいた。
あ……あぶない……今回避してなかったら、死んでいたぞ……。
鬼蟲はその1対の鋭い顎をカチカチ鳴らしながら、名残惜しそうに俺を見ていた。
その瞬間、俺は急に恐怖に襲われる。これはゲームでもなんでもない、命のやり取りだ。
どちらかが死に、どちらかが生き残る。紛れもない原初の掟。
怖い、確かに今すぐにでも逃げ出したい。しかしなぜだろう、相反するもう一つの感情が芽生え始めているのは……。
俺は自分の感情を理解出来ずに刀を鬼蟲に向けながら睨みつける。
その瞬間、俺は駆け出していた。頭の中はやけに静かでクリアだ。
流れる風景が加速していく、もっと、もっと、もっと速く……。
ガンっという音ともに、辺りが静寂に包まれる。
「ギ……ギギッ……ギ……」
気が付けば、俺の目の前に映っていたのは両目を刀で串刺しにされ、木に縫い付けられた鬼蟲の姿だった。
次第に赤黒い瞳は点滅を繰り返し、光を失った。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……勝った……社畜舐めんな……」
俺は荒い呼吸を繰り返しながら目の前の鬼蟲の亡骸を見下ろす。
最後の瞬間、俺は鬼蟲を遥かに上回る速度で突進し、刀で鬼蟲の両目を貫いた。
鬼蟲は俺の動きに全く反応出来ずに呆気なくやられたのだ。
これこそメル一族が恐れられる真の力だ。
メル一族が真に最強足らしめているのは五感が優れているからではない。
それはおまけに過ぎない。真に恐ろしいのは集中すればするほど加速していくスピードにある。
俺は原作からそれを知っていた。
だからこの無謀とも言える一騎打ちを行ったのだ。
それに……。
「……この高揚感はなんだ? 達成感か? いや、それもあるだろうけど……まさか楽しかった……のか?」
もちろん恐怖もあった。何回も逃げたいと思った。
だが鬼蟲との一騎打ちを確かに楽しいと感じる自分がいたのだ。
下手すれば死んでいたのは自分の方だというのに……。
ただ……俺は日本で過ごした日々を思い出す。毎日会社の往復をするだけの毎日。
休みなんていうものはなく、家族も親も恋人もいない。
そんな毎日に意味なんてあるのだろうか。あそこには色がなかった。
何をしても、何を見ても灰色だった。だが今はどうか? 気色の悪い化け物と命のやり取りを行い、危うく殺されかけた。
…………うん、両方ひどいな。…………でも。
「俺……今、生きてるって感じがする……」
辺りを見渡す。森は夜風に吹かれ、さわさわと揺れ、ピンク色の小さな花が足元に咲いている。さらには……。
「月……か。綺麗だな」
上を見上げると白銀色の月が輝いていた。何よりこの世界には……たくさんの色で溢れていた。
「俺は…………絶対にこの世界で生き残って自由になってみせる!」
その為には、まずは5年後の一族滅亡から生き残らねばならない……だからこの死海の森で強くなってやる!
幸い、ここに生息している鬼蟲の知識と弱点はほとんど把握している。強くなる為の方法も。
これほど心強いものはないだろう。
俺は自由になった未来を思い浮かべて夜空に叫んだ。