11:00am/第二医務室
慌ただしく千紘と春陽が出ていった後、治療を終えた雲雀と一華も帰って行ったため、先ほどまで賑やかだった部屋に今は渚一人だけだ。
すっかり静かになった部屋で渚が一息ついていると、三度ノックの音が響いた。
「失礼します。お疲れ様です」
「ああ、七尾か。お疲れ様。怪我か?」
第二医務室に来る場合、本来ならば聞くまでもなく怪我人のはずなのだが、今日はやたらとそれ以外の来客が多い。
そのためもしやと思い渚が尋ねると、やはり準太も首を横に振った。
「ここに神谷さんが来ませんでしたか?」
「なんだ神谷に用事か。神谷ならさっきまでそこでお茶をしていたんだが、残念ながらついさっき慌てて出ていったところだよ。」
「あ、そうなんですか」
渚の言葉に準太は応えた後、少し考える素振りを見せた。
渚は千紘がいないのならすぐに出ていくと思っていたため、準太のその様子に首を傾げて見守っていると、やがて準太が遠慮がちに口を開いた。
「あの、僕も少し休んでいってもいいですか?」
準太の言葉に渚はぱちりと瞬いた後、コーヒーでいいか? と嬉しそうに尋ねた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
目の前にコーヒーを差し出され、準太はお礼を言って一口飲んだ。
研究室にもコーヒーはあるが、準太はここのコーヒーの方が美味しく感じる。きっと豆の種類が違うのだろうと準太は踏んでいるが、実際は全く同じものである。
「神谷さん、何かあったんですか? 慌てて出ていったって……」
一息ついて準太が尋ねると、渚は可笑しそうにクスリと笑った。
「昨日、あの二人は保育園で勉強会だったんだが、神谷が倉持の原稿を大胆にアレンジしてな。今現在それを聞いた彼から逃げてる最中だよ」
「ああなるほど、そういうことだったんですね。倉持さん、さっき第三研究室に来たんですよ」
「やっぱりな。私はあのアレンジ面白くて結構好きだったが、倉持は真面目だからなぁ」
渚は楽しそうに話しているが、やがてあることに気づいた準太が顔をしかめた。
その後言うべきかどうか少し悩んだ後、困ったような顔で遠慮がちに口を開いた。
「あの……それってやっぱり手紙で聞いたんですよね? 最近は大丈夫なんですか?」
それに対し渚は苦笑した。
「大丈夫だよ。流石にこの中には入って来れないからな」
「ああもうそういう問題じゃないでしょう? 五十鈴さんは優しすぎるから心配です」
「そうかぁ?」
そんなに優しくないと思うけどなぁ、と若干ずれたことを言う渚はどこまでも呑気で、準太がどんなに心配しているかもあまり伝わっていないようだ。
渚とこの話題について話す時、準太はいつも歯痒い思いをする。
「そもそもストーカーのせいで五十鈴さんが軟禁状態なんて酷いです。五十鈴さんはもっと怒っていいと思いますよ?」
準太が見たこともない――実際は外での仕事の際に会っているのかもしれないが――ストーカーにイライラしてつい不貞腐れたような口調になってしまっても、渚は相変わらず笑顔のままだ。
「……そうだなぁ、そうかもしれない。でも私は、好いてくれてるんだと思うとやっぱり無下にはできないよ」
そう言って穏やかに笑う渚に、準太は全く納得いっていないような顔をしたが、それでも小さな声で一言、わかりました、と言った。
「心配してくれてありがとう。私がこんなだから、もうここでそんなこと言ってくれてるのは七尾だけかもな」
そう言って少し嬉しそうに笑う渚に、準太は照れて少し赤くなった顔を誤魔化すようにそっぽを向いて、そうですか、と呟いた。
「まぁ元々引きこもり気味だったからそんなに生活に支障がないってのも大きいかもな。たまに無性に外に出たくなったりすることもあるが、それくらいは我慢できるさ」
冗談半分にそう言う渚の言葉を聞いて、準太はソワソワと視線をさ迷わせた。そして少し考えた後、意を決して渚に訊ねた。
「……あの、それなら今度僕と出かけませんか?」
「七尾と?」
「はい! たまには息抜きも必要だと思いますし、何かあっても僕が絶対守るんで」
「気持ちは嬉しいが、十中八九迷惑をかけることになるからなぁ」
「そんなことないです! むしろ……」
そこで準太の言葉を遮るように、ノックもなしに入り口の扉が開いた。
「なぎちゃーん、ボクと一緒にお茶せーへん? ……あれ? 準太クンやん。え? もしかしてお邪魔やった?」
「篠塚、ノックくらいしろといつも言っているだろ。あと仕事はどうした」
「可愛い子連れ込んでお茶しとるなぎちゃんがそれ言っちゃうん?」
「人聞きの悪い。お前と一緒にするな」
突然の乱入者と言い合いながらも再び律儀にコーヒーを入れる渚に、また駄目だったと準太は肩を落とした。
準太は度々こうして渚にアプローチしているのだが、彼の不運体質と渚の偏愛以外に対する鈍さのせいでなかなかその思いは伝わらない。
伝わるのはいつの日か、というか、伝わる日は来るのだろうか?
そんな哀しい考えが頭を過り、準太は深くため息を吐いた。