3:00pm/南区保育園
千紘と春陽がのんびりと話をしていると、二人の通信機に連絡が入った。
応答すると、その向こうでは一華が慌てた様子で何かを訴えているが、慌てすぎて何を言っているか千紘には全くわからなかった。
しかし同じものを聞いていたはずの春陽にはしっかりと伝わったらしい。
「わかった、気をつけるね。こっちは神谷さんもいるし大丈夫だから、一華ちゃんたちも気をつけて」
春陽がそう返すと、一華が早口にありがとうとだけ告げて通信を切った。
「いっちゃん何だって?」
「え? 神谷さんの通信機、調子悪いんですか?」
「いやいや、今のが聞き取れるのははるちゃんくらいでしょ」
千紘の問いかけに春陽が不思議そうに返すので、思わず千紘は呆れたように突っ込んでしまった。
それに対しても春陽はわからないようで首を傾げた後、まぁいいかと一人納得して千紘に通信の内容を説明した。
「うわー、噂をすれば、ってやつだね」
話を聞いた千紘が嫌そうに言った。
「とりあえず僕は外に出て、近くにいないか確認してきます」
「いや、行くんなら俺が行く。はるちゃんは子供達を見ててよ」
外に出ようとする春陽を千紘が止めたが、春陽は首を横に振った。
「僕、昔から鬼ごっことかくれんぼは得意なんです。それより、もし子供達が起きちゃった場合の対処の方が僕には難しい気がするんで、行かせてもらえるとありがたいです」
春陽が困ったように笑ってそう言うと、千紘は不満そうな顔をしたが、譲る気の無さそうなその態度に仕方なくひとつため息を吐いた。
「じゃあ一つだけ約束。絶対に無茶はしないこと、いいね?」
「はい!」
春陽は子供達を起こさないように小声で、しかし元気よく返事をして外へ飛び出した。
外はとても良い天気だ。
少し気温は高いが風があるため、それほど暑さは感じない。
辺りに建物が少ないため、聞こえてくるのは鳥の鳴く声くらいである。
「なんか、平和だなぁ」
春陽が思わずそう思ってしまうくらい、そこには穏やかな空気が流れていた。
春陽は不審な動きがないか、キョロキョロと辺りを見渡した。しかしやはり違和感など見当たらず、ほっと胸を撫で下ろした。
意気込んで飛び出してきたはいいが、本当は少し怖かったのだ。
「……まだ大丈夫そうかな」
しかし油断はできない。
こちらに向かって来ているのは間違いないため、春陽に出来るのはカメレオンより先に一華と雲雀がこちらに到着してくれるように祈ることだけだ。
とりあえず周囲にカメレオンが見当たらないことを伝えようと、千紘に通信を繋いだ。
「あ、神谷さん、そっちから見えますか?」
春陽が問いかけると、千紘が窓辺にやってきて手を振った。
千紘は春陽の無事な姿を見て安心したようだったが、ふと春陽の背後にある門の更に向こうに伸びる道の方に視線を移し、次の瞬間驚いたように目を見開いた。
『はるちゃん! 後ろ!』
いつにない千紘の切羽詰まったような声に、春陽はぞわりと全身の毛が逆立った気がした。
震えて上手く動かない体を何とか動かし後ろを振り返ると、遠く向こうからこちらに向かってくる何かの影が見えた。
遠すぎてまだその姿は曖昧にしか捉えることが出来ないが、何故か春陽はその両目がしっかりと自身の姿を捉えていると確信した。
逃げるという選択肢は春陽の中に無かった。何故ならそれが春陽の仕事だからだ。
春陽は守るためにここにいるのだから、逃げてしまえばここに来た意味がなくなってしまう。
春陽は恐怖で震える足を叱咤して、逃げ出したいと悲鳴をあげる心に蓋をした。
千紘が助けに来てくれる様子はないし、戻ってこいという指示もない。
春陽は自分に任されたのだと感じた。
遠くにぼんやり見えるだけだった鬼がだんだん近づいてきて、徐々にその姿がはっきりと見えてきた。
それは独特な姿をしていた。
赤鬼が出た、という情報通り、確かに全身は赤いのだが、赤鬼を見たことがある者ならすぐにそれが赤鬼ではないと気づいただろう。それほどまでに違う。
春陽はカメレオンという名がその特性から付けられたのだと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。
赤鬼は頭に二本の角、アフロヘアーのようなくるくるの髪の毛、二足歩行で巨人のような、所謂子供の絵本や節分のお面で見かけるような、誰もが鬼だと思う姿をしている。
しかしあれは、春陽には鬼というより巨大な爬虫類に見えた。辛うじて頭に生えた一本の角が鬼であると主張しているが、長い鰐のような尻尾を持ち、鋭い爪の生えた大蜥蜴のような手足、顔は蛇のようで、黄金色に光るギョロリとしたまん丸な目に、突き出た口元からは蛙のような厚い舌が覗いている。
全体的に細身のその身体はどこか不自然で、春陽は気持ち悪いと思った。
春陽は千紘に言った通り、昔から鬼ごっことかくれんぼは得意だった。
それは小さい頃に仲の良かったガキ大将から、春陽が他の友達と仲良くしていると嫉妬され、その末にいじめに発展した際に身に付けざるを得なかった能力が大いに生かされる遊びたからだ。
あまり荒事が得意ではなかった春陽は逃げることと隠れることを選んだ。
つまりはそういうことだ。
春陽はヒーローになりたいとは思っているが、鬼と戦いたいわけではない。
矛盾していることは春陽自身もよくわかっていたが、それでも守ることが仕事の広報課に配属された為にそれでもやっていけると思っていた。
春陽は、そんな春陽の甘過ぎる考えを聞いて、それでいいと笑った秋也が春陽の為に作ってくれた武器を握りしめた。
人をほんの少しの間気絶させる程度の電流の流れる、まるで護身用の為に女性が持つような、おおよそ鬼と戦うには心許なさすぎる警棒だ。
守る為には、時には戦うことも必要となる。
そんな当たり前のことに今さら気付いた春陽は、明日からはトレーニングもきちんとしようと心に誓った。
「もう手遅れかもしれないけど」
鬼はもうすぐそこまで迫って来ている。
あと百メートル。相変わらず春陽をピタリと見据えて真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
あと八十メートル。意外に足が遅い。小学校の時に出会った鬼の方がずっと素早かった。
あと六十メートル。校門を抜けた。これ以上ないと思っていた緊張感が更に増して吐きそうになる。
あと四十メートル。迎え撃つ為、武器を握る手に力を込めた。
あと二十、十、八、七、六、五、四、三――
突然ビュッと風を切る音がしたと思ったら、ゴッと鈍い音がして、春陽の目の前に迫っていた筈の鬼が横に吹っ飛んだ。
鬼が目の前から消え、助かったのだと理解したが、情けないことに身体は固まったまま動かず、心臓は早鐘を打っており、ただその場で荒い呼吸を繰り返した。
「大丈夫か? なかなか度胸あるじゃねーか、新人。あそこの窓辺の腰抜けより全然見込みあるぜ」
助けてくれたのは、少し息を弾ませ、ヤンキーよろしく釘バットを持って凶悪に笑う恭介で、その光景を見た春陽は幼い頃の記憶がフラッシュバックした。
そうだ、確かにあの時助けてくれた時も彼はこの凶悪な顔をしていた。
優しいヒーローだなんて美化もいいとこだな、と春陽はぼんやりした頭で、自分の記憶は何といい加減なのだろうかと思った。
しかし、凶悪でも彼は春陽のヒーローに間違いなく、彼のようになりたい、と、やはりあの頃と変わらずそう思った。
「きょーちゃん到着ー」
窓から春陽の様子を見守っていた千紘が通信機に向かって緩い声で告げた。
「間に合ったから良かったけど、もうちょっと余裕を持ってこれなかったわけ? うちのはるちゃんが危なかったんですけど。なんなの? ヒーロー気取りなの? 主役は遅れてくるものって言いたいの?」
千紘も余裕そうに見えて内心大分緊張していたようで、一安心して気が緩んだ勢いのまま不平不満を垂れ流している。
通信機の向こうでそれを聞いていた忠久もそれが解っているので、まぁそう言いなさんな、と言いつつ可笑しそうに笑った。
『カメレオンの話を聞いてからすっ飛んで行ったんだ。十分早い方だろ』
「そんなの知ったことないですー。きょーちゃんならもっと早く来れるでしょー?」
『お前褒めてるのか貶してるのかどっちだよ』
隣で聞いていたらしい秋也も呆れた声を出した。
「まあとりあえず、一件落着したみたいよ?」
千紘が見下ろした先に見たのは、恭介があっという間に仕事を終えて、ガラの悪いジェスチャーでこちらに降りてこいと訴えている姿だった。