テンプレ考察 ~なろうテンプレは『ぬり絵の線画』~
私は以前からラノベ作家を目指していましたが、流行に乗るのがとても苦手です。
筆が遅いのも理由の一つですが、大勢の人がワイワイと盛り上がる場とか空気そのものに苦手意識があるんですね。
もっと深堀りすれば、私の作品は総じて『軽快さ』が足りません。地の文は多く、会話だけでストーリーをつなげることはまずありません。
性格が完璧主義傾向かつネガティブで、作品に取り組む姿勢もかなり内省的な自覚があります。『なろう』に主流の『手軽に読める作風』ができる作者様が本当にうらやましいです。
だから、俗に言う『なろうテンプレ』もうまく書けないし、書ける気もしない。
読む側としてはさほど気にならない部分が、書く側になると拒否感がとたんに膨れ上がってくる。
……おや、考えるまでもなく致命的では?
これを書いている2018年11月現在、執筆に難航している連載作品もベースは『なろうテンプレ』ですが、ちょっと『なろう感』とははずれた作品になってしまいました。
私が『面白い』と思う要素と、『なろう感』につながる要素は拾ったつもりですけども、ままならないものです。(該当作品を書くこと自体は楽しんでます。現状の執筆速度では死ぬまでに完結できるかわからないんですけど……)
ともあれ、そうした違和感を長年抱えたまま文章を書いてきて、いろんな作者様の作品に触れてきて。
ふと、自分の考えを一気にどばっと解放したことないな、という風に気づきました。
なので今回、初めてエッセイという形で自分の主張を形にしたいと思います。
誰かに伝えたい! ではなく、自分の考えを整理したい! という動機ですので救いようがありませんね。(汗)
時間に余裕がある方は、よろしければお付き合いください。
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といっても、私の主張自体はタイトルにある通りです。
『なろうテンプレは『ぬり絵の線画』』
近頃になってようやく、そう思えるようになりました。
私はまったく絵を描くことはありませんが、たとえ話ですのでご容赦ください。
みなさんはノウハウもなしにいきなり白紙から絵を描いて、うまく描けますか?
前述の通り、私には無理です。身近に絵がうまい知り合いはいましたが、その人にコツを聞いても無理でしょう――知識も練習量もセンスも足りないのですから。
それでも、みなさんが自分の手で絵を描きたい! と強く思うならまず何から始めますか?
すぐに思いつくのは『模写』でしょうか。目で見たものをそのまま、画材を操って白紙に描いていきます。
でも、初心者ではそれもうまくいくとは限りません。線はゆがみますし、遠近感もバラバラで、モデルと比べると不格好に見えます。
では、プロが描いた見本の上に薄い紙を乗せて『模写』してみたらどうでしょうか? 上達するための練習ですから、大目に見てもらいましょう。
そうしてできあがった絵を見てみましょう。少なくとも、『素人の自分』が一人で描いたものとは思えないクオリティにあるのではないでしょうか?
創作において『達成感』は大事だと思います。どんな小さなことでも、できなかったことができるようになるのは嬉しいものです。
では、次に色を塗っていきましょう。絵に色彩がつくことで、よりリアリティが出て格好良くなります。
そうして完成した絵は、間違いなく『自分の作品』です。
『模写』だからと卑下することはありません。『模写』の線画に色を付けた時点で、それは『自分の作品』になるのです。(世間にさらすかどうかは自己責任ですが)
そうやってアマチュア作家たちが描いてきた『練習用の色付き絵画』を集めたものが、『なろうテンプレ』と呼ばれる作品群だと思っています。
いわばここは、『小説家になろう』というタイトルの『ぬり絵帳』です。
色付けの差はありますが、線画はほとんどブレません。みんな同じ線画を使っているので、自分の色付けが埋もれるか目立つかはタイトルやあらすじなどを含めてアイディア次第ですね。
中にはアマチュアだけでなくプロの方もおられますが、そうした方々はだいたい線画に新たな線画を書き込んでいます。
たとえば、人気ジャンルであるハイファンタジーを『雄大な草原と雲一つない快晴が広がる風景画』でイメージしてみましょう。
アマチュアの内、初心者であればすぐに色付けを行うでしょう。色鉛筆か水彩マジックか油絵の具か描画ソフトか……違いは画材の種類くらいで、色合いも似てきます。
慣れた方なら、『風景画』に自分の特徴を出そうと線画を足すでしょう。空に雲を描いてみたり、森を追加してみたり、水平線に山を描いてみたりと、工夫をこらして目立たせようとします。
もちろん、色使いも単調にはしません。空を茜色や黒にして時間を変え、森や山を紅葉や枯れ木にして季節を変え、草原を青や紫などに変えて空想の世界をより演出するでしょう。
プロにもなると、元の風景とは一変することになります。人物や遊具を描いて公園にしたり、武器や死体を描いて戦場にしたり、上下を逆に描いて空の部分を地中として活用したり、もはや世界観が違います。
中には与えられた線画では足りず、別の白紙を用いて『線画の外』を描く方もいるでしょう。もはや線画はいち要素でしかなく、完全に独立した作品になりますね。
線画の作品が『面白くない』とか『見飽きた』とか言われるのは、線画に加える要素の新たなバリエーションが減ってきたからなのでしょうね。
何せ、線画1枚だけの世界はとても狭い。
いくら優れた線画でも外枠は限定されており、その中だけで完結させようとすればどうしても工夫に制限がついてしまいます。
プロのように『線画の外を拡張』する技術が身につかないまま多くの作品が集まれば、それは作者名とタイトルだけが異なる単調な『ぬり絵練習帳』にしか見えないのでしょう。
こうして揶揄される問題に対して、私は明確な対策を持ち合わせていません。
プロにはほど遠い上に頭の悪いおっさんですから、こうすればいいなんて偉そうなことはいえません。
もし、私にできることがあるとするならば、線画の中に野グソを追加することだけです。
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…………はい?
ええ、そうです、野グソです。
書き間違いでも聞き間違いでもなく、野グソですよ。
クソ、う○こ、う○ち、排泄物、肥料、あらゆる自然の恵みのなれの果て、微生物の餌、荒らし、政治家。
いろいろな変換ができますが、みなさんが頭に思い浮かべた野グソで問題ありません。
この結論に至った理由は、エッセイを始めいろんな価値観を読んでいく内に『なろう』に求められている風潮こそ野グソだと解釈したからです。(検索無精のため日刊ランキングしか読んでませんが)
『なろうテンプレ』を論じるにあたり、たびたび目にする批判の一つに『リアリティがない』というご意見があります。
なろう作者、あるいは『なろうテンプレ』を求める読者の願望を強く反映させた内容の何が面白いか、といった趣旨のご意見ですね。
薄っぺらい主人公、舞台装置ヒロイン、持ち上げ要員の登場人物、現実逃避、精神的ポルノ、政治家の選挙演説。
悪口を並べればキリがありません。『なろうテンプレ』作者からしたらみんな野グソみたいな言葉ばかりでしょうね。
これを先ほどの『ぬり絵』を用いたたとえ話に戻します。
思うに、批判する方々の主張は『線画がキレイすぎる』ということではないかと思うのです。
基本的に我々が知る線画は、汚物のないキレイな風景画です。
なぜなら、線画を描いた作者が(あるいは線画を見た人々が)汚物は『不要な物』として評価したからです。
写実的に描かれた絵は確かにすばらしいでしょうが、そのぶん手間も技術も時間もかかります。(あくまで私のイメージですが)
プロなら簡単に描けるかもしれませんが、アマチュア以下の作者からしたら面倒な作業が増えてしまいます。
つぶれた空き缶の形や陰影、くしゃくしゃのビニール袋、放置された犬のフン、酔っぱらいの吐瀉物、与党と野党の国会論争。
写真に近いリアリティで描くことが目標なら必要ですが、正直あってもなくてもどちらでもいいものに思いませんか?
元がネガティブなイメージのものですし、描けば作品の見映えや印象が悪くなりますから、どうしても必要な事情がなければむしろ風景画には入れない方がいいでしょう。
臭い物にはフタをする、ではありませんが、作風や暗喩や風刺などの意味合いもなく用いるのは、いたずらに不快感をあおるだけとなりかねません。
大多数の人は汚い物よりキレイな物の方が好ましいと思うでしょうし、わざわざ嫌われたり怒られたりするような作品を発表したい人はあまりいないでしょう。(ゼロとはいいません)
しかし、汚物を排除して洗練していった線画は、あまりに潔癖になりすぎた結果、『気持ち悪い』と言われるようになってしまった。
私はそのように感じました。
そこで『線画に野グソ』という発想に飛びます。
豚に真珠みたいなノリで野グソをプロデュースです。
……こほん、それはさておき。
『なろうテンプレ』を批判される方々の主張が私の推測通りなら、潔癖すぎる線画を『適度に汚す』ことで刺激となり、新鮮味になるのでは? と考えました。
想像してみてください。
下半分に青々としげる草原は運ばれた風にそよそよとたなびき、上半分を占める吸い込まれそうなスカイブルーのコントラストが美しい雄大な景色を。
そこにただ一つ、ぽつんと放置された太くたくましく健康的な茶色い野グソを。
やや!? よく見ればほかほかと湯気が立っています! この野グソは産後間もない捨て子でしょうか?
しかし、線画をじっくり観察しても緑と青と茶色のみで、他に人物や生物の姿はありません。
ただただ、かぐわしいにほひを思わせる湯気を燦然と残すのみで、我々に何も語ってくれません。
ゆらゆらと、キラキラと、肌をなでるように過ぎる微風のせせらぎで揺れる粘土質の塊は、茫漠と広がる二色の世界に打ち込まれた楔として、ただそこに在り続けます。
どうです?
とても無視できない強烈な存在感と、神のいたずらとしか思えないほかほか加減に、壮大なドラマ性を感じませんか?
退屈だった線画に一つ野グソを配置することで世界にメリハリが生まれ、いつしか作者の個性と呼ばれるかもしれません。
しかも、一口に野グソとはいってもその種類は様々です。
生まれ落ちて時間がたてば、生物の腹の中で育てられた証である熱を失い、大気にさらされ水分を失っていくことでしょう。誰からも忘れ去られ、ひび割れた中身をのぞかせる朽ちた姿――言いようのない哀愁を感じさせます。
形をとどめているとも限りませんね。乱暴に散らばった水気の多い粘性の野グソは、産み主が体調を崩していたか、食物繊維の摂取が足りないのかもしれません。小さな沼のように円を描く下痢野グソには、ほんの少し、形を作ろうと努力した食物の欠片たちが後悔を抱いて浮かんでいることでしょう。
逆に形を変化させた変種にはロマンを感じます。たいていの野グソは一本勝負で信念を貫きますが、中には膨らみすぎた大志が螺旋に積み上がり、大国の城を彷彿とさせる威厳を発し始めます。それは創作の中でこそありふれていますが、実際に目の当たりにすれば誰もがその威容におそれおののくことでしょう。
形を追求する一方で、色合いも見逃せない要素です。
この世のすべてを憎むような真っ黒に染まった悪堕ち野グソは、かつての親が残した怨念を一身に引き継いでしまった悲しい命(?)です。自分も含めた何もかもを拒絶する孤独な存在を、どうしたら癒してあげられるのか……私のような浅い人生経験しかないおっさんには、どうすることもできません。
(※人間の場合、消化管の上流――食道や胃のところで出血を起こしているおそれがあります)
悪堕ち野グソの仲間には憤懣野グソも存在します。煮えたぎった怒りを凝縮した体は赤熱し、悪堕ち野グソに匹敵する凶暴性と攻撃性を秘めています。しかし、私たちは彼らを否定してはいけません。単に彼らが、純粋で臆病すぎただけなのです。傷つきたくないから傷つける、そんな考えを根付かせてしまった我々にも、責任はあるのですから。
(※人間の場合、消化管の下流――腸内や肛門付近で出血を起こしているおそれがあります)
激しい感情は野グソを不幸にしますが、抜け殻になった野グソもまた、私たちをやるせない気持ちにさせます。すべてを諦め、灰色に燃え尽きた無気力野グソには、こちらからの呼びかけに何も応じてはくれません。あらゆる感情の発露を奪われ、力なく横たわる姿は人形のように命の息吹を感じないのです。体内にいた名残が保つ温かさも、いずれ世界の逆風にさらされ冷え切っていくのでしょう。
(※人間の場合、胆汁色素の流れが悪い――肝臓や胆のうに異常があるおそれがあります)
容姿も表情も願い(?)も、それぞれに異なる野グソたち。
ただそこにいるだけですさまじい力を放出する彼らがいてくれるからこそ、世界をより鮮烈に輝かせ色彩豊かな風景画を構築してくれるのです。
さあ、みなさんもだまされたと思って、一度やってみましょう。
そよそよと揺らめく草の間に隠れる人見知り野グソ。
時を閉じこめた湖面を思わせる静謐な大空を悠々と駆ける飛翔野グソ。
野生に帰った人々の暮らしの営みを感じさせるような木の枝にぶら下がる世紀末野グソ。
かわいらしい女性を口説く男性の肩に居座る従僕のような面構えをした相棒野グソ。
異世界へ足を踏み入れても大和魂を忘れない日本人の頭に鎮座して在す丁髷野グソ。
オプションでS・M・Lサイズのコバエ(ポテトのイントネーション)はいかがですか?
グラデーションになりづらい野グソにワンポイントが加わり、肥えスタ映え間違いなしですよ。
――さて、いかがでしたでしょうか?
野グソの可能性は無限大です。
もしも野グソをカットインする作品が『ぬり絵帳』に増えてしまえば、いずれまた没個性と揶揄されてしまうかもしれません。
しかし、それはそれでいいではありませんか。
野グソであふれた世界こそ、『なろうテンプレ』の中心にある『中世ヨーロッパ風世界』の原型に近い姿となるのですから!
つまり野グソの蔓延こそ、『なろうテンプレ』に求められる次なる生存戦略なのです!!
さあ、みなさん!
視線がちょっぴり高くなる野グソに配慮した魔法の靴は履きましたか?
このクソみたいな世界を、少し広い目線で歩もうではありませんか!
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結論
大便は健康の指標です。
栄養が偏らない食生活、発酵食品による腸内環境の活性化、適度な運動が健康な大便を作ってくれます。
少しでも変だと思ったら大病のサインかもしれませんので、医療機関に相談することをオススメします。
…………あ、ついでに『なろうテンプレ』も適度に楽しみましょう。
あらすじを読んだ方はおわかりになられただろうか?
『創作の【肥やし】』が伏線になっていたことを……いたっ!? ごめんなさい! 石は、石はやめて!!
(~筆者反省中~)
えー、というわけで、役に立つようで役に立たない、深いようで深くないう○こドリルでした。
本作の比喩を用いるのなら、私は自分の作品に野グソを入れるのが大好きなタイプです。
しかも入れ方が陰湿で、たとえば『建物の影に潜む隠密スタイル』とか『二枚目キャラのズボンの膨らみこんにちは』とか『コーヒーとガトーショコラ(意味深)で優雅にティーブレイク』とか『正露丸(意味深)』とか、そんなやり方をしたくなります。
意識的ならやめれば楽になる話なのですが、半分無意識に野グソを入れるクセがついたらしく、自分でもどうしたらいいのかわからなくなっています。
う~ん、このあとがきも私のクソみたいなグチになってしまいましたね。
こんなクソ話に最後までお付き合いくださりありがとうございました。
……あ゛~っ!!
野グソをつかんで投げれる作家になりたい!!(意味不明)
(追伸
作中にて、まったく資料集めをせずに特定の職種をおとしめる表現をしてしまいました。
訂正してお詫びします)