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1.クーリエ・シュドゥ(3)

 シラユキという名前が本当に僕のものなのか分からない、というのは、本当だ。


 全く覚えていないわけではない。覚えていることもある。

 例えばそれは、操縦桿の固い手触りだとか、スロットルの重さ、加速の海、息苦しくなるあの瞬間、反転の開放感、そういった、飛行機に関することだけは何故だか鮮明に覚えている。


 たぶん、そいつは脳ではなく躰のほうに刻まれた記憶なんだろう。脳科学者がいたら別の話をしたかもしれないが、そんなもの僕には関係がない。


 気づいたら、ミモリの働く会社近くの海辺に倒れていたらしい。様子からして流されたんだろうとも。

 身分証を何一つ持っていなかったところからして、まともな状態じゃなかったのは推測できる。でもそれ以上のこととなると何も分からない。知らない。覚えていない。


 僕にとって最大の幸運は、ミモリ・ロッカに拾われたことよりも、彼女が郵便飛行士で、その自宅が個人所有の飛行場であったことだろう。


 僕はそこで飛行機に出会った。


 フレガータ。


 真紅に塗られた胴体。


 丸みを帯びたキャノピィ、直列六気筒のエンジン。単葉の翼にはワイアが張られている。


 旧世代機。でも、空を飛ぶことだけを考えて作られた独特の美しさが、あった。

 しばらく魅入っていたら、ミモリが気づいて僕に乗ってみるかと誘ってくれた。上空で操縦桿も握らせてくれた。


 それが、発端。

 僕にパイロットの技術があることが、僕自身にも分かって、それでミモリと同じ郵便飛行士として働くことになった。


 僕としては感謝している。

 こつこつ働くことも嫌いではないけれど、心だけは空に置き忘れてきたように、空に焦がれていた。きっと、他の職業に就いても、心の中だけは空虚なままだろう。

 生まれつき、それだけしか与えられなかった子供みたいに……


 

 

 異変に気づいたのは僕が先だった。コクピットから頭上を振り仰ぐ。


 離陸から三時間。

 遙かな蒼穹の一角、いつの間にか陣取っている小さな点を三つ見つけた。運転はミモリの番だったこともあり、見つけるのは早かった。


「ミモリ、五時上方に三機」

「え? あ、ほんとだ」


 三機は三角形を組んで編隊飛行。賭けてもいいが、郵便機ではない。それなら、あんなに密集して飛ぶ必要がないし、あれだけの高度となると酸素ボンベが必須。燃費の面からも、民間機にはややコストの高い場所だ。流電層の影響もゼロじゃないだろう。


「この辺って、空賊はいる?」


 念のため高度を落とすミモリに問うと、


「こんな山の近くで襲ってくるやつなんていないよ。撃墜したらそのまま山肌に激突炎上じゃん。あんな編隊組んでるところを見ると、多分、戦闘会社の飛行機じゃないかな」


 その意見には賛成だったけれど、いちおう上方から目を離さないままミモリに操縦桿を代わるように言う。


 フレガータはチューニングで操縦系統の遊びを減らしているが、もともとパワーが弱くて軽い。そのため初心者でも機体に振り回されることもなく簡単に操れる。ややパイロット・フレンドリィに過ぎる気もするけれど、風に流されることさえ念頭に置いておけば、良い機体だ。戦闘機を大型バイクに例えるなら、こいつは倒れても女の子の手で引き起こせるサイズのスクータ。大型バイクなんて乗ったことはないけど。


 操縦桿を握ると、翼が掴んだ気流を直に掌に感じることが出来る。それは地上の人間が想像するよりもずっと、濃密で重い。二、三度翼を振って調子を確かめ、再び上方を警戒。


 すると、三機のうちの一機が翼を斜めにしてゆっくりと降下してきた。戦闘機動じゃない。それなら背面飛行から一散に滑り落ちてくるはずだ。コースからして隣りに並ぶつもりだろうと目算をつけるとその通りだった。


 単発の黒い重戦闘機。鋼の装甲、機首に備えた四丁の機関銃と、両翼付け根に据えられた巨大なモーター・カノン。その重武装を支えるエンジンは、二十気筒の大型。さっきの例えじゃないけど、バイクだとしたら怪物クラスの馬力を誇る。名前は……


「うわっ、テンロウだ。シジョウ重工製の。……ピレネー社の主力戦闘機だよ」

「へえ」


 僕が唸っていると、低速で並んだテンロウのキャノピィが後ろにスライドした。酸素マスクとゴーグルをつけたパイロットが冷風に身をさらし、軽く手を振ってから、指で幾つかサインを切った。機体の側面に大きく、十字の向こう傷のようなペイントが施されている。


「何だって?」

「この先は戦場指定区域だ。進路変更しろ、だってさ」


 答えたミモリが同じくキャノピィを開け、手を振ってから了承の合図。僕はまだハンド・サインを覚えきれていない。


「思ったより風で流れてたや。危ない、危ない。東に進路をずらせってさ」


 指示通りに機体を傾ける。風が横から突っ込んでくることになるから、少しだけエンジンの出力を上げて、気持ちラダーを余計に踏み込む。流されるのを予め計算した進路だ。


「こんな感じ?」

「いいんじゃないかな。たぶん、予報より風が強いんだ。――パイロットさんたちはこれから戦争?」


 後半は、パイロットに向けたものだろう。彼女はハンド・サインをするときに内容を口に出す癖がある。


「死なないでくださいねーっ」

「そりゃ無理だ」


 こっそり呟く。

 戦争に行くんだから誰かは死ぬ。撃ち合いをすれば何機かに一機は墜ちるんだから、確率上はあのうちの一機くらいは墜ちるものと考えていい。


 戦争の主体が企業に代わってから、地上戦で死ぬ人間はほぼ皆無になったけれど、空で墜とされた奴はかなりの確率で死ぬし、負傷して再起不能になるパイロットも多い。それは結局、いつの時代も変わりない。


 要するに、命を賭けているのだ。

 一度地面を離れたら、生きて帰れる保証なんてどこにもない。

 郵便飛行士でも、輸送機のパイロットでも、それは同じ。

 ましてや戦闘機のパイロットなど。


 だから余計なものを捨てて空に上がってくる連中は、とても綺麗だ。

 ほら、今併走している戦闘機だって、わざわざこっちの心配をしてくれるほどに紳士的。地上じゃきっとこうはいかない。


 幾つかの連絡を交わした後、傷のエンブレムの戦闘機は、心地よいエンジン音と共に、牽引式特有の圧倒的な上昇力で遙かな高度に舞い戻る。素晴らしい加速、安定感だ。


「すんげーパワー。フレガータじゃ比べものにならないね」


 ミモリが呆れた声を挙げる。


「でもあの空冷エンジンは、冷却に問題がある」

「え?」

「前の方のシリンダが冷えすぎるんだ。星形エンジンには付き物の欠点だね。随分昔から指摘されてる欠陥だけど、まだ解決法は見つかってない。悪くなったら交換するか、たまに負荷をかけて温めてやらないと、不調になったりする……」

「……シラユキ?」

「え?」

「今、なんて?」

「僕、何か言ってた?」

「………、いや、何でもない。気にしないで」


 首を傾げる。僕は今、何を言ったのだろう?

 軍用機が視界から消えるまで見送って、僕らはさらに先に進んだ。

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