表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/37

プロローグ

 重低音が全身を心地よく揺さぶる。


 僕の躰を突き抜ける周波数。

 操縦桿を握る手指がチリチリと痺れる。

 感電というほど強くなく、たぶん、接続されたコードと同じくらい。正常値。


 キャノピィを震わせる風は、エンジンの音に対抗するつもりらしい、そのくらい強く吹いている。

 足元はヒータで温かいけど、マフラーやゴーグル、帽子の隙間から侵入してくる冷気は針みたいに痛かった。視界は水に溶かしたミルクのように白い。霧の海だ。


 前を向くと、カウルの向こう、回転するプロペラ、その中心のスピナー。


 エルロンを切って背面に入れる。

 夏だっていうのに、万年雪を戴いた剣山連峰。ところどころに見える緑は、放牧に使われる牧草地だろうか。

 薄い雲のフィルタ越しだと、それはとても遠い光景。


 機速が不足する前に、機体を正立に戻す。


 天候はお世辞にも上々とは言えないけれど、雨が降ってない分ましと考えるべきだろう。


「シラユキぃ」


 前の座席から声が響く。狭い二人乗りでも、プロペラの音が大きいから、それなりに声を張らないといけない。


「何」


 甲高い声。僕と同じ少女期特有の、つまり不安定な、成長途上の声だ。もっとも、彼女の年齢は僕よりずっと下なのだけど。恨めしい声が僕の耳に響く。


「ロールするならそう言ってよ! 危うくお茶零すところだったじゃない!」


 シートの向こう、複葉の翼の下。振り上げられた拳と頭が見えた。


「ごめん、ごめん」


 愛想の代わりに、バック・ミラー越しに軽く手を振る。


 エンジンの調子は、結構飛んでいるのにまったく変わらない。実に快調。腕のいい整備士がいる証拠だ。この職場に来て巡り会った幸運のひとつに数えるべきだろう。この世で不幸なことのひとつは、ろくでもないメカニックに大事な機体をいじられること。たぶん、空を飛べなくなる次に最悪で最低なことだ。


「っと、そろそろ地形が複雑になってくるから、注意して飛んで。速度も高度も、もっと落として」

「針路は?」

「ひとまずこのまま。で、しばらく行ったら赤い屋根の山小屋が見えてくる。そうしたら右に旋回。さもないと霧が晴れたと思った瞬間に、山に激突するわよ。地表が視認出来る高度を維持して」

「了解」

「自信がないなら、代わってあげてもいいけど、《《新人さん》》?」


 笑いを含んだ声。悪意がないのは分かっているから、腹は立たない。でも、もちろん、僕は即答。


「やだ」


 ぐ、と力を籠めて操縦桿を傾ける。

 視界がぐるりと回って、

 天地が逆さま。


 スロットルに手をかけた。


「て、だから、普通に降りなさい――」


 悲鳴を無視して、少しだけエンジンを吹き上げる。


 一気に高度を落としながら、味わう、重力の束縛からの解放。

 四肢の力を抜いて、そのまま身を任せたくなる快楽。


「ちょっと、高度……!」


 わかってるよ。


 高度計ははじめから見ていない。

 雪化粧をまだ被っている地面が近づいてくる。


 僕らを押し潰そうとしているんだ。

 きっと、僕が空を飛ぶというのが、この星には都合が悪いんだろう。

 それとも、お帰りって抱きしめてくれるのか?


 僕は笑う。

 どうでもいいことだ。


 操縦桿を倒す。


 ローリング。

 大地が消えて、


 フラップをめいっぱい。

 エレベータを引く。

 機首が上を向いた。


 薄く濁った空が現れる。


 スロットルを一気に押し上げた。

 轟音とともに、おんぼろエンジンが力いっぱい機体を引っ張り上げてくれた。


 現在、軍で使われているものとは、材質でも性能でも劣っているのに、僕を空に飛ばそうと一所懸命に回ってくれる。


「いい子だ」


 躰をシートに押し付けてくる強引さも、ぜんぜん嫌じゃない。

 うっとりと目を細めて、僕は目の前に広がる景色を見つめた。



 心地よい、


 自由で、


 何もない、


 空。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ