真面目なメイドは美しい騎士に恋をする
王都から離れた静かな領地でメイドとして働くマーサは、特に目立つところもない平凡な娘だ。
真面目な性格で、与えられた仕事を丁寧にこなすことがせいぜい取り柄でしかない。
濃い栗色のくせ毛はまとまらないため常にひっつめており、小さな目と口は特に人目を惹くわけでもなく地味だ。
マーサは自分自身のことをよく分かっていた。
けれど落胆するわけでもなく、毎日の穏やかな日々に感謝して過ごしていた。
それでも、周囲の同僚たちと同じように、城の中でみんなの羨望を集める美しい騎士に恋をした。
物語に出てくるような精悍な美貌に、騎士団長の信頼も厚い人柄と、城で一、二を争うほどの剣の腕前で領地を守る勇敢な騎士。
けれど、どんな美女でも押しの強い女性の誘いでも、騎士の仕事が忙しいからという理由で全て断っているらしい。
だったら、自分なんかでは到底無理だと思った。
遠くから見ているだけで良い。
一度も言葉を交わすことさえなくても。
その恋心だけで、きっと一生幸せだと。
そう思って心の中にしまった恋だった。
「マーサ。お使いを頼まれてくれる? いつもの奥様のご友人のところへ持っていくだけだから」
「かしこまりました」
午後の休憩が終わった時、メイド長に声をかけられた。
それは以前にも受けたことのあることで、領主の奥様が刺繍をしたハンカチを隣の領地に住むご友人の方へ届けるだけのことだ。
少し距離があるけれど、馬車で行って夕刻までには戻ってこれる。
「騎士を一人護衛につけるわ。西門の方で待っているから行ってちょうだい」
「はい」
マーサは自室に戻ると急いで着替えて、鞄の中に丁寧にハンカチを仕舞って、外出の支度を整えた。
西の門へと向かい、護衛として同行してくれる予定の騎士を探す。
以前に行った時は、老騎士がついてきてくれて、彼の孫の話で道中は楽しく過ごした。
今日同行してくれる騎士が誰かは聞いていなかったが、幸い人通りは少なく、見つけることは難しそうではなかった。
鞄を抱えながら、それらしき人物を探す。
門の側に、帯剣をした人影を見つけて、マーサは思わず息を止めた。
そこに立っていたのは、マーサが陰から見ることしかできなかった、美しい騎士だった。
見つめるマーサに気づいたのか、彼は静かに近づいた。
「奥様の届ものをしに行くマーサ殿でしょうか? 本日護衛を担当する、クリフォードと申します」
やはり彼が護衛をしてくれる騎士なのだ。
マーサは初めてこんなにも近づいた距離に、恥ずかしさのあまり顔を上げられなかった。
「よ、よろしくお願いいたします……」
小さな声で、そう言うのが精いっぱいだった。
呼んでいた馬車に乗って城を出発する。
目的地までは馬車一本で行くこともできるが、それには領地の境界にある森を迂回しなければならず時間がかかるので、みんな隣の領地に行くときは森の前で馬車を下り、森を徒歩で抜けて再び別の馬車に乗り換える。
二人もその方法で行くことにして、馬車で森の入り口まで向かった。
二人きりの馬車内は、マーサにはひどく気まずかった。
クリフォードが時折り話しかけてくれたが、それに対して相槌を返すくらいしかできない。
人気のあるクリフォードと二人きりなど他のメイド達であれば喜ぶだろうが、マーサは異性との交流に不慣れなためそんな余裕もなかった。
遠くから見ることしかできなかった相手が、手を伸ばせば届くような近さにいるなんて想像もしたことがなかったのだ。
これまでも通ったことのある道のりがとても長く感じられ、ようやく森の入り口まで着いて馬車を下りた。
森を通り抜けると、すぐに乗合馬車が止まっている場所へ向かう。
乗合馬車にはすでに先客が乗っており、二人が乗ると満員になった。
先客は全員男性で、クリフォードが先に乗ってマーサが続く。
マーサが乗り込もうとした時、目の前に手が差し出された。
驚いて顔を上げると、クリフォードがマーサに手を貸そうとしていた。
「足元に気をつけてください」
「は、はい……っ」
心臓の音を大きくしながら差し出された固い手を取り、聞こえてしまわないか心配しながら隣に腰を下ろした。
城から乗ってきた専用の馬車とは違い乗合馬車は狭く、隣に座るクリフォードとの距離がさらに近づいたことに、鼓動は収まりそうになかった。
馬車が走り出すと、先に乗っていた男性たちは知り合い同士なのか、大きな声で話し始めた。
話の内容は女性が同乗している場合には相応しくないものもたまにあって、マーサは居心地が悪くて外の景色に視線を向けた。
端に座れたことはせめてもの救いだ。
隣がクリフォードでなければ、知らない男性と並ぶのはさすがに気まずい。
時折り大きく揺れる馬車に、届けるハンカチを潰してしまわないか心配になる。
鞄を膝の上で抱え直していると、クリフォードが小声で話しかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「え? あ、はい」
「すみません」
「何がでしょうか……?」
「女性の多い馬車にするべきでした。すでに隣の領地に入っているので、揉めてしまうと危ないので……」
その言葉でクリフォードが何に謝罪しているのか分かった。
他の乗客たちの騒ぎ方に気づいているが、注意をしてもし男達が逆上すれば向こうの方が人数も多いので危険になりかねない。
気にしながらも注意できないことに謝っているのだと気づき、マーサは申し訳なく思った。
「気になさらないでください。私は大丈夫ですので」
彼の気遣いのおかげで、話し声はそれほど気にならなくなった。
しばらく走り続けて、目的地へと辿り着く。
領主の奥方のご友人へ託されたハンカチを無事に手渡す。
問題なく届け物は終わり、夕刻までに城に戻るためすぐ帰路へと着いた。
しかし、森を通っている途中で雨が降り出し、それは瞬く間に土砂降りへと変わった。
太陽が出ていれば明るい森の中も、大雨の中では暗く前もよく見えない。
このまま歩いても道を外れる恐れがあると判断したクリフォードは、マーサに待っているよう言って周囲を見に行った。
「――向こうに小屋があります! ひとまずあちらに避難しましょう!」
「は、はい……っ」
戻ってきたクリフォードに誘導され、小さな小屋に辿り着く。
小屋は無人らしく外の雨音とは対照的な静けさだったが、普段は使用されているのか薪などが置かれていたのは幸いだった。
「使わせてもらいましょう」
クリフォードが火をつけると、徐々に部屋の中が暖かくなる。
雨に濡れて大分冷えてしまった。
マーサは火の側に近づき、冷えた体を温めた。
「毛布がありました。濡れたままでは風邪をひいてしまうので、服を乾かした方が良いでしょう」
クリフォードの言っていることは正しい。
だが、異性の前で服を脱ぐことに、マーサは少し躊躇した。
けれどクリフォードは心配して言っているだけで、自分なんかに妙な気を起こすわけがないと思い、自分の気にしすぎを心の中で苦笑した。
案の定、クリフォードはマーサに気を使って背を向けている。
マーサも振り返って背中を向かい合わせながら、びしょ濡れになってしまった服を脱ぎ、あまり濡れずに済んだ腰下まである肌着の上から毛布を羽織れば、心配したよりも体を覆うことができて安心した。
再び振り向いてから、マーサはクリフォードが中に着ていたシャツ姿なことに気づいた。
上着ほど濡れていないとはいえ、シャツも湿って着心地は良くないだろうと疑問に思っていると、彼が毛布を持っていないことに気づいた。
クリフォードは一枚しかない毛布をマーサに譲ってくれたのだ。
「それではクリフォード様が風邪をひいてしまいますっ……」
「大丈夫です。日頃から鍛えているので、これくらいで風邪をひいたりはしません」
彼が日頃から鍛えていることは知っている。
城でも評判の腕前に慢心することもなく、見えないところで鍛錬を重ねる姿を遠くから見ていたのだから。
けれど万が一、風邪をひいてはと心配するマーサに、クリフォードは頑なに譲らなかった。
「女性に風邪をひかすわけにはいきません。それはあなたが使ってください。濡れた服を乾かしましょう」
話したこともなく恋をしていたけれど、クリフォードはマーサの想像より素晴らしい人だった。
クリフォードの親切に感謝して毛布を借りる。
一人分の距離を開けて、火の前に並んで座った。
火にあたっている内に少しずつ体は温まってきたが、薄着のクリフォードは大丈夫だろうかと気になり、隣ばかりを気にする。
すると突然、クリフォードがマーサに声をかけた。
「マーサ殿。城に帰ってどこで夜を明かしたか聞かれたら、宿に泊まったと答えてください」
「ええ、分かっております。クリフォード様にご迷惑はおかけしません」
頷くマーサに、クリフォードは首を横に振った。
「いえ、私のことではありません。異性と同じ場所で過ごしたと知られたら、あなたの今後のご結婚に影響が出てしまうでしょうから」
心配そうに言うクリフォードに、マーサは苦笑いを浮かべた。
彼は自分に対してそんな心配をしてくれたのかと。
「大丈夫です。結婚の予定などこの先ありませんから」
そう言うと、クリフォードは眉間にしわを寄せた。
「結婚の予定がないなど……。何か理由が……?」
「私は真面目で面白味もなく、何の取り柄もありませんから。両親もすでにおりませんので結婚を急かされることもありませんし、私に求婚する方もいません」
これまで異性との出会いがなかったわけではない。
城には同僚の男性も多くいた。
けれど何を話していいのか分からず話が弾むこともなく、自分には恋や結婚は程遠いのだろうと思った。
「ですが、先のことは分かりません。あなたにもきっと良い人が現れるでしょう」
クリフォードは親切心で言ってくれてるんだと分かった。
それと同時に、自分が彼にそういう対象に見られていないことを思い知らされた。
分かっていたことなのに涙が出そうになって、隠すように俯いて適当に返事をしてごまかした。
再び話は途切れて、降り続ける雨音だけが聞こえる。
それから時間がたっても、大雨が落ち着く気配はなかった。
明日には止んでくれるだろうか。
今日はもう城に戻れないだろうが、せめて明日には戻りたい。
そんなことをぼんやりと考えながら、外の音に耳を澄ました。
ふと違う音が聞こえて視線を隣に移すと、クリフォードが寝息を立てていた。
寒いのか両腕を抱えるようにして眠っている。
マーサは羽織っていた毛布をそっと半分クリフォードにかける。
少し距離を開け、彼に背中を向けて横になった。
翌朝は昨日の大雨が嘘のように晴れ渡った。
先に起きていたクリフォードが外の様子を見てきたらしく、マーサは扉が開く音で目を覚ました。
起きた時、自分の体には丁寧に毛布が掛け直されていて、クリフォードが申し訳なさそうに謝罪と礼を言った。
肌着を見られた恥ずかしさに顔を伏せながら首を横に振って、クリフォードが背を向けてくれている間に乾いた服を着直して帰る準備をする。
「道がぬかるんでいるので気をつけてください」
「はい……あっ……」
「大丈夫ですか?」
水を含んだ芝生に足を取られそうになると、クリフォードが心配して手で支えた。
先に進んで歩きやすい道を探し、その後にマーサを続かせる。
「森を抜けたらすぐに馬車を拾いましょう」
「はい」
急ぎ足で森を抜けると、すぐに馬車に乗った。
行きとは違い、慌ただしさのせいで帰り道は特に沈黙に気まずくなる暇もなかった。
そうして、一日遅れで城へと戻った。
城に着くと、やはり二人が戻らなかったことは大騒ぎになっていたらしく、クリフォードの上司の騎士団長やメイド長が二人を出迎えた。
クリフォードが途中で大雨が降り足止めをされたことを説明して、無断で外泊になったことは叱られずにすんだ。
だが、メイドを伴って一晩帰らなかったことにクリフォードが騎士団長から叱責を受け、マーサは慌てて庇ったが、護衛としてついていたので予定通りに任務を遂行できなかったこと自体が問題らしい。
クリフォードがこっそりと、大丈夫だという風に手振りで伝えてきたので、マーサはそれ以上自分が首を突っ込まない方が良いと思い、気になりながらもメイド長と共にその場を後にした。
それから、同僚たちにクリフォードと一晩どこで過ごしたか詰め寄られた。
口裏を合わせていた通り、それぞれ宿を取ったと説明をした。
それでも人気のあるクリフォードと何かなかったか追及されたが、マーサが自分と何かあるはずがないと説明すると、同僚たちはそれもそうかと納得して散っていった。
あっけないほど簡単に納得された。
分かっていたことだけど、切なかった。
実際何もなかったのだ。
同じ屋根の下で過ごした男女が何もなかった、それが答えだ。
もし、自分がもっと美人だったら、もっと気が利いて人を楽しませることができたら、違っていたのだろうか。
けれど、それも全て想像でしかない。
現実のマーサは地味で真面目なだけだ。
一緒に届け物に行けただけで、自分にとっては良い思い出だ。
マーサは自分に向かってそう笑うことで何とか慰めた。
それからしばらくはクリフォードとのことを聞かれることもあったが、それも数日過ぎると呆気ないほどに落ち着いた。
誰もマーサとクリフォードで何か起こるとは思っていない。
そうして、あの日クリフォードと二人になれたことなど夢だったんだろうかと思えてきた頃、突然クリフォードと顔を合わせた。
彼はマーサを見つけると、速足で駆け寄った。
他の人と間違えているのだろうかと思ったが、周囲を見回してもそこにはマーサしかいなかった。
「マーサ殿。あなたを待っていました」
「クリフォード様?」
「あなたにお話があって……」
ああ、とマーサは思った。
マーサもできればもう一度クリフォードに会って、あの日のお礼をしたかった。
それと、叱責を受けたクリフォードに謝罪もしたかった。
「私も謝りたかったのです……。クリフォード様お一人に責任を負わしてしまって……」
「それは良いのです。私の仕事はあなたを無事に帰す護衛だったのですから、天候に関わらず職務を全うできなかったことは私の責任です」
クリフォードの言葉にマーサは首を傾げた。
その件でなければ、何の話だろうか。
不思議そうにするマーサに、クリフォードは小さく咳払いをしてから口を開いた。
「急にこんなことを言ってもご迷惑でしょうが、あなたともっと話をしたいのです。できれば、今度一緒に出掛けて、私のことを知ってもらえないでしょうか?」
クリフォードの言葉に、マーサは一瞬頭の中が真っ白になって呆然とした。
「あの……どなたかと間違えてはいないでしょうか……?」
「こんなことを言う相手を間違えたりはしません。マーサ殿に言っているのです」
自分の名前を言われて、マーサの頬に徐々に赤みが広がった。
彼の顔を直視できず、俯いて自分の手元を見つめる。
「私は真面目でお喋りも上手ではありませんし、綺麗なわけでもありません。クリフォード様には不釣合いです……」
クリフォードは何か誤解をしているのかもしれない。
あの日、二人の間には何もなかった。
クリフォードがマーサに惹かれるような出来事も。
そう思うマーサに、クリフォードが首を横に振る。
「私は、あなたの真面目なところは良いところだと思います。なにをそう卑下されるのか分かりませんが、大雨で足止めされてもあなたは文句一つ言いませんでした」
ともすればつまらないと称されるマーサの真面目なところを褒めてくれたクリフォードに、マーサは心の中で喜んだ。
けれど、クリフォードの気持ちはきっと自分と同じではないと、どこかで冷静に思っていた。
そんなマーサの心中に気づくこともなく、クリフォードは言葉を続けた。
「出会ったばかりでこのようなことを言っても信じてもらえないでしょうが、初めて会った私に毛布をかけてくれたあなたの優しさに惹かれたのです」
そう言ったクリフォードに、やっぱりこの人は誤解してるんだと思った。
クリフォードはマーサが初対面の人にも優しい女性だと思っているのだ。
けれど実際は違う。
クリフォードはマーサと初対面でも、マーサはずっとクリフォードのことを見てきたのだ。
「違うんです……。違うのです……。私は、ずっとクリフォード様のことをお慕いしておりました。接点などありませんでしたが、騎士団で剣を振るっているところも、陰で努力を重ねていたところも、お優しいところも、美しさも……」
思いが一つ一つ零れるのに重なって、涙が零れ落ちる。
心の中にずっとしまっておこうと思っていた恋なのに、思いがけず告げることになってしまった。
「ずっと遠くから見ていました……すみません、すみません……。だから……あなたが思っているような人柄ではないのです……」
こっそり見ていたマーサをクリフォードは呆れるだろうか。
気味が悪いと思うだろうか。
声をかける勇気すらなかったから、自分だけの秘密にしていた恋だったのに。
恥ずかしくて顔を上げることもできない。
そんなマーサに、クリフォードが小さな声で呟いた。
「……そんなことを言われたら、余計にあなたのことが気になってしまいます」
小さな声だったがマーサの耳にはしっかり届き、見上げるとクリフォードは自分の顔を手で押さえていた。
指の合間から見える肌は、気のせいか少し赤い。
マーサは見間違いだろうかと思い、涙の浮かぶ目元を擦った。
その手をクリフォードが止めると、彼の指先で涙が拭われた。
驚いて、すぐ側まで来ていたクリフォードを見上げる。
「危うく私は大きな過ちを犯すところでした。あなたの思いに気づかずにいたなんて。あの日、あなたの護衛になれて、本当に良かった」
「クリフォード様……」
「今度は、晴れた日に出かけませんか?」
遠くから見ることしかできなかった姿がすぐ目の前にあって、いつも他の人に向けられていた笑顔が自分だけに向けられた。
そうして、真面目なメイドは美しい騎士と恋人になった――。