09 団扇横丁
汚れとガラクタだらけの区画を出て、水瓶や浮き水(本当にふわふわ浮いている)が並ぶ区画を通り、灯花以外の植物も雑多に茂る区画を抜けると、酔いに任せて騒ぐような獣の鳴き声や吠え声が聞こえ始めた。
鎖鳥は意識して道の端に寄る。橙闇に浮かび上がる鉄錆だらけの『団扇横丁』は、雑多な看板が溢れる猥雑な空間だ。人も多い。特に酒を好んでいるらしい獣頭の労働奉仕者たちが面倒だった。
些細なことでその手の輩に絡まれて、なにもしていないのに「邪魔だ」と言わんばかりに吠えられた回数は多すぎて覚えていない。
(目線は数歩先。『地図』は視界に常駐展開。可能な限り動体は捕捉。――大丈夫、こんなの『遺棄指定区画』を歩くことに比べたらなんでもない。って、まあ、たとえ絡まれても、騒がなければ平気な話なんだけど)
気負いすぎな鎖鳥自身に対して吐いたため息は、白織りのマフラーに紛れて消えた。『団扇横丁』の名前を飾った門はもう目の前で、憂慮した諍いが起きることもなく――。
「近寄らないで! あなたたち臭うのよ!」
――たどり着けたと思ったのは、ただの浅薄だったのだと気づかされた。
響いた知り合いの声に遠慮はなく、一喝する気迫に物怖じはない。
道の先。
獣頭の労働奉仕者たちに囲まれ、壁際へと追いやられている桜華が喚いていた。
「化け物面で日本語話さないでよ気持ち悪い!」
豚頭が鼻を鳴らし、馬頭が嘶き、狼頭が唸る。
「なにやって……。意味分からない……」
呆れ、鎖鳥は頭を抱えた。
剣呑さは明らかだ。栞を顕現させている桜華が負ける心配はない。けれど、労働奉仕者との刃傷沙汰でフリムジーの機嫌を損ねることになれば、今後の待遇が悪くなることは間違いない。
「って言っても……」
鎖鳥が出ていったところで場が収まる気はしなかった。荒っぽい男たちを黙らせる方法は試す気になれなかったし、そもそも大見得を切った立ちまわりは不相応にすぎる。
単純に、苦手意識が勝った。
「抜粋編纂――」
けれど、だからといって無視する道理もない。
「『嘆きの声は通り抜ける風』『暗がりからの招きに頷けば、夜に染まる』『この泥の中から銅貨を探すって? 気が遠くなる話だな』【compile/convert】――、在りはしないから」
姿を闇に溶かしながら一歩前へと出る。白亞のように完璧な隠蔽ではなかったが、労働奉仕者を騙すには足りている。『書術』の術式で姿を消した鎖鳥は、「静かに」と桜華にだけ聞こえる『響鳴』で一言告げてから、彼女の手を引いて路地へと逃げ込んだ。
それを獣頭たちに見咎められることはない。桜華が忽然と消えたようにしか見えないはずで、事実、彼らは状況に戸惑っていた。「なんだ?」「どこに?」「ちっ……」諦めて去っていく背中を見送ってから、鎖鳥は桜華の手を放した。
「とりあえず、もう大丈夫そうかな。委員長はまだきてないみたいだね」
「ん……」
通りの喧騒が遠くに感じられる路地の暗がりで、術式の解けた鎖鳥と桜華は隣り合ったまま立ち続ける。さすがに門の前で堂々と待つのは気が引ける――というのは同意見のようだった。
「朽鍵くん、どうしてなにも言わないの。あたし、一応怒られるくらいのことはしたつもりなんだけど……」
「別に。なにかあったんでしょ、理由。あんな風に言うなんてさ。僕は騒ぎを起こすべきじゃないとは思うけど、こんな場所でこんな境遇なのに、ずっと普通でいろってほうが無理があるよ」
「そう――なのかな?」
「そうだよ」
「だったら、どうして――」
そこまで言って口を噤んだ桜華から目を離し、通りの名を掲げる鉄と板でできた門の仔細を無駄に観察しきったあたりで、ようやく泰然とした委員長の姿を認めることができた。
「どうした? そんなところで」
「少し――労働奉仕者と揉めただけです」
黙ったまま後ろに控える桜華に代わって鎖鳥は言った。
路地から出てきたことに首を傾げていた委員長は、口に手を当てながら「ふむ」と納得いかないように頷いてから続ける。
「朽鍵が? 珍しいな。――まあ、気にすることはない。俺たちの居場所はここじゃないんだからな。帰りさえすれば、それで全部終わりだ」
ここに『喚ばれた者』が三人も集まっていることで周囲の視線は一層刺々しさを増しているというのに、委員長は涼しい顔で言ってのけた。磨耗させられる書架迷宮での日々にありながら、一貫して帰る意志に揺らぎは見られない。
(まだ、帰る方法の手がかりだってつかめていないのに……)
けれどそう在れるのは委員長くらいのもので、斜め後ろで俯く桜華の顔は暗い。
「あ――あの、でも……、気にするなって言われても――そう簡単に思えません」
彼女の声音は掠れていた。
遠くで酔って騒いでいる声のほうがまだ聞き取りやすい。
「だっていま凄く嫌な気持ちだし……」
床に視線を落としたままの桜華をよく見れば、その唇が震えていた。
「――――」
鎖鳥は委員長から向けられた一瞥が気まずくて、咄嗟に白織りのマフラーに顔をうずめていた。揉めたのは鎖鳥だという勘違いを正さなかったことに深い理由はない。
(だって――『騒ぎを起こしたのは煤朱鷺さんで、居合わせた僕は助けただけです』なんて言えるわけない)
そんな訂正をわざわざするくらいなら、自分が原因で揉めたことにしておくほうが気が楽だった。最早手遅れになった気持ちに整理を付けていると、一考していた委員長が口を開いた。
「対等な存在だと考えるから、そうなる。ここの連中は人じゃない。向き合うだけ時間の無駄だ。その価値もないのだから、気持ちを割く必要もない。それとも煤朱鷺は聖人君子かなにかか?」
「違います、けど……」
「だったら切り捨てればいい。別にそれは悪いことじゃない。無価値な相手にとらわれて自分が思い悩んでどうする? これは自分を守るために必要な考え方だ」
「守る、ため……」
呟く桜華を横目に、鎖鳥は雑多に人が行き交う周囲を眺めた。
見慣れてきたその景色を、意外と悪く思っていない事実を持て余す。
フリムジーに隷属してからも幾度か会った白亞から、労働奉仕者たちにもいろいろな者がいると聞かされていたこともあり、鎖鳥は区画内に見られる様々な容姿の彼らに目を奪われることが多かった。
彼らの多くは、“外”から連れてこられるのだと白亞は言った。
握手するのもためらわれる気味の悪い相手もいるが、見入るほど鮮やかな色彩を持った相手もいる。使い道の分からない凝った小物を必ず身につけている種族もいるし、決まった時間になにかお祈りらしきことをしている集団もいる。
――彼らを見ていると、書架迷宮の“外”はとても広いと思えてきませんか?
以前白亞がそう言ったとき、鎖鳥は頷きで返し、確かに“外”へと思いを馳せた。
見てみたいと――そう思った。
どんな景色が、どんな世界が、そこには在るのだろう。
そんな鎖鳥の思考は委員長の声で打ち切られた。
「ま、難しく構える必要はないけどな。旨いもの食えば気も晴れるだろ。と言うか俺が食いたい。行くぞ、こなかったら置いてく」
狭い通りに立ち並んだ狭苦しい店を何軒もはしごして、鎖鳥たちは労働奉仕者に混じりながら料理を堪能した。通りに席が出ている露店を巡るのはほとんど食べ歩きの体だったが、それで分かったこともある。
(僕たちにも売ってはくれるけど、長居するのはさすがにいい顔をしない人が多い……っぽいかな。そりゃそうだよね、どんどんお客さん帰ってくし……)
それでも次にいつ食べられるか分からないという誘惑には抗い難く、食べずに帰るという選択肢はあり得なかった。甘い蜜石も鎖鳥は嫌いではなかったが、いくら空腹が消えるといっても物足りなさは残る。鎖鳥は肉汁の溢れる串焼きを食べ、焼いた粉生地で野菜を巻いたものを食べ、ほかにも何種類も食べ歩いたことで、飢えていたのだと実感した。
「俺は少し聞き込みをしてから帰るから、お前たちは先に休んどけ。明日も早いぞ」
これ以上は無理だというくらい食べたところに告げられた言葉は、鎖鳥から少し熱を奪っていった。委員長になにも言えないまま、『団扇横丁』の奥へと向かう背中を見送り、取り残されたように桜華と二人で人の行き交う通りに立ち尽くす。
委員長が帰る方法を探すのに熱心なのはいつものことで、鎖鳥たちの負担を減らそうと立ちまわるのもいつものことだ。そんな委員長に寄りかかりすぎている気がして、鎖鳥は茫と上を眺めた。
そこに空はなく、灯花もなく、ただただ暗く闇一色の“蓋”だけが在る。
この『団扇横丁』は柱状の立体積層構造体から歪に突き出た外周部とも呼べる位置ゆえに、並び建つ『労働奉仕区画』を内包する広大な空間そのものを望むことができた。
遠く、柱状に建つ無数の区画たちに灯る光から考えれば。
この“蓋”は随分と高くにあるのだろうと見当が付く。手を伸ばしたって、当然、届くはずもない。たとえ闇を掻き分けたとして、そこに本当に“蓋”があるのかどうかすら、ここからではよく分からない。
(見えないことが見えているのは、――見えているって言うのかな)
ため息ばかりが出た。
見送るだけの立ち位置に慣れてきてしまっている事実は、酷く息苦しかった。
残された鎖鳥と桜華はどちらからともなく専用居室方面へと歩き始める。
「あのさ。朽鍵くんもそう思う? ここでなにかを考えるのは無駄だって」
すれ違う労働奉仕者もいなくなった頃、ずっと唇をきつく結んでいた桜華が言った。
「……委員長の言葉に、僕から言えることなんてないよ」
応じた鎖鳥の胸元で偽装式の熱が疼く。
それを拭いたくて、咄嗟に本心を口にしてしまっていた。
「でもまあその、労働奉仕者のことで煤朱鷺さんの良さが損なわれるのは嫌かな」
「え、なに? あたしの良さって?」
「あ――いや、その、べ、別に……」
「別にってねえちょっと気になる。教えてよっ。それとも本当は良さなんてないと思ってるから言えない? 嘘だった?」
突然の食いつきに焦りから顔が引きつる。だというのに、鎖鳥は桜華に腕を引っ張られて逃げられない。
「いや、その、だから」
「うんうん?」
「煤朱鷺さんの笑った顔、嫌いじゃない……、から……」
直視できずに告げると、妙な間があった。
言わなければよかったと後悔するがすでに遅い。
腕が解放される。
唐突に背中を叩かれた。桜華が無言で鎖鳥の背を何度も叩く。
「す、煤朱鷺さん……?」
「なんでもない。早く帰ろ! ほら、『明日も早いぞ』だし!」
やたらと足早になって前を行く桜華の姿を、鎖鳥は訳も分からず目で追った。
道を照らす灯花は揺れる朱銀の髪をも橙に染めていて、けれど、振り向かずに歩く彼女の顔はうかがえない。
◇
狭く長い書壁通路の先は夜桜の並木道だった。灯花だけで仄暗かった『遺棄指定区画』に桜色の光が吹雪く。鎖鳥たちは足を止めていた。
桜色の結晶を満開にさせた樹々がしだれ、舞い散る光が闇に浮かぶ。散り消える結晶の光へと桜華が手を伸ばしながら言った。
「冬に桜を見るなんて思いもしなかったです」
触れると微かに輝きを増した光片は、金属を弾くような音を残して消えてゆく。自鳴琴の重奏にも聞こえる調べがそこには響いていた。
(冬か……。空気は冷たく思えるし、やっぱり冬なのかな……?)
鎖鳥は白織りのマフラーに口元をうずめ、これが暑苦しくないのだから確かに冬かもしれないとまで考えたところで、季節という概念がこの書架迷宮内に存在するとは限らないことに思い至る。
桜華も違和感を抱いているようで、「でもあまり冬の実感ないんですよね」首を傾げたところに、委員長が結晶桜の樹冠を見上げて言った。
「ここは建物の中って話だから、空調管理されているのかもな。『管理司書区画』の連中ならそれくらいはしそうだ。冬かもしれないし――実は夏だったってことも十分あり得る」
(司書長代行――『薄っぺら』の権限は確かに凄いけど……。ここは『遺棄指定区画』だし、もしそんな手が入っているのなら、きっと初めから幻想図書館がそう造られていた気がする。『遺棄指定区画』の管理ができるなんて、たぶん『魔法使い』のドレインレイスくらいじゃないと――)
認識の齟齬は白亞から聞いた話を共有していない弊害だと――鎖鳥はマフラーの中にため息を吐いて小さく頭を振った。
「それにしても」
名残惜しそうに結晶桜から目を離した桜華が、これからどう動くべきか問うような視線を委員長に向ける。
「綺麗なのはいいですけど……。見かけないですね、書片っぽい石」
「第42節――か。桜の記述があるならここ以外にないだろうって話だったが。探索報告のない別の場所だとしたら空振りになるな。『団扇横丁』が遠のく」
「それは嫌ですね」
桜華が至極真面目な顔で顎に手を当て眉根を寄せた。
「そんなに食べたいの――あ、いやごめん煤朱鷺さん睨まないでお願いだから」
ふと零した失言が聞こえていたと気づいた時には手遅れだった。詰め寄ってくる桜華から鎖鳥は身を反らす。
「朽鍵くんだって結構食べてたし。酷くない?」
「うん、ごめん。僕が悪かった。僕だって食べたい。だから書片を探そう。ね?」
「そんなので誤魔化されると思ってる? 馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ。本当にごめんって」
「してる。だって早口の時の朽鍵くんって、なんか嘘っぽいもの」
「そ、そう言われても……」
指を突き付けてくる桜華を委員長が止めるまで、鎖鳥は嫌な汗をかき続ける羽目になった。解放されて一息つきながら、無駄に火照った頬を手で扇ぐ。
(悪いのは僕だけど、こういうの対応に困る。でも、僕なんかにここまで絡んでくるなんて――煤朱鷺さん珍しいな)
見ればまだ「ふぬす」とご機嫌斜めな桜華が腕組みをしていた。
(元気がないよりはいいのかな……? ――あ)
意識下に常駐展開していた『索敵』に反応して、『地図』にいくつも動体反応を示す光点が映り出していた。それらの存在を気配で感じ取ったのか、委員長と桜華も身構える。