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08 労働奉仕区画

「――以上が今回の手順だけど、大丈夫そう?」


 鎖鳥(さとり)の立つ『遺棄指定区画(イリーガルブロック)』の通路は薄暗かったが、相手の様子を知覚することは簡単だった。書架迷宮に喚ばれてからの七日間で視覚が強化されたことに加え、彼女の沈黙は露骨すぎて疑う余地がない。


 距離を置いて待機する彼女――桜華(おうか)が横倒しの書架に腰かけた姿を、灯花(とうか)と呼ばれる照明代わりの植物たちが闇に淡く浮かび上がらせていた。


煤朱鷺(すすとき)さん?」

「うん」


 話は聞いてくれている。それは毎回作戦通り動いてくれることからも分かる。けれど、と鎖鳥はため息を吐きそうになった。

 朱銀の髪をいじる桜華の表情は変化に乏しく、暗い。


(それでも昨日よりは……。一昨日よりはもっとかな)


 この数日間を振り返ってみれば、これでも随分良好な状態だと言えた。鎖鳥は彼女が泣くだけで動けなかった初日を思い出す。


()()から出てこないくらい酷かったのに……)


 なにかを言った委員長は桜華を引っ張り出すことに成功し、『薄っぺら』のフリムジーが告げた無茶な『役割』すら日常へと変えてしまった。

 邪魔な魔物に対処しながら書片(フラグメント)()()()()この『役割』は、指揮統制、戦闘能力、情報処理、なにが欠けても達成は難しい。


(それをこんな()()にできているのは、間違いなく委員長のお陰だ)


 魔物を狩れる程度のことは『喚ばれた者(アストレイ)』に求められる最低限の素質でしかない。鎖鳥が少し『書術(ビブロクラフト)』を扱えたからといって、フリムジーからの待遇が良くなることはなかった。それどころか、スキルを顕在化させなかった鎖鳥は軽んじられてすらいる。


(二人の力に比べれば、それも当然か)


 委員長と桜華に頼らなければ、鎖鳥はいまもフリムジーに怯え、寝る間を惜しみ、『遺棄指定区画』を這いずりまわるだけだったに違いないと思えた。


「待たせたな」


 気まずい沈黙に耐えるのも慣れてしまっていたが、打ち破る声音はやはり安心できた。


「お疲れ様です、委員長」


 桜華が即座に立ち上がって駆け寄っていく。不意に戻ったその笑顔を鎖鳥は目で追ってしまったが、そんな彼女の態度自体は珍しくもない。気にせず『魔学書(コーデックス)』を確かめ、薄闇に浸かりながら、やるべきことを頭の中で整理し直した。


 気持ちを落ち着ければ、なんの問題もない作業のような狩りでしかない。

 事前の準備も、いま委員長が済ませてくれた。


「じゃあ予定通りに」


 こちらを振り向きもしない桜華と、こちらを見据えて頷く委員長と。

 どちらもどこか遠くに感じながら、鎖鳥は言った。



「いたぞ、書片(フラグメント)だ」


 書架通路の先、書片・第18節と呼ばれる動く書見台が見えた。

 その直後。追うのに邪魔な障害の排除は一瞬だった。


 鎖鳥と桜華に告げた委員長は、慣れた動きで虫型の魔物を斬り捨てる。

 委員長の『虚想存在(アムネジア)』が顕在化させたスキル【記述形成(デバイス・クリエイト)】――青白く光る文字で固めた剣状の武装は、『遺棄指定区画』に現れる魔物を容易く屠る。使い終われば即座に消してしまうので判別し難いが、それらの文字は『斬切鋭刃刎断』などで構成されていた。


(また、数が増えて……)


 鎖鳥はそれを見て取ると気が重くなるのを感じた。委員長が同時に扱う文字は七日前――この書架迷宮に喚ばれた日には一文字だった。それがいまでは六文字以上。しかもフリムジーが言っていた委員長の分類(カテゴライズ)妨害型(ジャマー)。対象を撃破する火力という意味では得意分野ですらないのに、委員長はそれだけの能力を有していた。


「煤朱鷺はこのまま追え。朽鍵(くちかぎ)はいつも通り周辺情報の確保。俺は邪魔になる奴らを片付ける」

「任せてください!」「了解」


 勢いのある桜華の声音に、鎖鳥の声は半ばかき消された。

 (しおり)状にスキルを顕在化させた彼女が書架の間を駆け、暗がりに潜んでいた書見台の姿をした書片を追う。中世風の木製ブックスタンドが生き物のように逃げ狂う様は歪んだ童話絵にも似ていたが――。


(ここだと普通の範疇ってところかな。真新しいところもない)


 倒れた書架を踏み蹴って書片を追う桜華の姿を横目に、鎖鳥は意識下に常駐展開してある術式へと集中する。


 強襲型(ブレイカー)の彼女が一気に勝負を決めるために動くのはいつものことで、支援型(バックス)の鎖鳥が裏方にまわるのもいつものことだ。頭をもたげる不快で濁った感情を、適材適所という言葉で押し込める。


 この七日間は順調で、すでに四つの書片を捕獲した。

 そのすべてが桜華の強襲によって成功していることも、いつだって委員長がその指揮を執っていることも、安定した捕獲作業を成立させるために必要な材料だ。


『煤朱鷺さん、そのまま予定地点へ』


 委員長も魔物の処理へと動いたことで一人になった鎖鳥は、薄暗い『遺棄指定区画』の中、視界に浮遊表示(フロートポップ)させた各種情報を眺めながら呟きを口にする。声を指定対象に届ける術式『響鳴(エコー)』は常駐展開済み。一方向で鎖鳥からしか送れないのが難点だったが、随時『地図(マップ)』や『索敵(サーチ)』で状況の推移を監視すれば事足りる。


 立体映像のように表示される地図から次々と赤の光点が消えてゆく。それは敵性存在である魔物を委員長が処理していることを示していた。

 いつも通りの手際。あっさりと予定地点までの道が確保される。

 書片を示す三角記号に煤朱鷺を示す三角記号が追いつき――予定地点で交差した。


「捕獲完了、と」


 書片の記号が戦闘の継続困難を示すエフェクトを発し始め、続けて記号それ自体が消失する。それは桜華がそのスキル【散華衝動ライオット・オブ・ブラッドカラー】――略称RoB(ロブ)で強襲した結果と、彼女がフリムジーから渡された捕獲式を仕込んだ本を起動させたことを示していた。


『お疲れ様』


 遠く離れた二人に『響鳴』で告げて、鎖鳥は合流するために歩き出した。

 委員長と桜華の力を鑑みれば、二人だけで捕獲作業は成立する。それだけの力を有しているからこそ、フリムジーは悪態を吐きながらも重用するのだろうと予想が付いた。


 そんな際立ったスキルを持たない鎖鳥にできることといえば、捕獲作業の効率を多少上げるくらいのことで、無意味ではないが、いなくても問題ないことは確かだった。


 手を抜いたところで勝利は揺るがない。

 一手遅れたところで勝利は揺るがない。


 指揮統制も戦闘能力も情報処理も――どれも委員長と桜華がいれば事足りる。

 鎖鳥は『書術』を使って的確に動けば動くほど、自身の不要論が浮き彫りになるのを実感していた。けれど、だからといって二人に任せてしまうのだけは嫌だった。


「僕は……」


 白織りのマフラーに口元をうずめ、鎖鳥は誰もいない書架通路の闇に向かって呟いた。


「やっぱり凡庸で、どうしようもなく退屈な奴だよ、白亞(はくあ)





 魔の危険が潜む『遺棄指定区画』から『螺旋樹廊(ヘリカルホロウ)』へ出ると、後ろを気怠げに歩いていた桜華の深い吐息が聞こえた。


(もしかして緊張してた――のかな。当然か。僕たちが圧倒的優位に立った作業狩りだけど、手順を誤れば死ぬわけだし……)


 ミスを犯しても立て直せる状況が見えている以上、鎖鳥にそこまでの実感と気負いはなかったが、襲われることを考慮せずに済むのは意識の()()が生まれるので、多少気が緩むという点では彼女に共感できた。


(だけど……)


 と、鎖鳥は自分たちを見張る存在を見つけて眉間を歪ませた。

 ばさり――と響いた羽音に目を向ければ、そこには単眼の影姿。『六式魔(ヘキサハイド)』の序列・六である(ふくろう)が、石造りの手すりの上で忙しなくその眼を動かしていた。


「気にするな、行くぞ」


 一言で切った委員長の背に続き、鎖鳥たちは追ってくる影梟の羽音を聞きながらも、樹と石の回廊を上へと向かう。司書長代行を名乗った『薄っぺら』のフリムジーに監視されている事実は煩わしかったが、逃げ出す当てがない以上、逆らわずに従うよりほかになかった。


 それでも今日は書片・第18節を捕獲できたので陰鬱にならずに済むほうだ。成果を挙げ続ける限りにおいて、鎖鳥たちに対するフリムジーの対応は悪くない。いまたどり着いた扉の先――『労働奉仕区画(ワーカーズブロック)』に所属する労働奉仕者(ワーカー)たちの暮らしぶりに比べれば、余程。


「諸君ラノ帰還ヲ歓迎スル。通リ給エ」


 扉番の木製衛視が告げる定型文の労いは、相変わらず無機質だった。

 甲冑騎士を模した存在に委員長が睨み目を向ける。


「黙れ木偶人形。俺たちの帰る場所はここじゃない」

「諸君ラノ専用居室(ルーム)ハ、コノ区画ニ存在スル。通リ給エ」


 委員長が『管理司書区画(テーカーズブロック)』所属である衛視と繰り返すやり取りは、やはり今日も変わらない。少し飽いたから――そんな程度の気持ちで、鎖鳥は木製衛視の彼(?)へと声をかけた。


「い、いつもお疲れ様です……?」

「諸君ラノ帰還ヲ歓迎スル。通リ給エ」

「ええと、ありがとうございます……?」

「諸君ラノ帰還ヲ――」


 壊れた機械のように同じ台詞を発し始めた木製衛視に鎖鳥は苦笑する。


「朽鍵、なにしてる。行くぞ。店が閉まると明日面倒だ」


 扉の先の書架通路で委員長と桜華が怪訝そうに鎖鳥を見ていた。急いた勢いで木製衛視に別れを告げてしまってから、鎖鳥は慌てて二人を追いかける。


 通路は朝通った時と変わらず荒れ汚れていた。雑然としていて、住人がいない『遺棄指定区画』とは違った種類の荒廃を感じさせるそこは、有り体に言えば貧民窟(スラム)のようだった。奥へと進むほど、照らす灯花の光からは白さが失われ――(オレンジ)を帯びた光と色濃い闇の陰影が、薄汚れた道を影絵のように切り抜いていた。


「さて――」


 昼夜関係なく宵闇を思わせる暗さを纏った『労働奉仕区画』――乱雑に積み上げ連ねた本のような立体積層構造体――歪んだビルにも見える高層建築物群の中へと踏み入ると、委員長が足を止めて鎖鳥と桜華を眺め見た。


「書片は俺からフリムジーに渡しておく。報告が遅れるとうるさいしな。消耗品の補充は煤朱鷺に任せていいか? 朽鍵はいつも通り蜜石を頼む。それで提案なんだが――このあと『団扇横丁(うちわよこちょう)』で合流しないか?」


 打ち合わせに頷いていた桜華が微かに息を呑み、鎖鳥もしばし目を瞠る。

 委員長が口にした『団扇横丁』に集まっているのは食事処や甘味処だ。主食は蜜石が当たり前の『労働奉仕区画』において、料理を扱う店がある数少ない通りであり、そこを集合場所に指定する意味はひとつしかなかった。


「あたしは賛成です。お金も余裕――ありますよね?」

「今日も書片が捕獲できたからな。蜜石ばかりってのも気が滅入る。それに、ここの金をいくら貯めたところで帰ればそれまでだしな。使える時に使ったほうが有意義ってもんだろう。朽鍵はどうだ?」


 料理を食べる。それは初めて書片を捕獲した日の打ち上げ以来なかった話だ。その時に食べた料理――塩気のきいた串焼きの味を、鎖鳥は数日経ったいまでも忘れていない。


「反対すると思いますか? 賛成ですよ」

「朽鍵は細かいからな。余裕はいくらあっても足りないって怒られるかと思った」

「なんですか、それ。僕が委員長に怒ったことなんてないはずですよ」

「んー……そうだったか? ま、とにかく決まりだな。道に迷ったりはするなよ? 特に煤朱鷺は気をつけること。知らない道は絶対に通るんじゃないぞ。お前はすぐに横着なことを――」

「ば、馬鹿にしないでくださいっ。あたしが悪いんじゃないですもん。お店同士が離れてるのが悪いんです。それにあれは絶対近道になってるって思ったからで」

「言い訳は却下だ却下。近道は禁止。それで遅れたら煤朱鷺の晩飯は蜜石な」

「う……、それは()です」


 それからの行動は自然と迅速だった。樹と金属配管が這いうねる立体積層構造体の路地へと散りながら、鎖鳥はふと見た桜華の足取りが心なしか軽くなっているように思えた。


(これも全部、委員長は計算の上――なのかな)


 料理のことで浮かれ気味になっていた自分の心の動きにも気づいて、鎖鳥は「敵わないなぁ」と小さく零した。不快ではない。この書架迷宮において頼れる存在がいることの安堵は心地好くすらある。けれど――と鎖鳥は息を吐く。


(委員長は凄くて、僕は特別じゃない。勝ち負けとか、比べるとか、無意味だ。委員長を頼るのは自然なことだって思える。それなのに。どうして僕はこんなに……)


 考え込む原因が言葉にならない。暗がりに転がるガラクタの錆び具合を観察し始めてしまった辺りで、鎖鳥はようやく俯いていることを自覚した。


 頭を振って右足を前に出す。次は左。狭い路地だ。歩き始めてしまえば、次は人にぶつからないように気を配る必要がある。蜜石を扱う露商がいる場所へと向かう途中、鎖鳥は作業帰りの労働奉仕者たちと多くすれ違った。


 人のような人ではない彼らの姿にはまだ慣れない。


 犬人、猫人、兎人――。

 石人、草人、樹人――。

 魚人、蛸人、蟹人――。


 いかにもファンタジーの住人といった容姿から深海深淵な住人まで労働奉仕者の姿は様々で、いったいどんな作業をしているのかも見当が付かなかった。這いずるウミウシのような彼(彼女?)はなにができるのだろうと鎖鳥は首を捻る。


(考えたところで分かるはずもないか。まともに話したことないし、なんか避けられてる気もするし、うにょってて気味悪いし。っていうか言葉通じるのかな、あれ……。でも僕たちより余程ここの住人に受け入れられてる――気がしなくもなくも。たぶん、気のせいじゃないよね)


 疲れているのか少しへにょっている彼(?)の触手は、それでも器用に麻紐のバッグを持っていた。ちらりと見た中身は年季の入った奇妙な工具や新品の日用雑貨。彼(?)にもここでの暮らしがあるのだと想像するには十分な材料だった。


 それからもまだ路地を歩き、何度も階段を上っては下り、蜘蛛の巣のように張られた橋を渡り、迷路のような立体積層構造体の中を進んだ。目当ての露商がいる場所は遠く、けれど()()()()()()店としては一番近い。


 在庫切れ。入荷待ち。先約済み。『労働奉仕区画』で蜜石を買うのは苦労する。初めは流通量が足りていないのかと思ったが、それは鎖鳥の考え違いだった。


 とある店で店番をする猫耳少女は申し訳なさそうに耳を伏せ、とある店で布はたきを振るう樫人は退店を促し、とある店で流暢に喋る海老人は他の店を勧めてくる。――何度も足を運んだ店の猫耳少女に「ごめんね。あなたたちに売るとご近所さんがうるさいの」と耳打ちされて、鎖鳥はずっと煙たがられていたのだと理解した。


 寝付くのも難しかった初日には気づきもしなかった。けれど、七日も経てば嫌でも実感できる。ここで()()なのは――奇異な外見をした彼ら労働奉仕者たちではなくて――鎖鳥たち『喚ばれた者(アストレイ)』のほうだった。


「つまんないこと思い出した。忘れよ……」


 白織りのマフラーに顔をうずめて足を速める。目の前の角を曲がればもう目的地だというのに人通りはない。廃材が散乱し、悪臭が鼻を掠め、けれど不思議と居心地の悪さは感じなかった。


「らっしゃい」


 気怠げながらも応じてくれた露商がいる一画は、拍車をかけた橙闇の陰影が不気味さを際立たせていた。


 壁に背負い梯子(しょいこ)を立てかけた露商は道に座り込んでいる。その目深にかぶった帽子に分厚い手袋といった姿は――どう見ても怪しい。最初に声をかけられた時は鎖鳥も逃げ出した。関わっては駄目な類の相手だと、本能と理性が同時に勧告したからだ。


「あ、えと、どもです。蜜石どうでした?」

「喋り方。変だな。いつも通りだが」


 黒く汚れた襤褸(ぼろ)を纏う露商は正直なところみすぼらしく見える。たぶん商売も上手くいっていないんだろうな、と『労働奉仕区画』の常識に疎い鎖鳥にも察することができた。なにせ他の客を見た試しがない。


「まあ、いい。仕入れた。数、少ないが。甘くない蜜石だ」


 ただそれでも贔屓にしている店であることに変わりはなく、他の店ではできない相談をするほどに気を許している相手でもあった。


 蜜石は甘い。名前通りに甘ったるい。鎖鳥自身は平気だったが、委員長は閉口している気がしていた。彼がそう明言したことはなかったが、以前から甘いものを食べない人間だったという記憶が鎖鳥にはあった。


(あ、でも……さっき『気が滅入る』って……。委員長が愚痴るなんて珍し――いや、違うのかな。贅沢に食べたいのは委員長自身の主張だってことにしたかった……? 考えてみれば、僕や煤朱鷺さんは思ってても言い出さないタイプな気がするし……)


 すべては委員長の気遣い(パフォーマンス)でしかないのかとも思うが、図書準備室で差し入れの甘いものに手をつけているところを見たことがなかったのも事実で、鎖鳥は露商から買った小瓶に目を落とし続ける。


(考えすぎ? さっきは委員長の本音だったのかな。でも……)


「顔も変だな。お前」

「な――」


 思わぬ言葉に鎖鳥の思考は途切れていた。開けた大口を尖らせ、蜜石入りの小瓶を握り込み、抗議の眼差しを露商へと送る。


「変って酷い。ああ、いや、でも、その、――これ、助かります。ありがとう」

「別に、いい。おれも商売だから。買ってくれるの、助かる」


 渡した通貨を繰り返し数え始めた露商は、しばらくしてから不意に口を開いた。


「そいえば、お前。書片、昨日も捕まえたって?」


(いつもは取引のことしか話さないのに……)


 珍しく振られた話に口元が綻ぶ。

 少しだけ気安い関係になれた気がして、鎖鳥は思わず言っていた。


「今日もだよ」


 告げた言葉に驚いているのか、少し間が空いてから――。


「凄いな、お前」


 目深に被っていた帽子を少し上げて、露商は()()()()()()を鎖鳥に向けてくる。それが石炭なのか木炭なのかを区別する知識はなかったが、皮膚のしわにも見えるひび割れは、どこか笑う老木を思わせた。


「べ、別に、そこまでのことは……」

 自慢する気で言ったのに、いざ真っ直ぐ応えられると戸惑ってしまっていた。

 誤魔化し笑いをする鎖鳥。それをひとしきり見た露商は、通貨を弄りながら言った。


「前の奴らは三日で死んだ。前の前の奴らは十日持った。でも収穫なしで死んだ。前の前の前の、あー、とにかくずっと前の奴らは凄かった。けど死んだ。お前は死ぬな? 売る相手がいなくなる」

「うん」


 露商が言うほど死が間近にあるという実感はなかった。毎日『遺棄指定区画』で命のやり取りをしていても、危機感は薄い。ふと思い出した授業を受ける教室での光景が、随分遠くに感じられた。たった七日のはずなのに。その記憶は日焼けした本のページのように酷く脆くて頼りない。


「またきます」

「その喋り方。気持ち悪いぞ」

「あ、うぇ、ええと、……また、くるよ?」


 告げて、鎖鳥は露商と別れた。


 帰りながら後ろを確かめると、露商が小さく手を振ってくれているのが見えた。少し、驚いた。珍しい。けれど鎖鳥はどうにも気恥ずかしさを覚えて手を振り返せず、頭を掻きながら数瞬迷う。結局、小走りになってその場を去った。


 次は自分から手を振って帰ろうと決めて、鎖鳥は『団扇横丁』へと向かう。

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