07 薄っぺら
獣らしき声が『螺旋樹廊』の底へと尾を引くように落ちてゆく。
続けて、争う人の声。少しの間のあと、今度は助けを求める少女の悲鳴。
「この声……」
「なにを考えているんですか? だめですよ。ここで関われば鎖鳥さんの立場を危うくするだけです。騒ぎを起こす『喚ばれた者』に対して、『薄っぺら』の機嫌がどうなるのかくらい説明するまでもないでしょう?」
「そんなこと言ったって……」
耳に届く叫びは胸をざわつかせる。
その声を鎖鳥は知っていた。聞き覚えがあった。
(だってこれは……)
同じクラスで同じ図書委員をしている女子の声。だけれど、こんな必死の叫び声を聞くのは初めてだった。
「見過ごしたら、たぶん、後悔する」
「いま関わってしまうことで後悔するかもしれません」
下へ向かおうと動いた鎖鳥は、袖をつかまれたことに気づいて立ち止まる。
「どっちも不確かだね。だけど、僕が騒ぎを止められたら悲劇的結末にはならない」
「そんな不相応な自信に溺れて鎖鳥さんが死んでしまったら――私が困ります」
そう言うのなら、どうして。
言葉とは裏腹に、袖を放してくれた白亞に鎖鳥は疑問を抱く。
ただ、考える暇はない。足はすでに動いていた。
「私は姿を消して声だけ鎖鳥さんに届くようにします。私とのことは誰にも話さないで」
駆け下りる鎖鳥の隣に並んだ白亞が言った。
その涼やかさは動きの激しさをまるで感じさせない。人間離れしたその身体能力に鎖鳥は舌を巻くが、感心している暇もやはりない。
「知り合いにも?」
「守るかは鎖鳥さん次第ですけど――。誰かに話すことで『薄っぺら』に気取られれば、私との『召喚契約』はそこで終わりということになりますね」
「それは――都合が悪いかな」
「でしたら上手く嘘をつくことです」
駆けつけようとする途中で、少女の悲鳴とは別の苦鳴が加わった。
酷く濁っている。なにを言っているのかも聞き取れない。急ぐ。駆け下りるというより、もう跳び落ちる勢いだった。そんな運動神経など持ち合わせていなかったはずのに、不思議と自然に身体が動く。
意識下に知覚できる『虚想存在』の恩恵と、常駐展開させた『書術』による術式類の効果は、鎖鳥をその場に間に合わせた。
緩やかに曲がりながら階段と階段を繋ぐ回廊に、彼女たちはいた。
灯り花の数が少なく、『螺旋樹廊』の中でもさらに暗い一画。
壁際の書架に背を付けて座り込んだ朱銀髪の少女が、手足を蔓草に拘束されたまま乱れた制服姿を晒している。動けない彼女の前で転がり蠢くのは――。
「――――っ」
息が詰まる。
それは絶え絶えに叫んでいた。
散らばった本から溢れる闇に食まれて喰われ、もがき苦しむ一人の少年。まだそうだと認識できる程度には原形を留めていたが、それも長くは持たないと思わせる惨状だった。
『もう手遅れです』
正視に耐えず顔を歪ませた鎖鳥に、姿を消した白亞が囁いた。
『あれは肉を贄に魔を呼びます。あそこまで持っていかれていると助かりません。いまのうちに首を刎ねるのが最善です』
「殺すってこと……?」
『鎖鳥さんができないのであれば、私が始末します。幸い、いまここに『薄っぺら』の手の者はいませんから』
耳に届く苦悶に満ちた声は際限なくその滅裂さを増していく。握り込んだ鎖鳥の右手で脈打つように疼いたのは、消えかけていた幻痛だった。
「――やるよ。関わることを決めたのは僕だから」
加えて思うのは、白亞が対処した痕跡を残すことへの憂い。彼女の望みから遠ざかる真似はしたくなかった。黒く濁った泥土のような怯えを拭って、鎖鳥は暗がりを見据える。
『そうですか。では早くしたほうがいいです。魔が顕現すれば鎖鳥さんの手には負えませんから』
冷徹な物言い。けれど、そう言ってくれることで鎖鳥の歩みは鈍らなかった。
「いい助言だね。配慮が行き届いてる」
使い慣れてきた術式の射程まで踏み込み、息を吸う。
「抜粋編纂――、『断ちて断ちて屍を積み上げよ』『喝采の庭に緋朱の花を』『終の口上は群集には届かない』」
鎖鳥の位置からは倒れた相手の顔はうかがえない。それでもなんとなく分かってしまっていることがある。この相手はおそらく――知り合いだ。
「【compile/convert】――、言いたくないけど」
邪魔が入ることもなく、淡々と、そうしたからそうなる結果として。
もがき苦しむ声は――途切れた。
断たれた首が転がり、回廊の暗がりに静寂が戻る。
「だれ……?」
朱銀髪の少女から呼びかけられ、鎖鳥は自分が立ち竦んでいたことに気づいた。
頭を振って震えを追いやる。
(僕は僕が決めたことをやっただけだけだ。けど……)
彼女は違う。きっと――なにか覚悟を決める暇もなく、なにも理解できないまま追い込まれ、ただ判然としない現状に翻弄されている。彼女よりは余裕があるのだと思えば、動揺を抑えるくらいのことはできた。
「朽鍵だよ。同じクラスの」
できるだけ平静を装って、話しかける。
「朽鍵、くん……?」
少女を拘束していた蔓草は力を失ったのか床に落ちてゆく。
ただ、それでも彼女の声は震えていた。
鎖鳥は自分がやったことを鑑みて、それも当然だと自嘲する。
(こんなことをした知り合いを前に怖がるな――なんて言えないか。馬鹿げてる)
見知った姿だからこそ、別人のように感じたとしても不思議はないように思えた。
「どうして、こ、殺したりなんか、したの……? ま、まだ助かったかもしれないのに」
自分でも信じていなさそうなことを口にしながら、怯えた目で少女は問う。
「それは……」
「この人……、絡宮先輩、は……、あたしに酷いことしようとした、けど。……でも、そんな簡単に殺していいわけ、ないよ」
少女の視線は定まっていない。自分自身を抱くようにして震えに耐えている。その逃避からきていそうな倫理の羅列は、それでも鎖鳥の心を乱した。
(簡単にって……そんなわけ……!)
必要な処置だったことを訴えたくなったが、喉元で抑え込む。言い訳にしか聞こえないだろうと思えたし、無駄に喋って白亞のことを勘繰られるのは避けるべきだと理性的になろうとする。けれど――。
(……大丈夫。理解ってもらえないのは当たり前。僕は慣れてる。平気だ)
本から外れ落ちたページのように断片的な日常が、幾枚も意識下に散らかっていく。
会話のない食卓。反故される約束。無味乾燥の平穏で虚飾された家族ごっこ。
不満はない。期待もしていない。鎖鳥が受け入れていた現実は、不幸せと嘆くことが許されない程度に幸せが繕われていた。それ以上を望むのは憚られることだと――。
「そんな理屈を本当に信じているのか?」
不意に響いたその声で、鎖鳥の思考は途切れた。
降り積もる日常の紙片に埋もれかけていた意識が明瞭になっていく。
「落ち着け、煤朱鷺。置かれた事実を自覚しろ。お前は助かったんだぞ」
少女へ向けた声の主は、蔓草を煩わしそうに払い落として歩み寄ってくる。
「絡宮は受けるべき報いを受けただけだ。――お前が叫ぶほどに望んだ結果だろ? 喜べとは言わないけどな。ただ、俺が自由に動けて同じ力があったら殺してた」
揺れない声音。射抜くような瞳。
鎖鳥は思わず力が抜けた。それはたぶん安堵から。
「そのほうが絡宮だって無駄に苦しまずに済む」
同じ高校で図書委員長を務めるで三年の先輩。『委員長』はあまりにいつも通りだった。
「朽鍵は悪くない。煤朱鷺。煤朱鷺桜華。聞こえているか? お前はいろいろありすぎて頭が働いてないだけだ。落ち着くまで無理に考えるな」
委員長の語りかけに、桜華は言葉もなくうなだれた。
「とりあえず場所を変えるぞ。煤朱鷺、歩けるか?」
「はい……」
委員長は『螺旋樹廊』を上へと向かいながら鎖鳥を見た。
「聞きたいことはいくらでもあるが……。まずはこちらの事情を説明するべきか?」
桜華に対して黙り込んだ鎖鳥に話を聞くのは難しいと察したのか、委員長はそう切り出して経緯を語り始めた。すすり泣きを始めた桜華を落ち着かせる意図もあるのか、状況を悲観する言葉はあまり出てこない。
「思い出せる限りだと――」
三人は突然この図書館のような場所で目覚め、影のように黒い猿に追い立てられるまま移動した。だが回廊の途中で突然騒ぎ始めた絡宮は、周囲の植物を操ることで影の猿を投げ落とした。
『どうりでいないわけです。でも、その程度で殺せる相手ではありません。もう戻ってくる頃合いかもしれませんね。ただ襲ってくるわけではないですし、“外”へは逃げられませんから、慌てて逃げ隠れする必要はないですけれど……。あ、返事は要らないですよ。偽装式があるので簡単にはバレませんが、見えない誰かとお話する鎖鳥さんがおかしな人だと思われ――ん、おかしな人なのは本当でした』
囁く見えない誰かを鎖鳥は睨んでみるが、委員長に「そう思い詰めるな」と心配されてしまうのが関の山だった。
「率直に言えば、力に溺れているように見えたな」
絡宮は高慢な言動を見せながら委員長を拘束すると、そのまま桜華に襲いかかり――そして、抵抗した彼女が投げた本から闇が溢れた。そこからの絡宮は語るまでもないとばかりに委員長は頭を振った。
「あいつが自分で招いた結果だ。いくら異常事態とはいえ、少し豹変しすぎには思えたけどな。まあ、理性的でいられる人間ばかりではないということなんだろう。朽鍵は落ち着いているな?」
水を向けられた意図を察して、鎖鳥は微かに息を呑んでから言った。
「たぶん僕は委員長たちより先に目が覚めたんだと思います。一人だと思い込んでましたけどね。ただ、ここを少し見てまわって、考える時間だけはありました。詳しいことはなにも分からないままですけど。ただ、妙な力が使えるのは確かみたいですね」
委員長の見定めるような目に、鎖鳥の胸元で偽装式が熱を持つ。
「そうか……。ここがどこなのか。俺たちは帰れるのかくらいは知りたいところだが」
眉根を寄せた委員長の声を遮るように、
「そのすべて」
不意の声音が降ってくる。
「この『司書長代行』のフリムジー様が懇切丁寧に教えてやるので、お前たち屑は屑らしく、どうかおとなしく聞きやがれください」
演目の前口上をする道化のような語り口。上へと続く階段にそれはいた。
「それにしても、せっかく用意したのにもう数が減っていやがるとか、どういうことなんですかねぇ。ったく、使えねーな」
童話の住人と見紛うような姿かたち。話に割って入ったのは本の頭を持った小さな化け物だった。響く声に呼応して、細かな文字で埋まったページが、まるで目や口の代わりのように捲れ動く。
小柄ながらも人に似たそれの、睥睨するように振舞う本状の頭部は、階段分を差し引いても高い位置にあった。それは背丈が鎖鳥の腰ほどもない本の化け物――フリムジーが、狼に似た影の獣の背に乗っているからに他ならない。
(『六式魔』――?)
単一の眼球。影のようなその姿。
序列・五だという巨猿との共通項に、鎖鳥は唾を飲む。
(だとすれば、それを従えているこいつが白亞の言う――『薄っぺら』)
「お前たちは俺様の役に立たない屑でやがりますか? それとも俺様の役に立つ屑でやがりますか? ――餌になりたくなければ、使えるようになりやがれください」
音がした。なにかを引きずる不快な擦音。耳の奥底を汚されているようで、背後から近づいてきていたそれに、鎖鳥は吐き気を覚えた。
淡く咲く光の中に暗い影姿が浮かび上がる。
現れたのは影の巨猿で、その腕で『人の形をしたもの』を引きずっていた。そして乱杭歯の並ぶ口腔に――見覚えのある頭部が収められていた。
「司書長代行である俺様は、お前たちに『役割』をくれてやるので、ありがたく享受しやがれください。もし逆らうようなくだらない真似を望むと言うのなら――」
フリムジーが指を鳴らすと、巨猿は酷く淡々と顎を閉じた。潰れ砕け咀嚼される『絡宮だったもの』が、音だけを残して『六式魔』の餌になっていく。
「――っ」
委員長が桜華の視界を遮るように動いていたが、遅かったらしい。あまりの惨状を前に桜華は喚き散らしていた。現状の憤りをぶつける呪詛めいた叫びは、けれど冷静を装うだけの鎖鳥には止められなかった。その叫びに、その訴えに、共感する部分は少なからずあったから。
「学びやがれください」
喚く桜華に近寄ったフリムジーは彼女の顔に触れながら囁く。
「ゴブリンのように騒がず。バンシーのように嘆かず。スケルトンのように静かに」
道化のようでありながら有無を言わせぬ口調は、横で聞いているだけの鎖鳥をも冷たく硬直させた。桜華の口は噤まれ、不快な咀嚼の音だけが『螺旋樹廊』に響く。
「俺様に逆らいさえしなければ、お前たちは餌にならずに暮らせやがります――!」
満足そうに睥睨するフリムジーは、鎖鳥を見て不意に不審そうな声を出した。
「おいそこの斑頭。お前どこでそれを見つけやがりました」
「まだ、ら?」
眉をひそめた鎖鳥は自身の前髪に触れて、すぐ理解に至った。
(――ああ、黒に銀が交ざってるからか。そういえばそうだった。忘れてた。いや、それよりもいまは――)
白亞から受け取った首飾りを見咎められるが、彼女がなにかを囁いてくれる気配はなかった。すでにこの場を離れているのかもしれないと思い、鎖鳥は白織りのマフラーに口元をうずめながら、働かない頭で必死に言い繕う。
「歩きまわってたら、えと、拾った……」
言ってから、稚拙すぎる自分に鎖鳥は閉口した。
「ち、ズレやがりましたか。また不完全な術式になるとは……、ったく、忌々しい。――まあ、いい。黒曜竜はどうしやがりました。お前が倒せるようには見えねぇですからね」
「……み、見つからなかった、けど」
狼の背に乗ったまま近寄ってきたフリムジーは、品定めするように鎖鳥を見下ろした。
偽装式が描かれた胸元が熱い。疑心を向けられている予感が鎖鳥を灼いていく。
「見つからなかった? 黒曜竜がいたのに反応しやがらなかったと? ――だとすれば、随分と隠れるのが得意な『虚想存在』を棲まわせたことになりやがりますが……。どうにもそんな大層な力はありそうにねぇですね」
細い影のような手を頭部の本に当て、フリムジーは首を捻る。
「となれば黒曜竜がまたさぼりやがりましたか。ったく、使えねぇ。まあ、書片が手に入ったのは僥倖でやがります。斑頭、それを寄越しやがれください」
「え……?」
「なにとぼけた顔してやがりますか。喰い殺されるのを希望してやがりますか。可及的速やかにその首飾りの提出を要求していることくらい理解しやがれください。はやくハやくハヤくハヤク!」
「でもこれは……」
「――あ?」
一歩。後ずさった鎖鳥の視界が――衝撃とともに揺れた。
直後に痛み。頬に触れる冷たさは硬い石床のもので。気が付けば、鎖鳥は地面に押しつけられる格好になっていた。
背には獣の息づかい。巨猿が唸りながら鎖鳥に圧しかかっている。
「いまお前は俺様に逆らいやがりましたか?」
影狼から降りたフリムジーが、その身に不釣合いな大靴で鎖鳥の頭を踏みつける。
「そんな許可を出した覚えはねぇです。一度も。蜜石の欠片ほども。まったく!」
何度も踏みつけ、何度も繰り返し、その駄々のような加虐に満足してから、フリムジーは鎖鳥の首飾りを奪い取った。それを開いた頭部の本に呑み込ませ、喜悦の笑いを涎のように吐き散らす。
「立場を理解しやがりましたか。足りない頭にしっかり刻みやがれください。ここで俺様に逆らえばどうなるかを! 嗚呼――、だがお前たち。喜びやがれください」
そのままフリムジーは喜色の声で語る。
「ここ――ドレインレイス様の幻想図書館で働ける栄誉! それを思えば、帰ることなど考える必要もありやがりません! 闇に溶けるまで永劫に。その魂が擦り切れるまで奉仕しやがれください!」




