04 遺棄指定区画
書架が倒れ、書物が散乱した通路を、鎖鳥はためらうことなく一人で駆け抜ける。
花の光が流れてゆく。知覚できる疾走の世界は高揚を誘った。
自分の中に棲む存在を認識できてしまえば、周囲に満ちる『幻想因子』を利用することは簡単だった。『虚想存在』と呼ばれるものの力がもたらす恩恵は計り知れない。
見通せないはずの暗がりに、走るのに邪魔な瓦礫が転がっているのを知覚する。
加速した身体の姿勢を制御。
軽く跳ぶ。
崩れた石材に片手をついて、勢いを殺さないまま疾走を再開した。
(それにしても――)
自分の知る凡庸な『朽鍵鎖鳥』ではあり得ない身体能力を駆使しながら、一気に標的へと近づいていく。取り込んだ『幻想因子』は世界の見え方すらも変革していた。
(身体を動かすの、楽しいな……)
意識下で、多くの未知が既知へと塗り変わる。
魔物を一体狩るたびに、世界の輪郭が明瞭になってゆく気さえする。
いまは時間が許す限り、この白亞に連れられて訪れた『遺棄指定区画』での魔物狩りを続けたかった。
少しでも『書術』への理解を深めておかなければならない。
有用性を示せなければ、場合によっては死すらあり得るからだ。
(見たこともない奴の理屈で処分なんかされてたまるか。それに――)
そんなことになれば、白亞の望みを叶えることもできなくなる。
それは鎖鳥にとって気に入らない未来像で、ゆえに必死になりもする。右手の五指に残る幻痛は、動きを阻害するほどではなく、けれど覚悟を決めさせるには足りていた。
壊れた扉を経て――鎖鳥は通路から広間へと飛び込んだ。
入る前から中の状態は確認できている。荒れてはいるが戦闘可能な書架空間。壊れた無数の机と椅子――浮かぶのは閲覧室という単語。だが存在していた静謐は、過去と現在では意味を違えている。
「【compile/convert】――」
管理された厳粛さは失われていた。
在るのは、虚ろな魔が黴と埃に沈むだけの沈黙でしかない。
「風を織れ――!」
荒れ果てた閲覧室において、鎖鳥は秩序を乱す侵入者だった。
走りながら構築保持していた術式を発動させ、右手に『風織りの短剣』を現出させる。
標的は――骸骨剣士、骸骨戦士、骸骨騎士。
襲撃直後。鎖鳥は腕の一振りで、五メートル先の骸骨剣士を斬り伏せた。
骸骨剣士の両脚を断つのに必要だったのは、羽箒を振る程度の所作だけだ。風で織られた刃は、遠く離れた相手であろうと容易く切り裂ける。
巻き上がる黴と埃を横目に、身をひるがえして短剣を振るう。
続けて狙うのは――斧を構えて突進してくる骸骨戦士。
全身鎧で固めた骸骨騎士からは距離を取り、間合いだけは死守して立ちまわる。
鎖鳥の身体能力は魔物を狩ることで得た『幻想因子』によって強化されていたが、騎士の剣技に相対できるほどの技巧は持ち合わせていなかった。自己強化の術式を『書術』で諳んじてはいても、卓越した戦闘技術を再現できるほどには『魔学書』の物語を読み込めていない。術式に必要な言葉を拾い上げるだけで手一杯だった。
(帯びる力のすべてなんて引き出せない。だけど――)
綴られた物語の全容を知らずとも、断片だけで情景の想起はできた。
(物語なんて、類型に落とし込めるものばかりだ)
木々の幹すら断ち切る――風織りの刃。
下賜した風の女王を知る必要はなく、手にしたエルフの生い立ちを想う必要もない。
刃を振るう前後の物語なんて、類型の想像で埋めてしまえばいい。
迫る骸骨戦士を両断する鋭さがあるのだとだけ理解できていれば、それで事足りた。
必要なのは――魔法的なイメージを補強する材料。
そしてそれは、慣れ親しんだ現代文化の虚構劇に溢れていた。深く考えるまでもなく、敵を切り裂く風の刃を想像できる。力に換わる。
「スケルトンなんてただのやられ役に――!」
いつまでも時間はかけていられない。
骸骨戦士の腕を断ち、胴を断ち、――数瞬で二体目を片づける。
あとは骸骨騎士を残すのみ。続けて狙いを定め、短剣を振るう。
「――っ」
だが、それで終わるはずの一刀を、骸骨騎士は軽い足運びであしらった。
目を瞠る驚愕を飲み込み、鎖鳥は即座に対応を切り替えて牽制――距離を確保。
睨み合う気はない。
得られた距離を詰められる前に、鎖鳥は駆け出した。
(見切るの早いって、騎士様)
乱雑な投刃で『風織りの短剣』を浪費するわけにはいかなかった。五度振るっただけで制御が甘くなっていて、このまま相対したところで負けるのは明白だ。
技巧では敵わない。
(そのくらいは理解できている。だから――)
追われながら閲覧室の奥を目指す。
書架の並ぶ空間に新手がいないことは把握できている。向かう場所は決めていた。
飛び込んだ通路――その左右は書架の壁。
手狭な通路を走る鎖鳥を骸骨騎士は追ってくる。
「その頭蓋が空なのは助かるよ」
誘い込んでからの反転――迎撃。
盾を構えて吶喊の姿勢を見せる骸骨騎士は、まだ四メートル先にいる。
真一文字に一閃。腕を振る。風織りの刃が奔り薙いだ。
「――ん、こんなところかな」
左右に逃れ跳べない書架通路の中で、断ち割られた骸骨騎士がくずおれる。
両断した金属武装が、皮肉な喝采でもするように――盛大に床を打ち鳴らした。
◇
「現状の不可解さに私は首を傾げるしかないのですが……。鎖鳥さん、あなたは小一時間ほど前に『虚想存在』を知ったばかりの、『書術』初心者ですよね?」
「教えてくれたのは君じゃないか。なに変な顔してるのさ」
骸骨騎士だったモノが、燃えて尽きるように灰となり、塵と化し、『幻想因子』へと変じてゆく。その流れを肌で感じながら、鎖鳥は因子の揺らめくほうへ手を向け、結び付きの曖昧になっている『幻想因子』を自分の物にした。
意識の中で蠢く『虚想存在』が喜んで喰らってゆく感覚は酷く原始的だ。
本能が刺激され、渇きが潤い、腹が満たされるような――。加えて鎖鳥は、紙片を読み進めでもするかのようなささやかな充足を味わった。
「姿を隠していたとはいえ、僕のことは見えていたんでしょ? 『書術』で魔物を狩って『幻想因子』を取り込んで、『虚想存在』の力を強化して身体能力を引き上げる――言われたとおりのことしかしていないと思うけど」
「それを短時間でこなしてしまうことが凄いのですけれど……、まあいいです。想定外とはいえ好都合ではありますし、これで少しは安心できます。でも、鎖鳥さん――」
歩き出した鎖鳥は隣に並ぶ白亞を横目で見る。
「『螺旋樹廊』で見た影の主――、『薄っぺら』は『遺棄指定区画』の魔物とは格が違う相手です。そして手を噛まれるのが嫌いです。だから、従順を装う必要があります。決して怒らせないで。……あっさり死なれるのはちょっと、困りますから」
彼女の白さは光片へと変じる隠蔽式の残滓に彩られていた。歩くのは狭い書架通路だ。零れ散る輝きに飾られた白亞の姿が、いまにも肩の触れそうな距離に在る。鎖鳥は少しの間、聞こえていたはずの内容を理解できなかった。
「ん、気を付けるよ」
言われた言葉を反芻し、意に沿える理解をしたと示すために口を開く。
「目的の本を燃やす前に僕が処分されるのは不本意だろうからね」
「――そ、そうですよ、不本意です」
「大丈夫だよ。いきなり魔物を倒せっていう君の無茶振りにも従順だったでしょ?」
「な――、わ、私は別に!」
「冗談だって。怒らないでよ」
むくれる白亞から逃れるように、鎖鳥は机の散らばる空間へと向けた足を早めた。
両脚を断っただけだった骸骨剣士にとどめを刺し、因子を回収。閲覧室から自分たち以外の気配が完全に消えたのを感じ取り、鎖鳥は深く息を吐き出した。
「まだまだ足りないね。君の手を借りられる間に、もっと場数を踏んでおきたい。死なない程度ならどうとでもなるんだよね? だったら次はもう少し危険度高めでも――」
「ば、馬鹿なことを言わないでください!」
突然の剣幕に鎖鳥は首を竦めた。白織りのマフラーに口元をうずめながら、言い寄る白亞の言葉に耳を傾ける。
「私なんかの力を過信しすぎです。確かにこの辺りの魔物であれば、なにかあっても問題なく対処はできます。けど、どんな状況でも必ず助けられるわけではないです。無謀すぎる真似は看過できません」
「僕だって死にたいわけじゃないよ。だからこそさ。君のためにも、少しでも『書術』に慣れておきたいんだ。保険があると思えば落ち着いた対処もできる。こういうことに絶対なんてあるとは考えていないけど、できればあまり不安になることは言わないでほしいな」
なだめるように、そして少し冗談めかして鎖鳥は告げた。
「す、すみません……。私の都合に巻き込んでいるのに、責任を持てないような物言いをしてしまって……」
「そ、そんな風に取らないでよ。なんだよ、君だって真面目じゃないか」
ひるがえるように消沈する白亞を見て、鎖鳥は狼狽しながら口を尖らせる。
「私は真面目ではないです。そうであるなら、こんな身勝手な望みを鎖鳥さんに叶えてもらおうなんて思いません。『書術』の手ほどきで足りるような望みではないんですから」
白亞は罪の告白にも似た呟きを言い終えると、耐えたかねたように顔を背けた。
逡巡して一考する鎖鳥。
気まずい沈黙を迎えそうだったので、隠さず感想を告げることにする。
「律儀に返すあたりが、凄く真面目っぽい」
「――――っ」
鎖鳥のからかうような物言いに白亞の顔が赤く染まる。
睨み返してくる彼女は明らかに不服を訴えていたが、それをなんとか努めて受け流し、鎖鳥は思っていることを偽りなく告げた。
「気にしなくていいよ。僕の勝手で君の望みを叶えようとしているだけだから。それに、どう考えても『書術』は凄いよ。この世界の在り方を『虚想存在』が教えてくれるから、余計にそう思える」
「やっぱり鎖鳥さんは変な人です」
「そうかな?」
「そうですよ。本当に、いろいろな意味で」
花の灯りを湛える翠眼が鎖鳥に向けられた。けれど、枝葉に覆われたような彼女の感情を読み取る前に、その瞳は閉じられてしまう。
再び響く彼女の声音はすでに別の色を帯びていた。
「――でも、それだけ理解が届いているなら始めても平気そうですね」
「始めるって、なにを?」
「説明ですよ。『喚ばれた者』には必要な通過儀礼です。でもそれだけ『虚想存在』を知覚できているのなら、身構えることもないと思います」
気負いのない調子で進める白亞に釣られて、鎖鳥も少しだけ気が緩むのを感じた。
「それでは世界の認識を――」
白亞の声が言霊のように鎖鳥の頭に響き染みる。
「ここはあなたが居た場所とは違う場所。とても遠いけれど、どこか近しい世界。あなたはあなただけれど、すでに違っている。こうして私と話せていること自体がその証左。特別変わった術式は使っていないんですよ?」
話し声に微かなノイズ。続けて視界にもノイズ。
いまの瞬間まで違和感を認識できなかった異常に気づかされる。
世界が二重写しでも見るかのようにずれていた。
「なにを言っているのか分からない……」
零れるのは拒絶で、けれど意識に棲む『虚想存在』は否応なく自覚を促してくる。
「難しく考える必要はないです。判らなくても解ってしまいます。あなたはすでに知っている。正しくはあなたの一部――、あなたの中に棲む『虚想存在』が知っています。その声に耳を傾ければ――あ、いえ、音とは限りませんね。人によって違いますし。そうですね――、心を傾けて、でしょうか」
痛む頭を抱え、ちらつく視界に何度も目をまばたいた。
「気分悪い」
「え、うそ、ちょっと大丈夫ですか? そんなはず――、いえ、あり得なくは……」
近寄ってきた白亞の声が逆に遠のく。世界との間にずれを感じる。
鎖鳥は立っていられなくなり、膝をつき、倒れ込む。
目を閉じた。それでも耳に渦巻くノイズが酷い。
打ちつける雨音。無数の羽音。逆巻く風音。
(違う違う違う。どれも正解じゃない。これは――、聞き覚えがある)
数多に重なって聞き取りづらいだけ。
音のひとつひとつをたどれば理解が届く。それは本をめくる音だった。
紙と指が擦れあう音。インクの香り。
鎖鳥はいつもの埃っぽい図書準備室で読書に耽っているように感じた。
退屈だけれど慣れてきた図書委員の雑務を終わらせて、無駄に居座ることを咎めもしない委員長の先輩を見送って、時間が許す限り一人で過ごした時間。過去の記憶。
だけれどそれも一瞬で。
目を開けた時には世界を認識できていた。
「ごめん、もう大丈夫。……――だと思う」
白亞の不安に崩れた表情を眺めるくらいの余裕はできていた。
知識、常識、この世界に生まれてこの世界で生きているならば受け入れている諸々。それら無数の断片を読み知ったかのような感覚を抱きながら、鎖鳥は視線を巡らせる。もうノイズは走っていない。
「良かった。心配したんですよ? ――あ、いえ、これで死なれたら私の目的が果たせないから、そういう意味ですけど。理解しました? 理解してます? もし勘違いしていたら絶対に許しませんからね?」
傍らで喋る白亞の言葉が、まるで本に書き記されていくような――そんな認識の上で意識に記憶されゆく。どんな理屈なのか判然としないのに、それが『虚想存在』の働きなのだとだけは理解できてしまう。
起きている異常に適応している異常が正常だと、鎖鳥は受け入れることができていた。
その事実こそが異常だと訴える認識は、喰い散らかされたように断片的で、手に取ったところで意味を成さない欠片になっている。
考えようとすると痛む頭を振って、鎖鳥は間近で騒ぐ少女を対処しようと決めた。
「勘違いもしてないから、大丈夫。落ち着いてくれていいよ」
上体を起こした鎖鳥に対して、遠慮なく白亞はまくし立てる。
「本当ですか? 偽装式使っていませんか? 信じますよ? 信じますね?」
「顔近い。近いって」
そう言って逃れる鎖鳥を白亞はなおも睨み続けたが、それを煩わしくは思わなかった。彼女に意識を割いている間は、妙な頭痛がおとなしく身を潜めるように消えていたからだ。
「それで、ええと、次はどうするの?」
「むぅ――、まあいいです。通過儀礼も終わりましたし、時間が許す限り『遺棄指定区画』の探索を続けましょうか。ここでなら『薄っぺら』の目も誤魔化しやすいですから。仕込みはしてありますし、魔除けは得意なので必要以上の危険も排除できます」
そこまで言った白亞は不意に手を打ち合わせた。
「あ、それで思い出しました。これを渡しておきます。一応魔除けの効果がありますし、まあ、その、保険みたいなものです。持っていて損はないですよ」
「首飾り――? 凄いね、これ。綺麗だ」
それは白亞の髪飾りと同じで、植物をモチーフにした精緻な銀細工だった。
「でしょう? 私も気に入っています」
「君も?」
鎖鳥はそんな品を貰っていいのだろうかと目で訴える。
「必要がなければ渡しませんよ」
告げて立ち上がる白亞に釣られ、鎖鳥も起き上がった。
「それと名前――教えましたよね? 君ではなくて、白亞です。胡桃樹白亞。それとも呼ぶに値しませんか?」
「そ、そんなことはないって。あー……、く、胡桃樹さん」
「白亞です」
「……は、白亞さん」
「白亞です」
「な、なんのこだわりだよ」
「こだわっているのは鎖鳥さんでは? 私のことを『胡桃樹さん』や『白亞さん』などではなく、『白亞』と認識している顔をしてますよ。たぶん、この容姿のせいでしょうけれど」
言って、小柄な彼女はくるりとまわって見せる。
「上辺を取り繕うのは私の専売特許ですから。鎖鳥さんがするのは許しません」
「どういう理屈なのかさっぱり分からないんだけど……」
「分からなくて結構です。――ほら、どうですか」
白亞は踊るように鎖鳥へと一歩踏み込んで、
「私、真面目ではないでしょう?」
と、微笑みながらも気恥ずかしげに――そう告げた。