20 “外”
そこは暗かった。
複雑な図形陣の上に豪奢な扉だけがあり、周囲は柱に囲まれている。
広間のようだと思って、けれど鎖鳥はその理解に違和感を覚えた。
灯花だけが頼りの薄暗い空間。よく見ればそれらは樹でできていて、自分たちが扉を抜け出た先――それが巨木のうろの中だったのだと気づかされる。
ただし普通の大きさではない。建造物と見紛うだけの規模がある。幹なのか根なのか判断に迷う柱たちの向こうには、灯花とは違う光が瞬いて――。
「星……?」
扉から溢れ出てくる闇の手に追われるまま、鎖鳥たちは柱の先へと走り出ていた。
そこに見慣れた黒塗りの“蓋”はない。
風が運んでくる夜気を吸う。塗り固めたような重苦しさは感じない。
鎖鳥たちを見失ったらしい闇の手たちも、そこには届かず霧散する。
あるのは濃紺の空と散りばめられた星。
そこには知っていたはずの『夜』が広がっていた。
「――――っ」
一言では表しきれないほどの様々な藍が入り混じる夜空。
雲の陰影が白にも黒にも青にも見えた。
背後で豪奢な扉が閉じる。
新たに出てくる闇の手も存在しなくなり、静けさが周囲を包んだ。
静寂に身を浸す。自ずと実感できた安堵が染み入るようだった。
「ここは、“外”……?」
零した鎖鳥に、
「そうさ、ここは書架迷宮の“外”。世界は空の下にあり、大地の上にある」
キナが得意顔で言いながら肩に乗せた小猫を撫でた。桜華が「なにその当たり前……」とぼやいたことで、迷宮がいかに異質かというキナの講釈が始まるが、鎖鳥はそれを聞き流すと周囲の景色を眺めに動いた。
視界の端、樹柱の先に広がる夜の闇に町の明かりが見えていた。
(遠い。それに結構下のほう――と言うより、ここが高台なのかな?)
これからのことをぼんやりと考えながら、鎖鳥は白織りのマフラーに触れる。
「必ず呪いを解いてみせるから」
小さいながらもあえて声にして、鎖鳥は自分自身に表明する。
「きっと元の姿に――」
と、不意に。
「――そうですね。期待しています」
覚えのある声がした。
囁きに応じられる距離に人の姿はない。
そしてなにより、それが確かに白亞の声だったことに鎖鳥は狼狽した。
「なにを驚いているんですか」
首に巻いたマフラーが勝手に動き、鎖鳥の顔の前でひらひらと手のように振舞う。
「『薄っぺら』が集めていた書片が壊れたからでしょうか。いくらか力を回収できました。こうして話すくらいは――……、って、鎖鳥さん……?」
「あ、いや、うん……」
ゆらゆらするマフラーを眺めながら、ばくばくする心臓を押さえて息を整える。
「元に戻るまでは、意識とかないと思ってた……」
「確かに、いましがたまでは朧な心持ちでしたけど――、あ! まさか変なことしてないですよね!?」
「……へ、変なことってなにさ」
「それは、その、えーっと、いろいろですいろいろ! 絞め転がしますよ!」
「ちょ……、く、苦しいって、結構、マジでっ」
絞まり続けるマフラーに鎖鳥が抵抗していると、唐突に締め付けが緩んだ。
「これからはもっと苦しいですよ」
拷問宣告だろうかと鎖鳥は一瞬顔を引きつらせるが、続く言葉ですぐに違う意味なのだと理解する。
「苦しくないはずがないです。もう幻想図書館内では暮らせないんですから。秘術式に守られた領域とは違う世界。この“外”のことを鎖鳥さんはどれだけ知っています? 実は私も初めてなんですよ? こうして自由に“外”を見ることができるのは」
白亞の声に耳を傾けながら眺めた空の先。
その端が白み始めている。夜と朝の曖昧な境界線が広がりつつあった。
斑な世界を前に、鎖鳥は答える。
「大変なのはしかたがないよ。選んだことだから。でも、きっと。どこだろうと苦しい思いはするだろうから。だったら僕はここでこの世界を見ていたい」
そっと白織りのマフラーに触れ、
「白亞と一緒なら退屈しないって感じたんだと思う。いま考えれば、だけど」
目を閉じた鎖鳥は自分の裡から言葉を拾っていく。
「だから、そう、だから僕は君を利用した。僕は君がいるからこの世界を選んだ」
指先にある質感は羊毛のそれなのに、不思議とそこに彼女が在るのだと感じられた。
『怪異』としての在り方は想像できなかったが、それでもそこに彼女が息づいているのだと実感できる。そうしている間、鎖鳥は確かに白亞に触れていた。
「次は君が僕を利用する番だね」
静かに目を開ける。
「でも、先に利用したのは――」
「そんなことは知らない」
「だって――」
「白亞はもっと“外”を見てみたくはないの?」
「……、それは。……見てみたい、ですけど」
「だったら僕を利用しなきゃね」
「ずるいです。そんな言い方は」
「うん。僕は結構そういう奴だったみたいだ」
「嫌な人なら利用しやすい――とでも言うつもりですか?」
「考えすぎるのは悪い癖だと思うよ。僕が言えたことではない気はするけどね」
「ああもう……」
長く、ゆっくりと息を吐くような気配がした。
「私があなたを利用したら、次は――、あなたが私を利用する番ですからね」
「ん、分かった」
「そ、即答すぎます! もっとよく考えてから答えてください! 悩んだ私が馬鹿みたいじゃないですかっ」
「悩むほうが悪い」
「なんですかそれ! 私はずっとずっとずっと考えて――」
「もっとゆるく行こうよ。白亞が悩むと僕の首が絞まる」
「えっ!? すみませんまだ『器』の扱いがよく分かっていなくてまさかそんな――」
「いや、その、まあ、それはさすがに嘘だけど」
「……………………」
ぺしぺしぺしぺしと、マフラーの端で頭を叩かれた。
そんな鎖鳥の様子に気づいた桜華が、それをキナに伝える。白亞のことを知れば当然キナは騒ぎ立て――。マフラー姿のままぺしぺしとキナをあしらう白亞。なぜかキナに抱き付かれる格好になる鎖鳥。引き剥がそうとする桜華。鎖鳥は先行きに不安を感じ、とりあえずの無事にも安堵し、見知らぬ景色が広がる空の下――、口元を緩め、ため息を吐いた。
「ま、あれだね。夜が明けたら見えてる町まで行こうか」
「遠いからよく分からないけど、結構明るい系よね。なんて町なの?」
「ふむん。変わっていなければニーナナのはずさ」
「にーなな?」
小首を傾げて疑問符を浮かべる桜華に答えたのは、キナではなく白亞だった。
「幻想街【穴土竜オルム27番街】の通称ですね。山脈の裾野に広がった機工都市で、交通の要所でもあります。確か灯花の加工品が有名で――」
観光知識を披露し始める白亞の声は踊っているようで、ひらひらしている白織りのマフラーに目を奪われる。
「ねぇねぇ朽鍵くん。このマフラーさんが助けたかった人なのよね?」
「ん、そうだよ」
そう短く応じた鎖鳥の横で、桜華は「そっか、うん、そっか」と一人拳を握って頷くのを繰り返す。
「聞いてます? 特に鎖鳥さん。予備知識もなく“外”を歩くのは危険なんですからね」
「聞いてる。聞いてるって」
白亞の解説は終わりそうにない。鎖鳥は腰を下ろしながら、夜明け近い空を眺めた。
濃密な藍と濡羽の空。
闇染めの山に居並ぶ木々たちとの間に描き出された境界線が、訪れる朝の陽を受け、ゆっくりとその色を変えゆく。
[了]




