18 奇譚紀行
咀嚼する耳障りな音が鎖鳥の体に入り込んでくる。
それは体の内側で行き場なく暴れ、乱れた思考と混ざり、正体の知れない黒く暗い感情たちを攪拌した。粘着く不快感が折り重なってゆく。フリムジーを止められない自分に鎖鳥は吐き気がした。
白亞を助けられず、キナの手助けすら満足にできず――、これから続くのは朽ちるまでフリムジーに使われる褪せた日々。その世界に鎖鳥は価値を見出せず、湧き立つ怖気はいくら歯を噛み締めても消えてくれない。
「ったく。ゴミを捨てるのも面倒でいけねぇです。……――あ?」
そんな状態であったから、気の抜けたフリムジーの声を聞いても反応は鈍かった。
鎖鳥の定まらない視界の中で、壊れたキナだったものが霧となって消えてゆく。
判然としないまま、それは願望による幻覚なのだと思った。
都合の悪い現実を上書きしようと、壊れた心が見せる世界なのだと。
「ど、どういうことでやがります! ふざけやがって……! 消えた? 馬鹿な! あり得やがりません! 屑鉄にもうそんな力は――」
けれど吐き捨て憤るフリムジーの声は明瞭で、その苛立ちの喚きは鎖鳥の意識を否応なく叩き起こしていく。
「偽装……、式……?」
そうだと感じ取れる『幻想因子』の残滓が在った。
「すみません」
囁きは隣から。
そこには息のあるキナを抱きかかえる白亞がいた。
「逃がせるようなことを言ったのに……。私、キナなんかに力を使ってしまって……」
彼女の纏うような燐光が散っていく。弱々しく消える光は隠蔽式を維持していた力の欠片なのだと鎖鳥にも理解できた。
「どうしてこんな……、私……」
腕に抱くキナへと視線を落とした白亞が戸惑いの顔で呟く。
「らしくないね、ハクア嬢。キミはもう少し冷静だと思ったけれど」
苦しげな声でキナが返した。息はあるが既に負っていた胸の傷は深く、身じろぎすら緩慢である様は色濃い憔悴を感じさせた。
鎖鳥から離れた小猫がキナへと寄って心配そうに鳴く。
どの瞬間から白亞の偽装式がキナに働いていたかは分からない。鎖鳥に分かるのはキナが生きていたということと、白亞の考えていたのであろう保険が失われたのだということだった。
「クチカギくん、まだ口はまわるかい?」
不意の問いではあったが、鎖鳥は冷静に応じられた。
「必要ならいくらでも」
「本当に酷いヤツだな、キミは。ワタシの隠し事を暴いたことは絶対に忘れないぞ」
「文句はあとで聞かせてもらうよ」
力なく笑うキナに、鎖鳥はぎこちないながらも笑みで返す。
まだ諦めていないということを知れたからか、奇妙なほど心が落ち着いていた。
「そういうことだから、白亞。力を使って正解だよ。おかげで、まだ終わってない」
「な――、鎖鳥さんもキナもおかしいですよ。どうかしてます」
「白亞だってどうかしてるから、お互い様だね。あれだけキナのこと嫌ってたのに」
「そ、それは――」
もごもごとなにも言えなくなってしまう白亞に苦笑してから、鎖鳥は前を見据えた。
視線の先には歪んだ小さな黒い影。
「屑鉄だけでなく元司書長様の手引きもあったと」
長く、とても長く、フリムジーがため息を吐き出していた。
「まあ、悪くない展開でやがります」
頭部で緩やかにページが捲れ動く。
「根こそぎ書片を手にできる日だっただけのこと。もう逃げ隠れするだけの力すらないようでやがりますしね!」
追い詰められている状況を突き付けられ、けれど鎖鳥は言った。
「白亞の『虚想存在』がそんなに欲しいの?」
巨狼をけしかけようとしていたフリムジーの動きが止まる。
「屑人形がまだ邪魔を――」
「お前は元司書長様の力がそんなに欲しいのかって聞いてるんだよ」
「…………、なにを吹き込まれたか知りやがりませんが」
「見下してる相手の力にどうして頼るのさ。そうでもしないと主に認めてもらうことすらできない存在だって自覚でもあったり? 意外と殊勝なんだね」
「ふざけたことを。頼る? 馬鹿げてやがります。俺様はこの幻想図書館に巣食った根を切り出し、それを有効に使ってやっているだけのこと。これは管理を任される者として当然の務め。まあ、お前のような屑人形には理解できようはずもねぇですが」
「なんだ。やっぱり殊勝じゃないか。管理者として足りない力は見下している相手から借りてでも補う。本当に凄い心掛けだと思うよ。――でもまだ代行止まりなんだから、もっと書片を集めるべきだね。ああ、そうか。だからフリムジー、お前はあんなにも『早く寄越せ』ってうるさかったんだ?」
鎖鳥の静かな語りがどこまでも白々しく響く。フリムジーの頭部に描かれる呪詛眼が歪み濁っていくことから、逆撫でできていることは明らかだった。
無視できない言葉を重ね、僅かな時間を積み上げて。そうして作り上げた間隙を、鋭いキナの声音が射抜き貫く。
「クチカギくん! 籠を投げつけてやれ!」
この瞬間のために引き絞ったであろう声の響きは『幻想因子』の流れを伴っていた。
「【解縛】。眠りの檻籠よ、放て!」
鎖鳥が投げた籠は光を帯びたかと思うと塵のように消えてゆく。直後、小さな檻籠に閉じ込められていた存在が元の姿を取り戻していた。咆哮が周囲を震わせる。
鋭刃な巨躯。
黒曜竜『千影』を目にしたフリムジーが言った。
「なにをするかと思えば! 捕らえた黒曜竜を暴れさせる魂胆でやがりましたか! 実に浅はかな考え! 実に屑鉄らしくて笑えてきやがります! 俺様にかかれば再び使役することなど造作も――」
「――抜粋編纂」
それは咆哮に霞みながらも淀みなく続けられていた。
白亞が諳んじる、言葉。
「『聞こえないとは言わせないぞ、古き友』『故無き理の棘が苛む痛みは心を蝕んだ』」
新緑の瞳は迷いに揺れていて、とても覚悟があるようには見えない。
だけれど。
その横顔には決意があるのだと、鎖鳥には思えた。
「『どちらの? 選ぶ必要は無い。たどり着く場所は共に奈落なのだから』【compile/convert】――、聞き届けて」
一拍の静謐を経て――、千影が動いた。
振るわれる鋭利な尾は巨狼を遠ざけ、吐き出される炎の息はフリムジーを覆う。
「馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な! あり得やがりません! こんな力を持っているはずが!」
潰れクラゲが闇壁へと変じ、不定形の陰に隠れたフリムジーが喚いた。その手が幾度も使役式を編み、幾度も鎖のような術式が飛ぶ。けれど、それらは千影を絡め取るに至らない。
「なぜだ! なぜでやがります!」
それでもフリムジーは巨狼で千影を押し留めながら術式を繰り返していた。
「なぜだもないだろうに。ハクア嬢よりも黒曜竜に詳しいつもりなのだとしたら、本当にヤツはなにもかもが『薄っぺら』だね」
千影が床を割り、巨狼が吠え狂うなか、キナが呆れのため息を吐く。
「こんな手があるなんて僕も聞いてないよ」
支援式を千影にかけ終えた鎖鳥は、駆け寄ったキナの隣で戦いを眺め見た。
「使えるとは思っていなかったし、使いたくもなかったからね。だけれど、状況が変わってしまった。ワタシの読みには穴があったし、クチカギくんの力を借りても埋められなかった。最良の結果にはもう届かない」
キナは傷口に治癒式を施しながら身を起こし、ふらつきながらも両の足で己を支え立つ。
「なにを、言っているのさ……」
喉元に剣を突き付けられた状況からは逃れられたというのに。
「黒曜竜はワタシの手を離れて自由になった。だけれど、それを御して使役するには相応の力がいる。得手不得手というものがあるからね。こうでもしなければ凌げなかった」
「だから、なにを……」
「いまこの状況で黒曜竜を御すことの代償。安いはずがないだろう?」
そこまで言われて、鎖鳥はようやく自分が考えることを避けていたのだと思い至った。
初めから使っていれば事が済むような手があったとして。
ためらうだけの理由がなければ、それを惜しむはずがないのに。
「白亞」
すぐ近くに立つ彼女の姿は淡く霞みかけていた。
そこにいる事実すら希薄になりかけているように感じられ、力なく微笑む白い少女を目に映しながらも、鎖鳥にはなにも言えなかった。
「そんな顔をしないでください、鎖鳥さん。いまからでも逃げて――と、言いたいですけれど、聞き入れてはくれないんでしょうね」
「当たり前だよ。見捨てるなんて、そんなことしたくない」
「どうしてそこまで……」
白亞は口にしかけた問いの途中、頭を振った。
「鎖鳥さんは私を『利用』してくれている」
「そうだよ。だから白亞も僕を『利用』してくれないとフェアじゃない」
「それは――」
続きの言葉を探すように目を伏せた白亞を、鎖鳥は静かに待った。
いつまでも途切れたままの時間。それは別の声によって破られた。
「ハクア嬢は生真面目だから、そう言えば思惑通りに動くと。さすがはクチカギくんだ」
「な、なんでそうなるのさっ」「どうしてそうなるんですか!」
重なった声に、思わず鎖鳥と白亞は顔を見合わせる。白亞は気まずそうにマフラーへと顔をうずめ、鎖鳥はしたり顔のキナへと不満の視線を投げた。
「キナはひねくれすぎだよ」
「ふふん、冗談さ冗談」
思わず鎖鳥は頭を抱えてしまう。苦笑にも似たため息をつくと、まだ戦いの最中であり窮地にあるというのに、なぜだか落ち着いてしまっている自分に気づいた。
「まだこうして話していたいけど……、時間、あるとは言えないんだよね?」
「対抗式の維持にまわしていた力すら使ってしまいましたから、ね。いまはもう呪いに蝕まれるままです。千影が倒れるよりも先に、私が『怪異』へと変じると思います」
「それでも――僕は白亞を守るよ。キナだっている。いつかは呪いだって解いてみせる」
「……――凄いですね、鎖鳥さん。言い切れてしまうなんて」
「僕は弱いから。こういう心の置き方をしないとなにもできないだけだよ」
「そう、ですか? 強いですよ。そう見えます。私なんか、結局最後になっても迷ったままだったのに。ずっと決められないでいました。いまもそう。鎖鳥さんが逃げない――帰らないって言ってくれてどこかで安心してるんです。帰ってもらうために喚んだのに、可笑しな話ですよね」
「白亞は自分の『虚想存在』を消すために僕を喚んだってキナは言っていたけど、それは違うってこと?」
「目的はあっています。手段は少し、違いますね。キナは鎖鳥さんの力で私の『虚想存在』を消すつもりだと予想したみたいですけど……。私は――」
ためらいを見せながら、けれど罪を告白するように白亞は口を開く。
「鎖鳥さんの『虚想存在』には顕在化するだけの特別なスキルがないと思っていますよね? だから手間をかけてでも『魔学書』の扱いを学んだのだと。でも私が召喚式に手を出さなければ、鎖鳥さんにも支援型以外に分類されるだけのスキルが顕在化していたはずなんです。私が邪魔をした。――私は、鎖鳥さんの中に自分の『虚想存在』を隠しました。書片のような枝葉ではなく、力の根幹となるものを」
「隠し……た……? 僕の中に……?」
「そうです。だから――鎖鳥さんが元の世界へと帰れば、私の『虚想存在』は消えてなくなります。それは私の死を意味していても、『薄っぺら』のものにはならない結末です。だから、忌避することはない――そのはずだったのに」
視線を落としたまま白亞は呟くように語る。
「介入した召喚式の直後に送還式を使えば、それですべてが終わっていたはずなんです。鎖鳥さんをこんな目にあわせることもなかったはずなんです。……私が弱いから。決めたことにも迷うくらい弱いから。怖がってばかりで弱いから。だから、こんな――」
「その言い方は適切じゃないよ」
遮り、鎖鳥は言った。
「だって白亞はここに立っているじゃないか。確かに弱いかもしれない。怖がってばかりかもしれない。決めなきゃいけないことも決められずにいたのかもしれない。でも、すべてを投げ出すことだってできたはずなのに、いまここにいてくれている。どうしてさ」
「それは――、ごめんなさい。鎖鳥さんの優しさに寄りかかってしまって……。言えば背負わせるものを増やすだけだって分かっていたのに。やっぱり私は弱くて最低な――」
「それはつまり、白亞は僕を『利用』してくれている――ってことだよね」
「……――え」
「それならなにも問題はないよ。僕は僕のために白亞を利用して、白亞は白亞のために僕を利用する。お互いを利用しあう僕たちの『召喚契約』はまだ有効だね。だから僕が白亞を必要とする限り、白亞は僕を必要としなければならない」
「そ、そうなるんでしょうか……」
「そうだよ。そうなる」
「こ、これから『怪異』になる私なんかに必要とされたら、鎖鳥さん困りますよ?」
「かもね。でも僕には白亞が必要だから」
『怪異』へと変じることの重さをすべて理解できているとは言えない。人の姿を失うのであろうことは分かっても、在り方は想像の埒外にしかない。それでもそれが白亞であるなら、鎖鳥に必要な存在であることには変わらないと思えた。
赤く染めた顔をマフラーにうずめた白亞が鎖鳥に歩み寄る。
「わ、私にも――」
それは消え入るような声で聞き取ることも難しく。
「鎖鳥さんが必要みたい、です……」
けれど確かに白亞が紡いだ言葉だった。
身を寄せてきた彼女の姿は病的なまでに淡く白い。
小柄にしても軽すぎる白皙の身体から、帯びていた光が散るように欠けてゆく。
白亞の温かさが曖昧になる。それは抱きしめても変わらない。
聞こえているはずの嗚咽すら、遠のく。
けれど少しでも確かなものとしたくて、鎖鳥は腕の中の白亞を想う。
「必ず助けてみせるから」
そうでなければ世界の意味が亡くなるのだから。
『遷花広間』で吹雪く花片と白亞から欠ける光の区別が付かなくなっていく。彼女の華奢な背中から震えは消えていない。両目から零れる涙もそのままで、けれど見紛うことのない笑みがそこに在る。
「鎖鳥さんを喚べて良かった」
長い前髪の隙間を通して見える新緑の瞳は涙に濡れ、光に揺れる色は溢れる感情を持て余しているように見えた。
「僕も――、喚ばれて良かった」
追い付かない言葉の代わりに、消えゆく白亞を鎖鳥は最後まで抱きしめる。
腕の中に残ったのは、見慣れた白織りのマフラーだけだった。
◇
「ハクア嬢にここまで言わせたんだ。負けるのは許さないぞ」
「キナ……」
胸の傷口に手を当てながらも、彼女の顔色は少し良くなっていた。
「呪詛毒が粗方抜けたからね。ハクア嬢の融通には感謝するしかない。おかげでこの広間ならまだ一手が望める。キミもハクア嬢に選ばれたんだ。なにもできないとは言わせないぞ」
鎖鳥は手にしていた白織りのマフラーを首に巻き、頷きでキナへと応じた。
「白亞の『虚想存在』――【奇譚紀行】を使える感じがする」
読んだこともない本の知識が頭の中にあるようだった。脳裏で本をいくつも並べ開く感覚を味わいながら、鎖鳥は暴れる黒曜竜へと目を向けた。
「千影を御すくらいはできると思う」
「いいね。悪くない」
「でも、どうして使えるって分かったのさ」
「妙なところで察しが悪いな、キミは。ハクア嬢の『器』と繋がったからに決まっているだろう。まさかその首に巻いているものがただの毛織物だとでも思っているのか? そうなのか? もしそうなら泥鰌の刑じゃ済まさないぞ!」
まくし立てるキナは嵐のようで、やり過ごそうと思った鎖鳥は思わず鼻先までマフラーにうずめてしまっていた。潜めるような息。そこで掠めた匂いが白亞のものだと気づき、ようやく鎖鳥はキナの怒りが理解できた。
「ご、ごめん。このマフラーが白亞の『器』なんだね」
「そうだとも。そのとおり。それこそが『怪異』へと変じたハクア嬢そのものさ。ぞんざいに扱うことはこのワタシが許さない」
「キナは本当に白亞のことが好きなんだね」
「……――は? はぁ!? キミはなにを突然……っあ」
傷の痛みに呻きながらも騒ぐキナを置き、鎖鳥は千影と巨狼の戦いを見やる。
拮抗しているとは言い難い。勢いを失い始めた千影が徐々に押されていた。
(でも、いまから支援式を重ねたところで気休めにしかならない)
それに状況を動かす一手を打てば、フリムジーが平静を取り戻すきっかけを与えることにもなり得る。無思慮に動くわけにはいかなかった。
(いま必要なのは……、詰みに至れる一手)
鎖鳥には届くはずのない一手。けれど、と思う。
脳裏に広がる数多の本。その中の一冊。その中の一節。白亞が【奇譚紀行】によって描いた千影の記述までをも既視としている現状が、『器』と繋がったことによって彼女の『虚想存在』を認識した結果だというのなら。
それを収めている領域こそが――。
(――僕の顕在化していなかったスキルそのもの)
その考えに至った時、鎖鳥は自然とその名を口にしていた。
「【書庫領域】」
世界の一部が書き換わる。
名付けたという感覚はなく、書かれた一文を読み上げた感覚に近かった。
直後、風と衝撃が吹き抜けた。
絡み合うような二重の咆哮が広間を震わせる。
喰い付いていた巨狼を振り払った千影が、その反動で鎖鳥の近くへと倒れ込んでいた。
「千影、もういいよ。ありがとう」
血に塗れた黒曜竜はその目に鎖鳥を映し、一度小さく鳴いた。そしてそのまま霧のように消えてゆく。
「は――! はハははハッ! これで俺様の勝ちでやがります!」
潰れクラゲの闇壁に隠れたフリムジーの哄笑が響き渡った。
勝利を確信し、徒労から解放されたような嗤い声だった。
「俺様が! 俺様の! はハはハハ――」
「そっか。知らないんだね」
「――あ?」
手の中に生まれ、形を成し始めた冷たい質感を鎖鳥は握り込む。
「黒曜竜と呼ばれる所以を。書片を手駒としていながら、宿した『根源』を想像すらしなかったんだ?」
黒霧を固めたような剣を手にした鎖鳥は、刃先を巨狼へと向けた。
それは【書庫領域】によって認識できる白亞の【奇譚紀行】で至れた力。書かれてはいないけれど、読み解くことで至れた物語。
「な――、馬鹿な! お前に顕在化するほどの『虚想存在』はないはずでやがります!」
そう誤解するのか、と鎖鳥は苦笑する。否定して正しく教示する義理もない。
「白亞の書いた『魔学書』を読んだことさえあれば、予想くらいはできたはずなのに。使役できただけですべてを知ったつもりになるから、そうなるんだよ」
冒涜だと吼えるように、無尽の黒曜刃が吹き荒れた。
刃が巨狼を襲う。
抗いすら許さない数の刃だった。
鎖鳥の周囲から現れ出た数多の黒曜刃が、フリムジーの無意味な罵倒の前で序列・一の巨狼を解体してゆく。
「屑が屑が屑が! 俺様こそが司書長で! 認められるべきは俺様だというのに! こんな――、こんなこんな! 幻想図書館の管理もできず、書片を集めるしか能がない屑人形のせいで! 俺様が終わるなんてあり得やがりません!」
嵐のような黒曜刃の渦中で闇壁に閉じこもるフリムジーは喚き続け、鎖鳥はその圧倒できているという事実に自身の口角が上がるのを感じた。
暗い愉悦が心に満ちる。理不尽に踏みにじってきた相手を一方的になぶれる状況が、鎖鳥の思考に靄をかけてゆく。
「『薄っぺら』! 自覚しなよ。その屑を歯牙にかけてばかりだってことにさ。見下して貶めないと気が済まないんだろ。自分が優位だと思い込み、自分以外の価値を認めず気づこうとしない。屑だ屑だと言い続けないと、そうしないと自分の価値が揺らいでしまうと、お前は不安でしかたないんだ。本当は目を逸らしているだけなんじゃないの? 見下している相手のことが羨ましくてしかたがないんだってことからさ」
再生を繰り返す闇壁を離れた位置から刻み、削り続ける。
勝ち筋は見えていて、終わりは近い。けれど――違和感があった。
言い返さず黙り込んだのは、反論できなくなったからだろうか。
術式で抵抗すらしてこないのは、無駄だと諦めたからだろうか。
鈍った思考。狭窄した空気には覚えがあった。
削り破った闇壁の隙間から、歪んだ唇の挿絵が見えた気がした。
「――――っ」
脳裏をよぎったのは禍々しい刃――キナの胸が貫かれた暗闇での光景だった。打ち消すように鎖鳥はひるがえり、数歩離れた位置にいたキナへと駆けた。
彼女を視界に収めた瞬間から予感は確信へと変わっていた。微かに感じ取れる不快な『幻想因子』の流れが即座の行動を後押しする。驚きに目を見開くキナの腕を取って引き寄せ、鎖鳥は半ば後ろに倒れ込むようにそれから距離を取った。
「――っぁ。な、なにを突然っ」
腕に抱いたキナが痛みに喘いで抗議してくるが、彼女の立っていた場所を注視する鎖鳥に応じる余裕はない。
キナのいた場所を貫くように浮いているそれは、やはり見覚えのある凶刃だった。
「【略式索引】――、千影!」
即座に黒霧の剣を向け、その力を解放した。
鎖鳥の周囲から吹き上がるように溢れ出た無数の黒曜刃が、逆巻くように凶刃の浮いている空間を切り裂いていく。
その中に一瞬、凶刃を手にした歪な人影――序列・三が見えた。
鎖鳥は狙いを定め直す。だがそれよりも前に、歪な人影は溶け消えようとする。
黒曜刃が切り裂くが手応えは浅い。
「こ、の――!」
けれど、こんな急襲を何度も防げる気はしない。逃すわけにはいかなかった。
鎖鳥は思うように定まらない狙いを強引に歪な人影へと集め、消える前に刻み裂く。
完全に薄れ消える直前、歪な人影が体を折った。
色濃い闇姿に戻ってゆく序列・三を油断なく刻み伏せると、凶刃が音を立てて床に落ちて塵のように崩れ散る。終わってみれば一瞬のことだった。
「――――っは」
呼吸を忘れていた気さえする。
鎖鳥の息は荒く、極度の疲労が全身を重く感じさせていた。
「まったく。無闇やたらに『虚想存在』の力を行使するからだ」
腕に抱くキナが咎めるように言って、けれど蒼焔の瞳は横に逸らしていた。
「……ま、まあ、助けてくれたことには、か、感謝しなくもなくも」
ごにょごにょ、と。最後のほうは聞き取れない。
それよりも序列・三に手間取ったことに鎖鳥は歯噛みしていた。闇壁となった潰れクラゲ相手に無駄な力を使っていなければ――。
(――もっと狙いを瞬時に定める余力はあったはずなのに)
不甲斐なさに沈みそうになるが、その暇はないと視線を巡らせた。
いまはなによりも前に闇壁を排除して、『薄っぺら』と決着をつける必要がある。
だから、と黒霧の剣を握り込む。
意識を集中して、今度こそ届かせるのだと。
けれど、巡らせた視線の先に見えた姿に鎖鳥は目を見開いた。
「な――――」
そこに闇壁はなく。
喜悦に歪んだ眼の挿絵が――、勝ち誇り歪む唇の挿絵が――。
嗤う『薄っぺら』の姿だけが在る。
「お前たちに価値などありやがりません。死にやがれください」
掲げた黒い細腕に闇色の光を迸らせたフリムジーを前にしながらも、鎖鳥は動けないでいた。気が付けば、周囲の床から伸びた闇色の触手に手足を拘束されている。その蠢く質感から、触手は闇壁――姿を変えた潰れクラゲのものだと鎖鳥は推察したが、それは相手の思惑に落ちた己の不注意を嘲る材料にしかならなかった。
千影の力を引き出そうにも、『幻想因子』が形にならない。腕の中のキナごと拘束されている以上に、スキルの行使自体を阻害されていた。
ただそれも、いまの鎖鳥であれば破れないほどではなかった。
即座に阻害を打ち消し、拘束を解いて、反撃の――、と。
生まれたのは数瞬の間隙。
けれどそれは、フリムジーが術式を完成させるに足る時間だった――。
◇
拘束阻害された感覚が視界すらも曖昧にする。沈み暗くなる。
侵食されたすべてを取り戻し、打ち破ろうと鎖鳥は足掻くが最早間に合わない。
黒く欠けたように見える世界で、抗う意志すら強張りかける。
フリムジーの細腕から溢れ出た闇色の光が、その色濃さを増した。
「終わりでやがりま――」
断ち切るように、欠けた視界で朱銀の光が奔る。
一閃。
見慣れた色の輝き。
栞から伸びた光状の刃が、掲げられた細腕を断ち切っていた。
闇をはね除け朱銀の髪を翻した彼女を前にして、鎖鳥は思わずその名を口にしていた。
「煤朱鷺、さん……?」
湧き出る疑問を押さえ付ける。ずれた意識を即座に戻すことを優先し、鎖鳥は阻害し続けてくる触手を刻むことに集中した。
相対した千影の姿を緻密に想像し、その強さ――剣へと至った背景を想起し続ける。
序列・二――潰れクラゲを刻み消すに至るまで、長くはかからない。
けれどそれだけでは遅い、と鎖鳥は思った。桜華に報いられないと感じた。
フリムジーがちぎれた腕を振りながら叫び喚いている。黒い血を流しながら術式を撒き散らしている。それから逃れようと立ちまわる桜華の姿に余裕は見られず、強襲の一閃に余力のほとんどを注ぎ込んだことが窺い知れた。
だから同時に、鎖鳥は術式を詠み始める。
「抜粋編纂――、『断ちて断ちて屍を積み上げよ』」
最初に教わったほどの容易な『書術』。
「『喝采の庭に緋朱の花を』『終の口上は群集には届かない』」
けれどだからこそ、難しく考える必要もない。
まだ残る阻害のノイズを無視して、ただひたすらにイメージを研ぎ澄ます。
桜華の強襲でフリムジーは完全に我を失っていた。鎖鳥の動きにすら気づいている様子はなく、暴れ散らす術式の狙いも定まらず、それはまるで癇癪を起こした子供に見えた。
「【compile/convert】――、殺すから」
断頭台に送るように告げ、編んだ攻性式を解放する。
響く高速の擦過音。
背中を押されたようにフリムジーは膝を折り、動きを止めた。
そこへ術式の刃が落ちてくる。
狙いが過たれることはなく――。
その瞬間だけを切り取れば、あまりにも呆気なく、『薄っぺら』の首は刎ねられ落ちた。




