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17 悲劇的結末

「【縫合】。辿り視よ、其は虚ろ!!」


 直後、風が逆巻いた。


「――――っ」


 瞬時に起きた出来事を理解するのに、鎖鳥は時間を必要とした。


 まず初めに痛みがなかった。訪れるはずの死が遠ざかったのだと認識して、眼前の吹き飛ばされた式魔たちを眺め見た。その視界の多くは塞がれていた。なにに? 壁だ。重くて頑丈そうな身の丈を越える壁。けれど、それは動いていた。壁ではなく、異形の土くれ。人を模しながらも異様に腕が長く太く、そして極端なまでに足が短い。落書きのような顔は意思を感じさせず、その風貌のすべてが玩具めいた無機質さでそこに在る。


 けれど、その背を見た鎖鳥の内に恐怖は湧かなかった。

 守るように立ってくれている巨大な土くれ人形に、束の間とはいえ、敵のことすら忘れてほうけた眼差しを送る。


「盲目的すぎるのは美徳とは言い難いな」


 気が付けば隣にいたキナが言った。

 土くれ人形の暴れる音をどこか余所事のように聞きながら、鎖鳥は不愉快そうな機械魔女に判然としないままの意識を向ける。


「え、と……?」

「捨て駒にするのも厭わないと言っただろう。ワタシはキミの命に重きを置いていない。土人形の術式が間に合わなければ間違いなく死んでいたぞ。ワタシの切る手札が状況を覆せると踏んだのかもしれないが、それがキミを救う保障なんてどこにもありはしないのに」


「ん、……あれ、うん。そうだね。キナが救いたいのは白亞だから」

「そうとも」

「でも助けてくれた」


 その言葉にキナは口を曲げる。


「ワタシは隙だらけの式魔を狙ったんだ。キミを助けようと動いたわけじゃない」

「だけど、そんな僕でも時間くらい稼げると踏んだから任せたんでしょ? それが白亞を救うことに繋がると考えて。そうして結果を出してくれた。僕もまだ生きてる」


 巨蜘蛛と巨猿を蹂躙する土人形の勝ちは揺るぎそうにない。


「キナを信じて良かったって、僕は思うよ」

「――――、ば、馬鹿なことを!」


 土人形の拳が巨蜘蛛を捉え、ばしゃりと床に影色の血だまりを生んだ。


「ま、まあ、キミがどう思おうと構わないが――せめて勝ってからにしてもらいたいものだね。番外とでも言うべき黒曜竜は捕らえ、序列の六は排除し、いま序列の四も潰した。序列の五も――」


 苦し紛れの吶喊をした巨猿が、その首を土人形につかまれ、濁った喚きを撒き散らす。


「始末できた」


 重なったのは、頚椎を折るような鈍い音。

 騒がなくなった巨猿を、土人形は興味をなくしたとでも言うように投げ捨てた。


「けれどね」


 巨狼の背から降りたフリムジーが、怨嗟の呪詛であるかのように「屑鉄が」と繰り返し絞り出すように呟き続ける。何度も何度も何度も。

 だがそれに取り合わないキナは変わらない調子で語る。


「序列の一は強い。土人形でも凌ぐのが精々さ」


 動いた巨狼に、鎖鳥は反応すらできなかった。

 瞬時に迫る影。序列の四と五の比ではなく、覚悟を決める暇すらなく。

 けれど、それでも。

 フリムジーを降ろした巨狼が襲いくるのを、土人形が壁となって防いでくれていた。


「【火葬】。蒼き焔よ、贄を射抜け」


 その対峙する両者の横を、キナの放った蒼炎が奔る。

 フリムジーを狙った焔矢。


 だがそれが届くことはなかった。主を守るように潰れクラゲがその不定形の体躯を歪めて壁となり、焔矢を防ぎ呑み込んでゆく。都合六度。続けざまに放たれた矢のすべてを意に介さず、半球状に変異した潰れクラゲは不動不壊の障壁と化していた。


「そして序列の二。これの守りは厚い。この矛と楯を正面から破って『薄っぺら』を仕留めるのは――少しばかり難しいと言わざるを得ないね」


 影の巨狼を近づけまいと牽制する土人形を前に、


(どうすればいい。どうすれば、勝てる――?)


 鎖鳥は気を抜けば真っ白になりそうな頭を必死に動かして考える。


「僕の術式で土人形をフォローして、その間にキナが狼を弱らせていくのは?」

「長期戦になる。キミを狙う攻撃すべてを止めることは難しい。キミはアレに喰われても生きていられる自信があるかい?」


「――――、それならキナを術式を可能な限り強化して楯の破壊を狙おう。攻め続ければ相手にだって限界がくるに決まってる」

「ふむん。キミも言うように、それもまた即座にとはいかないな。となれば、やはり序列の一に狙われて破綻する。あの『薄っぺら』が守勢の要としている序列の二を、簡単に破れるとは思わないほうがいい」


 長く競り合うような真似が招くのは敗北だけ。守りの要を破る力もなく、攻め手を凌ぐ力もない。考え続ける時間の猶予だってない。鎖鳥は暗く沈みそうになる思考を、唇を噛んで止めた。


「同時に相手取れないなら――分断を狙うくらいしか思い付かない。できる?」

「できるとも」


 断言したキナは唐突に鎖鳥の手を取り、


「劣勢に立たされたワタシとキミは焦り、言葉を交わし、土人形を後陣として――」


 走り出した。


「遁走。逃げの一手へと移る」

「な――、えっ」


 姿勢を崩しかけながらも、鎖鳥は必死で足を動かしてゆく。


「に、逃げるの!?」

「その考えに至らないキミの盲目さに辟易するね」


 付いていくのに必死な鎖鳥の背後で、巨狼の牙が噛み合う音がした。一瞬振り向けば、見えるのは土人形に押さえられた巨狼の姿。けれど当然、その成り行きを見届ける暇もない。


 キナは『遷花広間(フラワーベッド)』からいくつも伸びる細い通路のひとつに飛び込むと、その高い書壁の続く迷路のような暗がりをためらいなく駆け抜ける。


「で、でも逃げたらあいつは『召式円環陣(レイズドサークル)』に――」

「向かわないさ。なんのためにあれだけ煽ったと思ってるんだ。なんのために長年あのうざったいヤツを観察してきたと思ってるんだ。ワタシはあの紙屑人形が心底嫌いだけれど、その理由が分かるかい? それはヤツの無能さを知り尽くしたからさ。ヤツの我心ばかりに執着して大局を見失う気質は昔から変わらない。これだけ膳立てた機に逃げの手を打てば、必ずヤツは訪れた優位に浸って隙を晒す。ヤツの手駒を残り二つまでに削ったんだ。ここで序列の一を誘い込んで始末すれば、詰みに手が届く」


「ええと、つまり、逃げたのは演技?」

「そういうこと」


 足を止めたのはそれからしばらく走ってからのことだった。

 なんの変哲もない袋小路。書壁に囲まれ穴倉のような息苦しさを覚える場所で、数少ない灯花が鎖鳥とキナを薄ぼんやりと浮かび上がらせる。


「さて、あとは伏して待つのみといったところかな。釣り野伏せと自称するには伏兵不足が深刻だけれどね。ま、寡兵が勝ちをつかむほうが劇的で終幕には相応しいだろうさ。『魔学書(コーデックス)』を詠むキミなら頷ける道理だと思うけど」

「どうかな。勝利だけが華々しさとは限らないから。敗北で終わる物語も結構あるよ」


「そうなのかい?」

悲劇的結末(バッドエンド)だからこそ引き出せる種類の力もあるからね。いろいろな物語性があるから、『魔学書』の力も多様なんだと思うよ」

「ふむん、なるほど。支援型(バックス)を確立させるに足りた本質はそのあたりにあるのかな。ハクア嬢があれだけ熱心に綴っていたのだから不思議はないけれど」


「え?」

「ん?」


 戸惑う鎖鳥の視線を受けて、キナは合点がいったように「ああ」と頷いた。


「クチカギくんは知らなかったのか。キミのような支援型(バックス)が扱う『魔学書』を書いたのはハクア嬢さ。そうした功績がなければ新参の彼女が司書長に抜擢されることはなかっただろうね」

「白亞が、これを……」


 鎖鳥は書縛(ブック)ホルスターへと収めた本に触れる。


「うむん。その黒曜竜の強さだって、彼女の思い入れがあればこそだろうね」


 籠の中で眠るようにおとなしくしている竜を一瞥してからキナは続けた。


「それを綴っていたころの彼女は随分といい顔をしていた。支援型用の『魔学書』に限らず、当時のハクア嬢は【奇譚紀行(オッド・ジャーニー)】を使っていろいろ綴っていたよ」


 まばらに咲く灯花では照らせていない暗がりへとキナの視線は落ちていき、精彩なく零された声音が闇に沈む。


「それを、ワタシは壊してしまった。書片(フラグメント)として散逸させてしまった。ハクア嬢はあれからなにも綴らなくなったし、あの頃みたいな顔もしなくなった」


 鎖鳥の前にいる機械魔女からは飄々とした気配が失われていた。そこにいるのは酷く自罰的で、泣きたいのに泣けず、暗く冷たい沼でもがくような――。老獪さを欠いた彼女が随分と弱々しく見え、言葉に詰まった鎖鳥は一考の末、言った。


「随分としおらしいね」

「からかわないでほしいな。これでも繊細にできているんだ」


 静かに目を伏せたキナが立てた箒にもたれかかる。一呼吸するだけの時間がことさら長く感じられた。


「正直、ハクア嬢の綴った話の良し悪しはワタシには分からないけどね。でも、彼女が綴ったものは確かな力を持っていた。この書架迷宮においても際立つほどに。けれどなにより、これだけは間違いないと言えるけど。綴っている時期の彼女のほうが――ずっといい顔をしていた。すべて元のようにとはいかないだろうけど、それでもワタシはもう一度ハクア嬢が物語を綴る顔を見てみたい。この書架迷宮の“外”を彼女がどんな顔で綴るのか、ワタシはとても興味があるんだよ」

「それは――僕も興味があるかも」


 白い少女が“外”の広さを語るとき、彼女はどんな声をしていただろう。どんな想いを(うち)に聞かせてくれたのだろう。その心を知るすべなく、けれど鎖鳥はそのとき抱いた気持ちを思い起こすことはできた。


「それにしてもよく見てるんだね。隠れてる白亞も聞いてると思うけど、いいの?」

「いいさ。聞かせているんだから」


 キナが薄く笑い、それを見た鎖鳥も思わず苦笑した。隠れた白亞が怒鳴りたくても迂闊に隠蔽式を解けないでいる姿を想像してしまったからだ。たぶん、きっと、事が片付いたら文句の一つや二つ言われるに違いない。


「さてと。土人形も役目を果たしてくれたようだし――」


 遠く、巨狼が勝鬨のように吠える声が聞こえた。


「あとは誘いに乗って現れたところを、狙う。『薄っぺら』と序列・二は『遷花広間』から動いていない。となれば序列・一の始末は簡単さ。――クチカギくん。キミの『書術(ビブロクラフト)』は遅いのが難点だけれど、準備する時間があれば多少はやれることがあるだろう? 期待はしないけれど考慮はしてあげようじゃないか」


「それはどうも。確かに咄嗟の対処が遅れるのは僕の難点だけど、でもさ、キナは口が悪いのが難点だと思うよ。もっと素直に言ってくれれば――」

「そ、それはいま関係ないだろう!」

「だってずっとそう思ってたし」

「ぬぬぬ。い、いまは言い負かされておくけれど! もう後悔しても遅いぞ! 震えて待つがいいさ! あとで泥鰌(どじょう)の刑にしてやる……!」

「分かった。分かったから。ほら、狼くるんでしょ? ええと、序列の一がさ」


 歯を剥き出しに睨んでくるキナをなだめ促すが、鎖鳥は口元が緩むのを隠せなかった。軽口を叩き合えるくらいの余裕があって、だからこそどうしても先のことを考えてしまう。


 この書架迷宮の“外”を歩ける時のことを。

 そしてその時間を一緒に過ごせる相手のことを。


 白亞とキナが口煩く喧嘩をし、どうやって仲裁したものかと鎖鳥が頭を悩ませる――そうした先のことが手が届く距離にあるのだと思えた。


「抜粋編纂――」


 自身とキナを強化する術式を諳んじる。

 防護の役目を果たす障壁式。術式の威力と精度を上げる増幅式。身体能力を向上させる鋭化式。多重展開してゆく術式に劇的な効果はない。時間的制約も状況的制約も多い。無駄ばかりだと鎖鳥にも自覚できるくらいだ。


 ちらりと盗み見たキナの横顔は真っ直ぐに闇を見据えていて、その振る舞いは強化系術式(ブーステッド)をそよ風ほどにも気にしていないようだった。


 それは鎖鳥がなにをしようと大勢に影響はないと言っているようで。

 けれど――、と。

 無為に卑下して、まして手を抜くようなら、初めからここに立ってはいない。


「きたぞ、クチカギくん」


 暗闇の通路。その先に、揺れ動く影を見た。

 床を蹴る爪の音がする。


「【黒茨(くろいばら)】。棘の壁よ、阻め!」


 いまは自分が『やれること』だけを考えて。暗がりから無尽に伸びた茨が巨狼を絡め取るなか、鎖鳥は中断保持していた術式を行使した。


「【compile(ここで)/convert(すべて)】――、終わりに!」


 燐光を帯びた見えざる刃が生まれ、それが闇を裂いて奔る。

 血飛沫が舞った。


 動きを阻害されていた巨狼が巨体を震わせ、怒り狂ったように咆哮を吐く。確かな手応えを得た鎖鳥は隣のキナへと目配せをした。このまま畳み掛けるべきか否か。


「この機、この場なら、あの茨は鉄の鎖以上さ! さあ、全力で――」


 ならば、と鎖鳥は視線を巨狼へと戻して次の術式を詠みに入る。思いも寄らないほど好調な皮切りで、それもすべてキナの周到さゆえかと感じながらも、逆に浮き足立ちそうな心を捻じ伏せ意識を尖らせる。集中して、少しでも早く、少しでも完璧な術式を。思考が狭窄するような高揚感。いまなら万全の術式を顕現させられると確信を抱きかけ――、けれどそのすべては即座に途切れることになった。


「あの忌々しい式魔(ハイド)を潰す――、ぞ……?」

「……――キナ?」


 気勢が消えたことに鎖鳥は戸惑い、立ち竦む彼女を見て不審を覚えた。

 けれど、それも一瞬。鎖鳥の瞳はキナの胸元から生える異物へと向けられた。


 それは黒く鋭く禍々しい刃。怨嗟で固めたような刃先から、赤い雫が滴り落ちてゆく。背後から貫かれたキナを前にしながらも、鎖鳥はその事実を飲み込めないでいた。


「まいったな……、この刃、序列の三じゃないか……」


 誰もいない背後の暗がりに向かって、キナが掠れた声を投げかける。


「ハクア嬢に封じられたオマエが……、どうしてこんなところにいるのさ……」





 覚悟はしていた。そのつもりだった。

 勝てると錯覚し始めたのはいつからだっただろう。鎖鳥は書壁の続く通路を走りながら益体もない考えを巡らせた。息は荒く苦しいが、それを気に留める余裕もない。


「――……っ、……、ぁ」


 耳元で苦鳴が零れる。肩を貸しながら一緒に走り続けるキナは傷口を押さえたままで、普段の飄々さは完全に失われていた。それでも分かれ道のたび、手指で、あるいは視線で道先を示してくれている。おかげで袋小路に追い込まれることはない。


 けれど、キナの胸元から流れ落ちる循環紅液(ブラッドオイル)は点々と跡を残したままだった。姿の見えない序列・三を、鎖鳥が勘だけを頼りに術式で弾き飛ばせたのは僥倖だったが、逃げきるだけの猶予を得たとは言い難い。拭えない不安と焦燥が折り重なってゆく。背筋を撫でる暗がりが、逃げ惑う自分たちを弄ぶ刃のようにすら思えた。


 そして事実、弄ばれたのだと鎖鳥は理解する。

 逃げながらも追い立てられ、必死に駆けて、そうしてようやくたどり着いた場所。そこが見覚えのある空間だったからだ。黒曜竜と戦い、委員長たちと別れ、()と対峙した――『遷花広間』。


「ああ……、すまない……」


 絶え絶えにキナが言う。


「どうやら刃の呪詛毒に操惑式も混じっていたらしい。無駄に走らされたあげく、ここに至るように……。ワタシとしたことが気づきもしないなんて」

「そんな、ことは……」


 気休めにもならない言葉は声にならなかった。その資格を持たない気がした。キナと違って、自分には不甲斐なさを嘆くだけの下地がない。役立たずが口にする慰めは冒涜だとすら思えて、鎖鳥は唇を噛んだまま視線を上げた。


 そこには()がいる。

 喜悦に笑む眼と口を(いびつ)に配置した見開きのページ。序列・二の潰れクラゲを椅子代わりにしたフリムジーは、ひとしきり嗤うと鷹揚な素振りで両手を広げた。


「屑鉄魔女!」


 見下した嗤いを含ませながら、それは言う。


「お前は本当に元司書長――あの白枝(しろえだ)のことになると頭に錆がまわりやがりますね!」

「……――っ」


 抗しようとしたキナが激しく咳き込み、鎖鳥の肩にかかる重さが増していく。だというのに、彼女の存在は希薄になった気さえした。


 どうすればいいのか。

 なにをすればいいのか。


 考えたところで答えは見つからず、背後の通路から現れた序列・一の巨狼に追い立てられて足を動かした。傲岸不遜を体現する『薄っぺら』の前へ、一歩、また一歩と。それは断頭台に上る心境に遜色なく、気を緩めればすべてを他人事のように考えてしまいそうだった。


「不愉快な目をしてやがりますね」

「…………」

斑頭(まだらあたま)。まだなにかできると思っていやがるので? 支援型(バックス)は粋がらず雑用に徹しやがれください。それが役割というものでは? ったく使えねぇくせに忌々しい」


 不意に背後で巨狼の動く気配がした。

 振り向く暇もない。


 唐突な足への違和感とともに視界が揺れ、逆さになり、左右に乱れた。噛まれたのだと理解して血の気が引き、けれど抵抗する余裕もなく、一瞬の浮遊感があったかと思えば、直後に床へと叩きつけられ痛みが半身を襲った。


「――――……っぁ」


 苦痛に喘ぎながらも鎖鳥はまぶたを押し上げ、舞い散る光片が滲む視界の中にキナの姿を探す。足を噛まれ投げ飛ばされる前の場所。そこで彼女はくずおれていた。


「――だが、まあ、許してやろうじゃあねぇですか。この屑鉄を始末できるなんて、そんな愉悦に満ちた日はそうそうありやがりませんからね!」


 潰れクラゲから下りるフリムジーの言葉を耳にしながら、そこで鎖鳥はようやく自身の足へと目を向けた。噛まれたにしては思いのほか痛みが薄く、千切れ失ったにしては打ち付けられた痛みが足先まである。目にして、鎖鳥は納得した。足は巨狼の唾液にまみれてはいるが、それは無事と呼んで差し支えない状態だった。


「許してやろう、か……」


 倒れ転がったまま、いま聞いた言葉を反芻する。抵抗できる状態で残しておくほど、力量差があるのだと痛感させられた。貶められたのだという不快感と正当な評価だと嘲笑う自虐心が、鎖鳥の中でない交ぜになって渦巻いていく。


「おい、聞こえてやがりますか、屑鉄魔女!」


 倒れ伏したキナの頭をフリムジーはためらいなく足蹴にした。


「あんな封印式がいつまでも破れないとでも思いやがりましたか? 見下しやがって!」


 呻くキナに構わず、フリムジーは帽子を蹴り飛ばし、髪を掴み、顔を上げさせる。


「俺様は司書長代行。閉架書庫への出入りも自由なら、それに目くじらを立てる者もいやがりません。嗚呼――、それにしても。白枝の()()は実に無意味な義務感でありやがりました。些事にこだわる滑稽さ。俺様の式魔を封じる暴挙。元司書長様の浅はかさはほとほと度し難い!」


 声高な口上に、伏したキナはなにも言い返さない。


(白亞のことをこれだけ言われて悪態の一つも吐かないなんて……)


 それだけ消耗しているのだと理解して、鎖鳥は思わず拳を握った。爪が食い込むほどに。

 けれど、それは甘い痛みでしかないと思った。


「――――、っ」


 鎖鳥は自己強化の術式を諳んじながら身体を起こしてゆく。


「抜粋編纂――」


 書縛(ブック)ホルスターから引き抜いた『魔学書』を開き、詠み慣れない言葉を拾いながら術式を構築。威力を増し、精度を上げ、書かれた言葉を重ね積み上げる。


「『音に寄りて穿つと称される』『いわく、折られた枝は軍勢を貫いた』『喉を衝く粘性の渦』『崩れ、うねり、のたうつ波の壁』『雷鳴よ!』」


 制御しきれない『幻想因子』の働きが紫電のように弾け、鎖鳥の右腕を刻み灼く。

 痛みのなか、顕現する術式の輪郭を幻視した。


「【compile(その)/convert(すべてを)】――、穿て!」


 時を掛け、労を費やし、痛みに耐えた一撃。

 だけれどそれは――、あっさりと防がれ散った。射線に割り込んだ潰れクラゲがその不定形の体躯を歪ませ震わせる。ただそれだけで、穿ち削った痕跡すら消えて失われた。


 遮る闇の壁が鎖鳥を愚かだと嘲るように嗤い揺れている。

 それでも、次こそはと同じ手順を繰り返す。

 幾度でも穿ち削り、無意味だと理解しながらも、足掻かず折れることを拒絶する。

 術式は限界以上に研ぎ澄まされて、数を重ねるたびに練磨されてゆく。

 けれど、それなのに、届きはしない。


「やめろ」


 闇壁の隙間。

 その向こうで、フリムジーの指示を受けた巨狼がその牙をキナへと近づけていた。


「それ以上は――」


 見向きもされない。無価値だと断じるように。

 結局のところ、自分がひとりでできることなんて――なにもない。

 そう結論付けてしまいたくなるほどで、鎖鳥は灼けた右手を握り込む。


 このまま終わるなんて。

 こんな結末を見るためにここに立っているだなんて。

 そんなのは――、気に入らなかった。


「フリムジー! ()()()()()()が、どうしてそんなにキナにこだわるのさ!」


 無茶をした術式すら通らず、力の及ばない相手。羽虫を追い払う程度にしか扱われていない現状。その中で興味を引ける方法があるのだとしたら。


「それに、ただ始末するだけっていうのも芸がないよ。(ギャラリー)もいるのに」

「斑頭。お前もたまにはいいことを言いやがりますね」


 巨狼を控えさせたフリムジーが闇壁の向こうで一度振り向き、喜悦に歪ませた口が浮かぶページを鎖鳥に開き見せた。

 喉元にせり上がるような後悔を飲み込む。


「勝ち目がないんだから当然だよ」


 決めたのだからと顔を上げ、鎖鳥は引きつる口元を笑みのかたちに吊り上げた。


「今後の身の振りを考えれば、強いほうに尻尾を振るくらいのことはするさ」


 胸元に偽装式の熱を感じる。

 ゆえに、だからこそ、鎖鳥の言葉がどれだけ偽りだろうと構わず届く。


「は! 実に屑らしい考えでやがります!」


 闇壁すら不定形の潰れクラゲへと戻したフリムジーが嗤った。鎖鳥が服従を示すのは当然だと考え、自らが讃えられるに足る強さを持っているのだと疑いもしない。


「この屑鉄の顔がどこまで歪むか確かめてみるのも一興かもしれねぇです。聞かせてやろうじゃあねぇですか。これの頭の中身がどれほど錆びているのかを」


 キナが仰向けになるよう蹴り転がしたフリムジーは、鷹揚に手を広げると語り出した。


 ――それは白亞にまつわる昔の話。

 生真面目な彼女はドレインレイスに命ぜられた司書長の座で献身的に働いていた。でありながらも、“外”の世界に興味を持っていた。だけれど重責ある司書長であり続ける限り、“外”を自由に見てまわる望みは叶わない。


「始祖なる偉大なドレインレイス様の命で働ける栄誉。それを思えば実に瑣末で愚昧な望みでありやがります」


 たとえ朽ちたとしても書架迷宮から出られることはない。だがそれを厭うことは不遜ですらあると『薄っぺら』は口にする。ゆえに白亞に価値はなく、入れ込んだキナは実に頭が錆びていると嗤った。


「この屑鉄がなにを夢見たか分かりやがりますか?」

「それは……、白亞を“外”に――」

「そう。そしてそれは司書長でさえばければ望みは叶う。簡単な話でやがります」


 再び嗤う。司書長()()が実に楽しそうに。


 ――問題が起きて司書長の座を追われれば。

 ――書架迷宮のしがらみから解放されれば。

 ――望みは叶う。


「かくて屑鉄は禁忌指定書の封印を解きやがりました。力を制御しながら騒ぎを起こせば、己が望みが叶うと思い込んで。ほとほと錆び付いた思い上がりでやがります! 俺様よりも禁忌指定書に詳しいはずがないというのに!」


「なにを――」

「屑鉄が失敗するのは必然だったということでやがります」

「それは、つまり――、お前が……」


「退屈凌ぎの、それも、戯れでしかない提案。まさか本当に実行する愚か者がいるだなんて誰が思いやがります? あのとき俺様は()()だからやめておけと忠告までしてやったというのに!」


 聞きながら鎖鳥は思う。

 酷いことをしているのは自分のほうだ、と。

 こんなのはただの悪足掻きで、策もなく、たたいたずらにキナを傷つけるだけの行為。時間を稼いだところで打てる手はなく、すべては既に終わってしまっている。


「思いのほか反応がねぇですね。興醒めでやがります」


 フリムジーの宣告が静かに響く。


「そろそろ本当に死にやがれください」


 動く巨狼。

 その牙でキナの脚は穿たれ、半ば吊るすように弄ばれて。

 そうして、最後に――、細い首が喰い抉られた。

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