15 虚想存在
「さすがハクア嬢が見込んだだけのことはある――と言ったところかな?」
声は上から降ってきた。「みゃふー!」と鳴いた小猫に釣られて見上げれば、そこには箒に足を引っかけた、逆さ姿の機械魔女が浮いている。
「それは倒せなかったことへの皮肉?」
「まさか。薄っぺらの術式は予想外だったけど、結果は上々さ」
けらけらと気分良さそうにキナは笑った。
となれば、黒曜竜を籠に閉じ込めたのは彼女の仕業で間違いはないか。そう考え至った鎖鳥は、逆さのまま小猫を抱き上げようとする機械魔女を呆れた目で見て言った。
「それにしてもその帽子、どうして落ちないのさ」
「うん? 謎があったほうが魔女らしくていいだろう?」
魔女帽子のつばに触れてみせながら、キナはくるりと花畑の床に降り立った。
「みゃう!」
「うむん、ご苦労様だね。よしよし」
抱き寄せた小猫を肩へと乗せて、彼女は愛おしそうに使い魔を何度も撫でる。
「これで『薄っぺら』も慌てて戻ってくるよ。罠だらけのここにね」
「じゃあそのために……」
「そう。利用させてもらった」
手にした箒の柄に黒曜竜の籠を引っかけると、キナはその蒼焔の瞳に鎖鳥を映した。
「ここで奴を討つ。それがワタシの都合さ」
ガラスのような瞳に映る自身の姿が奇妙に歪む。
(錯覚? でも――)
思考が鈍る。蠱惑でもされているように。
頭を振るが、世界から全身の感覚が剥離してゆくのが止まらない。
「さて、そこでクチカギくん。帰らずにここに残っているクチカギくん。キミも奴を葬りたいとは思わないかい? 恨みつらみもあるだろう。これはそれを晴らす絶好の機会だ」
そうだ。こんな機会は二度とない。キナの言葉が鎖鳥の意識を侵してゆく。否定的な気持ちが湧かず、ただ染み入るような声を受け入れることが最善に思えた。
すべてが曖昧な感覚。揺蕩い眩む意識が魔女の瞳に沈みそうになる。
『遷花広間』の舞い上がる光すら遮られたかのように。
ただ、暗く暗く暗く――。
「やめなさい!」
――それが、不意に打ち破られた。
世界が鮮明になる。
指先まで通う血の巡りは、確かにここに自身が存在するのだと訴える。
透きとおるように響いた一喝に、機械魔女は「あーあ」と残念そうに零した。
目の前には白い少女の背が在った。
解かれた隠蔽式の残滓が光のように揺れ散っている。彼女の纏うどこか現世から半歩ずれたような空気と相まって、それは幻想的にすら見えた。
けれどそれも一瞬で。
続けて開かれた彼女の口からは、随分と俗な言葉が発せられていた。
「――この、性悪魔女」
「もう少しで堕ちそうだったのに。そんなにクチカギくんを取られるのが嫌なのかい。ハクア嬢?」
「ち、ちが――っ。術式で篭絡する手法が不快なだけです! それに鎖鳥さんも――、どうして……。どうして帰らないんですか。帰ってくれないんですか。この世界の酷さを――あなたは知ったはずなのに」
振り返った白亞の視線を受け止められず、鎖鳥は言葉に詰まって黙りこくる。
「――不快? 不快か。面白いことを言うね」
代わりにキナが応じて口の端を吊り上げた。
「なにが可笑しいんですか」
「ハクア嬢。キミがそんなことを言えるのかい?」
「なにを――」
「キミのほうこそクチカギくんを利用しているじゃないか。ワタシは知ってるよ? ハクア嬢が召喚式に手を加えたことを。でも、それは無謀というものさ。『薄っぺら』を葬れるほどの者をそう簡単に喚べるはずもない。徐々に育つようにすれば芽は摘まれないとでも思ったかい? 時間のないキミがそんな悠長な真似をするなんてね。もし本当にそうであったのなら愚策だ。正直信じられない。けれど、まあ、確かに――。その愚策の人柱にされたクチカギくんにとっては『酷い世界』かもしれないね。言い得て妙だ」
キナの一方的な語りに、けれど白亞は黙して応じない。
視線だけが交差していた。
「怖い顔をしないでほしいな。本当のことじゃあないか」
飄々としたキナを白亞は睨む。
「あなたに解るはずがない」
「キミはなにも言わないからね。口下手すぎるのは問題だよ。昔のキミも肝心なことは喋らなかったけれど、もう少しマシだった。やはりあの一件が拍車をかけたのかい? ――ふむ、そうだね。『薄っぺら』の奴がくるまで少し時間がある。語って聞かせようか。クチカギくんも知りたいだろう? ハクア嬢の事情――いや、彼女のコンテクストに則れば『物語』と言うべきかな」
「やめて。やめなさい。必要ない。そんなこと。キナ! あなたはまた――」
「騒がしいね。もう止める力すらないっていうのに」
その言葉とともに瞳の蒼焔が輝きを増した気がした。
キナが無造作に左腕を一振りする。
直後。散り舞う光となって顕現した『幻想因子』が、白亞に向かって奔った。
「――――」
声もなく、ただ静かに眼前の少女は床に膝をつく。
「白亞!」
「騒がずとも平気さ。ワタシがハクア嬢を傷つけるとでも?」
慌てた鎖鳥は白亞の顔を覗き込むが、確かに彼女の顔には苦痛の色がなかった。
「大丈夫……?」
「――――」
返事はない。彼女の口は動いても、声は生まれていない。眉根を寄せて歯痒そうにする白亞を見て、鎖鳥はキナが声を封じたのだと理解した。
「どうして」
鎖鳥の呟きに、キナが片眉を上げて怪訝な素振りを見せる。
「白亞にこんな術式を使わなくたって、キナは平気なんじゃないの?」
「それが?」
「言わないから言えなくするなんて、僕は気に入らない」
「それで?」
「解いてよ。解かないなら、僕がやる」
肩をすくめて見せたキナは、それだけで動かなかった。
鎖鳥は白亞に働いている術式に意識を集中する。
「――――――」
白亞がなにかを訴えているが、逃げるわけではないので意識の外へと追いやった。
鎖鳥は彼女の手を取り、隔絶している音を辿る。
筆致に触れるようにして、害している要因を読み解く。
目には見えていなかった像を幻視し、その輪郭を確かなものとする。
――鳥籠の中に閉じ込められた白い少女。
それが見えたものだった。
術式は難解で『幻想因子』の流れは複雑。
けれど――、解くことはできる。そう鎖鳥は感じた。
ただそれが易しくはないとも理解できる。
それでも理解できた以上、不可能ではない。それを遂げる手順さえ間違えなければ。解くための道筋を踏み外しさえしなければ。
対抗式に属するものは戦いでも使うことがある。相手の厄介な力を打ち破るために必要な術式で、鎖鳥も簡単なものなら諳んじられる。勿論それでは足りず、だからこそ読み解くことをした。
必要な言葉を『魔学書』から選び取る。
「抜粋編纂――」
繋げ並べる物語が『幻想因子』に方向性を与え、対抗式の顕現を導く。
「『牢番の気配が失せた代わりに、自身の息遣いが耳に障る』『外へ出よう、と彼は言った』『湿った柔らかな土。木立を抜ける風。樹冠から仰げる空』『陽の熱を知る』【compile/convert】――、君はもう決めている」
語句の連なりが力を持ち、対抗式として成立した結果――。
至極当然の帰結として、機械魔女の術式は打ち破られ、
「――――、ぁ」
白亞は声を取り戻した。
掠れ囁く彼女の言葉は聞き取れなかったが、声が在った事実は認識できた。
緩慢な拍手が『遷花広間』に響く。
「いやあ、お見事。すごいすごい。いいね、キミ。ワタシの予想以上に育ってる」
「僕を試したの?」
「結果的には」
けらけらとキナは笑った。
「それだけの実力があるのなら、キミの言葉に耳を傾ける気も生まれるというものさ」
「力の有る無しで態度が変わるなんてね」
「誰が言ったかは重要さ。それが言葉の重みだとは思わないかい」
「……――、どうかな。よく分からない」
「ふむん。そうか、残念。でも、考えずに頷くだけの輩よりは余程好感が持てるね」
「好かれても、その、困るよ」
「そう嫌そうな顔をしないでほしいな。ワタシだって傷つくんだよ?」
光片の舞い吹雪く広間に、再びけらけらと笑うキナの声が響いた。
「こんな機械仕掛けの心臓でも、軋みもすれば壊れもする。メンテナンスは大変なんだ」
鎖鳥が眉間にしわを寄せていると、隣の白亞が口を開いた。
「まだ戯れ言で惑わす気ですか」
「ワタシは本気なのだけれど、ハクア嬢にそう聞こえないのならしかたがないね」
「茶化す余裕のある人の言葉が、どうして本気に聞こえると言うの。あなたはあの一件すら軽視してる。だからそんな風に振舞える。無自覚で無遠慮で――」
「白亞」
静かな呼びかけに、声高になりかけた白亞の言葉が途切れた。
遮るように手を伸ばした鎖鳥は、視線を逸らす少女に声をかける。
「キナが悪い魔女だとは白亞から聞いた。君がそこまで冷静でいられなくなるくらいだから、抱えてる確執も根深いのだとも思う。けど、思うだけで僕はなにも知らない。白亞が望むものが見えないでいる。ここにこうして残っているのは、少なからず君の力になりたいと考えているからなのに」
白亞は唇を噛んだままなにも語らない。
視線は床に落ち、白い手をきつく握り、なにも言わないでいる。
けれど、じっと静かに鎖鳥の言葉を聴いてくれていた。
「ハクア嬢はいつもそれだ」
黙した白亞を呆れるようにキナが息を吐いた。
「肝心なことになるとなにも話さない」
「違う。そんなことはない」
光が吹雪く中で、鎖鳥はキナと向かい合いながら告げる。
「それは――、キナに聞く気がないだけだよ」
なにも声にはしていなかったが、白亞の態度は多くのことを語っていた。
ひたすらに考えて考えて考えて。
真面目すぎるほど真剣になって。
上辺の感情で取り繕ったりしていないからこそ、白亞は黙るしかない。
(そう考えられるのは、僕にも似たようなところがあるから――かな)
すべてを察することはできなくても、語れずにいる姿をなじる気にはなれなかった。
「そうは言うけれどね。クチカギくん。キミは事情を知らないままなにかできるのかい? 事態の解決へと至る道を描けているのかい? 使われるだけのキミは、ハクア嬢からもこう言われているのさ。――なにも知らせずに使い捨てるだけの、ただの部外者だと」
「違う。違います」
応じた白亞の声は震えていた。
「そんな風に思ってなんか、いない。勝手なことを言わないで」
「ならば語り聞かせても構わないということかな? キミの事情を。キミがいかに不幸であるかを。憐れまれ、思いやられ、人を遠ざける悲劇の渦中にいるのだという都合を」
「それで証明できるのなら」
白亞の繕われた気丈さは、けれどキナと向き合うに足りていた。
「私は――、私は鎖鳥さんを関係ない人だとは思っていないですから」
「――驚いた。そこまで言うとはね。では、語るとしようか」
魔女帽子の大きなつばで顔を隠しながら、キナは慇懃に礼をして見せた。
肩から落ちそうになった小猫が「みゃ」と慌ててしがみつき、動かない主に抗議することもなく、ただただ体勢の悪さに足掻く必死さだけが増してゆく。
「『禁忌指定書』のことは聞いているかい?」
ぶら下がるだけになっていたあたりで、ようやくキナが口を開いた。姿勢を戻して使い魔をひと撫でする機械魔女へ、鎖鳥は首肯で応じる。
それは白亞が司書長の資格を凍結されることになった一件。
その名のとおり禁忌とされる本の封印をキナが解き、白亞が犠牲を払いながらも収めたという過去の話。二人が対立している原因がそこにあるのだとは鎖鳥にも分かる。
「ふむ、ならばハクア嬢が自由に動けない理由を考えたことがあるかい? このドレインレイス図書館で司書長を務めるのには相応の素養が必要だ。なにかあれば事態を収められるほどの、ね。その司書長を務めていた彼女がいまでは姿を隠すので精一杯。なぜか。それは、彼の一件でハクア嬢の力が書架迷宮に散ったからさ」
「散った?」
「そう。キミだってその断片を見たことがある。それは物に宿って身勝手に振舞うことがある。それは迷宮の産物である魔物にはない背景を抱えている。それは迷宮の環境すら変えることがある。そしてそれは『薄っぺら』が求めている」
「断片って、まさか書片が白亞の……」
「そのとおり。書架迷宮に散った『書片』こそがハクア嬢の『虚想存在』であり、力の根幹。彼女の綴る【奇譚紀行】というコンテクストに則るならば、その欠片は『断章』こそが相応しいと思うけれどね。とまれかくまれ、そうなるとキミは『薄っぺら』にハクア嬢を売っていたことになるわけだ。まあ成果が出ずに役立たず認定されれば殺されてしまうから、それもしかたがないとは思うよ。ハクア嬢自身も協力していたようだし?」
水を向けられた白亞はキナを見据えて言った。
「枝葉がどれだけ失われようと、いまさら関係ない」
「ワタシには幹も削られ根も断たれたようにしか見えないけどね。このガラスの目玉が言うんだよ。ハクア嬢は『薄っぺら』にすべてを奪われ自由を失う前に、樹そのものを燃やすつもりだと。そう考えればクチカギくんを用意した理由も理解できる。逃げまわる『薄っぺら』を葬るのは無理でも、動かない樹を燃やすのは容易い」
「それで? だとしたらなんだって言うの? 私は『薄っぺら』の物になるなんて我慢できない。奴はただ力を奪い続けて使うだけで、その力の背景を知ろうともしない。乱雑に寄せ集めたそこに世界は亡いもの。そんな醜い蒐集品に加わるくらいなら――」
「死を選ぶ、と?」
キナの言葉に白亞は唇を噛んだ。
「無策で命を捨てたところで『薄っぺら』はキミを必ず回収する。この書架迷宮内で死ぬだけでは意味がない。言ってしまえば、ワタシたちは迷宮の囚人でもあるのだからね。単純に死んだだけでは『虚想存在』がワタシたちを消してくれない。その消えずに残る力こそがヤツの狙いなのだから、死により存在の領域が反転して『虚想存在』の一部となったキミは、半端な自我だけを有する認識世界で『薄っぺら』の命が尽きるまで隷属を強いられる。実に許せない未来像だね」
「そうでしょうね。あなたも私の力が欲しいだろうから」
「そんな風に思われるのはしかたがないとは思うけれど、ワタシはワタシなりにキミを救いたいだけだよ。彼の一件でキミが力の代償として受けた呪い。力の多くが書片と化して散逸し、最後は自身すら人ならざる『怪異』へと変じる呪い。もう時間がないことは知っているし、解呪のすべもないことも知っている。キミが召喚式にどんな仕込みをしたのかまでは知るに至らなかったけれど、なにをしたにしてもこのままでは時間切れさ。キミの意志に関わらず『薄っぺら』の所有物となり、ヤツの好きに使われるのは避けられない。そうなればもう、ワタシでは手の打ちようがない。これでもワタシは使える力に制約を受けた『謹慎処分』の身の上だしね。だからこれが最後の機会なんだ。キミを救える最後の機会。送還式を妨害するためにヤツは必ずここにくる。ワタシは『薄っぺら』を殺して、それから――、ゆっくりとキミの呪いを解く方法を探すとするよ」
「そんなこと……、できると思っているの?」
「それはどちらのことかな?」
けらけらとキナは笑う。
「救いたいという気持ちを分かってくれたみたいで嬉しいよ」
「――っ、信じるわけないでしょ。口ではどうとでも言えるんだから」
「とのことだけど。クチカギくん、キミにはハクア嬢がどう見える?」
「僕?」
唐突に言われ、鎖鳥は白亞を眺めた。
青白くすら思えることがある彼女の肌に、いまは赤みがある。しきりに唇を動かしながらも声を発することはなく、それは繕う言葉を探しているように見えた。
「ええと、『嫌よ嫌よも好きのうち』?」
「鎖鳥さん!」
「いや、あの、その、ふ、深い意味はないよ」
「あ、あっても困ります!」
鎖鳥と白亞のやり取りに、キナがやれやれとばかりに肩をすくめてみせる。
「嗚呼妬ましい。そんな風に興じられるなんてね」
「冗談は置くとして、一応僕にも事情は理解できた。キナは償いがしたい。白亞は僕を利用して最悪の事態を避けたい」
「聞こえよく言えばね。でもまあ、結局のところ、ワタシはただ好きに振舞うだけさ」
変わりない態度で微笑を浮かべたキナが言う。
「ワタシがしたことを思えば、ハクア嬢だけを救ってめでたしめでたしと言うのは随分とおこがましい話だからね。ワタシの知らないところでワタシの知らない相手がワタシのせいでどんな災難を被ったかまでは量れない。その角度から見ればワタシのしようとすることは償いでもなんでもない」
「いいよ。重要なのは、キナが白亞のためを思って動いてくれるかどうかだから」
「――――、そうかい。変わっているね、キミは」
まばたきを繰り返したキナが意外そうな声でくつくつと笑う。
「それにしても『利用』ときたか。事情を知ったクチカギくんの認識はそこへ至ったわけだ」
「それがどうしたのさ」
「いいや、どうもしない。しないとも。ハクア嬢の仕打ちを鑑みればそう捉えてもなんら不思議はない。彼女という樹を燃やす――『虚想存在』すら残さず消すということの意味を理解したんだろう? それはつまり彼女を殺すということだと。そんなことのために尽くしていたなんて、嗚呼、実に『酷い世界』だね」
「僕は――」
「キナの言うとおりです、鎖鳥さん」
否定の言葉を遮った白亞の顔は暗く沈んでいた。
「私がこうして振舞える時間も残りわずか。呪いによって『怪異』となる前に、あなたを利用して力の源を消し去るつもりでした。こんな心のまま世界に焼きつけられて、そのまま永劫に束縛と従順を強いられるのは耐えられそうにありませんから。私が私のために、あなたがなにも知らないまま終わらせるつもりでした」
「だったらどうして僕に帰れなんて言うのさ」
言葉を途切れさせて俯く白亞に、鎖鳥は静かに語りかける。
「僕が帰って、それで白亞がフリムジーの物になって終わり? そんな結末、僕は納得できない。できるはずがない。だってまだ、“外”すら見ていないんだから」
「わ、私だって――」
思わずといった勢いで顔を上げた彼女の瞳は涙で濡れていた。
「でも、こんなにもあなたを利用しているのに、私にはまだ死ぬ覚悟もなくて。迷って。決められなくて。もしかしたら、とか。そんな夢みたいなことばかり考えて」
「白亞、そんな顔をしないで。君はもう少し頼るべきだよ。そんなになるまでひとりで抱え込む必要なんてない。君はわだかまりがあるかもしれないけど、キナだっていろいろと考えてくれている。頼るのが難しいのなら利用したっていい。僕を利用できる君なら簡単なことだよ」
機械魔女が咳払いで抗議するが、鎖鳥は視線すら向けずに続ける。
「時間がない。呪いを解く方法もない。あのフリムジーを倒せるはずがない。そんな風に考えるのはやめにしよう。キナが用意した策で奴は倒せる。呪いを解く方法は“外”で見つけられる。いまそう決めさえすれば、時間も関係ない」
「だめですよ、鎖鳥さん。この魔女を信用してはだめ。司書長代行を務める『薄っぺら』という軛がなくなれば必ず態度を変えます。禁忌指定書に力を求めて封印を破り、あまつさえ己が力量を読めず制御を失した愚かさを持つ相手です。信じるに値しません。そんな無謀に鎖鳥さんが巻き込まれる必要なんて、ない」
「巻き込まれている気はないよ。僕は僕のために君という存在を利用してる。帰れば終わるはずなのに、留まる理由に君を使ってる。正直なところ、僕は委員長と違ってそこまで帰りたいとは思えないんだよ」
「前にも……、言っていましたね。どうしてですか。ここよりも酷いなんてことはないと思いますけど」
「僕は臆病者だから」
「それは、その……。帰るのが、怖い……?」
肯定するように、鎖鳥は自虐的な笑みを浮かべてみせた。
「君のためになら死ねるなんて――、そこまで自己陶酔的にはなれないけど。でも僕は、帰るよりも白亞の言う“外”を見てみたい。叶うなら、君と一緒に」
「あ、あの、それって……」
言葉に詰まりながらも白亞は鎖鳥を見つめ続ける。
「死ぬ覚悟なんて、そんなものはいらない。必要なのは所有される覚悟のほうだよ。『薄っぺら』を退けて、君の『虚想存在』は僕が手に入れる」
白亞が声もなく動きを止め、微かに目を見開いた。
けれどそれも一瞬のことで、見つめる鎖鳥の前で彼女の唇がゆっくりと動き始める。
「――――――――」
その時間を裂くように、不意に横から不満の声が上がった。
「聞き捨てならないな」
噤んでしまった白亞を見て鎖鳥は一度目を伏せ、キナには素知らぬ風で応じてみせる。
「どうしてさ。白亞を救うってキナの大義に影響はないと思うけど? それにさっき言ったよね。僕が予想以上に育ってるって。だったら二人で一緒に戦うほうが楽になるはずだよ」
「『薄っぺら』のことに関してはそうだろうさ。けどね、クチカギくん。ハクア嬢が嫌がるようなら話は別だ。もしそうならキミはワタシの敵になる。キミの手からハクア嬢を救う必要が出てくるからね」
キナの問う視線が白亞へと向けられた。
「わ、私は、その、あの」
「嫌ならばそう言ったほうがいい。ワタシとしても、どうせならいまのキミが望むかたちで結末を迎えたいからね」
鎖鳥は白亞が俯くのを見つめたまま、答えが返るのを静かに待った。
「ええと、別に、なにも、だから」
けれど紡がれるのは取り留めもなく意味を成さない言葉だけで。それでも服の裾を握り締めた彼女が、この場において沈黙せず、思うままの気持ちを声にしようとしているのだとは感じ取れた。
「私は、い――」
「――おっと、残念。語りの時間はここで幕引きのようだよ、ハクア嬢。答えはあとで聞くとしようか。『薄っぺら』のお出ましだ」
姿はまだない。けれど、キナは態度の切り替えに躊躇を見せなかった。
「……あ、あの。鎖鳥さん。戦わないでとはもう言いません。でも、無理だと思ったら……、『召式円環陣』に逃げてください。最後に送還式を通すくらいのことはしてみせますから」
「大丈夫だよ。白亞は隠れることにだけ専念してくれればいい」
逡巡。互いの視線だけが絡むわずかな時間。
言葉を交わし続けるだけの猶予はなく、一度瞑目した白亞は隠蔽式の展開に入った。
鎖鳥はキナの隣に並び立ち、足音の聞こえ始めた方向に身構える。




