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14 書片・第94節

 書片(フラグメント)・第94節。黒曜竜(こくようりゅう)千影(せんえい)』。

 ねじれた二本角の黒い竜。細く鋭い甲蟲のような巨躯。

 這うような姿で暴れまわるそれに、鎖鳥(さとり)たちは苦戦はないと思って挑んだ。


 六度鳴いた小猫の主――機械魔女キナの見立てで平気だと言われていたこともあるが、なにより書架迷宮で鍛えてきた力は黒曜竜と渡りあうに足るものだと信じていた。『遺棄指定区画(イリーガルブロック)』の魔物たちに後れを取ることはなくなっていたし、自分たちが『虚想存在(アムネジア)』に馴染んできている実感があった。


 もし、勝てない理由があるとすれば。

 『召式円環陣(レイズドサークル)』に至れていない原因を挙げるとするならば。

 それはきっと、副委員長――最上叶絵(もがみかなえ)と話したからだろうと鎖鳥は思った。


 黒空に向かって光片の花弁が吹雪き舞う。

 この『遷花広間(フラワーベッド)』で、黒曜竜の攻撃は機敏で峻烈だった。


 その多くは委員長が【記述形成(デバイス・クリエイト)】で顕現させた文字列の()()で無力化していたが、倒すためには強襲型(ブレイカー)桜華(おうか)がいま以上に働く必要があった。


 鎖鳥は後方支援(バックアップ)を続けながら唇を噛む。栞状に顕現させた【散華衝動(RoB)】を振るう桜華の動きが精彩を欠いたまま一向に戻らない。単純な緊張であればとっくに調子を取り戻しているのが常なだけに、先日の話が尾を引いていることは間違いないと思えた。


『叶絵先輩はあたしたちを疑ってるんですか!?』

『嘘は言っていないって()()けど、でも私が今日まであなたたちと元の世界で会っていた記憶があるのも事実なの。疑うとかではなくて。確かめているだけ』

煤朱鷺(すすとき)、落ち着け。俺たちは俺たちだ。最上が言うように元の世界に俺たちの()()がいるとするなら、それも召喚の都合に影響する措置――()が仕組んだ幻術かなにかの類だと考えれば筋が通る。俺たちが戻りさえすれば、それで元通りだろ』


 委員長の言葉でその場は引き下がったが、桜華が納得しているかは怪しい状態だった。けれどその希望的観測を多分に含んだ内容を話し合う機会もなく、フリムジーの不在を知らせる小猫が六度鳴いた。


 そうして鎖鳥たちは急かされるように、黒曜竜と対峙するいまに至っていた。


「抜粋編纂――」


 隣で幻想素子の流れが整いだすのを感じた。

 手際は几帳面すぎるほどに丁寧で、でもだからこそ多少遅くても不安は覚えない。

 『魔学書(コーデックス)』を手にした叶絵が空間に術式を記述してゆく。


「『風よ、風。道草は好きか』『気まぐれさは風精霊(シルフ)らしいと褒めるべきだろう』『足の疲れも、道程の憂鬱も、吹き抜けた風とともに消えている』【compile(いま)/convert(しばらく)】――、戦えるように」


 丁寧な術式によって生まれた風が広間内を吹き抜け、委員長と桜華の疲労を拭い去る。

 叶絵が現状で唯一扱える術式だったが、その効果は鎖鳥が扱うものとの相乗で十分期待できるものとなっていた。少ない準備時間で物にした叶絵の才能に鎖鳥は舌を巻く。


 とはいえ、負けはしないが勝てもしない。攻撃の手数が減っている分だけ黒曜竜が自由に暴れ、結果として委員長に負担が寄っている。戦線を維持しているのは確かだったが、現状は完全に膠着状態になっていた。


(ここは一旦下がって仕切り直すべき――なんだけど)


 『召式円環陣』のあるほうへ向かわなければ、黒曜竜も深追いはしてこない。だから逃げるのはそう難しくない。それなのに、と鎖鳥は委員長を見た。

 黒曜竜の挙動を見極めて妨害狙撃する顔つきに、撤退の意思は感じられない。


(攻め手が足りてないのは明らかなのに。まさか冷静さを欠いてる? そんなこと――)


 委員長なのにそんなことあるはずがない。なにか思惑があるに決まってる。針の糸を通すような光明に無策で縋るはずがないと、鎖鳥は(かぶり)を振って()()を排した。


朽鍵(くちかぎ)くん! フォローお願い!」


 床を蹴って前へと出た桜華の姿が見えた。「無茶するな! 煤朱鷺!」という委員長の制止を振り切り、黒曜竜を攻め立てる。鎖鳥も慌てて術式を組み上げた。


「【compile(とにかく)/convert(いまは)】――、壁を!」


 守りの障壁。見えない長方形の壁が桜華の周囲に生まれ、それが黒曜竜の鎌を振るうような一撃を肩代わりする。


 破砕する音が続けて二回。


 この時点で、障壁はもう残り二枚しかない。いまのように致命的な一撃か、浅めのものでも二度もらえば支援効果は終わり。続けて同じ術式を使うには、『魔学書』の作る回路(サーキット)の耐久性が足りていない。


「この――っ!」


 強引に栞を振るう桜華。帯びた光が一際鋭く輝きを持った。

 巨剣のような殺傷範囲を持つ斬撃が、暴れ迫る黒曜竜の体躯を怯ませる。

 だがそれでも、障壁式用回路の安定化(クールダウン)を待つ余裕はなさそうだった。


「委員長!」「――分かってる!」


 障壁が間に合わないことを鎖鳥が告げるまでもなく、焦りを見せた委員長も動いていた。

 一変して悪化した戦況に、やはり薄氷の膠着だったのだと鎖鳥は歯噛みする。


(無茶がすぎるよ、煤朱鷺さん。こんな強引な攻め方、効率的じゃない。……ああ。でも、そっか。そんな風になるほど、いまの煤朱鷺さんは精神的に余裕がない?)


 あり得そうだと思いながら、鎖鳥は回復式を中断保持するべく動く。

 その前で。【記述形成】した自動拳銃ハンドガンの銃撃が黒曜竜の足を縫い止めた。巨躯の足元で「縛捕刺凍棘呪枷穿」と無数に青白い文字が収縮と拡大を繰り返し、その足枷を外そうと黒曜竜は暴れ出す。


「下がれ! 煤朱鷺! 一度立て直すぞ!」

「――――っ、はい!」


 周囲で揺れ騒ぐ書壁たち。けれど、さすがにこの『遷花広間』の書架は術式で防護されているのか本が落ちてくることはない。暴れる黒曜竜が引き起こす地震のような揺れのなか、鎖鳥たちはその場から撤退し始めた。


 どうやら使わずに済んだかな、と鎖鳥は意識の中で本を閉じる。

 中断保持していた回復式を放棄したことで、整っていた『幻想因子』が霧散してゆく。


 そうしてなんとか黒曜竜の追撃圏内から脱すると、鎖鳥たちは出入り口の扉に程近い場所で身を潜めた。まだ遠くで黒曜竜が暴れる音がする。


「勝てない相手じゃない。最上が不慣れなのは置くとしても、だ。煤朱鷺、どうして無理に攻めた? 朽鍵、途中から動きに迷いがあったぞ? 俺たちがいつもと同じように戦えればそれで帰れるんだ。緊張しているってわけでもないんだろう?」


 委員長は咎めるというより案じるような眼差しだったが、それでも鎖鳥は返せる言葉がなかった。迷いがあった自覚はなく、的確だったと言える自信もない。


「あの」


 重苦しい空気に潰されそうな声で桜華が呟く。


「委員長は本当に信じてるんですか?」

「なんの話だ?」

「元の世界にいるあたしたちの話です。本当に幻術かなにかだって思ってるんですか?」


 縋るような視線に、けれど委員長は首を横に振って応えた。


「確かなことは言えない。ただ、俺たちが俺たちである以上、帰る以外に道はないだろ」


 そう言い切る声音は明瞭で、揺らぎがない。

 桜華に向ける委員長の横顔を見ながら、鎖鳥は気持ちが沈むのを感じた。迷いなく在れるその姿に、どうしようもなく心がざらついていく。


「あたしは自分があたしである自信が持てないんです。思うんですよ、自分が偽者なんじゃないのかって。だって、ここで目が覚めてから、なんだか記憶が曖昧で――。あたしは煤朱鷺桜華だって確信があるけど、元の世界のあたしが煤朱鷺桜華だった確信が持てません。委員長は違うのかもしれないですけど、あたしはこのまま帰るのがどうしようもなく――、怖いです」


 消え入るような桜華の声。それは言葉にすることで自分の気持ちを確かめているようにも聞こえる切実な吐露だった。


「怖い、か。俺はこんな場所に居続けることのほうが怖いよ。書架迷宮? ドレインレイスの幻想図書館? そんな異常な世界は本の中にだけ存在していればいい。触れられる絵空事(フィクション)なんて面倒な現実(リアル)と変わらない。この在り様が当然だと頭で(うそぶ)く『虚想存在(アムネジア)』に抗いたくはないのか? 帰らなければ、きっと俺は俺でなくなる。お前たちは違うのか? 俺は元の居場所を取り戻して、自分が自分だったのだと証明したい」


「委員長もそんな顔をするのね。初めて見た」


 ぽつりと、叶絵が言った。

 それは鎖鳥にとっても、おそらく桜華にとっても同じく抱いた感想だと思った。

 顔を逸らす委員長を物珍しさから目で追ってしまう。


 鎖鳥はようやくそこで理解した。

 この人だって普通の人間なんだ、と。

 自分と二つほどしか年の変わらない普通の高校生だったのだ、と。


「僕は――」


 なにを勝手に決めつけて、その存在に寄りかかっていたのだろう。

 いつだって強い委員長になら、いくら頼ってもいいと――どこかで勘違いをしていた。


「どうかしたの? 朽鍵くん」


 桜華に問われる。いつの間にか俯いていた。

 けれど、それはもう終わりにしよう――と鎖鳥は顔を上げる。


「決めた」


 呟くと、きょとんとした桜華の顔が見えた。


「僕は帰るべきか迷っていて、黒曜竜に勝つことすら迷ってた。期待に応えられないことを怖がって、やれるはずのことすらリスクだと決め付けていた。委員長に頼れば――いや、甘えていればそれで良かったから」


 帰らなければ、白亞が妥協した期待にすら応えられないかもしれない。

 帰らなければ、フリムジーに抗えないことで命運は決まってしまうかもしれない。

 帰らないことを選ぶのは難しく、選んだところで意味があるとは限らない。


(でもその意味を決めるのは僕自身だ。誰かが決めたことに流されたら――きっと僕は僕でなくなる)


 帰ると言い切った委員長。面白そうに目を細める叶絵。そしてなぜか眉を曇らせる桜華。

 それぞれがそれぞれに考えているのだと思った。


「提案があります。僕たちが勝つために」


 悩み迷うことは多い。けれど、と鎖鳥は三人を見据える。

 帰りたいと望んでいる人がいるのだから、いまはそのために全力を尽くせばいい。

 それすらもできないのなら、なにもできないと思った。

 そうして気持ちさえ定まれば、やるべきことは簡単だった。





「その提案は本気で言ってるの? ……まぁ、言ってるのは()()けど、正気?」

「さっきまでの術式を見る限り、僕より才能があります。最上先輩ならできますよ」

「そ、そう……。冗談じゃないのね。やっぱり朽鍵は変わってる。でも臨機応変に術式を使い分けるのは無理よ? 集中しないと記述のイメージが途切れて上手くいかないもの。やれるだけはやるけど……」

「慣れるまではフォローしますし、慣れてしまえばルーチンワークです。平気ですよ」


 そうした叶絵との打ち合わせは功を奏し、黒曜竜と再び戦い始めてからの流れは有利に運べていた。叶絵が回復式と障壁式を適宜使う形に戦局が収まっている。黒曜竜の攻撃を委員長が妨害して桜華が攻めるという状況に変わりはないが、その両者の動きは手の空いた鎖鳥の使う支援式が格段に引き上げていた。


「煤朱鷺さん! 強引にいっていいよ!」

「ん、ありがと!」


 支援役(バックス)分類(カテゴライズ)される鎖鳥自身に黒曜竜を削るほどの火力は生み出せないが、強襲型の桜華が効果的な一撃を狙いやすいように状況を整えることはできる。


 黒曜竜がその巨躯をたわませた。

 ねじれた角で桜華を突き殺そうと動いてくるのを見て、鎖鳥は委員長に強化式を施した。


 生まれるのは瞬間的に精度と威力が増した妨害銃狙撃。

 文字の弾丸が爆散収縮して黒曜竜の動きを鈍らせる。


「がら空き――っ!」


 振り抜かれる光。

 桜華の剣状の光を纏った栞による一閃が、黒の甲殻を斬り裂き深手を刻んでいた。

 連携を重ねるほど呼吸のずれは減り、加速度的に勝利は近づいていく。

 黒曜竜がその巨躯を横たえ、風が()くような息を繰り返すだけの死に体となるまで、それほど時間はかからなかった。


「みゃあ」


 と、不意に鳴き声がした。

 『遷花広間』に入ってからはいずこかに姿を消していた機械魔女の使い魔だった。小猫は黒曜竜の上を見て再び鳴いた。気を抜くなと言うように。そこに()がいるぞとでも言うように。

 ばさり、と羽音がする。


「本当に帰りやがるので――?」


 雑音混じりの声。見上げれば、影色の鳥がいた。

 (ふくろう)型の『六式魔(ヘキサハイド)』。序列・六。


「帰ったところでお前たちに居場所なんかありやがりません」


 黒曜竜の背に止まった影鳥は、フリムジーの声を発しながらくちばしを動かした。

 単一の眼球は忙しなく、その視点は定まらない。


「その眼鏡女からも聞いてやがるはずです。所詮お前たちは()! 帰って本物を前になにをするつもりで? 殺しやがりますか? 奪いやがりますか? 周囲を偽り、本物に成り代わる? そんな偽者らしい偽物な生き方を選びやがるつもりで?」


 唐突な問いに鎖鳥は身動きできなくなっていた。


(僕たちが、偽者……?)


 否定する言葉の羅列が脳裏を支配する。

 あってはならないことだと本能が論じ、あり得ないことだと理性が拒絶した。

 委員長はなにも言わない。桜華もなにも言わない。


(もしも――)


 仮にそうだとして。幻術の類ではなかった場合。

 元の世界にいるのは()()なんてものではなく――。


「耳を貸す必要なんてない」


 凜とした声音が響く。射抜くような瞳で叶絵が序列・六を見据えていた。


「大丈夫。こいつは()を言っているから」

「な――なにを言い出しやがります。根拠もなしに――」

「だって()()もの」


 それがただのブラフではないことを鎖鳥たちは知っている。彼女が持っていたスキルは【虚飾耳鳴(ノエル・ノイズ)】。偽りを感じ取れるそれがフリムジーの嘘を見破れることに不思議はなかった。


「あなたが『薄っぺら』と呼ばれる理由が分かった気がする。本当に耳障りな音ばかり。飾ってばかりでなにもない。あなた、自分で言っていることのほとんどを、自分で信じていないでしょう?」

「黙れダまれダマれダマレ! 俺様は司書長代行だぞ! お前みたいな屑人形とは違って偉いんだ! 認められている! 黙りやがれください!」


 確信を持った物言いをする叶絵に対して、フリムジーは激しく動揺を見せていた。


「ま、最上が言うなら確かだな。時間稼ぎの虚言を信じる道理はない」


 文字列で構成された自動拳銃(ハンドガン)を手に、委員長が言う。


「俺は帰るよ」


 放たれた文字の弾丸が序列・六の前で四散して収縮を始めるまでは一瞬だった。青白い文字が拘束の力を顕現させ、序列・六は黒曜竜の上から転がり落ちてゆく。


「いまここにいる俺がそう感じてそう考えていることがすべてだからな。それに、たとえ向こうに()()があったとしても、俺はそのすべて排除するだけだ。最上、煤朱鷺、朽鍵、なにかあれば俺に押し付ければいい。その覚悟があるなら、それくらいはしてやる」


 委員長の静かな宣言に、叶絵が微苦笑を浮かべた。


「観光気分でいられたなら、そんな覚悟もいらなかったかもね。私も帰るわ」

「朽鍵くんは帰るの?」


 問う桜華の瞳は不安に揺れている。


「聞いてどうするのさ。僕の答えで煤朱鷺さんの答えが変わったりするの?」

「それは――。どうしてそんなこと言うの。朽鍵くんだって帰るんでしょ」


 鎖鳥は首を横に振った。


「僕は帰らない。ここに残る」


 言葉にしてみれば、意外なほど腑に落ちた。


「でも、煤朱鷺さんは帰ったほういい。きっとそのほうが笑っていられると思うし、そのほうが煤朱鷺さんらしい。いま帰るのが怖いのは――分からないからだよ。確かめればそれもなくなる。帰ってしまえば、なにに怯えていたんだろうって思えるようになるよ」

「あたしらしいってなによ……、なにも知らないくせに……」

「それは……、そうかも。ごめん」


 そう言われるのも当然だと思った。書架迷宮で目覚めてから少しは話すようになりはしたが、元の世界では親しい間柄だったとは言い難い。彼女がなにを好きでなにを嫌いか。どんなことに泣いてどんなことに怒るのか。普段の彼女がどうやって過ごしていたかなんて――鎖鳥はまるで知らなかった。


「だけど笑顔が似合うと思うのは本当だから、諦めて」

「うー……」


 遠慮なく言いすぎたかな、と考える鎖鳥の前で、桜華は怒っているのか顔を伏せたまま拳を震わせていた。


「朽鍵くんがそういう人だとは思わなかった」

「いま明かされる――ってヤツかな? まあ、向こうの()が本当にいるなら、それと比べてみるのも」

「そ――、そんなことしたくない! したくないよ」


 さすがに無神経な物言いだったかもと鎖鳥が口を開きかけたとき、それは鳴いた。


 鋭く甲高い梟の奇声。――幻想素子に動きがあった。

 繰り返される鳴き声。――不快な気配に肌があわ立った。


「――――――――ァ!」


 黒曜竜が吼える。死を待つばかりだったはずのそれが、巨躯を起こそうとしていた。


「ち、いつの間に――!」


 呪縛から逃れて飛び立とうとしていた序列・六を委員長が撃つ。

 それは(あやま)たず影姿を射抜いた。

 フリムジーの下卑た笑い声を残して、序列・六は霧散していゆく。


「なにをしたのか知らないが――また暴れられる前に片付けるぞ!」

「あ――、待って!」


 鎖鳥は叫び、駆け出した桜華の腕を思わずつかんでいた。


「委員長も! こいつを刺激するのはまずいです」


 幻想素子の流れに不快さを覚えた原因は。

 いま使われた術式が酷く(いびつ)だったからだと気づかされる。


「普通じゃない術式っぽいです、これ。死を起因(トリガー)に周囲を巻き込む類のです」

「――――、なるほど。無力化が上策ってわけだ」


 言うが早いか拘束の銃撃が放たれていた。狙いは(たが)わない。


「な――」


 けれどそのすべてが()に呑まれた。

 黒曜竜の巨躯から黒いなにかが溢れ出で、弾丸を取り込み膨れ上がる。


「効いてない!?」


 講じる手を持たない桜華がたじろぎを見せた。口にはしないが焦りを抱いたのは委員長も同様だろう。「ま、拙くない?」と叶絵も一歩下がる。


「逃げの一手が最善、か?」

「と、思います」


 委員長の言葉に鎖鳥は同意する。委員長の銃撃で黒曜竜は微かに怯みはするものの、ゆっくりと向かってくる動きは止まらなかった。倒すのがためらわれて拘束もできない以上、最早それしかないように思えた。


「で、でも……、『召式円環陣(レイズドサークル)』ってそんなにすぐ動くの?」


 叶絵の疑念はもっともだったが、細かなことを機械魔女に任せきりなために、判断の材料が足りない。桜華が足元の小猫に目で問うが、返るのは「ふみぃ」という申し訳なさそうに鳴くばかり。


(これはちょっと――、困ったな)


 鎖鳥は書縛(ブック)ホルスターの『魔学書』に触れながら、意識を術式の検索に向けた。


(なにか。なにか使える術式はなかったっけ)


 普段から扱えているようなものでは効かないのは目に見えている。そんなもので対処できるのなら、初めから戦う必要なんてないのだから。それでも、なにか――。

 と、鎖鳥は『魔学書』以外のところで『その情景』に思い至った。


 この黒曜竜に襲われなかったことがある。


「抜粋編纂――」


 それは()()の術式で、おそらく高位なのだろう。鎖鳥の持つ『魔学書』には記載されていない文章で構築されていた。走査(スキャン)したところで見つかるはずもない。


「『聞こえないとは言わせないぞ、古き友』」


 けれど。


「『故無き理の棘が苛む痛みは心を蝕んだ』」


 なぜか。


「『どちらの? 選ぶ必要は無い。たどり着く場所は共に奈落なのだから』」


 一字一句違わず思い出せる。

 ただ、術式に必要な情景の想起は『白い少女と黒い竜』に寄せて頼った。

 そこには長く確かな()()がない。


「【compile(それでも)/convert(いまだけは)】――、力を!」


 光が奔り、情報が記述され、

 そうして――、眼前の光景が想起した情景と重なった。

 風が、黒曜竜を揺らす。


「――――――――ァ」


 動きが止まっていた。

 巨躯から敵意が消えてゆく。


「いまのうちに」


 効き目があったことに鎖鳥は胸を撫で下ろし、唖然とした顔で見ている面々に言った。


「長くは持たない感じだから、僕がここで何度か押さえておきます」

「――そうか。助かる」「朽鍵、ありがと」


 委員長と叶絵に鎖鳥は頷きで返す。


「でも」


 と言ったのは桜華だった。


「僕だってこんなところで死ぬつもりはないよ」


 自身の言葉に偽りがないことは、偽装式が熱を持たないことからも実感できていた。


(ここで終わってしまうのなら、残る意味なんて――、ない)


 覚悟が決まるほど、失敗するイメージが払拭される。

 黒曜竜から逃げおおせることは可能だと鎖鳥には思えた。


「…………――、うん」


 なにか言いたくて、けれど言葉が見つからず、といった様子で桜華が背を向ける。

 鎖鳥も似たようなもので、沈黙が別れになった。

 『召式円環陣』のある奥へと三人が消えるのを見送り、鎖鳥は気持ちを切り替える。


「もう少し、付き合ってもらうよ」


 そう呟き、術式を繰り返し始めて何度目の頃――鎖鳥の前で異変が起きた。

 無数の槍が黒曜竜を囲むように降る。


 よく見ればそれが槍ではなかったことが理解できた。筒状の金属――細かな文字の刻まれた配管のような柱のような無骨ななにか。それらが光を発すると、次の瞬間には黒曜竜の上下に光る文字と図形による円が生まれていた。


 ――檻。


 鎖鳥にはそう見えた。

 けれどその印象は即座に翻させられる。

 巨岩のような体躯を封じた檻が、小鳥を閉じ込めた籠のように変じてゆく。


 かたん、と小さな音を立てて。それは花畑の上に完成された。

 釣鐘型に整えられた籠の中。小さくなった黒曜竜が、戸惑うように一度鳴いた。

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