13 朽鍵鎖鳥
夜咲きの灯花では払い切れない闇の中を歩いてゆく。
その日は、鎖鳥より先に白亞が展望広場で待っていた。
書壁を破壊することで書片・第72節の捕獲に成功し、『書架の迷い路』はいまではただの『遺棄指定区画』へと姿を変えている。
「やっぱり委員長と煤朱鷺さんは凄いよ」
書壁を両断した桜華の活躍と、書片を追い詰めた委員長の手際を話しながら、鎖鳥は眼下に広がる『労働奉仕区画』――その下層の暗がりを眺めた。報告を隣で静かに聞いている白亞も同様だった。
「それにしてもキナって何者なの? 助言が的確すぎだよ。何日も苦労していたのが嘘みたいに書片を捕まえられたんだから」
「あれを本気で信用してはだめですよ?」
白亞は苦々しく歪めた唇を白織りのマフラーの中へとうずめた。
「確かに送還式の扱いを知っていれば、たどり着くことで『喚ばれた者』である鎖鳥さんたちは容易にそれを起動できます。けれどその事実と、あれを信用できるかは別の問題です」
「……どうして?」
鎖鳥からすれば、そこまで眉をひそめる理由が分からなかった。
思えば、底が知れない機械魔女と奇妙に馴れ合ってしまっている。その現状が術中にあることの証左ではないのかと、鎖鳥は胸をざわつかせながら白亞の言葉を待った。
「一応、話しておいたほうがいいかもしれませんね」
昔語りですけど、と前置きして、白亞は訥々と過去の出来事を口にする。
数多の書物を所蔵する書架迷宮ドレインレイスの幻想図書館。そのなかには『禁忌指定書』と呼ばれる危険な書物も存在し、暴れないように封じておくのも『管理司書区画』に所属する者の務めだった。
けれどそれは起きた。『禁忌指定書』の暴走。封印が解ける事態を招いた時の管理担当司書は機械魔女のキナであり、彼女が規則を破って力を求めたのは明らかだった。
そして当時の司書長はこの事態の収拾に多くの代償を支払うことになり、その司書長の資格を凍結されることとなった。
「本当にはた迷惑な存在でした。なにがしたいのか理解に苦しみます。結果としていまのあれは力の多くを封じられた謹慎処分の身の上にありますが、それでも危険なことに変わりありません。ですから、繰り返しますが信用してはだめですよ。またなにか企んでいるはずです」
苦慮を滲ませるように眉根を寄せた白亞は、遠く下層に咲く灯花へと視線を落とした。
鎖鳥はそんな横顔を見て、少し言葉を選んでから息を吐く。
「確かにキナは突拍子もないね。行動原理が意味不明」
「でしょう? 昔からそうなんです」
「あー……妙に納得しちゃった。変わりそうにないよね、あの性格は。上司だった司書長さんに同情するかも。きっと胃痛とかに悩まされてたんだろうし」
「胃は平気でしたけど、頭は痛かったですね。あれは有能なはずなのに、肝心なところで私の手を煩わせてばかりでしたから」
話を聞きながら感じていた引っかかりに、鎖鳥は改めて白亞の顔を見た。
「ええと……」
「どうかしましたか?」
「ん、いや――」
白亞が小首をかしげ、不思議そうに新緑の瞳を鎖鳥に向けた。
彼女がそうであるなら腑に落ちる事実は多い。
少しためらいながら、鎖鳥はその問いを口にした。
「僕の思い違いかもしれないんだけどさ――白亞って、司書長だったの……?」
「…………」
まばたきを止めた白亞が一瞬彫像と化して虚空を注視する。
「まあ、その……、そういうこともあったかもしれませんね」
口元を隠して視線を外した彼女の声は上擦っていた。
頬は赤く染まり、組まれた手指はきつく結ばれている。己の軽率さを悔いているのか、問いを肯定してからは沈黙に服して動かない。
動揺を隠し切れないその様子に、鎖鳥は意外な心境で目を見開いた。
そこまで白亞が狼狽する意味が分からず、理由を探って考えを巡らせる。けれど明確な答えが出る前に、少し震えた細い声が響いた。
「どうして隠していたのか、とは聞かないんですか?」
「うん?」
遠慮がちな白亞の視線を受けて、鎖鳥は首を傾げるしかなかった。
「それは気にもしなかったかも」
「…………っ。ど、どうしてですか。あの機械魔女を信じてはだめと言っておきながら、私自身が信用に足らない存在だと白状したも同然なんですよ?」
「そうは思わないって。例えば白亞が僕を『騙したいから隠していた』とする。でもキナとの接触がある僕に隠し通せる可能性は低いよね。逆になぜ伏せていたのかと疑念の種を蒔かれる結果になりかねない。隠し通すつもりなら、伏せたりせずに嘘で固めておくはずだよ。だって、真実は見えないけど、事実は見えてしまうから」
「すべてを伝えず、鎖鳥さんを利用しているのは事実――ですね」
「そこを突かれる可能性は十分にあったはず。そう考えると、僕を陥れようと司書長だったことを伏せていたとは考えづらい。でも、そもそも白亞は本気で隠すつもりがなかったんだと僕は思う。そうであるから油断して失言もするし、聞かれただけで簡単に認めてしまう。僕を騙したかったというより、少し話しにくいことだっただけなんじゃないかなって感じるから。だから気にならない」
ひとしきり喋り終えてから、鎖鳥は内心で「ああ」と腑に落ちた。彼女が無意識的に伏せていたのだろうと思い至ったからだ。裏に策謀がないのなら、唐突な狼狽にも納得できた。
「……やっぱり、鎖鳥さんは変わってますね。凄いです」
「な、なんでさ。そんなこと……」
「いいえ。それにいままで鎖鳥さんたちほど結果を出した人はいませんでした。もう少し自覚的になるべきです。あなたたちはとても利用価値があるんですよ?」
「委員長たちにならあるかもしれないけど……」
鎖鳥は向けられた白亞の眼差しを直視できず、小さく呟いていた。
「僕にそこまでの価値なんて――ないよ」
束の間の静寂。呆れに似た吐息が聞こえ、続く言葉に鎖鳥は身を強張らせた。
「もし、もしも本当にそうなら」
なにに不安を抱いたのかも自覚できない鎖鳥の隣で、白亞の感情が静かに吐露される。
「私はとんだ道化ですね。そんなあなたに期待しているんですから」
告げてきた声には棘もなければ落胆もない。けれど微かに震えた白亞の声には、どこか自罰的な響きが含まれている気がした。
「僕に期待、か。白亞は初めからそうだね。僕なんかを必要としてくれている。だけど僕には委員長や煤朱鷺さんみたいなスキルがない。書片を捕獲できているのだって、二人がいるからだよ」
そのままいつもなら「僕は凡庸だよ」と口にするところを、鎖鳥は思い留まった。
俯いてしまった白亞は闇に沈む下層の灯花のようで、言えば鎖鳥自身も闇へと沈んでしまいそうな気がした。
「僕にはフリムジーの奴に面と向かって逆らう力もない。ただ言われるままに書片を集めて――それだけで。白亞が言った書物を燃やすことだって、なんの進展もない。それでも必要としてくれているのなら、僕は――」
「そう言えば、そんな風に話しもしましたね」
「どういう、こと?」
「燃やしたい特別な書物なんて初めから存在しないんです。だから鎖鳥さんは元の世界に帰るべきですよ。ほかのお二人と一緒に。その機会が訪れるのなら、そうするべきです」
「意味、分からないよ。期待してるのに帰れだなんて。黒曜竜を倒して『召式円環陣』にたどり着いたとして、僕がなにもせず元の世界に帰ることが白亞の期待に応えることになるって言うの?」
「そこまでして鎖鳥さんだけ残ったら、どんな目に遭うか想像できています? こんな私の我侭に巻き込まれてそんなことになるなんて――間違ってます。だから鎖鳥さんは元の世界に帰るべきです。それで私の望みは叶います」
「そんなの――!」
不意に出た自分の声量に少し驚きながらも、鎖鳥はざらつく感情を吐き出していく。
「だったら最初から送り還せばいいじゃないか。あの時、あの場所で、初めから」
「それは――」
「送還式を使えない事情でもあった? でもさっき『起動は容易』って言ったよね。僕が喚ばれたあの時、送還式は使えたの? 使えなかったの?」
「使えましたよ。だから、言ったじゃないですか。私はあなたを利用するって。いくらでも理由は考えられるでしょう? 鎖鳥さんがこちらにきてから帰るまでに起きた物事すべてが無意味で無価値だとでも? そこに関わるすべてをあなたが見通せているとでも? 知らないということすら見えていないだけじゃないですか」
「そうだよ、分からないことばかりさ。だから僕は帰るべきだなんて思えない。この世界には知りたいと思えることがいくらでもあるんだから。白亞が言う“外”だって見れてない。もし僕が帰る以外のところに白亞の望みがあるんだとしたら――」
「そんなの叶うはずないです!」
遮りながら白亞が一際強く叫んだ。
「鎖鳥さんは帰ることだけ考えていればいいんです。だってそれが私があなたを利用するってことで、そのためだったら私の力も及ぶから。それ以上を望むなんて間違ってます。間違ってました。私が中途半端だから鎖鳥さんもこんな風に巻き込んでしまって――」
喋るほどにうなだれて、声も小さくなってゆく。
「私のことなんて考えないでください」
最後にそれだけ言って、白亞は姿を消した。
鎖鳥は『幻想因子』の流れを目で追うが、それもすぐに隠蔽されてしまう。残るのは偽装し改竄された「なにごともない」世界の様相だけで。そこに彼女の存在を感じ取ることはできなくなっていた。
「でも、いまのは隠してる望みがあるって言ってるも同然だよ」
上手いのは術式だけかな、なんて思いながら、鎖鳥は下層の灯花へと視線を落とした。
自然と考えるのは白亞の隠した望みのことで、けれどそれは分かり得なかった。
「僕が弱いから……」
握り込んだ手の爪が痛く甘い。
「僕の力が足りないから、白亞に諦めさせた。妥協させた。期待を――裏切った」
いくら頭を振っても汚泥のような思考が拭えない。濁ったへどろを思わせる感情を無理やりにでも心に押し込んで、鎖鳥は少しずつ歩き出した。展望広場には誰の姿もない。留まっていれば、周囲の闇に喰われそうだった。
◇
展望広場からの帰り道。寝静まった『労働奉仕区画』に響く靴音を聞いて鎖鳥は立ち止まった。もう少し行けば専用居室のある辺りであり、ここで労働奉仕者の姿を見かけることはあまりない。
(それにしてもこの感じは――なにかから逃げてる?)
聞き慣れない靴音は委員長や桜華が立てているものとは思えず、鎖鳥は判断に迷いながらも物陰へと身を潜めることにした。
壁に背を預けながら待てば、次第に暗がりを走る相手の姿が見えてくる。
見知った制服姿。跳ね揺れる黒髪。眼鏡をかけた――荒い息の少女。
それが知り合いだと理解するのに時間はかからなかった。
「――先輩?」
図書委員の副委員長を務める三年の先輩の、その容姿には見覚えがあると思えた。
(どうしてここに――)
いるはずのない相手に疑問ばかりが湧き続ける。
「先輩!」
鎖鳥は思わず声を上げていた。
複雑な路地へと入り込みでもされれば見失いかねない。そうなる前に呼び止め、事情を聞いておく必要があると思ってのことだった。
(委員長たちも聞きたいだろうし、先輩を放っておくのもアレだし、でもそんなの――)
走る相手を待ち構えながら、頭をよぎる考えが建前でしかないと鎖鳥は苦く笑う。
副委員長の存在は元いた世界を強く想起させるに足りていた。
本に書かれたような記憶。
面倒な授業。無関心な家族。無味乾燥な世界。
行間に埋もれたような向こうでの日常が、なぜだか酷く鮮明に思い出されて、それが鎖鳥を物陰で隠れていることを許さなかった。
「朽鍵です! 朽鍵鎖鳥! 止まってくださいっ」
「く、朽鍵? あなたどうしてここに――」
「それはこっちの台詞ですよ、先輩」
「ゆっくり話すのはあとにしましょう。私追われてるの」
しきりに後ろを気にする彼女の顔色は悪かった。
「追われてるって労働奉仕者にですか?」
「わーかー? えっと、黒い奴よ。猿みたいな」
「ああ、『六式魔』ですか。たぶん序列・五の奴かな」
「……ねえ、どうしてそんなに冷静なの? まあ、朽鍵はそういう奴だけど。でもそれにしたってあなたが言ってること、よく分からない。詳しすぎる。嘘も言ってないみたいだし」
「えっと、それは……、いや、それよりもひとまず隠れ――」
「これはこれは斑頭じゃねぇですか」
暗がりからの声音に鎖鳥は口を噤んだ。
「その眼鏡女を捕まえておいてくれるとは――。スキルがない屑でも、たまにはいい仕事をしやがりますね」
巨猿型の影姿に巨狼型の影姿。
序列・一である巨狼の上で本の頭を持った化け物が笑っていた。
「フリムジー……」
「様はどうしやがりました、斑頭。これだから屑は。――まあいい。ようやく新しく喚べたので上手く使いやがれください」
その細く薄く黒い手で、フリムジーは副委員長を指差した。
「ただそれも外れでやがりますから、斑頭、お前が使えるように教えやがれください」
「朽鍵、知り合いなの……?」
取り乱してはいないが明らかに戸惑っている様子の副委員長に、鎖鳥は頷きで返す。
「あとで話すので、いまは静かに」
「……ん、分かった」
鎖鳥に一歩寄った彼女は不安を押し殺すように言った。
「話は終わりですか、司書長代行様」
「分かってやがりますね、斑頭。あとはいままで通り書片を集めやがれください」
言いながら鷹揚に頷くフリムジーを鎖鳥は冷めた目で眺める。
肩書きを気に入っていることは常々感じていたことだった。いまもあっさりと態度を変えて悦に浸っているくらいには、その比重は大きい。
「従順こそ人形の美徳でやがります。その調子で励みやがりください」
なにがそんなに嬉しいのかと、鎖鳥はそう吐き捨てたくなる衝動を飲み込んで、フリムジーが『六式魔』とともに立ち去るのを待った。
残していく笑い声が耳に張り付いて不快感を助長する。鎖鳥は歯噛みしながらも、抑えられない苛立ちから、普段以上の敵意をフリムジーの背に向けてしまっていた。胸元で熱を帯びる偽装式の働きがなければ、見咎められたであろうことは明らかだった。
「ねえ、朽鍵。もういいでしょ」
フリムジーの背が闇に溶け、足音が闇に消え、道に静けさだけが漂うようになって、さらにしばらく。袖を引かれた鎖鳥は「そうですね」と短く応じた。
「とりあえず寝泊りしてる場所に案内しますよ。近いですから」
「……寝泊り?」
「個室の割り当てがあるんで、そう悪くはないですよ。寮暮らしみたいなものです」
「え、と……」
眉根を寄せた副委員長は奇異なものでも見る目を鎖鳥に向けた。
「それって、どういうこと? ここで暮らしているの?」
「そうなりますね。正直、先輩の顔を見て懐かしいなって思いましたよ」
「なに、言ってるの? それにさっきからそうだったけど、どうしてそんなに詳しいの?」
「嫌でも詳しくなりますって。ここにきてからそれなりに経ちますし」
「ば、馬鹿なこと言わないで。どうしてそれが嘘じゃないのよ。意味が分からない」
「どうしたんですか急に」
「あなたがこんなおかしな場所で暮らしているはずがない。寝泊り? 懐かしい? それなりに経つ? 嘘じゃないのは判るけど、だから意味が分からないのよ。だって――」
いつの間にか肩をつかまれていた。
繰り返し揺するその手から、不安や困惑がない交ぜになった感情が伝わってくる。
目は逸らせなかった。
「だって、あなたとは――」
その事実を紡ぎ語るのに、彼女にはためらいがあるように思えた。
けれど確かめずにはいられないというように、その唇が動く。
「朽鍵とは――今日も図書委員の集会で顔を合わせたでしょ」
その言葉を聞いて、鎖鳥の鼓動が跳ねた。
聞こえたはずの言葉を反芻できないほど思考が乱れた。
理解の拒絶。動悸が息苦しく、思わず鎖鳥は一歩よろめいていた。
「この前だって。ほら、期末テストの結果が良かったって話をしたよね?」
そんな記憶は持っていなかった。
そのテストを受ける前にこの世界に喚ばれたのだから当然だった。
だから彼女の言う『朽鍵』がこの『自分』であるはずがない――と、鎖鳥は思った。
「――、な、に言って……るんですか?」
まともに口も動かない。
「まさかここから学校に通ってる? でも懐かしいって本気で言ったでしょう? 私には判るんだから。ねえ、なんなの。ここってどこなの。あなた本当に、朽鍵なの――?」
彼女の声も遠く、揺すられる体も他人のように思えた。