01 書架迷宮
「待って! 待ってくださいと言っているんです!」
女の子にここまで必死に求められるのは、鎖鳥にとって初めての経験だった。
生まれてからの十六年間をたどっても、それらしい記憶は思い出せない。
「どうして、僕なんかを……」
朽鍵鎖鳥は特に取り得がない男子高校生だ。平均より背が低いことに劣等感を抱き、普段から本の世界に半身を浸してばかりの、世に掃いて捨てるほどいる普通以下の人間だ。
認めたくはないけれど、退屈な奴だという自己評価。だからここまで求められる意味も分からない。分かるはずがない。鎖鳥は得体の知れない相手から逃れようと、思考を踏みつけにして、磨き込まれた石の床を蹴り走った。
幸いなことに出口は見えている。巨樹の内部を思わせる薄暗い部屋から抜け出すと、目の前に古びた書架の並ぶ空間が広がった。ためらわず飛び込んでいく。まるで中世の豪奢な教会図書館だ。けれど眺めている余裕はない。顔だけ振り返ると、見えるのはなにかを諳んじながら迫っている――幽霊のような白い少女らしき影。
「【compile/convert】――、危ないです!」
光だ。彼女の手から矢のように撃ち出された光に、鎖鳥は思わず首を竦めた。
それでも足を動かした。
避けなければと思って、壁のような書架が続く道を駆けた。
白織りのマフラーにうずめた顔を掠め、光が幾本も周囲に突き立ってゆく。
「危ないのは君のほうだって……!」
石床に刺さった三十センチほどの光は、折っただけの枝にも似た外形をしていた。その周りだけ焦点がずれたようにぼやけ始めていて、その異質な事象に――鎖鳥は背筋があわ立つのを感じた。
起きていることの意味が理解できない。
知識に守られていないということが、酷く恐ろしいことに思えた。
(あり得ないあり得ないあり得ない! ふざけてるふざけてるふざけてる!)
目覚めてからのすべてを全否定したかった。
白く光る花に彩られた書架空間も。巨樹の部屋に描かれた複雑な図形陣も。陽炎のように揺らぐ白い少女も。けれど――、そのどれもが幻想的で、そのどれもに目を奪われる。
(そんな余裕なんて、ありはしないのに……!)
いまも怖い。訳が分からなくて混乱している。
初めは名前にすら違和感を抱いたほどだ。事実の認識に思考が追いつかない。
「いまの光はなんだよ……! ここはどこだよ! どうして僕は――!」
冬の夜。普段通り最終下校時刻まで居座ってから、高校の図書準備室を出た。それがここで目覚める前の最後の記憶。どう手繰っても現状と繋がってくれはしない。
鎖鳥は噴き上がる焦燥を振り払って石床を蹴る。
「そっちは駄目ですってば!」
繰り返される制止の声に、撃ち出される光の枝矢。
襲ってくる相手に耳を貸せるはずもなく、鎖鳥は迷路のように複雑な書架空間を走り続けた。誰もいない。けれど、なにかがいる。暗がりから見られている。少女から逃れようと、花の光が少ないほうを選んだのは間違いだったと気づかされる。
「最悪だ……」
書架の壁が続く通路の先に、それはいた。
あえて例えるならば――、人体骨格模型。
けれどそれよりも適切な表現があることを、鎖鳥はよく知っていた。ファンタジー小説でもゲームの敵でも馴染みがある存在――骸骨剣士。
まだ二十メートル以上は距離がある。動いてはいるが、鎖鳥のほうを向いてはいない。感じた視線は別の個体のものだろうかと推測して、他にも脅威が存在するであろう状況に頭が冷える。
(走り抜ける……? そんなことできるはずが――)
斬られるイメージを払拭できない。
鎖鳥は荒くなった呼吸を隠そうとマフラーに口元をうずめた。
音を立てずに別の通路まで引き返すしかない。そう考えて、振り返った瞬間――。
「つかまえましたあ――――!」
「――――っぁ!?」
勢いに乗った体当たりを受けて、鎖鳥は背中から床に叩き付けられた。
激しく咳き込みながら、とにかく痛みが過ぎ去ってくれるのを待つ。幸いにして、頭は打たずに済んでいた。
「これでもう逃げられませんね。……良かった」
良いはずがない。――思わず鎖鳥は嘆いた。
「……骸骨に幽霊、なんだよこれ。新手のお化け屋敷?」
「心外ですね! 私は幽霊ではありませんって!」
痛みを耐え凌ぎながら、鎖鳥は倒れた自分にまたぎ乗る白い少女を恨みがましく睨んだ。
陽炎のように揺らぎ、幽霊のように透けている――というのに、重さも柔らかさも温かさも人間と変わらない。そもそも体当たりを受けたからこその、この状況だ。推測を一考し直す余地はある。けれど、ぼやけ歪む少女の正確な姿は見通せず、印象が覆るには至らない。
暫定幽霊少女の子供のような体重を感じながら、半ば投げやりに鎖鳥は二の句を継いだ。
「――自覚がないタイプは、よくそう言うんだよ」
「でーすーかーらー! 違いますって言ってます!」
話す少女の姿は滲んだ絵の具のようで、どんな顔をしているかは読み取れない。それでも、荒らげかけの声と、なんとなく『怒っていることを主張するポーズ』をしていそうなことから、彼女の機嫌の悪さはうかがえた。
どうにも調子が狂うな、と鎖鳥は思案する。この奇妙な白い少女のことが、少し落ち着いて見られるようになってきていた。
「っと、騒ぎすぎましたね。すみません、――少し、失礼します。えいっ」
「な――、ま、ままま」
待って――と言う暇もない。
少女は手にした光の枝矢を振り上げて。
挿し木でもするように、なんの遠慮もなく――、鎖鳥の肩に突き立て下ろす。
「――――っ!?」
訪れるであろう痛みに目を閉じる。
けれど、いつまで経ってもなにも起きる気配はなかった。
鎖鳥が薄目を開けて確認すれば――肩口に光の枝矢が生えているのが見えた。
だというのに。
「あれ……、い、痛く……、ない……?」
「これは姿を隠す効果があります。魔物も遠ざけられます。でも触れないでくださいね。壊れてしまうので。あと、わ、私が言うのもあれですけど……、騒がないでくださいね? 誤魔化せなくなってしまいますから」
その説明が意味するところを考えて反芻する。
光の枝矢に殺傷力はない。
そして姿を隠して敵も遠ざけるというのなら。それは、つまり――。
(襲っていたんじゃなくて、守ろうとしてくれていた――?)
「鎖鳥さん……?」
小首を傾げて『???』といった様子の少女に、なぜか感じる小動物らしさ。
そんな彼女と、鎖鳥はようやく話をする気になれた。
「君は――、僕を召喚したって言ったよね……?」
「はい。確かに言いました。私が――、私が鎖鳥さんをこの世界に喚んだんです」
鎖鳥に咎めたつもりはなかったが、少女はどこか申し訳なさそうだった。
召喚された前後の記憶はあやふやだ。複雑な図形陣の上で目覚めたらしい鎖鳥に、少女がいろいろと語りかけてきた覚えはある。
それよりも、喚ばれたということは、そこには彼女の意思が介在していて――鎖鳥には課せられた役割があるということだ。執拗に求められるくらいの役割が。
それがなんであるにしても、ここがもし見知った世界であったなら、また違った対応だっただろうと鎖鳥は思う。山間に日が沈んだ暗い冬の学校帰り。そこで呼び止められた程度の話であったなら、もう少し真摯に聞く余裕もあったはずだ。
目覚めた直後は、混濁した記憶の不明瞭さもあって、その余裕が失われていた。
(だけど……)
と、改めて考える。現状は悲観する材料ばかりではないはずだ。
鎖鳥にとってこの異質な場所は異世界と呼ぶに相応しく、この異常な状況は選ばれたのだという意識をくすぐった。そしてなにより、家への帰り方が分からないという事実が心を軽くしてくれる。
帰れないのは歓迎すべき事柄だ。けれど別に、鎖鳥の家庭環境に不和はない。なぜなら初めから衝突しないからだ。父親も母親も無関心で無干渉。返ってこない挨拶をするのにも慣れていた。だが、慣れてはいても面白くはない。だからそんな真似をしなくて済むのは、やはり喜ぶべきことなのだろう――と、鎖鳥は思った。
しかもこの異世界は、読み耽った物語たちに勝るとも劣らない幻想で満ちている。
淡い光を零して咲く花たちの飾る、現代を感じさせない建築様式の書架空間は、黒く見通せない頭上へと無限に続くかのようで、その書架にひしめき合う装丁の羅列が――まるで抜けない棘のように心から離れない。毎日居残っていた図書準備室での時間すらも色褪せる。
けれど鎖鳥は、自分がそれらの幻想に比肩できる存在ではないことを知っていた。矮小で退屈で怠惰で虚栄に満ちて溺れかけの、物語を読み散らかしていただけの人間だ。
それでも役割を与えてくれるというのなら、応えてみるのも悪くない。――そんな風に決めてみると、鎖鳥に乗ったままの白い少女が、不思議と召喚主のように見えてくるのが不思議だった。
(さすがに偏った本を読みすぎかな……)
揺らめき透ける少女はしおらしく鎖鳥の言葉を待っている。光の枝矢を放つ派手な立ちまわりを見せたとは思えない。
鎖鳥は聞くべきことをどう言葉にするか悩み、動かした視線の先――肩口の枝を見て、思いついただけの疑問を口にする。
「この光る枝は、その……、ええと、――魔法?」
「そうですね。ある種の魔法――それに似た現象を起こせる特別な術です。鎖鳥さんにも扱えますよ。そのためのものですから」
「僕にも?」
「はい。あの……、落ち着きましたか? もう逃げたりしませんか?」
「ごめん、大丈夫。落ち着いた……と思う」
少女はじっと見つめるような仕草をして――けれど降りてはくれなかった。
「信用できません」
言い切られてしまって、鎖鳥は反論もできない。
「だって、凄い勢いで逃げたじゃないですか」
「それは、その、気が動転してて。ほんとごめん」
鎖鳥は起き上がれないまま、揺れ歪む少女を眺めた。
一呼吸して、用意した問いを告げる。
「目的を――、聞かせてもらってもいい? 僕を喚んだ君の理由が知りたい」
「え――、と、それは……」
「君が僕に望んでくれるなら、それをできる限り叶えたいんだ。駄目かな」
「駄目ではないです、けど……」
言い淀む少女を前にして、鎖鳥はもたげた不安を消そうと確かめる。
「喚んだってことは、僕にさせたいことがあるんだよね? あ――」
ひとつ、嫌な想像に思い至る。
思えば、どこか心苦しそうな少女の雰囲気は、ある種の同情にも似通っていて。
それはまさにこれから捧げられる供物でも見るような――。
「もしかして、僕は生贄的なアレだったり……?」
「ち、違いますって! そうじゃないですっ。――そうではなくて」
見当違いだったらしいことに安堵して、鎖鳥は少女の言葉を待った。
「……迷ってばかりではいけませんよね」
なにを指しているのかは分からなかったが、その呟きに交じる決意は感じ取れた。
そしてようやく、少女はまたがり乗るのをやめてくれた。
起き上がった鎖鳥は、手を伸ばせば触れられそうな距離で、少女と向かい合う。
鎖鳥よりも頭ひとつ分は小さい彼女は、まだ少しためらいながら――口を開いた。
「私の目的は――ある特別な書物を燃やすことです。そのために鎖鳥さんの力を必要としています。他の誰の手も借りられないことです。――大変ですよ?」
「君が望まないのなら、僕は手を貸す気はないよ」
「――望んでいます。……改めて言わせるなんて、結構酷い人なんですね」
「必要なことだよ。少なくとも、僕にとっては」
好き勝手言っている自分に気づき、鎖鳥は白織りのマフラーに首をうずめながら、付け足すように言った。
「まあ、大したことはできないんだけどさ」
「力を教えることはできます。鎖鳥さんにも扱える術があると言いましたよね。使い方を間違えさえしなければ、隷属に抗う助けになることは私が保証します」
少女は手を背にまわしてどこからか一冊の本を取り出すと、広げ、言った。
「この書物――『魔学書』を読み解くことこそが『書術』の基本であり真髄です。認識してください。幻想を感じるあなたの裡にこそ、力が在るのだと」
揺らぎ歪む少女の右手が鎖鳥の胸元へ向けられた。
「知ってます? 物語は魔法を帯びるんです」
変質していく空気に、なにも口を挟めず、ただ起きる事象にだけ目を奪われる。
「抜粋編纂――、『樹の囁きに耳を傾けて』『木漏れ日の悪戯を見破って』『遠い日の樹渓。かつて見た水面。手に残る欠片は巡る星霜に褪せはしない』【compile/convert】――、そこに在るのだから」
言葉とともに空間に光る文字が記述されていた。数多のページを綴るかのような、読みきれないほどの文字列が一気呵成に描かれる。
自動筆記される詠まれた言葉以上の情報量。
垣間見た一文からでも、それがなんであるかは察しがついた。
――断章の物語。
そこに綴られた一連の場面を追想するかのように、少女は瞑目していた。
けれどそれも一瞬。
光が一際輝きを増したかと思えば、その直後にはすべてが束ねられ――霧散した。
「いま、鎖鳥さんの感覚を少し引き上げました」
告げる少女がくるりとまわり、連れて、長く白い髪が弧を描く。
透けることも揺らめくこともなく、毛先にかけて灰銀がかっているのが見て取れた。
幼さを残す彼女がまわる、その僅かな時間――鎖鳥は多くのものを視認する。
裾がひるがえる白基調のコートに施された丁寧な刺繍。腰の裏に吊り下げられた革製の書嚢。そして、書物を片手で抱いた彼女の唇に浮かぶ――微かな笑みの色。
「私の姿を認識できるかと思いますが、どうですか? もう幽霊とは言わせませんよ」
向き直り、白皙の少女は小首を傾げてみせる。銀細工の髪飾りを飾る翠石が光を返す――その下で、なによりも惹き込まれる新緑の瞳が鎖鳥をうかがっていた。
「……鎖鳥さん?」
「ああ……、うん。見えてる。見えるようになってるよ。でも細かいところまで意識できるようになってるし、正直少し妙な感じかも」
見とれていたことを誤魔化すように言葉を重ね、鎖鳥は視線を逸らす。
「慣れてもらいます。人としての領域にとどまっていたら、生きながらえることはできませんよ? 望みを叶えてくれると言うのなら、まずは世界の理を覚えてもらいます。さあ、行きましょうか。歓待できる立場にはありませんが、あなたがここで生き抜く一助にはなろうと思います」
有無を言わさず手を取られる。鎖鳥は少女に引っ張られながら歩き出した。
「ああ、そうだ。ひとつ言い忘れていましたね」
一度、彼女が顔だけ振り返る。
「ようこそ――、書架迷宮ドレインレイスの幻想図書館へ。黒空に蓋をされ、虚想に繋がれる息苦しい場所ですが、甘味処くらいはありますよ」