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翌日、張り切り過ぎて早く目が覚めたという立花のおかげで、私たちは予定よりも早い時刻に出発を余儀なくされた。
私と篠目にとっては通い慣れた道であり、最早ところどころに生えている雑草の生長具合でさえ事細かに説明できるような風景であるのだが、立花にしてみれば初めて通る道だ。
外国と東京を往復している彼にとって、故国の山道とは物珍しい代物なのだろう。
「お! こんなところで枝が曲がっているぞ! おお、草が下を向いている! うむ、まことに美味そうな土だ!」
常人には理解できない箇所で感動している立花を目の当たりにして、篠目は私の方に不安そうな目を目を向けてきた。
「これくらい頭のおかしい男でなければ、こぶじゃくし村へ進んでやって来てはくれないはずだ。あれでも一応、帝国大学の医学部に所属している医学博士なんだ。心配は無用だ」
私が溜め息交じりに言えば、篠目は納得したように頷いた。
そして彼女は、立花の荷物の方へ視線を向けた。
私と篠目は一頭ずつ馬に跨り、荷物も一緒に運んでいるのだが、立花は荷物用に馬をもう一頭、連れていた。
馬の背に、山ができるほどの量だ。
「いったい何を持ち込む気なんでしょう。あまりたくさん物を持ち込んで、汚染された物を町へ持ち帰る危険を侵すのはどうかと思いますが」
「さあな。立花は専門家だから、そのあたりのことは心得ているはずだろう。海外を飛び回って、様々な症例と戦ってきた男なのだから。研究に必要な器具ではないのか?」
私が言えば、篠目は納得したような雰囲気を見せたが、それでもやはり立花を見る目は猜疑的であった。
一方の私はと言うと、朝早く起こされたせいか、いつにも増して体調が優れなかった。
頭の中で金槌を振り下ろされているかのような頭痛は絶えず続いていたし、熱があるわけでもないのに体がだるく、胃の辺りがムカムカしていた。
「先生も気分が優れぬようですね」
かく言う篠目もまた、青白い血色の無い顔をしている。互いに、何かおかしいと思っていた。
だが、何がおかしいのかさっぱり見当もつかなかった。
なぜなら、我々はこぶじゃくしには感染していないのだから。
繰り返すが、この時点の我々にとって、こぶじゃくしに感染していないということは、最重要事項であったのだ。
私たちはそれぞれ自分を誤魔化すように互いの顔から視線を逸らし、真っ直ぐ前を向いた。
ひとりだけ元気な立花が、楽しげにはしゃいでいる。
初めてこの道を登った時の私もまた、彼ほどではないにしろ、何かしらの期待を胸に抱いていたことを思い出した。
そして先を急ぐ立花に歩調を合わせているうちに、いつもより早く村に着いた。
村の入り口では、すっかり顔見知りになった子供たちが出迎えてくれた。
「なるほど。確かにこれは奇妙なことだ」
子供たちの姿を見るなり、立花は興味と好奇心が入り混じったような表情で、病巣に視線を向けた。
子供たちもまた、彼と全く同じとしか言い様のない顔で立花を見上げていた。
「この人はね、先生の知り合いの偉い学者さんなんだよ」
私がそう言うと、子供たちは「学者」という職業に興味を抱いたらしく、学者の仕事についての詳しい説明をねだった。
狭い村だ。当然、ひと昔前で言うところの、寺子屋のようなものはない。必然的に、彼らの知識は村の中で見聞きできるものと、村の大人が知っていることに限られるのだろう。
外から来たもの、目新たしいものに興味を引かれるのは当然だ。
「私もねえ、このおじちゃん先生と同じように、ボクらの病気を治すために来たんだよ」
立花は満面の笑みを浮かべて子供たちに言っていた。しかし、その笑顔といったら、世の母親たちが大事な子供たちに向かって「知らない人に付いて行ってはいけません」と言い聞かせる時におそらく思い浮かべている性的倒錯者そのものだ。
彼は決してそのような人間ではないのだが、あまり人相が良くないことは事実だった。
怖い、という表現は当てはまらない。どちらかと言えば、アブナイだ。
「ちょっといいかな」
そう言って立花が女児の着物に手をかけた時には、事情を知らないものが飛んできて制止をかけそうな有り様だった。
立花は真剣な顔で、女児の背中に広がるこぶじゃくしを観察していた。
「君たち、おしっこはどうだ? ちゃんと出てるか?」
別の少年の着物を同じように肌蹴させ、立花は真剣な顔で聞いた。
子供たちが途端に笑い出す。
女の子の中には、あからさまに顔を顰めるものもいた。我々からみれば一纏めに「子供たち」であるが、彼らなりに……特に女の子にしてみれば、そろそろそういった話題に羞恥心を覚えるものであるらしい。
一般に、男児よりも女児の方が心の成長が早いというが、この村でもその例に違わないようだ。
私は、急いで荷物の中からカルテを取り出した。
このカルテだけで、ひと荷物だ。
紙は一枚一枚は軽いが、纏まるととんでもない重さに化ける。
意味を成さない一文字一文字が集まって文章となり、一枚の紙を埋め尽くし、それが本となって素晴らしい小説に変わる、と考えればなかなか粋だが、持ち運びするとなれば紙の束はただ重いだけで迷惑だ。
しかし、こればかりはどうしようもない。
「大事なことなんだよ。答えてくれないかい? おしっこは、ちゃんと出てる?」
立花が重ねて聞けば、七歳のタツという少年がニコニコ笑いながら「おしっこしないヤツはいない」と答えてくれた。
続いて立花が気になるのはおそらく「どんな尿が出ているのか」ということだろう。
「色は? 白い? 黄色い? それとも透明? どれくらいの量が出る?」
立花が私の予想していた通りの質問をした途端、少年たちは再びギャーギャーと笑い出してしまった。
まず間違いなく、彼らの今までの人生で尿の様子を聞かれたのは初めてのことだっただろう。
「場所を変えて、個別に問診するべきでは?」
これでは調査も何もあったものではない。見かねた私が言うと、立花はそれもそうだとあっさり頷いた。
そして彼は子供たちから後ろ指を指されつつ、村長宅へと足を向けた。
「こぶじゃくしを微塵鏡(顕微鏡)で見てみたい。しかし、まずは検査が先だ。尿検査と便検査だ。検査の方法、説明はすべてお前に任せる」
あまりにも一方的な立花の言い分に、私が何か言いかけた時にはもう彼はさっさと私の傍を離れ、引き連れてきた馬の背から荷を降ろす作業にかかっていた。
医者というものにまるで無縁の生活をしてきた村人たちに、検便、検尿を説明する仕事ほど大変なことはなかった。
私がいくら「治療のために必要なのだ」と説いても、村人たちは苦笑いを浮かべながら軽蔑の籠もった眼差しを私に向けることをやめない。
特に、女性たちから浴びせられる冷たい視線には、冷や汗が止まらなかった。
「私も昨日やりましたよ」
切羽詰って、喋らなくていいことを喋ってしまう。
その途端に、部屋の端で遊んでいた少年たちの目が輝き、しばらく私は「うんこ」「しっこ」という二つの単語を集中的に聞かされる羽目になった。
子ども時代はともかく、大人になってしまうとその二つは汚いものだという印象が強くなる。
しかし、検査のために必要な検尿・検便であれば文句など言わず、我が身から出た老廃物を差し出す。
昨日、そうしたように。
そしてそれは患者の立場にある方々にも分かってもらわなければならない。
そろそろ町に戻らなければ、日が暮れてしまうという時刻になって、ようやく村人たちは検便・検尿の必要性を理解し、検査に了承してくれた。
明日の朝一番に、尿と便を取ってくれと頼み、私は立花が持参した検便・検尿の使い方を説明した。
村人たちは新品のそれを受け取る時、まだ未使用だというのに、指先でこわごわと掴んでいた。
その日は誰の体からもこぶじゃくしの摘出をしていないというのに、いつも以上に疲れていた。
何より、汚いものでも見るような女性たちの視線が堪えた。立花に同行した篠目は、無言で馬の背に揺られている。
その顔には、私と同じように隠しきれない疲労が浮かび上がっていた。
ただ一人、立花だけが、ご機嫌な様子で山を降りていく。
「明日から何を始める気なんでしょう」
篠目の質問に、私は答える気力も残っていなかった。