5
翌日、まだ夜が明け切らないうちから、私は篠目を伴ってこぶじゃくし村へ向けて出発した。
市井は同行を拒否した。何があっても行かないと、玄関先で市井は喚き散らした。そんな市井を、篠目がどう思ったのかは定かではない。知りたいとも思わなかった。
市井は男で、篠目は女だ。
だからこそ、市井は拒否して、篠目は拒否できなかった。彼女は何も言わなかったが、私は確かな罪悪感に苛まれていた。
もともと無口な女であることが、今はとてもありがたかった。今、仮にそのような話題になれば、私は確実に最低な男になってしまうという確信があった。
私にそのような行い、あるいは言動を取らせずにおいてくれた篠目に、私は密かに感謝していた。
「あの妊婦は、どんな子を産むんでしょうか」
朝露に濡れた楓の山道を馬で進んでいる最中、ふとした時に篠目が言ってきた。
私はその時全く違うこと……朝露に濡れたレンガ造りの街……東京、そして独逸……のことを考えていたため、篠目が何を言ったのか一瞬、意味を掴み損ねた。
「寄生しているこぶじゃくしが、胎児にどういう影響を及ぼすかという意味なのですが」
私の沈黙をどう受け取ったのかは定かではなかったが、篠目はやや口調を変えて言ってきた。私は少しばかり考えてから口を開いた。
「初日に村長殿から聞いた話によれば、初めてコブが現れるのは遅くて十歳。早ければ二、三歳ということらしい。ということはつまり、母子感染はしないと考えて間違いない」
「赤子は綺麗なまま生まれてくるということですか」
「おそらくは」
ふと私は考えた。綺麗なまま生まれたこぶじゃくし村の子供を外に連れ出し、そこで育ててみたらどうなるだろう。
もしその子にこぶじゃくしが現れることなく十歳を超えれば、こぶじゃくしの寄生は環境によるものだと証明できるのではないだろうか。
もちろん、現実問題はなかなか難しいだろう。
まず、村長が了承しない。そして、奇病が流行っている村の赤子を引き取ってくれる家族はまず見つからない。
「こぶじゃくしを捕獲してみたいですね」
篠目が思いがけないことを言った。どういうことかと問えば、彼女は困ったような顔で笑ってみせた。
「いえ、別に。ただ、こぶじゃくしに利く薬が見つかればいいなと思っただけです。もちろん、人体に有害な薬物を使えば本末転倒ですから、慎重に検分しなければならないでしょうけれど」
なるほど、と私は考えた。薬を飲ませて、つまり内科的療法で体内に潜むこぶじゃくしを排出させられれば、それに越したことはない。
うまくいくならば……。
「市井にも言ったが、現段階ではまだ何も分からん。下手に薬を飲ませてこぶじゃくしが体内で暴れれば患者の負担は増大する。体の中に親虫がいて、そいつが稚魚を生んでいるのか、それとも稚魚そのものが体に入ってきて、人間の体内で成長しているのか、それさえまだ分かっとらん。本格的に治療を開始するのは、立花教授の見解を聞いてからにしよう。その方がいい。それまでは、対症療法で行くつもりだ」
篠目は真剣な目で頷いた。篠目はもう、専門家としての薬剤師の顔をしていた。
「ただ、こぶじゃくし村では何も飲むな。何も食べるな。こぶじゃくしがどこから感染するのか判明するまでは、何があってもそれを守ることだ。いいな?」
「言われるまでもありません」
そして彼女は、診療所から持ち込んだ竹筒に視線を落とした。そこにはたっぷりと水が詰められている。私自身、同じものを持ち込んでいた。
こぶじゃくし村にいる間、それが私たちにとって命綱となる。私は無意識のうちに、竹筒に手をやっていた。
ようやくこぶじゃくし村に到着した。相変わらず、突き抜けるような秋の晴れ空の下にある村は、静かで、それでいて平穏そのものだった。
先日、こぶじゃくしの群れを見た沼の傍で、ひとりの村人が牛を洗っているのが見えた。
私はおもむろにそちらへ近付いて行った。向こうも私たちに気付いたらしい。目が合うと軽く笑って会釈してきた。
「おはようございます、先生。いいお天気ですね」
まだ若い青年だった。手足にはこぶじゃくしが出ているが、その顔にはコブがなく、まだまだ少年の面影さえ残していた。この青年に、私は見覚えがあった。
村長の家の子だ。おそらくは次男坊だろう。父親を説得しようとしているもう一人の青年を「兄貴」と呼びかけていたことを覚えている。
明るいところで会ったのは初めてだったので、青年の顔立ちが驚くほど整っていて目を瞠った。
それなりの服装をして町へ出れば、すれ違う乙女たちはきっと頬を赤らめるに違いない。
彼がこぶじゃくしに寄生されていることが、やけに気の毒に思えてしまった。
「君は男前だね」
私は笑いながら、そんなことを言った。青年が笑って答えてくれたので、そのままどうでもいい話をしばらく続けた。
青年の名はカイ。彼は東京や独逸の話を真剣に聞き入っていた。村の外に広がる世界に興味があって已まないようだ。
新しい世界を求めて旅をするより、一所に落ち着きたいと考えることが多い私にしてみれば、彼の発想が非常に若者らしいことだと思えた。
「ところで、病気の方を診せてくれないか?」
話に一区切りついたところで、私はカイに頼んでみた。
カイは何ら嫌がる様子を見せなかった。篠目を促して、ペンとインクを取り出させる。
もともとは市井の役目なのだが、彼は今、町の診療所で、ほとんど健康な老人相手に聴診器を振るっている最中だろう。
こぶじゃくしが寄生している箇所を細かく記録していく。患者の年齢は数えの十九。
寄生箇所は、右肋骨から一センチ下がったところに、直径五センチほどの病巣が五つ。
腹腔部。正中線から左へ六センチの箇所に、縦十センチ弱、横八センチの病巣。左へ四センチの箇所に、縦三センチ、横二センチの病巣。
体の中心部から離れれば離れるほど、病巣は小さい印象を受けた。口内にも、コブはできていない。
そして、光の下で観察すると、こぶじゃくしの作ったコブの奥に、更なるこぶじゃくしを確認。
ただし、奥に見えるこぶじゃくしは表面部にいるこぶじゃくしに比べて一回り小さい印象を受けた。
「俺のこと、気味悪くないですか」
真剣に診察しているとカイが聞いてきたので、私は「気味が悪いなどと言っていたら仕事にならない」と答えた。彼は何とも言えない顔をした。
「背面部に移る」
篠目に言い、彼女が頷いたのを見てカイの背中側に回った。背中側はかなり悲惨な状態だった。
ほぼ一面がこぶじゃくしで覆われている。
特に酷いのが腰の両側。つまり腎臓のあたりで、大小さまざまなコブが埋め尽くし、その中で大量のこぶじゃくしが蠢いている。
私が見ている前で、数匹のこぶじゃくしがその体から飛び出してきた。地面に落ちたこぶじゃくしは、まるで導かれるように沼へ向かって這っていく。
こぶじゃくしが飛び出した後の傷口に視線を向ける。コブは赤黒く盛り上がったままで、表面にいたこぶじゃくしがいなくなった分、奥にいるこぶじゃくしがよく見えるようになった。
背中をじっくり見ていくと、瘡蓋のようになっている皮膚が幾つも目に付いた。
おそらく、こぶじゃくしが脱出した後、こぶは瘡蓋になって剥がれ落ちるのだろう。そして、奥に居るこぶじゃくしが新たに表面に出てくるのだ。
最初に診た女性患者……カイの兄の妻で、名をトキ……に比べて、彼はまだこぶじゃくしの病巣が小さいほうだと言える。
村人を全体的に見ると、年配者ほどコブが大きく広範囲に広がり、また男性に比べて女性の方が、症状の進行が早いことも気付いた。
「君たちは普段、どんなものを食べているかね」
聞けば、カイはほんの少し苦笑した。
「見ての通りです。田んぼは稲がほとんど育ちません。畑も似たようなものです。苗を植えても実がなる前に枯れてしまうし、この沼には魚なんか居つきません。だから、山で採れる山菜とか、粟や稗とか……ああ、巻貝なんかもけっこう……」
ろくなものを食べていないという割りに、カイの体にはしっかりと筋肉がついている。
これは初めてこぶじゃくし村を訪れた時から思っていたことだが、私にはそれが不思議であると同時に羨ましくもあった。
コブは他に、左上腕部の内側に直径五センチほどのものが一つ、三センチほどのものが二つ。右上腕部には外側に八センチほどのものがひとつ。
下半身の診察は、いくら男とは言え、さすがにこんな白日のもとでやるわけにはいかないと判断し、カイからコブができている箇所を聞くだけに留めた。
それによれば、左右の太腿には三十センチほどの大きな病巣ができているとのこと。
カイが自ら着物の裾を捲りあげてそれを見せて来たので、私は直にその病巣を目の当たりにした。
裏側には病巣はない。尻の方も同様だった。左のふくらはぎに十センチほどの病巣を確認した。陰茎には、コブはないとのことだ。
私は診察鞄を開き、簡単な手術器具を取り出した。
カイを座らせ、右上腕部に出来ている八センチの病巣にアプローチすることにした。
まずは、最も影響が少ない箇所から始めるのが定石だ。
こういう場合、虫を外科的に……言い換えれば「無理やり」摘出すると、何が起きるか分からないのだ。
その時、生命に影響が大きい心臓などの近くでは、取り返しがつかなくなる。
「村長殿の話では、指で取ろうとしたりしていると聞いたんだが、君は自分でやったことがあるか?」
私が握っているメスを恐々と眺めながら、カイは再び小さく笑った。
「ありますよ。誰だって一度はやってると思う」
「その時、痛いと思ったかい?」
「いいえ、特に。なんかこう……ぷちっと潰れる感覚はありますけど」
私は頷き、もしも痛みを感じたならすぐに訴えるようにと前置きして、さっそく蒟蒻のような皮膚の切開にかかった。
ガーゼに取った茶色い消毒薬を病巣の表面に塗る。その途端、こぶじゃくしたちが慌てたように皮膚の中をぐるぐると動き始めた。
「怖かったら、目を瞑っていていいから」
私が言えば、カイは冗談ではないとばかりに自分の上腕部を見下ろしていた。ペンを置いた篠目に言い、膿盆を用意させた。
さっそく一つ目のコブを切開する。カイは顔色ひとつ変えなかった。どうやら本当に痛みはないらしい。
こぶじゃくしの体液なのか、それともカイの体の水分なのかは分からないが、やや粘度の高い透明な液体が流れ落ちる。
その中で狂ったように暴れているこぶじゃくしを杓子で引き出し、膿盆に落とす。こぶじゃくしはしばらく膿盆の中で暴れていたが、ややあって動かなくなった。
ぴくぴくと痙攣しているその姿は、オタマジャクシそのものに見えた。
何度も同じ作業を繰り返し、右上腕部の表面に居たこぶじゃくしをすべて摘出した。
数えてみれば、全部で五十七匹いた。こぶじゃくしは腕の奥の奥まで入り込んでいて、すべて摘出するまで半刻近くもかかってしまっていた。
その間に、何事かと村人たちが集まって来ていた。彼らは初めて目にする西洋の医療器具を、興味深そうに……しかしながら、やや怖がりながら眺めていた。
「とりあえず、目に見えるところはすべて取ったみたんだが、すぐに元通りになるという話だったね?」
こぶじゃくしを摘出してみると、カイの上腕部には大きな穴が開いているように見えた。
筋肉層、脂肪層が剥き出しで、まるで野犬か山犬にでも食いちぎられたような有り様だ。
「はい、たいていの場合、取っても取ってもすぐ湧いてきます」
つまり、表面に見えているのは一部に過ぎず、問題の核は別にあるということだ。私は消毒薬をガーゼに取り、傷口に塗りつけようとした。傷口に触れた瞬間、カイが短い悲鳴を上げて飛び上がった。
取り巻いていた村人が、慌てたように私たちから距離を取った。
「すごく痛いです、今の!」
カイが訴えてきたが、私は敢えて笑った。ここで村人から信用を無くすわくにはいかない。
それに、こういう時にこちらが騒げば、余計に患者の不安を増す結果になるということも知っている。
「痛いのは、まだまだ腕が生きている証拠だとも。もっと悪くならないように薬を塗っておきたいから、ちょっと我慢してくれ」
私の説明に納得してくれたのか、カイはしぶしぶと言った顔で私の前に座った。
彼がその整った顔を歪ませながら治療を受けている間、篠目は真剣に治療過程を書き付けていた。
傷口を綺麗に手当てして最後に包帯で固定する。カイは少しばかり恨みを込めた
目で私を見て言った。「先生に診せる前より痛くなった」と。私は再び笑った。
「治療とはそういうものさ。こぶじゃくしにずっと寄生されているよりいいだろう?」
カイは何ともいえない顔で、「それはまあ、そうですけど」などと言っていた。
今日のところはこの程度で引き上げることにした。あまり一気に手を出すと、何が効果的で何が効果的でないのか判断がつかなくなっては困る。
それに、カイには悪いが、虫を外科的に摘出することが最善の治療法だという確定は無いのだ。
小さく、長く、この病には根気よく向かっていく必要がある。
「ところで、あの牛は家畜かね」
片付けを終えたところで、私はカイに聞いた。先ほどから気になっていたのだが、牛にはこぶじゃくしが一匹も見当たらないのだ。
「ええ、そうです。もっぱら畑を耕すのに使ってます。まだ食べるには若すぎますから」
その話を聞いた瞬間、私は最後に東京で食べた牛鍋の味を思い出していた。独逸では数え切れないほど肉料理を食べたが、やはり豆腐や野菜と一緒に醤油で煮込んだ牛鍋(すき焼き)ほど美味だったものはなかった。
まだまだ、こんな田舎には牛鍋屋など見当たらない。東京が恋しい。膿盆の中で蠢く五十七匹のこぶじゃくしを見ながら、私は東の空へ思いを馳せた。
改めて牛を見る。牛は、こぶじゃくしがウヨウヨ泳いでいる沼の中に半身を浸かりながら、のどかな鳴き声をあげていた。
「牛のほかにも家畜はいるかい?」
「いますよ。うちじゃあ飼ってないですけど、シゲさんところはニワトリを飼っているし、トシさんの家には犬が……ああ、サブローにはこぶじゃくしが出てます」
話の流れからして、サブローというにが犬の名だというのは察しがついた。ニワトリや牛にはコブは現れないのに、犬には現れる。
篠目に頷くと、彼女はさっとペンを走らせてその旨を書き記した。
「しかしまあ、長生きじゃあないねえ」
ふいに、取り巻きの一人がそう言って来た。顔のほとんどをコブで覆われてるせいで年齢不詳の印象だったが、歯が数本しか残っていなかったので年老いている男だということは察しがついた。
「ニワトリなあ、卵を産ませるために飼ったんやが、どいつもこいつも卵を産んだと思ったらすぐに死によるよ。もっぱら食べてばっかりやの」
「そうなんですか」
養鶏については詳しくないので、私は曖昧に笑って意見は控えた。
だが、一応気になるので篠目に言って書き付けさせておいた。ニワトリが早死にする、と。
「牛はよく、この沼に浸かる?」
気持ちよさそうに目を細めている牛を見ながら私は誰にとも無く聞いた。
「そうですね。寒くなってきたら、さすがに浸かるようなことはしませんし、させませんけど、暖かいうちは、綺麗にしてやってます。うちの大事な財産なので」
答えたのはカイだ。私は大きく頷いた。こぶじゃくしが泳ぐ沼に浸かる習慣がある牛に感染は見られない。これは貴重な情報に思えた。
私は無意識に水が入った竹筒に手をやりつつ、カイの家の方を指した。
「さて、そろそろお義姉さんの様子を見に行こうか。変わりないか?」
「おかげさまで。寝てばかりで退屈みたいですけど」
そうか、と返事をして、私と篠目は家長宅へと足を向けた。カイをはじめ、村人たちは名残惜しそうに私たちを眺めつつも、自分たちの仕事へ戻って行った。
「外科的な摘出だけで済むならラクなんだがな」
私が言えば、篠目が全くです、と返してきた。そして、世の中とはつくづく自分の希望通りには動かないものなのだと、私は改めて実感させられることになる。