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「いったい何がどうなってあんなことになってしまったんでしょうね。僕にはとても信じられませんよ、先生! あれだけ全身をコブに覆われていて、いったいどうやって皮膚呼吸しているんですか、彼らは! 普通に考えたら生きてられるわけないんですよ!」
「……皮膚呼吸しているのは、トカゲやヤモリだ。人間は肺で呼吸している」
「オタマジャクシのくせに、いったいどうやってあれだけの生存能力を身につけたんだか! いやあ、先生。やはり生命ってのは凄いですよね! いざとなったら他の生き物の体に寄生するだけの生存能力まで身につける生き物が出てくるなんて!」
「それだけの進化をするのに、何万年かかると思ってるんだ。あの奇病が現れたのは、今からせいぜい三十年前だ」
市井は普段から多弁な男であるのだが、酒が入るとその傾向がより強くなることを、私は長年の付き合いで知っていた。
人間が肺で呼吸していることなど、専門の知識を持つ医師でなくとも知っている。
普段の市井であればさすがに口にしないだろうが、酒が入れば彼は当たり前の顔をしてそんなことを喋る。
「これは呪いですかね! なんかあるんですよ、きっと。隔絶された村、文明開花から取り残された村。何かあるに決まってる! こりゃあ、一大事ですよ!」
私は溜め息をついた。
今ここで私が何を言っても、正気に戻った市井は露ほども覚えていないだろう。
そもそも、自分が喋っている内容でさえ覚えていないことが常だ。いつまでも酔った市井の相手をしていても仕方がない。
私は早々に食事を済ませ、部屋に引き上げることにした。
「マツさん、こいつをよろしく頼みますね」
我が診療所の実質的な「女将」であるマツに告げると、彼女はすべて分かっているという顔で頷いてくれた。私は安心して茶の間を出て、階段に向かう。
途中、廊下の拭き掃除をさせられていた篠目と遭遇した。
女性であるという、ただそれだけの理由で、篠目は薬剤師の仕事の他に、診療所の掃除や洗濯、食事の支度の手伝いという仕事も担っていた。
最初、彼女は自ら進んで手伝いを申し出ていたようだが、マツさんが口うるさい姑のように文句をつけ、ことあるごとに篠目の仕事をこきおろすらしく、このころの篠目は、診療所に戻ると顔が死んでいることが多かった。
マツさんと篠目は、別に嫁と姑の関係ではないのだが、年配の女は若い女を見るとなぜか嫌がらせをせずにはいられないらしい。
つくづく、男の私には想像もつかない世界だ。
特に、篠目が二十代の後半を迎えても、なお結婚も出産もせず仕事に没頭していることが、九人の子供を育て上げたことを自慢にしているマツさんには許せなかったらしい。
子供がいない篠目を、マツさんは人間の出来損ないのように扱い、篠目はよくその嫌がらせに耐えていた。
診療所をやっていくために、篠目は絶対に必要な人材だ。篠目に我慢の限界が訪れ、彼女が診療所を出て行くと言い出さなければよいが、などと思いながらも、自分にはどうしていいか、まるで分からなかった。
私は、廊下に這いつくばる篠目の姿から、ただ目を逸らすしかなかった。
立花に出す手紙はすでに書いた。
医療器具の消毒は市井に任せてある。私がするべきことは特にない。
江戸の時代から使われている古い階段を昇り、自室として宛がわれている部屋へと向かう。
そこは、マツさんが綺麗好きであるおかげで、古い建物だが掃除が行き届いていて不快な思いは一度もしたことがなかった。
しかし今日は、かつて暮らしていた東京の洋館が懐かしくて仕方なかった。
木の壁に並ぶ小さな木目が、こぶじゃくしを思わせた。
その時、私はほとんど無意識に自分の腕を見下ろしていた。そこにコブがないことを知って、安心する。そんな自分に嫌悪する。
昨日と同じことを今日も繰り返しながら、障子を開いた。
昔ながらの障子の感触が指先に伝わってきた。そのざらざらした和紙の手触りから、ボロボロになったこぶじゃくの患者の皮膚を思い出し、慌てたように手を引っ込めてしまう。
「しっかりしろ。くだらんことを考えても仕方ない」
私は気が付けば声に出して言っていた。自分の耳に届いた自分の声があまりにも情けなく、自嘲して誤魔化した。
部屋の中には自分しかいないというのに。そんな自分の行動が滑稽で、またしても自嘲してしまう。
気を取り直して、書棚へと向かう。
そこには、東京から持ち込んだ医学書がずらりと並び、あるいは畳に積み上げられている。
医学書のほとんどは独逸語で書かれたものだが、日本語で書かれたものもたくさんある。
私があまり扱ったことのない症例である寄生虫症も、そのひとつだ。手垢が全く付いていないおかげで、やたら新しく見える医学書を手に取り、パラパラと頁を捲ってみた。
こぶじゃくしと似たような症例など存在していないと分かってはいるのだが、だからと言って何もせず悶々と時を過ごすのは耐えられそうもなかったのだ。
そして医者である私ができることと言えば、医学書を研究することだ。娯楽本の類など、今は読む気にもなれなかった。
世の中には信じられないような奇病が存在するものだ。
日本語に翻訳された寄生虫症の症例に目を通しながら、私はつくづく世界は広いと実感する。
主に皮膚表面に現れる寄生虫症を調べていた私の目に真っ先にとまったのは、そこら中をいくらでも飛び回っているハエによって引き起こされる疾患だった。
日本で暮らしているとまず実感することはないが、一歩海の向こうへ出れば、ハエは紛れもない脅威として認識される。
世界の広い地域に生息する螺旋蛆蝿は、傷跡はもちろんのこと、小さなニキビ、新生児のヘソ、あらゆる傷に卵を産み付け、やがて卵から孵ったウジがその肉を貪り食らう。
例え傷跡が存在せずとも、彼らは耳、鼻、肛門など、もとからある穴という穴に卵を産み付けて去っていくらしい。海の向こうのハエは、こちらのハエと違って、獲物が死ぬか、抵抗不能に陥るまでのんびりと待ってはくれないのだ。
私は、鼻の穴の奥の奥まで入り込んで肉を食らっているウジを想像した。その苦痛は並大抵のことではないだろう。
医学書の次の頁には、主に阿弗利加に生息するというハエに襲われた患者の症例が詳細な絵と共に紹介されていた。
このハエは、外に干してある衣服に散乱するらしい。ハエの卵が付いていることを知らずにその服を着れば、卵から孵ったウジに体を食われるというわけだ。
人間の手で描かれたものなので、どこまで真実であるのかは定かではなかったが、絵を見れば、女性の乳房が見事なほどに穴だらけになっている。
まるで蜂の巣だ。
他にも、蒙古では、ハエが一瞬のうちに人間の目……たいていの場合は家畜の目……に産卵し、最悪の場合は失明にいたるという症例も報告されている。
しかしながら、ハエも好きこのんで人や家畜の目に卵を産み付けているのではない。水というものがほとんど存在しない砂漠地帯では、最も効率よく幼虫のために水分を確保でき、なおかつ常に露出されているのが哺乳類の眼球だというだけの話なのだ。
それにしても、想像するだけで目が痛くなるような話だと思う。
私は、こういった凶暴なハエが生息しているのが、この国ではないことに感謝したい気分だった。
昆虫類の中でも、ハエとゴキブリは生命力が特に強いことで知られる。よって、その繁殖方法も並外れていると思わざるを得ない。
私は頁を適当に捲る。ハエが寄生した症例はまだまだ枚挙に暇が無いようだったが、私の興味を引き止めておくには不十分であった。
私は今、あらゆる寄生虫の症例をなるべくたくさん見ておきたい気分だったのである。
男の大事な場所を、立って歩けないほど肥大させる寄生虫症もある。リンパに寄生したが管を詰まらせることで、その先の手足や、陰部が肥大化してしまうのだ。
この症例については日本でも馴染み深いがゆえに、私もよく知っている。かの西郷隆盛も、この症例に苦しんでいた。
江戸の昔、陰茎があまりにも大きくなりすぎてしまったせいで、自分ひとりでは歩くこともできず、駕籠を運ぶように陰茎をぶら下げ、二人がかりで移動している図が、蒔絵に描かれて残っている。
江戸の時代、医療に関して言うならば、魑魅魍魎が跋扈する迷信の域を出ることはまずない。
寄生虫症について記述した文献をかつて読んだことがあるが、物の怪の類を扱った怪談話との違いを見つけることの方が難しいとさえ思ったものだ。
人間の体の中から蝉が出てきただの、妖怪だとしか思えない奇怪で気味悪い生き物が体を食い破っただの……。
それを言うなら、今回私が遭遇したこぶじゃくしこそ、普通に考えれば魑魅魍魎の域を出ないような話だ。
自分の目でしっかりと見た後だからこそ嘘偽りなき真実だと断言できるが、これが誰かから聞かされた話であったらどうだろう。私は素直に信じただろうか。
何ともいえない。
語る相手によっては信じるかもしれないが、あまりに荒唐無稽だと思えば信じないかもしれない。
そう考えると、手紙を送った相手である立花の反応が気がかりに思えてくる。彼は信じてくれるのだろうか。
実際に立花がこぶじゃくしを見て、触れて、それでどう判断するかは分からないし、それについては彼の意見に異を唱えるつもりはない。
だが、そもそも症例そのものを信じて貰えなければ話にならない。彼に限ってそのようなことはないと思いたいが、立花の分析が無ければ、こぶじゃくしの治療を進めるのが困難になるだろう。
それを思うと、夕方に出したばかりの手紙の内容が、途端に不安になった。
追伸として新たに手紙を出すべきか、それとも彼を信じてこのまま彼に判断を委ねるべきか。
私はほとんど無意識にインクを取り出しながら、頭の中で幾度と無く考えた。そこへ、廊下をこちらへやって来る静かな足音が聞こえてた。
「先生、今よろしいでしょうか」
予想通り、ぴったりと閉じた障子の向こうから聞こえてきたのは篠目の声だった。
断る理由もないので返事をして部屋に通すと、彼女は短く断わりを入れて入って来た。
篠目がどういう顔をしているのか、その時の私にはそれを知ることには勇気が必要で、私にはその勇気が持てなかったため、篠目の方を振り向くことなくずっと机に向かっていた。
医学書の頁を無意味に捲る。そこに書かれている内容などほとんど頭に入って来ないのに、私は真剣に勉学に励んでいるようなフリをした。
「先生、単刀直入に言わせていただきます。こぶじゃくしからは、手を引いてください」
私の背中にかけられた篠目の声は、思っていた以上に真剣だった。
「私のような青二才が言うべきことではないかもしれません。女の身で、先生のお気に障ることを申し上げていることも自覚しております。ですが、この件だけは言わせていただきます。最悪、私は先生の元を追い出されても構わないという覚悟です」
一瞬、沈黙が流れた。窓の外から聞こえる夏虫の声が、やけに大きく感じられた。
私はこのまま背を向けてやり過ごすには、篠目の覚悟があまりにも大きいと分かり、しぶしぶながら振り返った。
篠目は、今までに見たことがないほど真剣な顔をして、穴が開くほど私を凝視していた。心もち、その顔色が悪いように見える。
「あの奇病は、明らかにおかしいです。酔っ払った市井さんのように、呪いだの何だのと言うつもりはありません。しかし、これが並大抵の疾患ではないということは、私よりも先生の方がよく分かっておいでのはずです」
そして篠目は、一段と声を潜めた。私は、膝の上でぎゅっと握られたその手が、赤くなっていることに気付いた。見ているだけで冷たそうな手だった。
「伝染性のものではないと、本当に言い切れるのですか」
私は何も答えられなかった。現時点で、こぶじゃくしについて分かっていることはあまりにも少ないのだ。
人から人へと伝染する病であると言い切ることはできないが、同時にそうではないと言い切ることもできない。
「こぶじゃくしが伝染病であると知れたら、この町だけではありません。近隣すべてが大恐慌に陥ります。田舎の人間が、都会の人間よりも遥かに迷信深いのは、先生だってご存知でしょう? 最悪の場合、感染を恐れるものたちが診療所を襲いかねません」
篠目は何かを恐れるように、さっと周囲に視線を走らせ、唇を強く噛んだ。
「こぶじゃくしに罹ったからと言って、すぐすぐに命がどうこうなることはないのだということは分かっています。しかし、生き永らえることと、化け物のような見た目になることは必ずしも患者にとって良いことではありません。特に、あの村と違ってここは周囲から隔絶されているというわけではないでしょう? もしそうであるとしたら、騒ぎは広がる一方です」
私はただ小さく唸り声を上げることしかできなかった。篠目の言うことはもっともだ。
しかし、だからと言ってこぶじゃくしの治療を諦める気にはなれなかった。
「こういうことは言いたくありませんが、こぶじゃくしは絶対に村の外へ出してはならないと言った村長殿の意見に、私は賛成します。何が起きるか分かりません。危険な病原体を、のこのこ村の外へ持ち出す必要性を感じません。このままそっとしておけば、あの村の中で沈静化されていくでしょう」
私が口を開きかけたのを見てとって、篠目は息を継ぐまもなく言葉を続けてきた。
「どんな患者であれ、その命を救うこと、健康を守ることが医者の務めだ、などという使い古された説教は、お止してください。こぶじゃくし村の数十人を救うために、新たに数百人を犠牲にするのは、理に適っておりません。理に適うことばかりをするのが人間ではないなどという戯言も止してください。私は現実的に話しております」
その時、階下から篠目を呼ぶマツさんの声が聞こえてきた。そういえば、ちょうど市井が夕食を終える頃合いだ。
片付けろと言うつもりなのだろう。篠目は、苦いものを噛み締めるような顔で背後の障子を見やると、まだ時間はあると判断したのか、再び私の方に強い視線を向けてきた。
「先生は、なぜこぶじゃくしに拘るのですか」
咄嗟に答えることができなかった私に、篠目は怒りと呆れを綯い交ぜにしたような顔を向けてきた。
どうしてこれほどまでにこぶじゃくしに拘っているのか、この時は自分自身でさえ分かりかねていた。
「まさかとは思いますが、こぶじゃくしという未知の奇病を治療させることに成功したら、また大学へ戻れるかもしれないと、そう思っておられるわけではございませんよね?」
その言葉に、私は瞬間的に頭に血がのぼったのが分かった。そんな私の表情を見て、篠目の目が微かに細められるのが見えた。
子供のころ、不注意で割ってしまった植木鉢の存在を、うまく隠しおおせたと思っていたのは自分だけだったという体験をしたことがある。
今の心情は、皆が集まった席で、母が笑いながら「とっくの昔に気付いていた」と親戚たちに暴露したときの、あの心情と、非常によく似ていた。
ただ、あのころと今で何が違うのかと言われれば、かつては子供で、私にそんな思いをさせたのが大人であったということ。
今は、二十近くも年下の、しかも女性に、深い深い心の底にこっそりと仕舞いこんでいた闇を、存在さえ気付いていないふりをしていた闇を、白日の下に晒されたということだ。
「恐れながら、先生のお気持ちは分かります」
ひどく抑えた声音で、篠目は言葉を続ける。
「分かりますが、どうかあの症例だけはお止しください。迷信がかかった愚かな考えだと思われても構いません。しかし、世の中には触れてはならぬものがあるのです。こぶじゃくしもそのひとつです。手を出すべきではありません。必ず、良くない結果を招きます。先生にとっても、こぶじゃくしの村人にとっても……」
私はこれみよがしに溜め息などついてみせた。なぜ、自分がそのような態度を取ったのか分からない。
どうやら私は、篠目に心の中を見透かされたことに腹を立て、自分を取り戻そうと見栄を張りたい心境のようだった。
「それは、迷信深い呪い師にだけ許される虚言だよ」
自分の口から出てきたその声は、とても自分のものとは思えないほど冷たく、それでいて棘に満ちていた。
「患者がいて、我々がいる。私たちは、相手がどんな病を抱えているものであれ、私は医者として治療をせねばならない。それが未知の奇病だからという理由で、すごすごと逃げ帰っているようでは、とても医学の進歩は望めないよ。ましてや、私は辺境に最先端の医療をもたらすために来たんだ。私が来るまで、この町の人々は薬と言えば草を煎じたものばかり。手術と言えば、手足を切り落とすだけ。そんなお粗末な医療しか知らなかったんだ。お年寄りの中には、医者と呪い師の区別がつかない人も多い」
「そういうことを言っているのではありません」
篠目はぐっと堪えた口調でそう言った。私自身、それが本心ではないと分かっていた手前、できればそれ以上、篠目と議論を交わしたくはなかった。
そこへちょうどよくマツさんが再び篠目を呼ぶ声が聞こえてきた。今度は、先ほどの声より怒気が強い。
「とにかく」
篠目は、障子の向こうを苛立たしげに見た後、尖った口調で言った。
「私は、これ以上こぶじゃくしに触れるべきではないと考えます。先生や私がこぶじゃくしに罹る可能性だってあります。今はまだ何も分かっていないのです。どうやって感染するのかさえ分かっていないというのに、たった三人で事にあたるなど、無謀です」
そして彼女は、更に声を落とし、ささやくような声で続けた。
「下手をすれば、私や先生がこぶじゃくしを町に広めてしまいかねませんよ。お分かりになってらっしゃるのですか」
階下にいるマツさんが耳を欹てているのが分かる。おそらく、マツさんは篠目の反応を探っているのだろうが、病に関する話題に人間は敏感になるものだ。
我々もまた、伝染性が否定できない病に関する話題は非常に慎重な対応を求められる。私は無言で篠目に退室を促した。
「私は、こぶじゃくしが怖いです」
ややあって、篠目はぽつりと言った。よくよく聞いていなければ聞き逃してしまいそうな、ささやかな声だった。
私が何か言おうとした時にはもう、篠目は障子の向こうに立ち去ってしまっていた。
階段を降りる気配がした後、マツさんの隠そうともしない嫌味な声が聞こえてくる。何とも、嫌な気分だった。
心の内側にヘドロのような暗い気持ちを抱えたまま、私は文机に向き直った。そこに投げ出していた独逸語の医学書を見て、私はかつて独逸で過ごしていた日々のことを思い出してしまった。
連想とは、まったく厄介なものである。
今となっては昔の話だ。政府から援助を受け、二十代の若かりし日、一年間ほど海の向こうへ渡った。
もちろん、その経験は素晴らしいものだった。全く違う歴史を歩んできた全く違う人種の、全く違う世界を目の当たりにして、私はしばらく開いた口が塞がらない思いだった。
もちろん、それは私に限ったことではなかったのだが。
独逸の街並みのその美しさは素晴らしかったし、金髪碧眼の美女が当たり前の顔をして手を差し出してきた時には冷や汗をかかされた。
純粋なる日本男児は、女性の手の甲に接吻などしたことがない方が普通なのだ。何より、欧州の中でも最も進んでいる医療技術を本場で学ぶことが出来たことは、私にとって大きな財産であると言えることは間違いない。
ただし、独逸では同時にどうしようもない劣等感というものも学んできた。
私は、どちらかと言えば中肉中背。特別、体が大きくも無いし、小さくも無かった。
しかし、それはあくまでわが国の中での話だ。独逸で、私は自分よりも体が大きい「十二歳」の少女と出会った。
私は衝撃を受けつつも、彼女だけが特別なのかと、つたない独逸語で質問した。
少女は笑った。
その時の少女の目は、明らかに異性としての私を見下していた。
答えは、聞くまでもなかった。
ゲルマン人はとにかく体が大きいことで知られる民族だ。ほとんどの女は私よりも大きいし、男ともなれば更に大きい。
ゲルマン人の男と横に並ぶと、まるで大人と子供のような体格差が浮き彫りになる。
あからさまにそれを揶揄されるようなことはなかったが、それでも彼らが我々をどう思っているのかは嫌でも伝わってきた。
だから私は、ひたすら技術を磨いた。体の大きさはどうしようもないが、手先の器用さと知識への貪欲さでは、決して負けていないつもりだった。
そんな私を陰で笑う者がいたことも知っている、しかし、それでも私は誰よりも多く学び、誰よりも多く経験をこなしたのだ。
その見返りとして、国に帰った私は短期間ではあるが確かな栄光を手にした。
しかしながら、栄光とは短命なものだ。そして、自分では二度とないほどの、例えて言うならば金剛石の輝きにも劣らぬ栄光を手に入れたつもりだったのだが、それは他人から見れば、せいぜい水晶ほどの輝きでしかなかったようだ。
私の代わりはいくらでもいる。
時代が進むに連れて、独逸で学んできた医師など珍しくも何ともなくなった。国内でも、疫病に対する研究は目を瞠る速さで進んでいく。
そして、私はくだらない責任を押し付けられ、体よく左遷されたというわけだ。
今、胸の奥に感じている心境は、かつて独逸で日々感じていたあの劣等感を思い起こさせる。
私は、二度とあのような体験をしたいとは思わなかった。
窓の向こうに目を凝らす。見えるのは、黒々とした稜線ばかりだ。月さえ見えない。
ただし、と私は考えた。
月に被さっている分厚い雲が風に吹かれて立ち去れば、再びその光は地上を照らす。たとえ太陽にはなれずとも……。