表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/17

 その奇病を目の当たりにした時、私は自らの覚悟がひどく甘いものであったことを認めざるをえなかった。


 患者の皮膚はデコボコとしていて、蒟蒻でも触っているかのような、奇妙な弾力があった。そして、小豆の半分ほどの大きさのコブが、皮膚という皮膚をびっしりと覆い尽くしている。


 ただ、何より異様なのは、赤黒く隆起したコブの一粒一粒の中に、ゴソゴソと蠢いている「何か」がいるということだ。


 蝋燭の明かりを皮膚に近付け、注意深く観察すれば、コブには透明な粘液が満ちていて、その中には小さなオタマジャクシのような生き物が潜んでいた。


 彼らは、まさしく孵化を待つオタマジャクシのように身を丸め、時折思い出したように、患者の皮膚の内側で一回転する。


 針の先でコブを突くと、途端に粘液と一緒に「それ」が零れ出てきた。


 空気に触れた途端、小さなオタマジャクシに似た虫はピクピク、と数度痙攣すると、動かなくなってしまった。


 私の頭に「寄生虫」という言葉が浮上した。


 改めて患者を見下ろす。患者の皮膚に、コブがない場所はほとんどない。


 この患者は、この体にいったいどれだけの虫を飼っているのだ、と思うと、改めて背筋を冷たいものが伝い、肌がぞわりと粟立った。


 私は込み上げる吐き気を何とか抑えこみ、患者の枕元に回って口を開けさせた。


 頬の裏側、上顎、舌の表面、あまつことなく虫が潜んだコブで覆われている。額、頬骨など、顔面の硬い場所にはコブはないが、それ以外の場所にはコブが広がっている。


 コブのできていない瞼を持ち上げる。幸い、眼球に虫はいないようだった。


 だが、ざんばらになった頭髪の隙間を縫うようにコブができ、その中で時折思い出したようにグルリと動く虫がいる。


 一匹の虫がコブの中で動くと、その周囲にいる虫たちもまた連動するようにグルリ、グルリと動き出す。


 赤黒くデコボコになった肌が、蒟蒻を揺らすように一斉に波打つのだ。私は、あまりの光景に我を忘れ、患者の皮膚を凝視してしまっていた。


 皮膚の中に潜む何千、何万いう目が、自分を見つめている気がした。私は、震えだしそうになる手を叱咤して、診察を続けた。今更、後へは引けなかった。


 驚くべきことに、患者はこの状態で腹に赤子を宿していた。


 細い体に不釣合いなほど大きく膨らんだ腹にも、あまつことなくコブが広がっている。腹の中で胎児が動くと、その動きを嫌うかのように体表面部の虫たちも一斉に身を躍らせた。


「先生、赤ちゃんは元気やろうか。大丈夫やろうか」


 患者に聞かれ、私はどう答えて良いものか、咄嗟に気の利いた言葉が出てこなかった。


 何しろ、初めての症例だ。


 こんな奇妙な寄生虫症を扱った経験などないのだから、答えようが無い。


 彼女がいっそ死体であったなら、あるいは、百歩譲って正気を失っている状態で私の前に現れてくれていたならば……。そんな非情な考えが、頭に浮かんだ。


「診察してみなければ、まだ何とも言えません」


 意図的に大きく息をつき、今度は一言断りを入れてから、患者の着物の裾をはだけ、両脚を開かせた。


 患者はまだ二十にも満たない若い女であるということだったが、その皮膚に触れるのは大層、気味の悪い行いであった。


 蝋燭の明かりに、その秘めたる場所が明らかになる。あらかた予想していたように、陰部にもコブは広がっていた。


 陰毛はほとんどが抜け落ち、そこにもびっしりとコブができている。無論、コブの中には必ず虫が潜んでいた。


 大陰唇から肛門にかけてはポツポツとコブが見えるが、どれも掻き毟ったようで赤黒く潰れ、爛れたようになっている。


 悪臭は、体表面部の比ではなかった。むっとするような臭気に耐えながら、私は外科鞄を引き寄せた。


 中を観察するために、注意深く膣の中に器具を挿入していく。


 蝋燭の頼りない明かりのもと、綺麗な薄桃色の肉が見えた。膣内にコブが見当たらないのを確認し、私は器具を抜き、元通り患者の着物を整えてやった。


 軽く息をつき、私は持ち込んだ器具を手早く片付けた。通常は一度で済ませる消毒を、今回ばかりは二度、あるいは三度行うことを密かに決め、そして、じっと私のやることを眺めていた患者の母親の方に膝を向けた。


 私が頷くと、同じく全身をコブに覆われた母親が立ちあがり、家の外で待機している家族に短く声をかけた。


 すると、男が四人、どことなく落ち着かない様子で筵をくぐって入って来た。四人のうち、二人はまだ青年のように見えた。


 残りの二人は、コブが顔全体を覆っているせいで、年齢というものを外見から判断することができなかった。


 その時、青年のひとりが、私の傍に置いてある外科鞄に興味深そうな視線を向けたことが、なぜか印象に残った。


 戸外は、残暑の只中だ。しかし、突き抜けるような青空と吹き抜ける風に含まれた冷気が、確かな秋の訪れを感じさせる。総じて、心地よい午後だった。


 しかしながら、この家の中を満たす空気は、まるで便所のそれだ。臭く、重く、それでいてじっとりと湿っていて、皮膚に纏わり付いて離れない。


 この場所に長く留まりたくはなかった。皮膚から染み入る汚臭に、全身が毒されてしまいそうだ。私の本心はひたすら逃げ帰ることを求めていたが、冷や汗を拭いつつ口を開いた。


「恐れながら、このような奇病を目の当たりにしたのは初めてです」


 肺腑の奥に空気を吸い込めば、薄暗い部屋を満たす悪臭までもを体内に深く取り込むこととなる。


 考えただけで気分が悪くなった。医者として情けない、などと思いながらも、私は浅く早く息をすることを止められずにいた。


「奇妙な……まことに、奇妙な……」


 私の独り言を聞き、家族たちはほんの一瞬、互いの顔を見合わせていた。


「先生は、東京から来た人やと聞きましたがねえ。最近は……何て言うんやったかなあ。漢方に代わって、洋方でしたか。さんがもたらした新しい医術が流行っておるとか、おらんとか。それでも、この病は治せませんがや」


 一人の男が口を開いた。座っている位置からして、彼が家長だと見当がついた。


 その声は、まるで分厚い布越しに声を出しているような、ひどく籠もって聞き取りづらい声であった。


 私がどう答えたら良いものかと逡巡していると、家長は小さく溜め息を零した。


「この土地の者は、今となっては皆が皆、必ずこの病に罹っておりますや。そりゃあまあ、生まれて落ちた時には綺麗なもんです。誰が言い出したか、こぶじゃくし、とねえ。ほら、体中にコブができて、そん中でオタマジャクシのような虫が泳いどるでしょう?」


 こぶじゃくし、と私は口の中でその奇妙な名前を呟いた。


 人間の皮膚の上に出た、コブの中に住むオタマジャクシに似た奇妙な生き物……。改めて患者の方を見る


 。私のすぐ傍に、コブだらけになった腕が投げ出されている。


 腕の内側、外側を問わず、患者の腕はこぶじゃくしに覆い尽くされている。コブは、腕から手の甲、手の甲から指先へと進むにつれて少なく、小さくなっていく。


 桃色の、ほとんど傷のない爪を見て、私は患者の年齢を改めて思い知った。


「このようなコブが、体に出始めるのは、いつごろですか」


 風が吹く。


 蝋燭の炎が揺れて、患者の体の上を光が舐めていった。光の変化に驚いたのか、横たわった若い女の皮膚の上で、こぶじゃくしたちが一斉に蠢いた。


 おかげで、皮膚が不気味な光沢を放って波打ったように見えた。


 その光景を目の当たりにして、私は、彼らの体に潜んだ虫が一斉に飛び出してきて、私に襲い掛かるのではないかという恐怖に捕らわれ、身を震わせてしまっていた。


「そうやなあ。赤子には、コブひとつ見当たりませんや。最初にコブが出てくるのは、どんなに遅いものでも十になる前、といったところでしょうかねえ」


 家長は、私の様子をじっと見ながら言葉を続けた。私の本心など、とっくに見抜かれてしまっていただろう。


 しかし、家長はそのことについては何も言わなかった。


 赤子にはコブがない、というのは貴重な情報だ。


 少なくとも、この虫は母親の胎内から感染するものではないということが、この時まずひとつ分かった。


 私は、患者の肌に触れた手の平が、自分の肌に触れぬように気をつけながら、額の汗を手首で拭った。


「早いものでは、幾つでコブが出ますか」


 私の質問に、男は腕を組んで考え込んだ。


「ふたつか、みっつか。ひとりで歩き始めるようになるころに、こぶじゃくしを体に飼っているものは珍しくはないですわ」


 その言葉に違和感を覚えた。平均的な子供の場合、一歳前後で立って歩けるようになる場合が多い。三歳でようやく一人歩き、というのは少しばかり気になる情報だ。


「三歳前後で、一人歩きを始める子供はどれくらいおりますか?」


 私は、慎重に言葉を選びながら聞いた。古今東西、子供の成育に関する話題に、親が神経を尖らせているのは珍しいことではない。


 むしろ普通のことだ。こういった話題に無神経である医者は、たいてい患者から信用を無くすものだと言っていい。


「たいていの子は、二歳で歩くようになりますわあ。だから、そうやなあ……十人おったら、二人か……三人。それくらいですなあ」


 家長が、斜め後ろに座っている女……妻を振り返り、彼女が頷くのを見てから改めて私の方に向き直った。二歳前後で一人歩き。これも貴重な情報だ。私はしっかりと記憶した。


 ここは、この奇病が原因で、周辺の村や町から、長く孤立無縁状態にある村だ。平均的な子供の成長を目にする機会がないのも頷ける話だった。


「コブが出やすい場所はありますか。最初にコブが出た場所を覚えてらっしゃったなら、ぜひ教えていただきたいのですが」


「腰やねえ」


 この質問には、即答が返って来た。


「まず最初に出るんは、どんなモンでも腰です。まず、吹き出物みたいなボツボツが出来て、それがどんどん膨らんで」


「吹き出物、ですか」


「ええ、そうですわ。たまぁに、本物の吹き出物の時もありますけどなあ。だいたい小豆くらいの大きさになった時になあ、ツルンと皮が捲れるんですわ。そしたら、たいていコブん中に、こぶじゃくしが泳いどる」


 言いながら、家長は自分の腕を差し出して見せてきた。「ほら、こんな感じです」と言いながら大豆ほどの大きさのコブを示し、その後で指先で引っ張ると、確かに彼の言葉通り、皮膚がツルリと剥けた。


 皮膚の下から出てきたのはもちろん、この部屋の中だけで数十万匹はいると思われるこぶじゃくしだ。家長の腕の中で、こぶじゃくしは二度ほどグルリと回った。


 動き方も、まさしく孵化を待つオタマジャクシそのものだった。


「こぶじゃくしは、この後どうなりますか」


 家長は腕を引っ込め、再び腕組みをした。


「ある程度まで大きくなったら、自分で勝手に出てくるんですわ。残念ながらカエルにはなりませんがね」


「ある程度の大きさ、というのは?」


 軽口を無視して問うと、男は指先で大きさを示して見せた。それによれば、大きさはだいたい二センチほどだった。


「勝手に出てくる、とおっしゃいましたが、時間はバラバラですか? それとも決まった時間帯に多く出てくる、などはありますか?」


「そうさねえ。朝起きたら、たいていこぶじゃくしが百匹くらい、床やら筵の上で、のたくっているんですわ。だから朝が多いと言われればそうかもしれんですが、昼間はみんな、たいてい動いてますからなあ。動いてる間に、けっこうボトボト落ちてるんですわ」


「なるほど。では、特にこぶじゃくしが出てくる時間は決まっていないということですね」


 私が結論を言えば、男は曖昧に頷いた。デコボコした肌のせいで、表情は分かりにくいが、それでも、先を急ごうとする、早く逃げ帰ろうとする私の本心に、家長が僅かながら不快そうな雰囲気を纏わり付かせたのは伝わってきた。


 気をつけよう。私は自分の心に言い聞かせた。この奇病は、患者の協力なしには手が出せない。


「こぶじゃくしが出るようになって、何か体調に変化はありましたか? 例えば、熱が出たとか。倦怠感……だるい、などの」


「いんや、そういうことはない。ああ、子供が初めてこぶじゃくしを背中に出す前は、たいてい風邪ひいたのなんだのって騒いでますなあ」


 男は次の質問にも丁寧に答えてくれた。私は内心ほっとしながら、男の背後に座る二人の青年に視線を向けていた。


 彼らが幼いころは、どんな様子だったのだろうか。できれば、個別に聞いてみたいと思った。


「無理やり、取ろうとしたことはありませんか?」


 なるべく相手を刺激しないように、私は静かな声で聞いた。


 当然、自分の体、もしくは家族の体にこんな気味の悪い虫が潜んでいれば、どうにかして取りたくなるものではないだろうか。


 わざわざ虫が出て行くのを待つ必要は感じない。この質問は家長だけではなく、家族全員に向けたのだが、答えを寄越してきたのは家長だった。


「そりゃあまあ、そうですわ。特に、若い娘なんかはなあ、鏡を覗き込んだときに自分の顔の中にコブがあったら、悲鳴をあげて泣きじゃくりますわ。指でほじって出そうとしたり、針で突いて殺そうとしたりなあ、いろんなことやってますわ」


 男は自嘲気味に笑いながら答えた。


「でも、無駄なんですわ。取っても取っても、後から後から出てくるんです」


 私は真剣な顔で頷き、話の続きを促した。


「五年くらい前の話になりますが、とにかくこのコブが嫌で嫌で堪らんかった男がおりましてな。まあ、コブが好きな者なんかおりゃあしませんが。その男は、年がら年中とにかくコブをほじって、中にいる虫を出しておったんです。そのうちに、気が狂うてしもうてね。しまいにゃあ、体中を包丁で刺して、死んでしまいましたわ」


「なるほど」


 なぜだが、その時、私は話に出てきた男に理由のない親近感を覚えていた。


 出てくる端からコブを抉って、中の虫を取り出して……それでも一向にいなくならないから、より一層、必死になって皮膚を痛めつける。


 しかし、コブは後から後から現れる。最終的に、皮膚を丸ごと削り取ってしまおうと考える。痛みはとっくに麻痺してしまい、自分が何をやっているのかも、その行動の結果も分からなくなる。


 そしてその挙句、血を流し過ぎて命を落とす……。狂い死にした、というより、それはむしろ自然なことのように思えた。


「コブを潰して中の虫を取り出すのはねえ、これがまた、全く痛くないんですわ」


 私が黙っていると、家長は言葉を続けた。


「むしろ、腕やら脚やらの毛を抜く方が、痛いですな。だからこそ、暇さえあればコブを潰して回っているってな連中は、けっこうたくさんおります」


 コブを潰すことに痛みはない。ならばなおさら、自分で自分の体を痛めつける結果を招いたとしても不思議はない。


 そして、痛みが無いということは、患者に「自分の体の上に不気味な生き物が大量にいる」という事実を、余計に感じさせることになるはずだ。


 そしてその結果、より一層、自分の体を痛めつける。傷口から菌が入ってもおかしくはない。こぶじゃくしを潰したことで、その体液が体に入り、体に毒の血が回ることにはならないのだろうか。


 私は、いろいろなことを考えながら、こぶじゃくしを観察していた。


「死体になってからもなあ、しばらくはコブが出てくるんですよ」


 ふと、家長の後ろに座っていた妻が、いかにもおぞましくて堪らないといった口調で告げてきた。


 家長の妻の声も、くぐもっていて聞き取り辛かった。もしかすると彼らは喉にも寄生されているのかもしれない、と思った。


「本人はとっくの昔に死んでしもうてるっていうのに、いつまで経っても虫が湧いて出てくる。この村で葬式が出るときは、それはそれは凄いことになりますわいな。棺桶の中でなあ、ホトケさんが、ビチビチ跳ねるこぶじゃくしに埋まっとるんです。棺桶の中は真っ黒ですわ。あんまりにも可哀想なもんだから、柄杓で掬ってやるんですよ、虫を。五人がかりで、ようやくお棺の中を綺麗にしたと思ったら、半日もせんうちにまた、こぶじゃくしがウヨウヨ泳いどる」


 その時、女の目に涙が光ったのを見て、こぶじゃくしに埋まったホトケさん、というのが彼女の身内である可能性が浮かんだ。


 しかし、すぐに思いなおした。隣近所が親類縁者という狭い村だ。顔見知りでない人間の方が少ないだろう。東京とは違うのである。


「花やら、服やら、いっぱい入れてあげるんですよ。お腹が空かんようにって、おにぎりまで作ってなあ。でも、無駄になる。すぐ無駄になる。お棺の中はこぶじゃくしで一杯になって、見れたもんじゃあない」


 女の顔が歪んだ。恐らくは悲哀と苦痛の表情なのだろうが、顔面に大量寄生しているこぶじゃくしのせいで、大きく口を開けて笑っているような顔に見えた。


「先生には分からんじゃろう。分からんじゃろうっ! オタマジャクシみたいな虫が、体のあちこちで動いてるんやっ! どんだけ気味が悪いか、先生には分からんじゃろうっ!」


 傍にいた青年が、泣き崩れた女の肩を抱き、慰めるような言葉をかけ始める。口調からして、息子だということは察しがついた。


 男たちが一斉に溜め息をついた。


「こぶじゃくしは……本当に、やりきれんですわ」


 やがて、家長が疲れたような口調で喋り始めた。


「女じゃあないけぇなあ、見た目がどうのと……そこまで言うつもりはございませんわ。ただ、飯を食っていたら、口の中のコブが破れてなあ、こぶじゃくしが出てきて、こう……舌の上で、ニュルンと動くんですよ。先生はお医者様じゃけんなあ、イカの刺身くらい、食ったことがあるでしょう? あれが、口の中で動くと思ってもらえたらええ」


 咄嗟に口元を押さえそうになったが、私は何とかその衝動を押し殺し、沈黙と不動を貫いた。しばらく、イカの刺身は食えそうにない。


「運が良ければ、噛み潰す前に吐き出しますけどなあ。二回に一回は、噛んでしまうんですわ。苦いんですよ。何と言うか、独特の苦味と臭みがある。何度経験しても、慣れることがない味でねえ……。噛んだ瞬間に鼻に向かってドブで腐った生ゴミのような臭いが突き上げるというか。飲み込むことは、まずできませんわ」


「そうですか」


 では、口内に寄生している虫のせいで、彼らは日常の食事にも支障を来たしているということになる。そもそもが豊かとは言いがたい村だ。栄養状態も気になる。


 しかし、ぱっと見たところ、長期に渡る栄養失調に独特の外見を有している者は見当たらない。


 むしろ、力仕事を生業にしているのか、男たちのほとんどがしっかりと筋肉をつけ、女たちはどちらかと言えばふくよかな者が多いという印象を受けた。


「しかしまあ、どういうわけかは分かりませんがねえ、こぶじゃくしが流行るようになってから、不思議と飢えに悩まされることは、なくなったんですわ」


 家長が微かに笑ったように見えた。どういうことかとつい身を乗り出してしまった私に、彼は語り出した。


「うちの村は、見て分かるとおり、貧しい村です。何と言うんでしたか。黒船が来たとか何とか。文明開化で世がどんな風に変わったのか、わしらには見当もつきません。この村を訪れるような者はおらんから、ここだけは、本当に昔のままや。貧しいままや。冬になったら、春まで何ヶ月も食べるモンがない。飢えて飢えて、子供のころはほんまに苦しかった。あのころの苦しさだけは忘れられん」


 私は黙って話を聞いていた。家長が背後を示して見せる。


 そこには、両手で抱えられるほどの大きさの壷が、四つ並んでいた。


「ご覧の通り、うちにある食べ物はこれがすべてです。雑穀の壷が三つ。あとひとつはダイコンを漬け込んだものや。これから本格的な収穫の季節やけんど、収穫がどうなるか見当もつかんけえな、これだけで、一家六人が何とかせないかんのです」


 つい、家族の顔と壷を見比べてしまう。どう考えても、何ヶ月も生きていけるだけの量ではない。文明開化に賑わう都暮らしをしていると、色とりどりの品が並んだ膳が当たり前になってしまう。


 雑穀だけの薄い粥など、考えたこともなかった。


「なにも、今年だけの話じゃあないんです。毎年毎年、似たようなもんや。じゃけど、わしらは見たところ、都でええモン食べて育った先生より、体格がええようじゃ」


 家長が笑いながら言い、背後で数人が同じく口元を歪めた。確かに、言われた通りだった。彼らは確かに体格がいい。


 外見だけでは、とても飢えと貧困に喘いでいる人間には見えなかった。


「雑穀の粥はまあ、茶をすするようなモンやと思ぅてもろたらええ。どういうわけか、わしらはあまり腹が減るっちゅうことがないから。飢えなくなった分、こぶじゃくしも悪いことばかりじゃあないとねえ、思うけんど」


 ほんの少し、家の中の空気が……緊張で張り詰めていた空気が弛んだように思えた。そこへ、重い溜め息を落とす者がいた。


 全員の視線が、背後に集中する。一家の、一番後ろに座っていた男が、おもむろに口を開いた。


「確かになあ、飢えることは無くなったけんども、寝ていても、体のコブが動くのが分かって、目が覚める」


 彼の言葉に、その場にいた全員が頷いていた。誰もが身に覚えがあるらしい。


「もう何年も、まともに眠れたことがない。体の下で蛇が動くような感じや。一匹が動いたら、周りのコブも一斉に動きやがる。一晩中、あっちからこっちから……」


 男は自分の話が聞いてもらえると分かった後で、ゆっくりと言葉を続けた。今まで以上に聞き取りにくい声だったので、彼はもしかしたら年齢が高いのかもしれないと考えた。


「失礼ですが、あなたは何歳でしょうか」


 これだけの症例を抱えて、いったいどれほど生きれるものなのだろう。どんなに多く見積もっても五十は超えているはずはないと見当をつけながら、私はどうしても好奇心を抑えることができず、聞いてしまっていた。


「かぞえの、四十三になります。この村で一番、長生きなんで」


 私はゆっくりと頷いた。最年長が四十三というのは、明治のこの時代にしては若いと言わざるを得なかった。


 時代が進むにつれて豊かになっていく我が国では、八十まで生きる者も少なくない。


 ふと、家長とその男の関係が気になった。


「兄弟ですわ。わしも一時は所帯を持っていたんだが、子供はできないまま、女房は早くに他界しました。だもんで、家督は弟が引き継ぎました」


 そうですか、と私は頷いた。


「弟は恵まれております。元気な男の子を二人も授かって、もうじき孫まで産まれるっていうんですけえな」


 男が思わせぶりに言うと、家長がやや雰囲気を和らげ、二人の青年のうち一人が、恥ずかしそうに下を向いた。


 ようやく、私は彼らの家族関係を把握することができた。


「ただ、最近は本当に子供の数は少ないとです。こぶじゃくしが流行る前の村を知っとるジジイの話によりゃあ、大人はだいたい四十に届くか、届かんかのうちに死んでいったんだそうです。その分、どこの家にも子供がうじゃうじゃいたとか」


 多産多死。


 この国の村では昔からよくある話だった。何もこの村だけがそうだと言うことはできないが、東京ならばともかく、辺境の村では何ひとつ変わっていないのだということを思い知らされる。


 文明開化も富国強兵も、すべては都会の話だ。


「ところが、今じゃあ、だいたい一組の夫婦に一人か、二人。どんなに多くても三人ってのが普通です。ひとたび大人になりゃあ、四十までは生きる連中が多いが、それでも子供は少ない。三つになるか、ならんかのうちに死ぬ子も多い」


 家長の言葉に頷き、その兄が口を開いた。


「周りの村から、嫁に来てくれるようなものもおらんしなあ」


 少しばかりの沈黙の末、兄は言葉を続けた。


「当然、この村の娘を貰ってくれるような物好きなんぞはおらんです。こぶじゃくしが流行る前は、それなりに行き来もあったんだが、今となってはさっぱりじゃ。何と言うか、狭い村の中で結婚して子供を作りよるけん、こんな気味の悪い病が流行るんじゃと、そげんことを言う連中もおるとや」


 私は、かける言葉もなく、無言で頷いた。


 狭い家の中に、重苦しいほどの沈黙が落ちる。床に敷いた筵の上に横たわっている若い女が小さく咳をした。


 彼らは、何かに耐えるように、じっと下を向いていた。


「先生、わざわざ東京から来てくださったところを申し訳ねぇが、うちの村のことは悪い夢でも見たと思って忘れてくだせぇ」


 ややあって、家長が搾り出すような声で言った。


「うちの村は、もうお終いじゃあ。悲しいが、そうなるんが一番ええことやと思うんです。確かに、わしらの体にはこぶじゃくしが巣食っとる。おかげで、腰を抜かすほど気味の悪い化けモンになっちまった。だけんど、見た目さえなあ、堪えれば、生きていくには別にしんどいことは……ないんですわ」


 家長は自分の腕を見下ろしながら言った。


「年寄りになりゃあ、別にうちの村のモンで無くてもいろいろあるもんじゃ。嫌でも惚ける。右も左も、自分の家族の顔さえも分からんようになって死ぬ。そういうもんだ。飢えない分、昔に比べりゃあマシかもしれん」


「年齢を重ねると、どのような症状が出ますか」


 私が聞くと、家長は一瞬、何ともいえない目をした。しかし、私は引き下がらなかった。


「若いうちはええんですわ。気味が悪いだけで、こぶじゃくしは痛くも痒くもない。しかし……三十も後半を過ぎたころから、目が……」


 言いながら、家長は右手を目の高さに持ち上げ、何かを掴むような形に指を曲げて微かに揺らした。


「このあたりが、見えなくなって来たんですわ」


 ほう、と私はつい身を乗り出していた。視界が欠けるというのは、非常に興味深い症状に思えた。私は家長に断わりを入れ、その顔を覗きこむ。


 瞼を持ち上げて診察するが、特に目そのものに異常は見当たらなかった。


「先生、先生のご好意はありがたいが、これはもう、どうしようもない。どこぞのババアが言いよったが、先祖の呪いかもしれん。呪いでも何でもええさ。わしらはもう諦めて、こぶじゃくしと一緒に死ぬ覚悟なんじゃ」


 そして沈黙が落ちた。無言で退出を促されたのが分かった。私は軽く頷き、鞄を抱えて立ち上がった。


「お気持ちは分かります。確かに、このこぶじゃくしという奇病は、私の手には余るかもしれない。けれど、お嫁さんの出産だけは、手伝えるかもしれません」


 私は横たわったままの若い女に視線を落とした。まだ表情が作れる彼女が安堵したような顔をしたので、私の方が勇気付けられたような気になった。


 私は本心に反して、力強く頷いてみせた。


 ふと戸口を見上げた。そこには何らまじないの札も掲げられていなかった。東京では、どこの家でも玄関先にコレラ避けの札が下がっているものだ。


 この村には、コレラさえ恐れて入り込まないのかもしれない。そんなどうでもいいことを考えた。


「また来ます」


 無理やり笑った私が戸口に向かえば、家長たちがゾロゾロと見送りにやってきた。


 私は表情を取り繕ったまま、外に繋いでいた馬に跨った。家長たちが頭を下げた。


 彼らの姿が見えなくなるまで、私は敢えて普通の、何でもないといった態度を崩さずにおいた。


 やがて、背後の村が伸び放題の木々の枝に隠れて見えなくなるころ、私は自然と馬の足を速めていた。


 彼らが私に何ら危害を加えることなく送り出してくれたことに、私の本心は驚きと安堵を感じていた。


 彼らは人間なのだ。奇病に罹って恐ろしい見た目をしているが、私に飛び掛って生き血を吸うようなことはないし、村の秘密を漏らされてなるものかと血祭りにあげようとすることもなかった。


 彼らは人間なのだ。私たちと何ら変わりない、人間なのだと……私は道すがら何度も頭の中で、自身に言い聞かせなければならなかった。


 しかし、体は正直だった。まだまだ暑い日々が続いているというのに、肌は粟立ち、自然と早足で町へと向かっていた。


 途中、ほとんど無意識に幾度となく自分の手や腕に視線を向けていたのは、そこにコブがないことを確認したくて仕方なかったからに違いない。


 最初にコブが現れるのは腰だと聞いていたにも拘らず……。


 ようやく、木々の葉が途切れ、その向こうに、馴染み深い工場群の姿が見え始めたとき、私は心の底から安堵した。


 そして街道に出て、道行く人々……コブのない人々をじっくりと眺めて、私はやっと人間に出会えたと思った。


 こぶじゃくの村人も人間だというのに、街道を行き交う人々を見てほっとした。私は恐る恐る背後を振り返った。


 この期に及んでなお、私の本心は、こぶじゃくし村の誰かが追いかけて来ているのではないかと考えていたのだ。


 私はその時まで、自分自身がこれほどまでに情けない人間だとは知らなかった。


 背後の足音に神経を尖らせていただけならばいざ知らず、私という人間は、街道を行く人々が自分の顔を見て平然としていることを、幾度と無く確かめずにはいられなかったのだ。


 誰も、追いかけては来なかった。誰も、私の顔を見て悲鳴を上げたりはしなかった。こぶじゃくしの村がある方には、どこにでもあるような山並みだけが、横たわっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ