エピローグ 異界の魔術師より
白い雪原の向こうよりそれは来る。高熱と衰弱。死の眠りに誘う暗い影と共に。
哄笑と共に眠りと死の病をばらまく、その名を死睡の王、という。
奇怪な道化師。それが雪に覆われた空に飛ぶ。その身体に瘴気を漲らせ、そして嗤いながら。
死睡の王の厄介なところは、その病魔が魔人を遮るはずの結界を無視して人の住まう拠点を侵食してくる、ということだ。
だから、逃げ場のない雪の深い冬に病魔をばら撒きにやってくる。
結界から逃げ出そうとする者、立ち向かおうとする者を狩り、病魔をばら撒いてゆっくりと食事にかかる。弱っていく家族や友人や恋人を、どうすることもできずに見ているしかできない、その絶望の感情を食らう。そして、負の感情を長く味わうために全員は殺さない。死睡の王は、その狩りの方法そのものを楽しんでいるのだ。
そんな形を成した悪意のような魔人を迎え撃ったのは――1人の女魔術師だった。
手には錫杖。背には翼を。そして無数のマジックスレイブを従えて飛ぶ。
――聖女と人は呼ぶ。リサという名の、近隣では名の知られた魔術師だ。その力が尋常ではない事は、従えるマジックスレイブの数を見るだけで分かる。
死睡の王が浴びせかけるように放つ死の暗雲を、空中で旋回して避ける。
戦場に広く展開したマジックスレイブより、応射とばかりに無数の光弾が縦横無尽に舞った。
交錯する光の雨。浄化の力を宿すその光の魔法は、魔法に対して高い耐性を持つ魔人と言えど、侮れない威力を宿している。というよりも、瘴気を纏う魔人を討ち滅ぼすための魔法だ。背に作り出した魔法生物の翼もそう。魔人に対抗するための技術体系であった。
広い空間を制圧するような射撃。敵の回避運動を術者の望むように誘導するための弾幕。放たれた光の雨が、死睡の王の身体のあちこちを掠めて白煙を上げる。だが、それでも死睡の王は笑みを止めない。幻影を残したまま直上を取ったリサが、マジックサークルを展開した。
「今っ!」
大上段に振り上げた錫杖を振り下ろせば、極大の光の槍が地面に向かって打ち落とされた。
死に至る病を弄ぶ魔人は、自らも死を恐れないのか。リサから放たれた光の槍へ瘴気の壁を作り出して真っ向からぶつかっていった。
激突、爆発、爆風。その中を笑いながら抜けてくる。爆風を抜けた時には、その手に黒い大鎌が作り出されていた。突き抜けたそのままの勢いで突っ込んでくる。空中を飛び回りながらの至近戦――。逃げられない。本気を出した死睡の王の飛行速度が、リサを僅かに上回る。
大鎌の斬撃を光を纏った錫杖で受け流し、マジックサークルを展開する。リサの手にしている錫杖に纏った光が剣と化した。光剣でそのまま近接戦闘に対応する構え。
聖女と魔人が、降りしきる雪の中を交差する。そんな動きをしながらも、リサはマジックスレイブからの援護射撃を全く止めようともしなかった。単騎にして同時多面的な立体攻撃。尋常ならざる魔力制御と集中力――。しかし、その戦いには誰も割って入れない。空を飛んで戦いの場に追い縋ることができない。余計な援護射撃もリサの邪魔になるだけだろう。
自身にマジックスレイブからの射撃が命中することを恐れないかのようなリサの動き。光の剣と黒の大鎌が絡み合って空に火花をいくつも咲かせる。
魔人の左手より生み出される暗雲を光弾が縦横から貫く。浄化の力を宿す光の弾丸は、暗雲を切り裂くように放つだけで威力か制御を殺ぐ事が可能だ。
聖女は斬撃と射撃を以って魔人を仕留めにかかり、魔人は斬撃と暗雲の動きで聖女の集中力を削る狙いである。
至近戦に持ち込んでも間接射撃を止めようとしない。そんなリサの手並みを、死睡の王は愉しみながらも自爆を誘うように、飛来する光弾を避け、そして切り込んでいく。
互いの攻撃を避け、或いは受け止め、弾いては切り込み、触れては跳ね返り。反転して突っ込む。相手を殺すために2つの人影が空中を舞踏のように飛び回る。
体術は五分。光の剣も大鎌も、当たれば一撃必殺の威力。勝利を手繰り寄せるとするなら、このまま集中力や魔力、瘴気を削り切って圧倒するか。或いは伏せている手札、ということになる。
「ククッ!」
先に動いたのは死睡の王だ。一瞬身を屈めた、その次の瞬間。脇腹のあたりから猛烈な勢いで何かが飛び出していた。巨大な蟷螂の腕のような黒い影が一瞬で遠く離れた場所まで伸びて。死睡の王の眼前に広がる空間ごと、横薙ぎにするような斬撃を見舞ってくる。
展開から斬撃まで一挙動。凄まじい速度と攻撃範囲。側転するように避けたリサ目掛けて死睡の王が突っ込む。真っ向から受け止めた斬撃。錫杖ごと押し込むように魔人が力技を仕掛けてくる。
しかしリサは既に錫杖を手放していた。それを支えるのはリサの両手のマジックスレイブから生成されたゴーレムだ。ゴーレムの陰に隠れるように転身しながら右手にマジックサークルが展開され、リサ自身の手から光の剣が伸びた。その動きのままに斬撃を見舞う。死睡の王の左腕を付け根から斬り飛ばしていた。
――そこから無詠唱で雷撃を顔面に浴びせ、左手に展開したマジックサークルから封印術を叩き込む。それがリサの狙い。
だが――リサの視界の端で何かが動いた。怖気にリサが目を見開く。それを視線が、追う。斬り落としたはずの左腕が空中に留まり、その手の中に瘴気が蟠っていた。
その、一瞬。何もかもを知っていたとでも言うように、降り積もった雪の中から飛び出し、猛烈な速度で突っ込んできた小さな影があった。リサが次の一手を打つよりも。魔人が反応するよりも。速く、鋭く。
研ぎ澄まされた極炎の槍が、浮かんでいた魔人の左腕を一瞬で薙ぎ払って消し炭にする。
――誰かの、加勢。それが誰か。その結果どうなったか。それを見届けるよりも早く、リサが動いていた。魔人を詰めるための動き、そのままに。
顔面に雷撃。瞬間的に意識を奪い、展開したマジックサークルから封印術を――。
「――母さんッ!」
そのリサの目の前に。小さな影――幼い少年が放り投げた、回転する銀色の輪があった。
「封印術をその腕輪に通して!」
意味は分からない。だが、リサはその言葉に従った。自分の愛する者の言葉であるがゆえに、疑う余地すらない。
封印術が打ち込まれ、銀の腕輪の中を通過したその瞬間。術が変質した。変質した術はそのまま、魔人の身体に吸い込まれていく。
封印術を叩き込まれた魔人の身体に光の鎖が絡み付き――そして。
「ぐっおおおおおっ!?」
初めて魔人が苦悶の声を漏らした。驚愕に目を見開き、少年を。リサを見やる。分からない。分からない。何をどうすれば分体から本体にまで攻撃が及ぶのか。
分からないままに次の瞬間、魔人はリサの手によって首を刎ね飛ばされていた。反撃も、何もできない。力が使えない。力の根幹が封印されている。そして、同時に叩き込まれたのは魂への呪法だ。本体をも侵食して、魂をも破壊する。それは確実なる死。消滅を意味していた。意味が、分からない。分からないままに死睡の王は、散った。
回転しながら落ちてくる銀の輪を、空中に立つ少年が受け止める。それは――尾を咥える蛇の腕輪。それこそが今の少年が魔法を放つための触媒――杖代わりの武器であり、異界とを繋ぐ絆でもあった。
「本体が動いたら……今の僕や母さんじゃ勝てない。だけど……だからお前は自分が強すぎるから安全だなんて、油断してたんだ。僕達の世界では、お前にはこれ以上、何もさせない」
少年は決然とした目でそう言って。それから地上に振り返って笑う。地上では赤い瞳の少女が心配そうに、少年と聖女を見上げていた。
リサもまた、少し戸惑ったような表情だったが、少年と少女が無事であることを確認すると安堵の息を吐き、穏やかに微笑むのであった。
そこに駆けつけてくる冒険者達と、シルン男爵夫妻の姿。
そう。この場所はガートナー伯爵領ではない。少年は記憶を得てすぐに、シルン男爵領に向かうように母達を説得したのだ。
時間的な制限もあって、死睡の王の被害の何もかもを防げたわけでは無かったけれど。
自分ではない自分の記憶が、本当のものであると、少年は改めて確信する。
だとするなら、これから先が大変だ。やらなければならないこと、乗り越えなければならない山谷がいくつもある。近い将来、タームウィルズへと向かい――迷宮の深奥に至り、自分もまた別の世界へと干渉を行わなければならないだろう。
それが自分の成すべき義務だと知ったから。
――異界の魔術師より、異界の魔術師へ。知と力は受け継がれ、輪廻は続く。そして、そうしなければ母の命を救ってもらった恩が、返せない。
「もっともっと……僕は強くならないといけない」
そう言って。少年は拳を握りしめるのであった。
――銀色の鏡の向こうに寄り添う3人の影。戦いの顛末を見届けて、俺は足元に突き刺したウロボロスを引き抜き、映像を止める。
迷宮、中枢部。動力炉の魔力を用いての並行世界への干渉は……今のところ順調、というところだ。
新たな触媒を作りあちらに送り込み、あちらの俺の記憶をかなり早い段階で呼び起こすことに成功した。成功したというか、こっちの俺の記憶までも流れ込んで、現段階でも知識だけなら相当なものだ。
最初の山場とも言うべき危機は乗り切った。時間的な猶予は作れたし、最も危険な相手には力を発揮させない内にご退場願った。
ここからは……俺ではない俺も、グレイスではないグレイスも、きっと母さんの指導の元に強くなるだろう。これで……アシュレイとも知己を得たし、彼女との交流も始まると思う。
多分次はマルレーンの暗殺未遂事件での悲劇を潰すために、タームウィルズの晩餐会に出席をすることになると思う。死睡の王を倒した功績があれば、難しいことではあるまい。
後は……要所要所で向こうの光景を見せてもらうことにしよう。干渉し過ぎるのも良くないし、基本的にはあちらの俺に頑張ってもらうことになる。
しかし……元気そうな母さんの姿や、グレイスの小さな頃の姿を見たからか……何となく心が温かくなるような感覚があるな。
「小さな頃のテオドールとグレイス、可愛かったわね。怪我もなく、無事で……良かったわ」
と、クラウディアが笑う。
「そうですね。リサ様や昔のテオを見ていたら……小さな頃を思い出してしまいました」
グレイスはにこにことしながらお茶を淹れているが、俺は若干気恥ずかしい。
「んん……。それを言うならみんなだって、あの頃は子供の姿だろうに」
「ふふ。あっちの私が成長できるようになる日も、そんなに遠くはないのではないかしら」
……などと、艶然と笑うクラウディアに返されてしまった。むう。
「みんな無事で良かったです。私も父様と母様と久しぶりに会えて……嬉しかった」
アシュレイが微笑む。
「そうだな……こっちが予想したよりずっと早くあっちの俺が覚醒したから、何とか間に合った感じだけど」
「小さな頃かぁ。ふふ。テオドールもグレイスもそうだけど。やっぱり子供達に面影が似てるのよね」
「子供の頃のテオドール様、可愛かったです」
「ん。良いものを見せてもらった」
イルムヒルトが言うと、マルレーンとシーラも同意して、みんなもうんうんと頷く。
うーん。俺としてはやはり気恥ずかしいのだが……。みんなは割と楽しんでいるようで。
「昔の自分、ね……。また手間をかけさせてしまったらごめんなさいね」
と、羽扇の向こうでローズマリーが言う。
「……いや、まあ、こっちの俺が頑張るわけじゃないからな」
そのへんは向こうの俺に頑張ってもらうことになるのだろうけど。
「まあ、マリーは何だかんだ言って国の事を考えているし。きっとあっちのテオドールとも上手くやれると思うわ」
「どうかしらねえ。我が事ながら心配だわ」
ステファニアは朗らかに笑って言うが、ローズマリーは若干憂鬱そうにかぶりを振った。
あっちの自分達も俺と結婚するだろうなんて、何となく彼女達は確信しているような素振りが見受けられるような気もするのだが。
「本当。どうなるか心配だわ」
と、ティエーラ。
一緒にあちらの光景を見守っていたティエーラ、コルティエーラとヴィンクルもローズマリーの言葉は他人事ではないらしい。
「大丈夫です。こちらの世界の記憶があるのなら、対応策を考えてから戦いに望むでしょうから。テオドール様は負けないものと思います」
と、ヘルヴォルテが言うと、みんなも頷いていた。うん……。まあ、本当……頑張って欲しいものだ。
そう言えば、あっちの俺は「僕と俺の意識的な使い分け」とかないんだよなだとか、あの頃の気持ちを色々思い出してしまう。死睡の王の一件以後、振り返ってみるとかなり荒んでいた気がする。
今後あちらの俺を見た場合、そういう点も違いとしてみんなに分かっていってしまうんだろうな、とは思うが。
まあ……いいか。仕事が一段落したのでカドケウスの五感リンクで、子供達の様子を見てみると……みんな仲良く中庭で遊んでいるようだ。
使い魔や動物達は背中に子供達を乗せてやったりと、非常に面倒見がいい。俺達の仕事や執務がある時は子供達の遊び相手になってくれたりするのだ。
あれから……みんなとの子宝にも恵まれて。フォレスタニア境界公家は将来も安泰な感じである。
とは言っても……異界とこちらとを繋ぐゲートやその技術、研究成果の隠蔽。継承するべき技術の継承、子供達の教育やその他領地の事等々、こちらでも気を付けなければならないこと、やらなければならない事は色々ある。
あちらの世界が上手くいっているからと、油断して胡坐をかいているわけにはいかない。
それに……俺達は互いを補完し合う必要がある。あちらの世界の俺の環境が、こちらの俺の環境に追い付いたら、共同で地球に干渉を行い、BFOの共同開発を行う予定だ。景久が強盗に襲われる運命を変えつつ、転生時期をズレさせない、なんて研究も必要になってくるかも知れない。今後の課題と言えよう。
だが、まあ、今日のところは。
「とりあえず並行世界への干渉が上手く行ったことを祝して……今日は宴会かな」
「それでは、腕によりをかけて料理します」
「私もお手伝いします……!」
「ん。私も」
と、グレイスが言うとみんなも頷いた。みんな乗り気らしく和気藹々としているな。
みんなも境界公夫人になって結構になるが……手料理だとか刺繍だとか、そういった仕事も好きなのである。今日は、俺も料理を手伝うとしよう。子供達にも喜んでもらいたいしな。
解決すべき問題は確かに色々ある。
けれど、みんなと一緒に、1つずつ乗り越えていこう。大事な人達がいるから立っていられる。前に進める。
これまでも。そしてこれからも。俺はここでみんなと寄り添い、生きていくのだから。
今まで2年間。これだけの長い間、「境界迷宮と異界の魔術師」の物語に
お付き合いいただき、本当にありがとうございました!
沢山の感想やレヴュー、評価やご指摘を頂き、本当に感謝しております。
日々皆さんが呼んで下さり、反応して下さるのを楽しみに更新して参りました。
さて。作者としても名残惜しくはありますが、
将来の一幕を見せた上で、本編は一応の終幕となります。
諸々の主人公の問題が解決したところで
物語の本編として書くべきものは書けたのかな、と。
いくつか質問を頂いておりますが後日談などのエピソードに関しましては
完結の余韻を残しつつということで、少し間を置いて、
15日0時あたりから投稿したいと考えております。
本編で書くべきものを書いたと言いつつ蛇足ではありますが
そちらの補完的なお話も楽しんでいただけたら作者としては嬉しく思います。ではでは。




