49 グレイスの目指す物は
「さて――」
グレイスは表情から笑みを消すと、斧を両手にソードボアに向かって無造作に歩いていく。
対するボアはと言えば――突如現れた細身のグレイスが、ただ1人で自分に相対する事を侮りとでも感じたか、苛立たしげな咆哮を上げると両手を広げて迫ってきた。
グレイスはゆっくりと身を屈める。一足飛びに踏み込める間合いまでもう少し、というところで――。
「ディフェンスフィールド!」
ボアの背後に回り込んでいた、俺の結界魔法が完成する。背後で生まれた気配に、一瞬奴の気が取られ――グレイスがそこに地面を蹴って突っ込んでいく。
完全にソードボアの虚をついた形だ。勢いを乗せたグレイスの斧が、うなりを上げて猪の脇腹に吸い込まれた。
生身の生物に対して斧を叩き付けたとは思えない――金属をぶつけ合ったような音がした。グレイスは意にも介さず、勢いに任せて腕を振り抜く。
ボアの巨躯が斧を打ち込まれた勢いによって無理矢理動かされた。地に立った両足が、そのまま土を抉りながら後退させられるほどの衝撃。
グレイスの一撃は、確かにソードボアの脇腹を抉り、肉を切り裂いた。――だが、致命傷には至らない。ソードボアは自身の腹を見て流血している事を確認し、一瞬間を置いてからグレイスを睨んで怒声を上げた。思いがけず手傷を負わされたといったところか。肉薄する勢いそのままに、グレイスに向かって腕を振り下ろす。
対するグレイスは一歩も退かず、真っ向からの迎撃を選択した。
腕と斧。掴みかかり――或いは打ち掛かるソードボアの、巨木をもへし折る一撃を悉く撃ち落とす。ぶつかり合って金属音を立て、お互いの得物が弾かれその度に火花が散る。ほんと……冗談みたいな被毛だな。
滅茶苦茶に手足を振り回すソードボアと、両手の斧をそれらに叩き付けていくグレイス。魔物達が集まってきていたが、迂闊に割って入ろうとした魔物は、まるで竜巻に巻き込まれた小舟のように粉々に吹っ飛ばされて宙を舞う。
……というか、グレイスがわざとそういう戦い方を選択しているようだ。頭に血が上ったソードボアを、わざと魔物の集団の方へと誘導しながら戦っている。
大振り対大振り、力対力という解りやすい図式ではあるが、それだけに巻き込まれればただでは済まない。攻撃の軌道上の障害物は有って無いに等しい。その力がぶつかる度に周囲の魔物が削れていく。
そのうちに魔物の方がグレイスとボアの戦いに割って入る事を諦めたのか、こっちに向かってくるようになった。が、ディフェンスフィールドに阻まれて動きが鈍ったところでシーラに良いように切り刻まれている。
更にカドケウスに好き放題串刺しにされ、アシュレイによって狙い澄ましたメイスの一撃を受けて吹っ飛ばされていた。
「テオドール様! 冒険者の方々もまだ脱出せずに手伝うと!」
「解った!」
樹上の冒険者達は手傷を負っていたようだがアシュレイの治癒魔法によって傷を癒されると、戦列に加わってくる。
横目でそちらを見やると、槍と魔法で互いをフォローしながら魔物達をきっちりと抑えている。仮にも地下20階まで来られる冒険者達という事か。
ディフェンスフィールドで戦線を維持できているなら退く必要はない。なら俺は俺で、魔物の数を削る事で皆のフォローに回るとしよう。
空へと飛び上がり、魔物の頭上を取る。結界に迫ってくる魔物にウロボロスを突きつけて、魔法を発動させた。
「ロックプレス!」
第5階級土魔法。上空から大岩を呼び出して、魔物の集団を叩き潰して回る。こちらで頭数を減らせばそれだけ皆の負担が減るからな。
グレイスは――ボアを単身で抑えている。
「ふ、ふふっ」
血の色に染まった瞳を細めて、艶然と微笑を浮かべた。
膂力をぶつけ合うかのような戦いは続いているが、俺が魔物の数を減らして回っている事で、少々変化が生まれていた。
つまり――グレイスがボアとの戦いのみに集中し始めたのだ。斧を振るってボアを迎撃し続けるという所までは変わらない。しかし、ボアを弾き飛ばして少しずつ後退させ続けている。グレイス自身は一歩も下がらず一定の間合いを保っているのだから、自然とそういう形になる。
「ゴオオアッ!」
後退させられ続けているソードボアが、苛立ったように声を上げた。
ガーディアンクラスの魔物とは言え、よく生身でグレイスの斧と打ち合えるとは思うが――あちこちから出血しているようだ。
それでもボアの動きに陰りが見えないのは、傷を負った傍から手傷が塞がっていくからである。ソードボアはグレイスの斧によって一撃で致命傷になる事は無いと判断したのか、段々と動きが雑になっていく。
つまりグレイスの斧を避けずに身体で受けて、そのまま攻撃を繰り出すという、相打ち狙いだ。
グレイスは上体を反らして攻撃をやり過ごした。風になびいた前髪の先を、丸太のような腕が薙いでいく。ソードボアは自身の戦い方に何かの手応えを感じたのか口の端を歪ませて笑った。
グレイスは一瞬眉を顰めた。
左右から頭部を潰すようにつかみかかってきた腕を屈んでやり過ごすと、地面に埋まっていた石を斧で掘り起こして目線の高さまで浮かせる。そのまま爪先で押し出すようにソードボアの鳩尾目掛けて石を蹴り込んだ。
「ガッ!」
石が砕け散り、大きく息を吐き出させられたソードボアが後ろに後退した。
斬撃から打撃へ。線から点へ。攻撃の質を変えられて対応できなかったわけだ。攻略法を見出したと思ったところでまたも後ろに下がらされたソードボアは、牙を剥き出しにして最早怒り心頭といった有様である。
「再生能力なら私にもありますが真似をする気にはなりませんね。それより――試してみたい事があります」
間合いが開いたところで、グレイスは嘆息した。
そして――奇声を上げて突進してくるボアへ向かって、右手の斧を猛烈な勢いで投擲した。
砲弾のような速度で飛来したそれを、ボアは両腕を交差して受ける。激突の衝撃で突進が止まった。ボアは体勢を立て直し、グレイスへと向き直ろうとしたが――もう彼女はそこにはいない。魔物の視線が、彼女を探して彷徨う。
その時、グレイスの姿は空中に在った。大上段に振りかぶった斧に、紫色の輝きが纏わりついた。
落下の衝撃とグレイスの膂力。そしてあの輝きは――色こそ通常と違うものの、間違いなく闘気だ。
「はああっ!」
裂帛の気合と共に、闘気を纏った斧による一撃がソードボアの頭上から真っ直ぐに落とされた。凄まじい轟音が響き渡る。
受けようとしたボアの腕も、口元から覗く剣のような牙も断ち割って、勢い余って宵闇の森の地面にまで深い深いクレバスを刻む。
ボアの前で刃に付いた血を振り払う。数瞬遅れて、ボアの身体が左右2つに分かれて崩れていった。
「……悪いですね。私も、テオに付いていきたいので。同じところで立ち止まっているわけにもいかないのです」
見様見真似の我流だと思うが……今のは武技だ。武技さえも力技というのが彼女らしくはあるが。
恐らく、この前の騎士団長の試技を見て、何か思う所があったのかも知れない。技としての完成度は騎士団長に及ぶべくもないが――グレイスの場合、元々のスペックが違う。闘気の集中と操作がまだ拙くとも、これだけの威力を発揮するというわけだ。
魔物の残党を掃討した後――転界石でソードボアの巨体など、可能な限りの戦利品を転送してから、赤転界石で救助者共々神殿に戻ってくる。
助かった安堵からか、連れて帰ってきた冒険者達はその場にへたり込んでしまった。グレイスもだ。彼女に乞われて人目に付かない物陰で指輪の封印を施す。
グレイスは柱に手を突いて大きく息を吐いた。あまり血色が良くない。調子が良くなさそうだ。
「大丈夫?」
「その……何と言いますか」
グレイスは口籠る。
「グレイス様、治癒魔法は必要ですか?」
「怪我していない?」
アシュレイとシーラもそんな彼女に心配そうな表情を向けて声を掛けるが、グレイスは少し驚いたような表情を浮かべると、慌てて手を横に振った。
「ああっ、違うんですっ。その……心配かけて申し訳ありません。ちょっとお腹が空いているだけなんです」
ああ、そっちの方の衝動か。
グレイスは気恥ずかしいのか、或いは罪悪感があるのか。身体を小さくしてしまった。
「……こっちの衝動は久しぶりな気がします。ここのところ、テオのお陰でずっと調子が良かったというのに、私と来たらこの有様ですからね。テオにも、あの冒険者の方々にも申し訳なくて……」
同じ血液でも、俺の血液で感じる吸血衝動とは根本的に違うもの、という事なんだろう。
例えば――人の血の臭いであるとか、破壊や蹂躙による力の行使であるとか。それらによってグレイスは吸血鬼側に引っ張られてしまうけれど、混血であるが故に解放されていても多少の事では狂乱に酔い切れず、高揚と同時に憤りや嫌悪、自責の念を感じてしまう所がある。
ボアへの対処を任せてほしいと言った理由も、その辺にあるのだろう。
「いいさ。今日は帰ったら俺が料理を作るから。まあ……キノコ料理が多めになるかも知れないけど」
山のようなウィスパーマッシュを収穫してきているので。そう告げると、グレイスは小さく微笑んで頷いた。
「……はい。よろしくお願いします」




