376 出陣
寝床から出て間者が動いたことを女官に伝えると、すぐに連絡が回されたようだ。
周囲の空気も慌ただしくなった。動き回っているのは女官達のようである。兵士達も出撃のための準備をしているのだろうけれど。
通信機でエリオット達にも連絡を入れる。間を置かず、出立の準備に取り掛かるとの返信があった。
「おはよう、テオドール」
「おはようございます、テオドール様」
「うん。おはよう」
と、みんなと朝の挨拶を交わす。
「よく眠れた?」
「はい。テオが一緒でしたから」
グレイスはこれから因縁の相手と戦うことになるかも知れない。緊張していないかと思って尋ねてみたが、グレイスは屈託ない笑みを浮かべ、胸に手を当ててそんなふうに答えてきた。
「ん。今日は頑張ろう」
「はい。頑張ります」
面と向かって言われるとやや気恥ずかしいところはあるがグレイスに頷き返して、みんなにも尋ねる。旅先だし環境も違うからな。
「みんなは? 体調や気分は、大丈夫?」
「わたくしは大丈夫――」
俺の言葉にローズマリーはどこか楽しげな笑みを見せたが――寝起きで羽扇が手元にないことに気付いたらしく、手で口元を押さえて自分の荷物の方へ歩いていく。今のはまあ……ローズマリーとしては油断であったらしい。
「はい。循環錬気でいつも通りです。よく眠れました」
「そうね。マルレーンはどうかしら?」
少し眠たげな様子のマルレーンであったが、クラウディアに髪を撫でられて目蓋を擦りながら微笑み、俺の言葉に頷いた。
手早く着替えて身嗜みを整え部屋を出る。俺が部屋を出ていたほうが身支度もしやすいところもあるだろうしな。
貴賓室前の回廊から見える空を眺めながらカドケウスの制御をしていると、両隣の部屋からステファニア姫達とジークムント老やヴァレンティナ達、アウリアも出てきた。顔を合わせて朝の挨拶をする。
それぞれの部屋にシーラとイルムヒルト、セラフィナに護衛役として泊まってもらったりラヴィーネ、アンブラム、エクレールと使い魔を振り分けることで各部屋の様子も分かるようにしてあった。カハールの内通者はもういないとは思うが、念のためだ。結局朝まで異常はなかったようである。
「聞いていた通り……朝は少し肌寒いのね」
と、ステファニア姫が小さく身震いした。
「間者も川を使って仲間のところに辿り着いたら、まず濡れた服を着替えていましたからね。あれは寒そうです」
そう答えると、アウリアが眉根を寄せた。実際、間者は駱駝の上で毛布を被って震えていたからな。
「……真似したくはないのう。着替えたとしても、そういうのは思った以上に体力を消耗するものじゃからして。そこから更に移動するのなら尚更じゃ」
「でしょうね」
アウリアの場合は冒険者としての経験上の話だろうな。現役だった頃は雨に打たれながら依頼遂行だとか、そういったこともあったのではないだろうか。
「日中はまた暖かくなるのでしょうし、服装に気を付けないといけないわね」
「寒暖差は、砂漠では特に厳しいと聞いたことがありますぞ」
「シリウス号があるから助かっているけれど、普通だと調整が難しそうね」
そんなふうにステファニア姫達とジークムント老が言葉を交わす。グレイス達も部屋から出てきたところで、エルハーム姫もやってきた。
「おはようございます」
「おはようございます、エルハーム殿下」
「はい。朝食を用意してあります。どうぞこちらへ」
手回しの良いことだ。間者は水門が開けられる朝方に動くだろうとファリード王も予想していたが、それに合わせて諸々の準備を進めていたわけだな。
エルハーム姫に案内されて香ばしい匂いの漂う食堂に通される。戦装束を身に着けたファリード王も先にやって来ていたようだ。
「おはようございます、ファリード陛下」
「うむ。良い朝だな」
ファリード王は俺達を迎えると笑みを浮かべて食事をとるように促してきた。皆で席に着き、朝食を取る。パンにチーズ、ケバブとスクランブルエッグ。果物にジャム、お茶にヨーグルト……と割と朝食らしいメニューだ。
だが量で言うとなかなかのものだ。しっかり食べて出撃に備えようというわけだな。
「さて。時間的猶予はあるかな?」
朝食をとっていると、やや落ち着いた頃合いを見計らったかのようにファリード王が尋ねてきた。
「追跡なら問題ありません。間者達の移動速度もそこまで速いわけではありませんから」
「では朝食後に少しだけやっておかねばならんことがある。まあ、出陣前に将兵の士気を上げておこうというわけだな。そなた達が同行してくれると助かる部分もあるのだが」
「分かりました」
「それともう一点。吸血鬼に精神支配を受けた騎士。あの者を同行させてやりたい」
「汚名を灌がせるため、でしょうか?」
操られていたとは言え、エルハーム姫に剣を向けてしまったわけだしな。同行させてやりたい、というのはファリード王の配下への気遣いなのだろう。自分からは言い出せないだろうし、王命として挽回のチャンスを与えたわけだ。
「彼は後で謝罪と礼を伝えたいとも言っていました」
それを聞いていたエルハーム姫が申し訳なさそうに言った。2人に頷いて答える。
「分かりました。同行させることに異存はありませんし、口出しをするような立場でもありません。彼とはシリウス号の中でゆっくりと話をさせてください。僕も非殺傷とは言え攻撃魔法を用いましたし、彼が気負い過ぎていると心配なので」
「それは……助かるな」
俺の言葉に、ファリード王は穏やかに目を細めた。
朝食を済ませ、ファリード王達と宮殿内の庭園へと移動する。
そこには今回同行する将兵達が準備して待っていた。ファリード王の姿を認めると、一斉に敬礼して迎える。
ファリード王は彼らを見回すと、よく通る声を響かせた。
「よくぞ集まってくれた、勇敢なるバハルザードの同胞よ! 既に聞き及んでいる者もいよう。我が国を混乱に陥れた佞臣カハールめが卑劣な策を弄してきた。我が娘エルハームを攫い、その罪をデュオベリス教団の悪名と共に草原の盟友達に押し付けようとしたのだ!」
出陣前の鼓舞、しかもそれを行うファリード王自ら出陣するのだから、彼らに気合が入らないわけがない。
「奴原は何も変わってなどいない! 戦に敗れて野に追われた今も尚、隙あらばこの国に混乱を齎そうと機を窺っている! 諸君らも忘れてはおらぬだろう。政を恣にした者達の顔を! 田畑を踏み荒らし、民の財を徒に奪って肥え太った奴原の行いを! 思い出せ! 地に這いつくばり、砂の味を噛み締めた屈辱の日を! そして剣を手に立ち上がった日のことを!」
ファリード王は右手を上げると虚空を握り潰すように拳を作る。
「そして我等は揺るがぬ絆と確固たる信念の下に立ち上がり、千の同胞の血を流し、万の奴原の血を流させた! 犠牲を越え、我らのこの手には今、栄光と名誉、そして平穏と誇りがある! だが親を、妻を、子を、友を守っていくためにはそれだけでは足らぬ! 我等は今再び、この手に武器を握り、王国の敵を打ち砕かねばならない!」
「打ち砕け! 打ち砕け! 打ち砕け!」
「我等は我等だけに非ず! 北方に名高き強国、ヴェルドガルとシルヴァトリアは我等の友邦である! 心強き友の助力を得た今、我等に恐れるものなど何も有りはしない! 我等と我等の友の手に、栄光と勝利を!」
「栄光を! 栄光を! 栄光を!」
「勝利を! 勝利を! 勝利を!」
「そして忌まわしき奴原めには絶望を与えん!」
「絶望を! 絶望を! 絶望を!」
槍を持つ兵士が石突きで石畳を突く音を合図にしたかのように待機していた軍楽隊が太鼓と銅鑼を打ち鳴らし、ラッパを吹き鳴らす。
軍楽隊が音に合わせて行進していく。その後ろに将兵達が続いた。俺達もファリード王、エルハーム姫と共に行進の列に加わり、そのまま船着き場に向かうことになっている。
「使い魔とのやり取りをできる距離、というのに問題は無いか?」
「はい。シリウス号のほうが速度が出せますから追い付くのもすぐです」
「うむ。では行くとしよう」
軍楽隊の奏でる勇壮な音楽と共に宮殿を出る。朝早くの出陣ということで往来の人々は少し驚いていたが、ファリード王率いる将兵達を恐れている様子はない。寧ろ歓声を上げ、手を振って見送ってくれるようだ。ファリード王が手を挙げて応える。
そして街中を進み――船着き場へと到着すると、シリウス号の前でエリオット達、討魔騎士団の主だった者達が待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます、エリオット卿」
朝の挨拶を交わしてからシリウス号に乗り込む。
「何とも美しい船だ。変わった形と素材……。やはり、空を飛ぶには翼が必要ということか」
甲板に立ったファリード王はシリウス号と普通の船との違いをあちこちに見出したのか、腕組みして感心するように頷いている。俺とふと視線が合うと相好を崩して手を横に振る。
「ああいや、詳しいことは話さなくていい。答えられぬこともあるだろうからな。これは独り言に過ぎん」
「お気遣いありがとうございます」
気にはなるのだろうが、他国の船だけに根掘り葉掘りは聞けないし聞かないというわけだ。
では――カドケウスと一定の距離を取りながら追跡開始といこう。
全員が乗り込み、安全な場所に移動したところで、軍楽隊の奏でる音楽に合わせるようにシリウス号がゆっくりと浮上を始めるのであった。
 




