番外1786 渦巻く霧の向こうに
神気とも言うべき濃密な魔力の吹き付けてくる城を、女官に先導されるままに奥へ奥へと進んでいく。元々が神職であったという女官は、特にカギリの力を感知する能力が高い。
先導する能力に間違いはなく、迂回したり昇降したり部屋を突っ切ったりはしているものの、確実に魔力の濃い方向、濃い方向へと進んでいるのが分かった。
それに従って、城の内部の様子もかなり怪しいことになってきている。廊下の形が歪んでいたり、刻一刻と変化するというのは話に聞いていたし実際にその通りなのだが、想像以上の変化だ。
溶け落ちるように廊下が崩れて行ったり、どこまでも部屋の奥行が伸びて行ったり……。ダリの描いた記憶の固執――溶ける時計の名画のような状態が周囲に広がっているのを、そのまま見せられているような感覚といえばいいのだろうか。幸いにして、こちらの身体や意識を浸食してくるようなことはないけれど、城の成り立ちは夢としての性質が強いと言われれば納得するしかない光景だ。
その内に建物ですらないものまで、周囲に混ざり始める。
晴れた日の野山。赤子を抱く母親やそれを喜ぶ武士。祭りの風景。若武者の面を被り、舞う巫女。
カギリの記憶、だろう。風景や人物。在りし日の、平和だった頃の記憶があちらこちらに一瞬ちらついては消えて、壁や床に溶けては混ざる。
カギリの見ている夢だとするなら……悲しい光景だと思う。自身は呪いに蝕まれながらも集落に住まう人々の平穏を夢に見て願っているということだ。本当の集落の人達とも、自分が無意識に招いてしまった子供達とも、触れ合うことができずに。ただただ呪いを広げないために、自身は夢を見ているということだから。
どくん、と。脈動するように魔力の波が押し寄せてくる。記憶が乱れて、その中に剣呑な風景が混ざる。
ああ。これも夢で見た記憶だ。里の人々が呪毒に倒れる光景。怒りに我を忘れて自ら敵を打ち滅ぼしていく記憶。
脈動の間隔が、段々と短くなっているのが分かる。その度に記憶が乱れるというのは……カギリの意識が浮上しているということなのだろう。
外の状況も、それに応じるように変化が生じている。
骸達の地上部隊の噴出はやや落ち着いたが、その分飛行型が増えてきている。こちらの作戦を受けて呪いが対応したのか。それともカギリの覚醒状況に合わせて推移しているのか。
戦況やこちらの戦法に合わせて出現する骸が変化するのだとするなら厄介なことではあるが。ともあれ、結界に閉じ込められ、阻まれて十字砲火を浴びた地上型には相当な被害が出ているのは確かだ。飛行型が急速に数を増しているのも。
数の暴力とまではいかないが、飛行型がそれなりの数出現している上に、その特性も戦闘能力も、地上型より数段上だ。
既にそこかしこで武官達と空中戦を繰り広げている。まだ――俺達は出ない。骸達が戦況を見て対応を変えているのかどうかまでは分からないが、こちらのことまでは計算には入っていない。結界に閉じ込めるという策に嵌ったのがその証拠だ。だからこそ、手札は効果的な場面で切る。
空中で切り結ぶ武官と飛行型の姿を眺めながらも中枢部へと進んでいき――そうして、そこにたどり着く。
移動してきた方向と距離から算出しても――そこが城の中枢であり、幽世の中心部となる場所であろう。
周囲の景色は相変わらず忙しなく変化しているが、歪んでいるなりに少し開けた場所になっているのが分かる。吹き抜けのような場所だ。
見上げるそこには光があって。煌めく気流がその周囲に渦巻いているのが分かった。あの煌めきは……高速で流れる霧か。
脈動と共に変化が生じる。放出される濃密な魔力。乱れる記憶と霧に混ざる黒い影。
気流が霧ならば影はカギリに結び付いた呪いそのものだろう。神気を感じさせる気流とは明確に違う、不穏な気配が伝わってくる。
それを見届けたところで、案内役を請け負ってくれた女官を見て頷く。
「ありがとうございます。案内助かりました」
そう伝えると、女官は俺に向かって深々と頭を下げる。
どうか。どうかあのお方のことをよろしくお願いしますと。そう言って。
カギリの眷属であるが故に、主に対しては俺達と共には戦えない。どれだけの力をつけようとも、性質上この場への助力ができないというのは口惜しいものがあるだろう。
「はい。後のことは任されました」
そう答えると、女官はこちらを真っ直ぐに見て頷き……やがて踵を返すと外に向かって飛んで行った。
さて。俺のすることとしてはカギリの覚醒を待つばかりだ。戦況を見て気付いたことを伝えたりはできるが、骸達との戦いは慣れているということもあってテンドウの指揮は的確だしな。
「こっちは予定通りに到着したよ」
『わかりました。テオ、お気をつけて』
中枢に到着したことを水晶板で伝えると、グレイスが闘気を静かに漲らせつつも頷く。みんなも魔力の調子を整えたり装備の状態を確かめていたりして、準備も万端という様子だ。
そのままカギリの様子や周囲の光景と戦況に注視する。
そうしている間にも脈動の間隔は短く……放出される魔力の波もより強いものになっている。周囲の風景も大きく乱れて、建物としてまともな形を保てなくなってきているな。
祈りの力はここまでしっかり届いている。それでもカギリが覚醒に至らないのは、当人がそれを望んでいないからだ。呪いに蝕まれた自身が災厄となることを恐れ、自分自身を縛っている。
一際大きな脈動と共に、圧力を伴う濃密な魔力が通り過ぎて行った。同時に。外の状況にもまた変化が生まれる。ゆっくりと、地面からせりあがるように黒い影が伸びる。大型の骸というのは話に聞いていたが、それらがあちこちで発生しつつあるらしい。
空中にも黒い渦が巻いて、紫電を放ちながら骸を形成しているのが見える。今までの情報にはない個体か。複数生じてはいないから、かなり強力な個体だと思われるが。
『今のが――分水嶺ですね。最早、ここからの後戻りはできません』
テンドウの言葉を裏付けるように、本当に心臓の鼓動さながらに脈動が引っ切り無しになっている。波紋のように幾重にも重なる魔力。
ここから自然に眠りにつくということはないだろう。カギリはどのような形であれ、覚醒にまで至る。テンドウもそう見立てているようだ。
『まずは、子供達の避難を。祈りは結界の中からでもできますからね』
テンドウが指示を出すと、女官達が動く。避難していく子供達をみんなで見送り、すぐに続いて幽世側に来ている大人達も誘導に従って避難していった。
集落側の面々は幻影が映し出されているだけなので広場に残ってそのまま祭事への参加を続行する形だ。ユラもミツキも、状況の変化を気にも留めていないといった様子で舞いと演奏を続けている。こういう極度の集中力は神職らしい。
やがて避難も滞りなく終わったと、女官達が広場へと報告にやってくる。俺を案内してくれた女官も広場に姿を現した。無事に中枢から戻ってきたようだ。
『――ふむ。そろそろ頃合いかな』
御前が言った。
「こっちも準備はできています」
カギリに向き直り、循環した魔力を練る。ウロボロスから余剰魔力の火花を散らしながらも答える。
『では、始めましょうか』
テンドウの、その言葉と共に。御前やオリエ、レイメイといった面々が隠形札を破り去る。
刹那。それを感知したカギリから爆発的な魔力の波が広がった。吹き付けてくる暴風のような魔力も、一瞬のこと。今度は逆方向に渦を巻いて野放図に拡散していた魔力が集まっていく。
「ああ、あああ――あああああああぁぁああぁあああああああぁッ!」
嘆くような叫び。怨嗟と後悔に満ちた絶叫。渦巻く霧と呪い。
絞り出すかのような叫びが響き渡り、周囲の建物が溶けて無くなっていく。悲鳴が途切れると、今度は張り詰めた静寂が場を満たした。
それから――渦の中から聞こえてきたのは、小さな呟きだ。
「……敵、敵、敵……敵だ。敵が、来る。殺しに、来る。――ねば。護るのだ。護るために。ああ、あああああああ。血が、血が。泣かないで。どうか泣かないで。……――て、あげるから。私、が」
誰に向けられたものでもない、支離滅裂な言葉。肌をびりびりと震わせるような魔力。
永い永い年月と共に、呪いに蝕まれ続けたカギリは、目を覚ましてもあの時に――襲撃の日の惨劇に囚われてしまっている。
呪いと結びついてしまい、理性も強靭な意思に支えられてきたが、いずれはもたなくなるとカギリ自身が知っていた。だからイズミとテンドウが造り上げた夢の中だけが安らぎだったのだ。意識が呼び戻されれば、いずれはこうなってしまうから、ずっとずっと夢の中にいた。
「……さねば。殺さねば。打ち滅ぼす、のだ。切り裂き、刻み、貫き、薙ぎ払い、穿ち……。敵は。敵は。敵は……一人として帰すものか……」
渦巻く霧と呪いの中から、細い腕が伸びる。掌の中に霧が集まり、長大な刀と槍。弓と矢が形成されて握られる。周囲の構造物が吹き上げられるように塵となって消えていく。
見上げる黒色の霧の渦が一部途切れて、深紅に輝く片目が暗闇の向こうからこちらを覗いた。睥睨してくるその瞳と――視線が、合う。
「ああ。始めよう。まとめて受け止めてやる」
ウロボロスを構えて余剰魔力の火花を散らせば、殺意を漲らせた赤い瞳が一瞬見開かれ、きりきりと細められた。