144裏 屍山血河
「何が起こった!?」
ヴァージニアは不意に起こった足場の喪失と落下の感覚に、咄嗟に己の背中に蝙蝠の翼を生やして羽ばたく事で空中に踏みとどまった。
他の半魔人達も慌てて瘴気を操り空に浮かぶが、状況の変化についていけずに地面に激突――いや、毒々しい色合いの沼の中に墜落する者も出てくる。
「なッ! 何だこれは!? うわあああっ! ひいいいいッ!?」
沼の中に落下した半魔人が悲鳴を上げる。その光景にヴァージニアは目を見開いた。
――泥濘の中で……何か得体の知れないモノが蠢いている。飛び立とうとする仲間の身体を押さえつけ、毒沼に引きずり込もうとしているのが見えた。あまりの事に完全に狂乱状態になってもがく半魔人の、その悲鳴が魔物を呼び込むのか。暗がりから飛来してきた気色の悪い蟲があっという間に群がっていく。
何が起こったのか? 強制的な転移? あの化物共は? 迷宮の奥底? ではあの少女はいったい何だ?
疑問符は次々湧くが、誰がこれをやったのかだけは分かる。あの金色の目の少女だ。その相手をヴァージニアは探して――魔人殺しの少年と共に闇の奥へと消えていく背を見つけた。
「このまま逃がすとでも……!」
牙を剥き、凄絶な笑みを浮かべたヴァージニアがクラウディアの後を追おうとするが、それは叶わない。下方から飛来した分厚い斧が眼前を通り過ぎていったからだ。
「あなたの相手は私です」
「貴様……」
彼女に斧を投げつけてきたのはグレイスだった。
その姿を目にして、ヴァージニアは眉を顰める。
マジックシールドを足場にして、翼も無しに空中に留まっている。手にした斧の無骨さが不釣合いだ。金色の髪に、赤く輝く瞳。その身に纏う夜の気配と血の匂い。
「……人間に尻尾を振って私の前に立つか」
「私は私であの人の側にいる事を選んだのです。故に――あなたを叩き切る事に、僅かの迷いもありません」
そう言って、グレイスは斧を構える。
その言葉にヴァージニアの胸で激情が渦巻く。混ざり物であるが故に相容れない相手だと、十分に理解した。魔人殺しに仕える混血の女。故に、この女に背中を見せては主に合わせる顔がない。
「ヴァージニア様! これはいったい!?」
「貴様らにはそこの有象無象どもをくれてやるッ! 叩き潰して、先ほど逃げた餓鬼共を追えッ! 教主様の手を煩わせるなッ! この混血は、私が殺すッ!」
狂的な熱を帯びた瞳でグレイスを見据えるヴァージニアは、好戦的な笑みを浮かべると、自らの手首に喰らい付く。そのまま肉を食い千切れば、溢れ出した鮮血が凝固して、剣の形を取った。
グレイスはシールドを蹴り、ヴァージニアは翼をはためかせて。大腐廃湖の闇の中に両者の双眸が赤い尾を引いて、激突した。
一方でアシュレイ達は小島に降り立ち、魔物と半魔人の両方に対して迎撃の態勢を整えていた。毒に対する耐性魔法と再生の魔法を仲間達にかけていく。
そもそも最近の探索で、装備を整え終えたうえで大腐廃湖の環境に対処してきたアシュレイ達と、いきなり何の想定もせずに放り出された半魔人達は違う。地の利も心構えも完全に、アシュレイ達にあった。
アシュレイが各種のエンチャントを掛ける傍ら、マルレーンは小島の中心で祈りを捧げるような姿を見せている。月女神の祝福の輝きが、彼女達の身体を包んでいく。
最初から転移で向かう場所も、クラウディアの行う事も分かっていた彼女達にしてみれば、些かも戸惑う理由がない。
今いる場所は――封印の扉の程近くではある。
だがアシュレイ達の陣取る場所の他に足場のない、沼地のど真ん中だ。そしてテオドールとクラウディアが向かった先は封印の扉のある方向ではない。一度迂回して扉のある方向を目指す手筈になっている。故に連中が戦闘と追跡に分かれたとしても無駄な事。
「行ってくる」
シーラとデュラハンが肩を並べた。両者は虚空を蹴って半魔人達へと飛ぶ。
接近を阻もうと半魔人が集団でシーラとデュラハンに対して瘴気弾を放つ。2人は左右に分かれて的を分散。デュラハンは大きく弧を描いて大回りに駆けて勢いを増していく。暗闇の中で瞬く緑の炎はいやが上にも目立つ。加速しながら突っ込んでくるその威力を想像すると、慄然とするものがある。
一方でシーラはと言えば、右に左に自在に空中を蹴って、直線的に弾幕を掻い潜ってくる。
「ちっ!」
舌打ちして瘴気を纏うショーテルを振りかぶったその瞬間、シーラの姿が霞んで見えなくなる。視界の端。真横に何かの影が飛んでいったと気が逸れた瞬間に、真正面から飛来した矢が肩口に突き刺さる。
痛みは軽減されている。半魔人は不愉快げに無造作に矢を引き抜いて投げ捨てる。瘴気が傷に纏わりつくと、あっという間に修復されていく。
「通常の傷に高い耐性と再生能力。痛覚も鈍いか、存在しない」
声は右の耳元のすぐ横で聞こえた。咄嗟にそちらに向かってショーテルを振る。手ごたえはない。だというのに斬撃は左下から来た。完全に反応が遅れていた。
闘気の煌めきが奔って刺青のある部分を縦に切り開いていく。後を追おうとするが、円盤のような物が顔面に向かって真っ直ぐに飛来してきてそれを阻む。ショーテルで受ける。削り取るように円盤が回転しながら押し込んできて、火花が散って弾かれる。
「闘気による斬撃は有効。再生も遅くなる。刺青に対する攻撃は半魔人にはもう無効? それとも破壊の度合いが足りないだけか。いずれにしても弱点が補強されている」
淡々としたシーラの声が右から左から聞こえてくる。わけが解らない。じっくりと観察するようなその言葉に不穏な物を感じながら目で追った、その次の瞬間――。
背中から迫ってきたデュラハンの駆る馬の蹄にかかって蹴り倒されていた。毒の沼へと落下しながら、有り得ないと半魔人は目を剥く。
先ほどまで――いや、今でさえあんなにも遠くでけたたましく嘶きと蹄の音を響かせているじゃないか。
しかし現実にデュラハンの周囲は無音。蹄の音と馬の嘶きと。音源と実際にいる場所がまるでズレている。
毒沼から飛び出そうとして、足を何かに掴まれた。見れば、最初に落ちた仲間は泥濘の中に力無く浮かんで動かなくなっていた。それは彼の、未来の姿。
半狂乱になって掴んでいる何かに向かって瘴気を浴びせる。浴びせる。
だがそれは動じない。スラッジマンは状態異常に対して非常に高い耐性を持つ。瘴気による侵食も例外ではない。そして泥濘の中では刃物の威力も半減してしまう。振りほどこうともがいているうちにフライヘッドに集られる。
「……痛みには強くても、フライヘッドの麻痺毒は有効なようですね。となれば、治癒術の裏も通用すると思われます」
アシュレイが静かに言う。彼女達の仕事はテオドールとグレイスに対して取り巻き達の横槍を入れさせない事、それから地上班に半魔人達の情報を送る事だ。
戦況はカドケウスの目を通してテオドールが見ている。使い魔用に作った通信機を用いて地上と情報のやり取りを行っているのだ。
「音だ! 音がおかしい! 耳から入ってくる情報は頼りにするな! あの島にいる魔術師連中を殺せ!」
「は、はい、イオス様!」
ヴァージニアに次ぐリーダー格、イオスの号令一下、瘴気弾がアシュレイ達に迫る。
だが祝福を受けた者の魔法は瘴気に対しても有効。アシュレイの作り出す氷壁とマルレーンのソーサーが直撃する軌道のもののみを的確に阻む。
飛び道具では埒が明かないと、半魔人が突っ込む。それを待っていたとばかりにアシュレイが大きな魔石の嵌った首飾りを翳した。
デッドシャークの魔石から作った魔道具だ。アシュレイを中心にディフェンスフィールドが展開。頭から突っ込んで動きを阻まれた男が、ラヴィーネの氷で串刺しにされる。
だが致命傷に至らない。修復が進めば進むほど、全身の瘴気の量が減っていく。再生能力は相当燃費が悪いようだ。ラヴィーネの背に跨ったアシュレイ達から氷の網が走ると、半魔人は瞬時に全身氷漬けにされた。ラヴィーネが駆けこんでいき、アシュレイがロングメイスを振り払う。命中するその瞬間にはメイスの先端に大きな氷の塊が纏わりついており、打撃の破壊力を何倍にも膨れ上がらせている。氷の破片を撒き散らしながら毒沼の中へと吹っ飛ばされた。
イルムヒルトが矢を番えて空を飛ぶ。多重のエアブラストで高速飛行しながら、文字通りの矢継ぎ早で次々と矢を放っていく。
この矢には、瘴気壁が通用しない。祝福と呪曲が乗った矢は瘴気の壁をかき乱して貫通してくる。そのため、彼らはきっちりと矢を避けねばならなかった。
崩れたそこにマルレーンの操る多数のソーサーとデュラハンが突っ込んでくる。多勢をものともせず、四方からの攻撃をソーサーが弾き飛ばし、デュラハンの大剣が唸りを上げる。
すんでのところで大剣を避けたが、直上から突っ込んできたソーサーに押し込まれて、また1人毒沼の中に没した。
シーラは……号令を飛ばした男、イオスをリーダーと見定めたらしく、完全に彼を目標と定めて切りかかっていく。
だが――イオスの方もシーラの狙いは分かっている。半魔人となった自分達の、刺青をどこまで破壊すれば機能停止するのかを見定めているのだ。
イオスは笑みを浮かべると、左肩で瘴気を放つ刺青を盾にするようにシーラに向かっていった。焦る事はない。残りの連中は仲間が押さえる。
であるなら、この厄介な獣人は分断したうえで自分が斬ればいい。刺青を弱点だと思っているならそれは甘い。半魔人と化した今、その弱点はない。
「む」
シーラはイオスが肉を切らせるつもりなのを察して、先んじてダガーを投げつける。イオスは顔面に飛来したダガーを切り払うと、舌打ちしてからシーラに突っ込んだ。
闘気を纏う真珠剣と瘴気を纏うショーテルが空中でぶつかり合い、火花を散らした。
2度、3度と交差。外套の下で寸前まで斬撃の軌道を見せなかったシーラの必殺の一撃を顔を逸らして避けながら、横合いから飛来したイルムヒルトの矢を掴みとる。
イオスの、その挙動。反応速度が人間のそれを上回っていると、シーラには感じられた。イオス自身の技量か。それとも半魔人になった事による強化か。
それでも切り結ぶ事ができるのは――やはりテオドールとの訓練のお陰なのだろうと、シーラは小さく笑う。
北門に巨大な光の柱が立ち昇った。詳細はともあれ状況が動き出したようだ。
教団の信徒、ラデクは変貌した己の姿と、自身の身体を満たす圧倒的な力に満足しながらも、路地から路地へと夜の街を行く。
主力部隊が北門に集結。魔人殺しを誘き寄せて足止めをする。それが叶わずとも北門から無差別に街を焼き払いつつ暴れ回る。そうして敵方の注視と戦力を引き付けている隙に街中に紛れ込んだ自分達がタームウィルズ内の重要設備を破壊したり、貴族の門弟、技術者といった者達を静かに殺して回る。そういう手筈であった。
ラデクの受け持ちは東区――ペレスフォード学舎。貴族の子弟達が寝泊まりする寮だ。可能な限り短時間に、多くの者を殺して立ち去る。
そのつもりだった。――だが。
「来たか。あいつの読み通りだな」
「東区で狙われるならまずここよね。学舎の設備破壊と寮の人命と……どっちに来るかと思ったけれど。その二択なら当然こっちでしょう」
寮の屋根の上に姿を現し、こちらを見下ろす男女――それは、月女神の祝福を纏った赤毛の女と、杖を持った若い魔術師だった。
「しかしその手甲と脚甲はどうにかならなかったのか?」
魔術師の方が眉を顰める。
「これは大事な友人が作ってくれた物なの。見てくれはともかく性能は良いのよ」
赤毛の女――ロゼッタは苦笑した。ロゼッタはミスリル銀の手甲と脚甲を身に着けていたが、拳の部分に角の生えた骸骨のような意匠があしらってある。
「さて。始めましょうか。タルコット君、援護射撃よろしく」
ロゼッタがラデクの前まで降りてくる。
ラデクは一瞬迷った。破壊工作を行うという作戦に従うなら撤退しながらの戦闘を行うべきなのだろうが……体に満ちる力による全能感と、自負心がそれを拒否する。
連中に増援が現れる様子もなかったというのもある。ただの2人の人間相手に、撤退などと。何のために人間を捨てたのか。
「貴様ら……たった2人で、貴き者の座に至った俺の相手になるとでも思っているのか?」
「あら。魔人には届かないって言ったのは、ヴァージニアだそうだけれど」
「出来損ないを倒しても魔人殺しは名乗れんだろうな」
ラデクは言葉を失う。いったいどういう事なのか。一瞬思考が逸れた。
そこに――薄笑みを浮かべたロゼッタが突っ込んでくる。咄嗟にショーテルでの迎撃を選択したが、鼻先を掠めるようにあらぬ方向から飛来した火球が横切っていった。
「な――」
「食らえ」
ショーテルを掻い潜り、懐に飛び込んだロゼッタが地面を踏みしめ、抉り込むような一撃を放ってきた。手甲を覆うは闘気の煌めき。
「ちッ!」
舌打ちして飛び退る。完全に避けたと思ったが、脇腹に浅い裂傷を受けていた。鋭い突起が付いた手甲のせいだ。直撃すれば打撃による衝撃の後から殴り抜けて斬撃の性質まで付与してくるだろう。
痛みはほとんど感じないが、それだけに闘気による攻撃は拙い。あれで破壊されると確実に動きが鈍る。
間合いを離そうと動く先を、マジックスレイブからの火球射撃が塞いでいく。まるで魔法射撃で形作る檻だ。個々の威力は意図的に抑えられているのが感じられた。当たっても致命傷にならないだろうが、命中すれば爆風で目くらましをされる。そうなれば纏わりついてくる赤毛の打拳の波に飲まれるだろう。
彼にとって魔術師というのは瘴気を突き破ろうと力押しで来る手合いばかりだった。この魔術師は――戦闘の考え方が異質だ。魔法の制御能力から考えれば損傷を与える事に専念しても相当なものだろうに、赤毛の補助役を徹底している。やりにくい事この上ない。
赤毛は赤毛で、大した使い手だった。半魔人となった事でかなり反応速度も強化されているはずなのに、身体能力の差を補って余りある技術力を持っている。幻影でも相手にしているような錯覚を受けた。両の拳、肘、膝。蹴り。虚実入り混じった全ての攻撃が連なって、水が流れるが如く。ラデクを防戦一方にさせていく。
「邪魔だ!」
ラデクは顔面への攻撃を敢えて受ける。苛立たしげに叫んで瘴気を浴びせるように広範囲にばら撒いてロゼッタに放った。浅い攻撃であったためにロゼッタは身を翻して避けた。その瞬間を見逃さず、空へと飛びあがる。
そうだ。自分にはこれがある。空が飛べるのだから上空から好き放題的にしてやれば良い。事ここに至っては隠密行動による破壊工作などと言っている場合ではない。
そう思って視線を巡らして、ラデクは凍り付いた。
遠方の空で、飛竜に跨った騎士達と仲間達が戦っているのが見える。それは良い。タームウィルズは飛竜隊を抱えている。想定した通りだ。
だが――飛竜から叩き落とされた騎士が生身で空中に留まってそのまま飛竜と共に連携しているという光景は、どういうわけなのか――。
それに、主力部隊はどこに? 本来飛竜隊とも交戦するはずなのに、あまりに味方の数が少ない。ではあれは。戦っている仲間達は、自分と同じように炙り出されたという事ではないのか――?
「――通信が入った。毒は有効、だそうだ。刺青に対する攻撃は耐性がついているから、あまり当てにしない方がいい。だが痛覚が鈍く、再生能力があるそうだ」
「あらそう。今みたいな捨て身にはもっと注意しなければいけないわね」
悪寒を覚えて視線を戻す。ロゼッタはラデクの目線の高さに立っていた。レビテーションでは、ない。
「魔人と戦っていた私達だもの。対策を進めていた……と言いたいところだけど。ま、大体あの子のお陰なのよね。感謝しなくちゃいけないわ」
ロゼッタは手甲同士を打ち合わせる。
「――さて。毒が有効なのは分かったけれど。人体急所を闘気でぶち抜いたら、どの程度効くのかしらね」
冷徹な目と剣呑な言葉に、ラデクの表情が引き攣った。
非常に良くない事が起きている。それは分かるが、相手の手札が見えなかった。
空中で斧と血刃がぶつかり合った。両者の刃圏に飛び込もうとしたフライヘッドは、一瞬で真っ二つに両断される。
ヴァージニアが目を見開き笑う。左右の手首から生やした血刃でグレイスの斧と鍔迫り合いをする。
お互いの武器が弾かれた瞬間、即座に打ち込まれる斬撃。暴風のように両者の武器が激突し、無数の衝撃が巻き起こる。
「ククッ! 膂力で私の上を行くか! 混血とは思えん出色の出来ではないか!」
ヴァージニアの髪が不自然に蠢く。視界の端でそれを捉えたグレイスがシールドを展開しながら後ろに飛んだ。一瞬遅れて、巨大な獣の顎がグレイスのいた空間を噛み砕く。髪の毛の束が、途中から狼の上半身に変化したのだ。
「変身とは――」
「混血である貴様には望むべくもあるまいがな!」
グレイスは眉を顰める。
この、濃密な血の匂い。グレイスは小さくかぶりを振ると、大きく息をついた。
「人間社会で窮屈な思いをしているようだな。いっそ己を解放してしまえばいいではないか?」
グレイスの様子を見て取ったヴァージニアはそれをどう受け取ったか、片目を見開き笑う。
「知っているぞ混血。貴様らはあまりこちら側に振れ過ぎると、仲間でさえ見境がなくなってしまうのだとな。魔人殺しの近くにいる事を選んだ? 笑わせる。貴様に、居場所などあるものか!」
ヴァージニアは手首から血の塊を弾丸のように飛ばして突っ込んでくる。対するグレイスは斧を投げつけて血弾を散らし、道を作って突撃した。
飛来する斧を、ヴァージニアは全く無視する。肩口を抉り飛ばして通過していった斧を物ともせずにグレイスを迎え撃つ。ぶつかり合った時には再生が終わっていた。
再生能力という一点に於いて、混血であるグレイスと純粋な吸血鬼であるヴァージニアの間には明確な隔たりがある。
両手の血刀を縦横に振るい、頭と心臓以外の攻撃に対しては防御を捨てて反撃を繰り出してくる。吸血鬼ならではの動きと戦い方。切り裂かれた傷口からカマキリの腕にも似た血の刃が飛び出す。髪が。手が。足が。獣の姿を取ってグレイスを噛み砕こうと迫る。
無数の殺意の塊を、斧で打ち砕き、シールドで防ぎ、鎖を巻き付けた腕で払い、プロテクションを発動させて後方に滑らせるように逸らす。
斧を叩き込む。腹。ヴァージニアは避けない。食らいながら掬い上げるような挙動で血刀が跳ね上がる。ぎりぎりを掠めていく。腕に受けた浅い傷はすぐに塞がるが、軽傷と重傷という違いでありながら、ヴァージニアは何事も無かったかのように笑っている。
グレイスにも、押されているという自覚はあった。膂力ではグレイスが勝るとヴァージニアは言ったが、手数と再生能力ではヴァージニアに軍配が上がる。
笑う。しかしグレイスは笑う。笑いながら突っ込む。相手の振るう血刀と斧をぶつけ合い、狼の頭を殴り飛ばす。
戦える。戦える。血刀も狼の牙も血弾も。無数の傷を刻むが、グレイスの命までは届かない。届かない。
この身を守るはテオドールのくれた魔道具。身の内を満たすは戦いの愉悦。そして守られているという歓喜。ならばこそ。負けられない。殺されてなどやれない。身を焦がすような破壊衝動と、愛するが故の渇きに身を焦がし、真っ白になりそうな思考の中でヴァージニアの刃風の中に自らの身を置く。
両手に握る斧が闘気を纏う。シールドを蹴って踏み込む。迎え撃つヴァージニア。
頭部目掛けて大上段に打ち下ろしてくる斧を血刀で受け止め、ヴァージニアはグレイスの心臓目掛けて血刀を突き込む。
身を捻って避ける。と、左手の斧が闘気を纏ったままで下方へ落下していった。
斧を捨てた。違う。闘気を纏った鎖が意志を持つ蛇のように大きく弧を描いて背後から迫ってくる。ヴァージニアを絡め取るが如き軌道。視界の端でそれを捉えたヴァージニアが無数の蝙蝠に姿を変じて離脱。一つ所に集まって再び人間の姿を取る。
追い縋る。右手の斧に嵌め込まれた魔石が輝きを放ち、グレイスの右手の斧が、三つに分かれた。魔石に刻まれた術式はミラージュボディ。肘から先がぼやけていて、どれが本物なのか、ヴァージニアには見分けがつかない。
制御を右腕から先に限定させてアレンジを加える事で、グレイスにも細やかな制御を可能としたものだ。
グレイスの斧は一撃必殺。なればそこに幻惑が加われば恐るべき武器となる。
風切り音を立てて迫る斧を、ヴァージニアは舌打ちして大きく後方に飛んで避けた。頭と心臓と腹と。全てを同時に薙ぎ払う軌道で迫ってきたからだ。
ケタ違いの再生能力があると言って、急所への一撃まで無視して良いわけではない。それをグレイスは、先程までの太刀合わせで見て取っている。
傾いた天秤が押し戻される。グレイスの一撃を無防備で受けられたのは先ほどまでの話。どれが本命か解らない以上、ヴァージニアはグレイスの攻撃の全てに対して、防御か回避を選択しなければならない。
その瞬間だ。大腐廃湖に変化が訪れた。迷宮全体が鳴動するかのように轟音を響かせ、沼の底から無数の、虹色に輝く水晶のような柱が隆起してくる。
それは封印の扉解放の時。柱を中心に、濁った沼が光り輝き、腐れた水が。汚れた泥が見る見るうちに浄化されていく。
それを。グレイス達はクラウディアから聞いて知っていた。だから驚くには値しない。しかしヴァージニアは違う。一瞬の事とは言え気が逸れて――だからグレイスに肉薄された。
左右から挟み込むように斧が迫ってくる。左手の斧は右腕を。右腕の斧は首と腹を薙ぎ払う軌道。左右から迫る上中下段の同時攻撃。
右手の、首を刎ね飛ばすように振り払われた斧のみを血刀で受ける。実際に打ち込まれたのはヴァージニアの腹部と右腕だった。深々と叩き込まれた斧に、しかしヴァージニアはまだ笑っていた。
急所でなければ食らって構わない。斬り飛ばされた右腕と、背中の翼が大きく形を変える。大鎌のようにグレイスの後方と上下に展開。退路を完全に塞ぐと腹の傷がそのまま狼の顎に変化する。
「喰らい付け!」
グレイスの右腕を飲み込むように顎を開く。このまま齧り付き、動きを封じてから余った一刀にて首を刎ねる――!
だがグレイスには退く気などなかった。シールドで空中に踏みとどまり、有ろうことか、狼の口腔内に自らの右腕を突っ込んできた。
「な、に!?」
驚愕するヴァージニアとは裏腹に、グレイスは牙を剥いて笑う。狼や野犬の類なら、小さい頃に何度も狩っている。こうやって喉の奥に押し込まれれば噛み切れない連中だ。変化したと言っても構造が同じなら対処も同じ。
ありったけの闘気を全身に纏い、ヴァージニアを身体ごと押し込む。
グレイスの狙いは吸血鬼の弱点。心の臓。ヴァージニアは戦慄を覚えて蝙蝠に姿を変えて逃れようとした。しかしそれは叶わない。グレイスがヴァージニアの心臓に手をかけていたからだ。そここそがヴァージニアの血の力の源泉。拍動を封じられては身動きも取れないし能力も使えない。
しかしたとえ握り潰して一時的に力を殺いだとしても滅ぼすには至らない。ヴァージニアは笑った。
混血の同種であるグレイスには、浄化の力を秘めた攻撃手段など――。
だが――グレイスもまた笑っていた。ヴァージニアの背に冷たい物が走る。無駄な事だと知っているなら、何故こいつは笑う?
ヴァージニアの身体ごと力任せに振り上げられる。振り下ろされるであろうその先を見て、ヴァージニアは驚愕に目を見開いた。
それは。大腐廃湖から飛び出した巨大な虹色水晶の尖った先端。今も尚、広大な大腐廃湖を浄化し続けている――。
「あ、ああああああああああああッ!?」
ヴァージニアの口から悲鳴が漏れた。グレイスは躊躇わない。尖った先端に己の手ごと貫けとばかりに叩き付ける。身体を貫く衝撃。破滅的な何かがヴァージニアの心臓から全身へと波及し、駆け巡っていく。
「あいにく……私はどれだけそちら側に振れたとしても、テオとリサ様が引き戻してくださるのです。だから、安心して戦える」
灰と散っていくヴァージニアを見上げて、グレイスは静かに言った。
「ヴァージニア様ッ!」
そして。その光景に衝撃を受けたイオスの動きが止まる。
それを――戦いの中で見逃すシーラでもない。剣閃。イオスの左目をシーラの真珠剣が薙ぐ。拮抗が崩れれば一瞬だった。飛来した巨大矢に刺青から射抜かれ、イオスは眼下の湖へと落ちていく。
呪曲の力をセラフィナが固めた巨大矢。半魔人と言えどただで済むはずもない。
ヴァージニアとイオスを欠いた半魔人達に動揺が走る。そこへデュラハンが突っ込んでいき、総崩れになって――。
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活動報告にて51~100までの
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