番外728 モルギオンとネフェリィ
記憶の欠片に触れるように意識を向けると、目を閉じているはずの俺の視界にも何か別の光景が広がる。場所は――胞子の谷か。
記憶の持ち主は、やはりファンゴノイドなのだろう。
ファンゴノイドらしい丸みのある手足が視界に見えている。ゲームで言うところのFPS視点なので俺としては馴染みがあるかな。
俺の意識の外……みんなにもファンゴノイド達が俺の見ている風景を幻術で映し出している。
何時の時代なのかは……良く分からない。そのファンゴノイドは原木で育てているキノコの面倒を見ていたようだが、ふと空を見上げて――飛来した白い何かが森の外れに落ちていくのに気付いたらしく、それを追って走り始めた。
時間帯的に他の早朝か深夜に該当するのか、他のファンゴノイド達は活動しておらずにその何かに気付いていないようだ。このファンゴノイドは……原木の世話をする当番であるとか、そんなところだろうか?
だが単独行動で森の外れまで移動するというのはな……。少なくとも襲撃者のような脅威がない時か、或いはあっても対処できる、と考えているという事かも知れない。
木立の中を走って進んで……周囲を見回しながらファンゴノイドは森の奥へ入っていく。その途中で血痕を見つけ、それを頼りに更に追っていき、それを見つける。
それは……明るい茶色の髪を持つ若い女だった。ディアボロス族でもギガース族でもない俺達と同じような姿をしているが、エルベルーレの者だろうか? だとするなら、これはパルテニアラ達が魔界にいた頃、という可能性が高い。或いはパルテニアラが把握していない、魔界に残った者がいたという事も有り得るが。
傷を負っているのか服も髪も顔も、血と泥で汚れている。動く体力もないのか、木の幹に身体を預けて、ぐったりとしながらファンゴノイドを見上げる。
女の顔に反応したのは幻影を見ているパルテニアラだ。驚きに目を見開く。
「この者は、エルベルーレ王に仕えていた女官か……!」
そうか。その女官が何故ここにいるのか、時系列として何時の出来事なのかは分からないが……。ともかく魔法が使える人物なのは間違いない。飛行して逃げて、そしてここで落ちた。
「大丈夫ですか……!? ああ、パルテニアラ殿下の……!」
駆け寄ろうとするファンゴノイドに、その女は弱々しくではあるが、掌を向けて行動を止めようとする。
「私の事は……放っておいて。助けも……必要ない」
「けれど……!」
「いいの……。貴方は姫様の言っていた……谷のキノコ達でしょう……? 私は姫様の、敵だから。ふ、ふふ。誰もいないところに逃げようとして……こんな場所に、落ち延びる……なんて。間抜けにも、程が――」
そう言って女は崩れ落ちる。ファンゴノイドは慌てて近付くが、どうやら意識が無くなっただけで、呼吸はしているようだ。それを確認すると、ファンゴノイドは安堵した様子であった。
谷の仲間に知らせるか、女の希望通りにするか。ファンゴノイドは逡巡していたようだが、やがて考えも纏まったのか、動き出すのであった。
場面が、変わる。簡素な木造りの小屋の中で、寝台の上で寝息を立てる女の身体には包帯やら何やらが巻き付けられていて、治療が施された様子が見て取れた。
ファンゴノイドは薬草を摘んできたのか、それを鉢で磨り潰して薬を調合しているようだ。小屋の中には竈に鍋もあって、何か料理もしているようだ。そうして作業をしていると、女から小さく声が漏れた。
「う……」
薄く目を開く女にファンゴノイドは視線を向ける。
「目が……覚めましたか?」
ファンゴノイドの問いかけに、女は動こうとして身体の痛みに顔をしかめる。そうして自分が応急処置を施されている事に気付いたのか、息を吐くと寝台に身体を預け、口を開いた。
「……ええ。どうやら……傷の治療までしてもらったようね。ここは?」
「貴方が落ちた場所の近くですよ。魔法を使って小さな小屋を作ったのです。仲間には知らせていませんし、普段はあまりここのあたりには来ませんので、安心して下さい」
ファンゴノイドの言葉に、女は目を瞬かせる。
「話を聞いたのは大分前だけれど……姫様の言っていた通りの性格なのね。仲間にも伝えていないなんて、危険だとは思わないの?」
「パルテニアラ殿下にも善良なのは良いが信用しすぎないようにと言われていますね。一応それも考えはしましたが……何か、諦めているように見えましたので。もし騙すつもりなら敵だとは明かさず、利用する事を考えるでしょう」
ファンゴノイドが目を細めてそう答えると、女は納得したというように体から力を抜いて目を閉じる。
「そう……。そうかも知れないわね」
少しの沈黙。
「私の名はモルギオンと申します。貴方は?」
ファンゴノイド――モルギオンの問いかけに、女は答えない。モルギオンは怒った様子もなく、少し待ってから返答がない事に頷くと、言葉を続ける。
「ともかく、傷が治るまでここにいては如何でしょうか?」
「……行くところなんて、ないけれどね」
「では、ここにいれば良い。敵と仰いましたが仲間に危害を加えないなら、パルテニアラ殿下も許して下さるような気がしますよ」
「ふ……ふふ。姫様は優しい方だけれど、許される罪と許されない罪というものがあるわ。私の場合は……後者ね。それに――いえ、止めておきましょうか」
そう言って女は自嘲気味に笑い、目を閉じてかぶりを振る。
「何か、私達には分からない事情があるようですが……。私はそろそろ仲間達の所に戻らねばなりません。痛みがあればこの薬を飲んで、食欲があれば料理を食べておいて下さい。薬は鎮痛作用があるもの、とパルテニアラ殿下には教えてもらっています。治癒の魔法も……使えたら良かったのですが」
そう言って小屋から立ち去ろうとするモルギオンの背に、声がかけられた。
「……ネフェリィよ。その……私の名前」
そんなネフェリィの言葉にモルギオンは振り返り、目を細めて笑って応える。頷いて小屋から出るモルギオンの背に「ありがとう」という言葉がかけられた。
それから――モルギオンは仲間達の活動していない時間帯を選んで谷を抜け出してはネフェリィの世話をしていたようだ。何日か何週間か。期間は分からないが、いくつもの記憶が浮かんで消えていく。
山菜とキノコのスープであるとか、様々な薬草から作った薬であるとか。ファンゴノイド達は客をもてなすのが好きだからか、そういう蓄えは十分にあった。
乾燥させればキノコも薬草も保存が利きやすい。そうした背景からか、ネフェリィを匿っている事が他のファンゴノイド達に発覚する事も無かった。
モルギオンとネフェリィの仲は出会った時に比べれば良くなっていたが……しかしそれでも、ネフェリィの容態はあまり良くならないどころか、日を追うごとに悪くなっているようにさえ見えた。食欲がない。ネフェリィ自身に生きようとする気力がないようなのだ。
「……せめて、食べ物だけでも」
「ふふ。そうやって、他人に入れ込むと後が辛いわよ。私は……悪党でどこにも居場所がない。あなたのような人が庇う価値なんて、ないのよ」
「それは……」
ネフェリィはモルギオンを見ながら穏やかに笑う。その笑顔は全てを受け入れているように見えた。
「ここまで世話になってしまっては、ね。だから、私がどうなろうと貴方が気に病む事ではないと、先に言っておく。もう、私の事は忘れた方が良いわ。きっと……迷惑がかかる」
ネフェリィはそう言うが……モルギオンは目を閉じて、そして答えた。
「だとしても……尚の事、私はネフェリィと共にいましょう。一人で誰にも忘れられて、というのは悲しいものです」
モルギオンのその言葉に……ネフェリィは少しの間天を仰ぐようにしていたが、やがて視線をモルギオンに戻して口を開く。
「モルギオンは、そんな風に優しいから……。だから私も……不安で優しさに甘えたく、なってしまった。ごめんなさい。一人で、ただ静かに去れば良かったのに」
モルギオンは首を静かに横に振る。
「良ければ、聞かせて下さい。貴方のお話を。話す事で解決したり、楽になる事はあるかも知れない」
「解決……はしないわね。幻滅するかも知れないわ」
「しませんよ。友人ですから」
モルギオンは穏やかに笑う。ネフェリィは少しだけ涙に潤んだ目を細め……そして彼女の事情を語り出すのであった。