番外660 境界公と掲示板
隠れ里の面々としては当面の生活基盤が出来上がり、これからの方針も明示した事で割と安心してもらえたようだ。
サロンでの歓迎の席から数日。生活必需品も無事に手配されてそれぞれに配られた。一般的な衣服やタオルに歯ブラシ、食器に洗剤、箒や塵取り等々……そういった日用品の数々。
隠れ里の面々に話を聞いてみれば……使い方についても慣れている物とそうでないものがあるようだ。その為、魔人に馴染みのないものについては、何のためにどう使うのかまで含めて説明をしてある。
それに伴い……後で情報の確認が容易なようにと、家臣達の居住区として割り振られた城の一角――その廊下に掲示板を用意する事になった。細かな情報を掲示板に張り出しておくわけだ。
「立派な掲示板になりましたね」
グレイスが廊下に作った掲示板を見てそう言うと、マルレーンが笑顔になってこくこくと頷く。出来上がりを見に来た使用人の皆や隠れ里の面々も感心したような様子で掲示板の装飾を見ていた。
「どうせならフォレスタニア城に様式を合わせた方が良いかなって思ったからね」
「ん。いい感じ」
シーラがサムズアップする。
二本の柱を立ててその間にボードを作るという構造的にはシンプルなものだが、柱の素材や装飾はフォレスタニア城に合わせたものだ。という事で、見た目は割と立派な掲示板になったのではないだろうか。
ボードについては以前開発した黒板を使っている。白墨で文字を書いたり消したりもできるし、磁石を使って掲示物を張り付ける事もできる。コルクボードというのも考えたが、長く使うならこちらの方が良いだろう。
とまあ……見た目は立派だが、掲示物は割と実用的というか日常に即しているというか。
最初の掲示物については……刺繍や料理、歌や楽器、絵画等の教室を開くという通達。そのスケジュールや申込みに関する内容だ。
それから隠れ里の面々を対象に馴染みの薄い日用品の細かな使い方について、補足というか詳しい知識の周知が必要な内容を記してある。
今回の場合は、歯磨きやうがい、手洗い、入浴の励行について。
特に歯磨きは健康維持に必要なものだが……普通の食事をしてこなかった分、隠れ里の住民には虫歯は一人もいない、という恵まれた状況であったりする。
だからこそ尚更だな。折角恵まれた状態なのでそのまま正しい知識をつけて貰い、維持させてやりたいと思う。
虫歯や歯周病は家族や恋人同士の間で広まったりする感染症の類、という話もあるから将来に渡って完全に防ぐというのは難しいが、日々の手入れをきちんとする事で予防しやすくなるのは確かだ。
歯ブラシに関しては……割と歴史が古い。国によって様式も違ったりするが、ヴェルドガルでは丁度よい硬さの魔物の毛を木に植えたものであったりして、それ専用の薬剤も作られていたりする。前世の記憶がある俺としても馴染みやすいし、虫歯予防にはかなり効果的だ。
とはいえ、自己流の磨き方では限界もあるので、歯の丁寧な磨き方のレクチャーや虫歯に関する知識を掲示板に張り出している、というわけだ。
「虫歯……。悪化すると大変な事になるのですね」
「目に見えない程の小さな生き物が原因、ですか。清潔に保つのが重要、と」
レドゲニオスやイグレットが内容に目を通して目を瞬かせる。
虫歯が本当に悪化した場合は命にもかかわりかねないからな。うがい、手洗いも様々な病気の予防にもなるという事で衛生観念に関する話は少しだけ詳しく記してあったりする。
虫歯の仕組み、乳歯、永久歯……風邪や病気になる理由、状況に沿った消毒の方法といった……関連する医学や衛生の知識にも少し触れて張り出したりしているわけだ。
根拠があると納得しやすくなる、というのもあるが……隠れ里の面々に限らず、城の面々が目を通せる場所でもあるので、全体的な衛生観念の向上にも繋がるだろう。
掲示物の第二段については……料理と保存食の原理、発酵と腐敗の違いについてというのも良いかも知れないな。隠れ里の面々は料理にも興味を持っているわけだし。
「まあ、普段からきちんとこれらの事をしていれば割と安心だよ」
という俺の言葉に隠れ里の面々は少し安心したように頷く。
「生活魔法が使えると、より楽ではあるわね」
ローズマリーが言う。確かにな。口腔内を清潔に保つ生活魔法というのもあったりする。
「魔法が使えそうな人達は多いし……生活魔法の講義教室も設けた方がいいかしらね」
「生活魔法の講義……。何だか懐かしく感じます」
クラウディアの言葉にアシュレイは笑顔で目を閉じていた。アシュレイとペレスフォード学舎で受けた授業も生活魔法に関するものだったしな。まあ……俺の様に生活魔法習得の為にペレスフォード学舎に在籍するというのは極端な例だ。
全員分の学費を用意するというのも大変なのでそういった生活魔法はピンポイントで教えてしまって良いかも知れない。
生活魔法自体は小規模で初歩的な魔法であったりするので、魔力適性が向いていない系統のものでも、ある程度習熟すれば使えるようになるというケースも多く、旅先で清潔な水が潤沢に確保できない状況でも気軽に使えたりするのが強みだろうか。
とまあ……掲示板についてはこんなところだろう。継続的に情報を伝達できるというのは便利なので、今後も活用させてもらうとしよう。
掲示板の設営と掲示物については特に問題もなく、反応も中々のものという印象だった。
執務や巡回を終えて造船所に移動し、黒板を含めて無事に設置してきた事をアルバート達にも聞かせる。
「歌や楽器に興味を持ってくれる人が増えるのは嬉しいわ」
「ねー」
イルムヒルトとセラフィナが顔を見合わせて笑う。音楽教室についての通達もしているし先々の事が楽しみなのだろう。
「その様子だと反応も良かったみたいだね」
「ふうむ。テオドールの作った掲示板と、掲示物には妾も興味が湧くな」
アルバートがそう言うとパルテニアラもどこか楽しげに思案するような様子を見せる。
「機密だとか、そういった性質のものではないので、城に来ていただいた時には自由に見て頂いても構いませんよ」
「ほう。では折を見てということで」
パルテニアラは満足げに頷く。それから少し真面目な表情になって言葉を続ける。
「さてさて。では魔界探索に関する話をするか」
そうだな。パルテニアラがこうしてタームウィルズを訪れているのも、魔界探索に関係した話があるからだ。
魔界側からこちらに繋がる門については施設ごと地中に埋めて、呪法を活用して封印を施してあるそうだ。その為に魔界側に移動して安全確保をしたら、続いて地上へのルート確保や拠点の建造といった手順で進めていかなければならない。
シリウス号をどのタイミングでどこに転移させるか。拠点建造用の建材、魔道具の準備等々。ベシュメルク側の協力と情報提供を受けながら色々な事態、状況を想定して作戦を立てていく、というわけだ。
「魔界の近況は不明……。少なくとも向こうの門が無事であるのは間違いないと」
ステファニアが言うと、パルテニアラが真剣な表情で首肯する。
「そうさな。施設に異変があっても妾は察知できる。もっとも、施設の直上――地上の状況はその限りではないが。もしかすると、魔界の住民が街を作っていた、などという事も有り得る」
例のキノコ型の種族もそうだが、パルテニアラが把握しているものしていないもの含め、魔界特有の種族が発生しているらしいからな。その可能性も有り得るか。彼らにしてみると魔界の扉が収められた施設は遺跡扱いなのかも知れないが。