番外375 女王との交信のために
月女神の神殿はベシュメルク国内にも存在している。従って、転移のための陣を用意しておくのは、やはり月神殿、ということになる。
かつて月の民と呪術の民は激しく対立していたからベシュメルクにも月神殿がある、というのは不思議にも感じるが。
ベシュメルクの前身となった古代呪術王国から、始祖の女王の世代で情報が隠蔽され、そのまま長い時間が過ぎて。かつて月の民と対立していたという記憶自体が薄れ――或いはほとんど忘れ去られてしまった、という事を意味しているのだろう。
或いは、月の民もかつて地上で暮らしていて、後にオリハルコンの管理の為に月へと向かったから、それを古代呪術王国の一般的な国民は知らなかったか。民間で語り継がれなかったために忌避感もない、というわけだ。
そんなわけで月神殿に関しては世俗の政治や権力等々に関わる事も無く、平和的という性質もあって、歴代の王もザナエルクも、殊更迫害の対象とはしなかったようだ。
とはいえ、ザナエルクの世代になってからは何かしらの宗教関係者というだけで一律等級分けにマイナスの評価がなされ、王都の中央部では暮らせないという制限はあるようだが。
マルブランシュ侯爵領のような地方ではそういったこともない。旅の安全などに加護を与えたりする性質上、旅人、行商人、冒険者等々に人気があるからだ。大人数を受け入れやすい形状、広々とした中庭。大規模転移の陣を構築しておくには向いている場所、というわけだ。
マルブランシュ侯爵を交え、王軍がやってきた時に月女神の力を借り、人々が逃げられるようにする魔法を施しておきたい、と頼んだところ、侯爵領の神官長と巫女頭も快く了解してくれた。クラウディアが女神シュアスというのは一般に伏せられた情報ではあるのだが、俺が月女神から加護を受けて魔人達を倒した、というのは結構有名なのだそうで。噂話がそうして伝わった部分もあるだろうが、マルブランシュ侯爵の人徳によるところも大きいだろう。
そんなわけでクラウディアの指示に従って、みんなで手分けし、月女神の性質を付与した魔石を敷設したり魔石の粉で魔法陣を構築していく。
「ええと。ここに魔石敷設、と」
と、楽しそうに作業しているコマチである。アルフレッドもそうなのだが、コマチも作業の目的が人助けだったりするとテンションというかモチベーションが上がるタイプだったりするからな。
やがてそれらの作業も終わる。上空から魔力の流れを見やり、神殿の俯瞰図と、魔石と魔石の粉末を敷設した箇所を模型化。クラウディアに確認してもらう。クラウディアは魔法陣と要所要所の魔石の位置を指と目で追ったり、自身でマジックサークルを構築してから消したりして慎重に確認していたが――やがてにっこり微笑んで頷く。
「これなら大丈夫よ。神殿全体から大規模転移ができるはずだわ」
「よし。これでこっちは完了か」
では続いて外壁への対呪法結界構築だが――。と、視線を巡らせると、月神殿に面する通りに騎士団長が小走りでやってくるのが見えた。
「外壁警備の人員調整は完了しましたぞ。いつ作業に移って頂いても大丈夫です」
「了解しました。では、結界構築の作業を始めます」
名目的には侯爵が戻ってきたので兵士長らが今日は代わりに警備を行い、設備点検、問題点、弱点等々が無いか見直しを行い、同時に侯爵から結界強化のための魔法を施す、ということになっている。
一晩だけの特別な警備体制という扱いだが……結界構築には事足りるだろう。
エレナとガブリエラは儀式に備え、冷水を浴びることで精神を研ぎ澄ませて身を清める、ということで。
ユーフェミアとエイヴリルも、もしかすると始祖の女王の魂――つまり精神、意思、思念といったものが何らかの形でやってくるのなら、自分達の能力も役に立つかも知れないと、その晩は水浴びを行うことにしたらしい。精神活動に関することならと、ホルンも自主的に水浴びをすることにしていた。
俺達も儀式に立ち会うから身を清めておいた方が良いだろうということで、その晩は結局みんなで冷水での沐浴を行った。
こうした水行に関してはマルレーンやクラウディアが詳しいので、色々手順を聞いたりもしたが。
「水は冷たくし過ぎていませんでしたか?」
冷水を用意してくれたアシュレイが尋ねる。
「ん。そうでもない。季節柄さっぱりして丁度良いぐらいだった」
「私は……マール様の加護があって良かったかも」
と、濡れ髪で答えるのはシーラとイルムヒルトだ。イルムヒルトは……寒いのは種族的に苦手だしな。まあ、このへんは加護もあるので苦行だったというわけではないからか、イルムヒルトも穏やかに笑っていたりするが。
「まあ、確かに加護がないと大変かもね」
俺が苦笑して言うとローズマリーが頷く。
「季節もね。条件が違っていたらと考えると、厳しかったかも知れないわ」
「マルレーンも修行中は季節問わずこれだったのでしょう? 大したものだわ」
ステファニアもそんな会話を交わしていて、マルレーンは姉達の言葉に隣でにこにことしていた。
「ふふ。これで、セラフィナさんも明日には儀式に参加できますね」
「うんっ」
と、沐浴を済ませたグレイスとセラフィナが顔を見合わせて笑うのであった。
明くる日――。
侯爵領直轄地だけでなく、近隣の住民への避難誘導が侯爵領の武官達によって慌ただしく進められていた。避難に際しては竜籠も動員しているからかなり迅速に進めるつもりのようだ。
直轄地の外壁外部にも民家、開拓村等々が点在している、というのは一般的ではあるが……マルブランシュ侯爵領に関して言うのなら、魔力溜まりが山岳側にあるので直轄地外部に住む領民はあまり多くはないらしい。
加えて穀倉地帯ということもあり、避難してきた領民の当面の食糧確保に関しては問題ないそうだ。
重要人物は城よりシリウス号で俺達と行動を共にするということで、警備上の問題も生じないため、城の一部を解放してそこに寝泊りしてもらえば、避難民の仮の住居に関しても確保できている。
メルヴィン王も物資、食糧等々の支援を決定してくれているので、一先ず領民の受け入れ態勢については問題なさそうだ。
そうなってくると……俺達としてはまず儀式に集中し、その後に迎撃の準備や避難の手伝いを行う、ということになるだろう。
城の一角に作られた儀式場は――祭壇を配置し、魔法陣を描いたりと中々に立派なものだ。ただ、エレナの知るそれとは細部で色々違うらしい。
魔法陣にしても……魔法陣の内容から効果がどうなるかを追っていけば、平和を願う巫女の祈りの力を高めて周囲に放出する、といった内容で……周囲に浄化された魔力を拡散するような効果はあるが、刻印の巫女本来の儀式の内容とは違うもののようだ。まあ、儀式を行って何も変化が起こらないような事態は避けたのかも知れない。
「ああ。これは、本来、内側にもう一つ魔法陣を描くのか。出鱈目に改変したっていうわけではないんだな」
本来の形から、巫女の仕事として必要な記述を削った、というもののようだ。
「流石は先生。魔法陣を見ただけでそこまで分かるのですね」
「確かに、元の魔法陣から中央部が削られています」
シャルロッテとエレナが感心したように言う。
「マジックサークルの偽装は、戦闘を目的としている魔術師の専売特許みたいなものだからね。偽装したなら偽装したなりに、痕跡も残る。このあたり、中央に本来あるべき魔法陣と連動させるための記述が残っていたんだろうけど……。記号の形状がそのまま空白になってる。かなり古い時代の記述方式だから……月の民と、地上の民の技術が混ざったのかもね」
空白部分に本来収まっていた記号をマジックサークルとして展開して空中に浮かべると、パズルのピースが嵌るように形状が一致するのが分かる。
ローズマリーやクラウディア、コマチ、ガブリエラも興味深そうにそれを覗き込んでいた。
「んー。巫女の服ね。何だか……落ち着かないわ。というか、目を覚ましてから寝間着以外のものを身に着ける事が増えて……まだ慣れないわね」
「大丈夫よ。似合っているわ」
「ユー姉は元が可愛いから、大体大丈夫よ」
少し恥ずかしそうにしているユーフェミアと、そんな彼女にサムズアップで応えるエイヴリルとイーリスである。……コルリスやティールの仕草が移ったのだろうか。
巫女装束については、精霊らと交信する儀式においては、月神殿の巫女の纏う衣服などがそういった力を高める効果があるということで、月神殿から借りてきて、儀式に参加するみんなで着替えているのだ。
かく言う俺も神官が儀式の時に纏うローブを借りてきていたりする。
マルレーンは着慣れているからか落ち着いた様子だが、ローズマリーはやや居心地が悪そうだ。羽扇がレギュレーションにないために持てないからかも知れない。そんなローズマリーの様子にグレイスが微笑んでいたりするが。
身を清めて巫女や神官の装束を纏い――既に場には清浄な魔力が満ちている。
「準備は――大丈夫そうですね」
と、ガブリエラが儀式場の様子を見て満足そうに言うと、エレナも首肯する。
「きっとこれなら、始祖の女王も応えてくれます」
エレナは勿論、ガブリエラも……かなり魔力が研ぎ澄まされているのが分かる。
彼女は魔術師ではないと言っていたが、巫女として歴代の巫女姫がしていたという修行はかなり真面目にやっていたそうだ。女王の語りかけがあったからだと本人は言っていたが。だからガブリエラは、かなり魔力的にも鍛えられているようである。
「そうですね。こちらは準備万端です」
「分かりました。では――始めるとしましょう」
俺が人員の確認をしてから答えると、ガブリエラは真剣な面持ちになって静かに頷くのであった。