番外368 表の魔術師
「私は……王国の農業に携わる魔術師の家系を継ぐ者として、長らく国内の農業に関する指導であちこちの地方に赴いたり、自身の分野の魔法研究に従事してきました」
マルブランシュ侯爵が少し遠い目をして語る。そう。俺達の集めた情報でも、侯爵は農業を専門分野とする魔術師だったという話だ。
農業において考え無しに土魔法を使うのは土地の活力を無くしてしまう可能性があるために、色々と試験、実験を行う必要がある。
場合によっては水魔法、木魔法、それに錬金術等々も必要となるため、色々多岐に渡る知識が必要な専門的な分野なのだ。
シルン伯爵領のミシェルもそうだ。ノーブルリーフ農法にしても連作障害等が起きないか等々、色々データ取りをしているし。
マルブランシュ侯爵は、そういった分野のベシュメルクにおける第一人者だそうで、あちこちで作物の生産性を向上させ、民の暮らしを豊かにした国民からは評判の良い人物であった。
それが少し立場を変える事になったのは……功績が認められてザナエルクから宮廷魔術師長として後進の育成と新しく設立する魔法研究機関を預かって欲しいという命令を受けてからだ。
「宮廷魔術師長と言えば……バスカール老以後は長らく空席でありました。私は、一度は固辞したものの、他にいないと強く陛下から要請され、自分にしかできない事もあるだろうと……長の立場にはならない事を条件にその話を受けたのです。本職の分野では研究の成果が実践されて順調だったというのもありましたからな。この上は後進を育てる事で王国の為に貢献できれば、と」
マルブランシュ侯爵は、エレナの握る杖を見てそう言った。バスカール老。エレナの恩師であるベシュメルク宮廷魔術師長であった人物だ。
エレナもまた、恩師の名前が出て、目を閉じて杖をしっかりと握り直す。それからエレナは目を開いて、マルブランシュ侯爵に尋ねた。
「新しく設立、と言いますと……やはり離宮にはあまり出入りできなかったわけですか」
「……そうですな。王宮の別の区画に新しい魔術研究棟が作られました。旧来の研究機関は離宮にあるとは聞き及んでおりましたが、そちらは別方面の魔術師の研究機関となるとのことで……。専門性の違いから資料も種別ごとに離宮の書庫から分けられる事となりました」
かくして離宮の研究棟は別の分野の魔術師が継続して研究を続け、マルブランシュ侯爵は宮廷魔術師の副長として新しい研究機関を動かしていく事となる。
旧来の研究棟が裏に関わる内容の研究開発で、こちらは完全な機密だ。行われていたのは魔界の扉の解放やら生体呪法兵計画といった内容になる。
新しい方については最初から成果を世に出す事を目的とした、国民の暮らしに寄与する内容等々を発表する表の研究機関であり、裏の顔については知らされていなかった、とのことである。
元々は表裏の区別なく、様々な魔法研究の中から世に出せるものは開示してきたわけでかつて魔界から齎されたものを研究対象にしていたりもしたらしいが……今ほど性質の悪い研究はされていなかったらしい。
表沙汰にできない研究を専門的に継続させる分、表の研究機関を創立して今まで通りに近い事をさせる必要があった、というわけだ。
侯爵の専門分野は農業だが、研究機関は総合的なもので農業、医療、治山や治水など……多岐に渡って様々な分野の魔術師が集められていたらしい。
そこで後進の指導と、別の分野の研究員との意見交換、新しい成果の発表等々、マルブランシュ侯爵は与えられた役割の中で精力的に働いたそうだ。
王もまた、そんなマルブランシュ侯爵を重用し、良い主従関係が築けていると、当時は思っていた、らしい。
「まあ何といいますか。それでも資料不足には悩まされました。私は立場上、離宮の書庫から資料を借りられないか聞きに行く事も多かったのです。あちらの機関は対魔物や国防など、軍事に特化した機関であるために機密性と閉鎖性が高いとの事で……保有している資料にしても開示できる資料、できない資料があると、一つ一つ判断しなければこちらには渡せない、とのことでしてな」
それで何度も交渉したらしい。もう少し利便性を良くして欲しい、研究が足止めを食らってしまう等々。そうしている内に向こうも段々と面倒になってきたらしく、妥協してくれたそうだ。
精査して借り出せる物と出せない物に分けるので、それ以上はごちゃごちゃ言うな、というわけだ。
そうして更に研究も捗ったが……慣れというのは怖いもので……。その資料の中に本来表側に渡ってはいけないはずの古文書や歴史書等も紛れ込んでいたらしい。
「向こうも研究員だものね。別の事項で煩わされるのは面倒だったのでしょうけれど」
「裏の研究に嫌気が差して、敢えて情報を紛れ込ませた、という可能性もあるわね」
ローズマリーが肩を竦めるとクラウディアも同意した。別の機関と言っても王宮内部だしな。機密保持はしていてもチェックが甘くなったりヒューマンエラーを起こすと言うことは有り得るか。或いは、クラウディアの言うように、裏の人間の良心か。
「それは……ある、かも知れませんな。話が前後してしまいますが、裏の事情については、表との橋渡し役として親しくなった裏の魔術師が、少しだけ教えてくれたのです。その方は病を患っていて、もう余命いくばくもないと……だから、せめてもの罪滅ぼしにと教えてくれたのかも知れませんが……」
なるほど……。そんな気骨のある人物がいたわけか。存命なら手助けをしてくれたかもしれないのに、残念だ。
資料については……その人物が紛れ込ませた物なのかどうかは今となっては分からない。しかし当時、それが本来渡ってはいけないものとは、マルブランシュ侯爵達の与り知るところではなかったらしい。
「最初は歴史研究等も創立できるかも等と軽く考えて、皆と古文書を解読したりと、研究の傍らで気楽に楽しもうなどと呑気なことを考えていたのですが、な」
マルブランシュ侯爵がそう言うと、居並ぶ貴族達も少し渋面になって頷く。
……なるほど。そこからベシュメルクの過去に触れてしまって……様々な他の事柄を考えていく内に王の行いに疑問を持ったか。
「刻印の巫女姫についても、詳しい事をそこで?」
俺が尋ねると、侯爵は頷く。
「はい。それまでは王国で一般に知られる知識ぐらいしか無かったのですが。これは、秘奥の儀式を通じて災厄を遠ざける祈りを捧げる。巫女は王家の血筋から選ばれて刻印を身に負う、というものですな」
災厄を遠ざける祈りは……王と共に過去の大災害の記憶に触れる事だし、代替わりは呪法によって血に結び付けられ強制的な引き継ぎとして行われる。そして……刻印は魔界に通じる扉の鍵となる。
元々巫女についてはベシュメルクという国家にとって、最大の秘密でもあったしな。そのあたりは重鎮以外には秘奥の儀式としてぼかしてはいたのだろう。
バスカール老が現役だった頃はもっと多くの重鎮が真実を知っていたのだが、これはエレナの出奔の際に抵抗勢力として排除されてしまっている。次の世代として新しく王国中枢に関わる侯爵は、王国内部の真実に繋がる部分については知らなくても当然だろう。
「ん……。そこで不審に思った?」
シーラが首を傾げて尋ねると侯爵は頷く。
「刻印の巫女に関する真実を知って……疑念が生まれました。帰って来られたエルメントルード殿下に対する違和感も思い出してしまい……不敬と知りながら、私は私の中で仮説を組み立ててしまったのです」
帰って来た刻印の巫女姫は、もしかしたらよく似た替え玉なのではないか? では……巫女姫の抗議に諭され、軍事増強に舵を切る事を止め、民の為にと語る王の言葉は? もう一つの研究棟は、国防のため、民を守るためと言いながら一体何を研究しているのか?
そうこうしている内に、エルメントルード姫が亡くなり、刻印の巫女の座が引き継がれた、そうだ。だが……。
「当代の巫女姫ご自身が私に密かに接触をしてきたのですよ。自分は刻印の巫女ではない。引き継ぎは行われていない、と。彼女の祖母が亡くなる折、教えてくれたそうです」
「祖母……ですか」
「はい。エルメントルード殿下の影武者のお孫が、当代の巫女姫になった、ということになりますな」
そんな答えが帰って来た。偽のエルメントルード姫は……王国の有り方に対して何か思うところがあったのだろうか。
「自分は所詮偽者だから、こうして相談しているのが発覚したら簡単に命を奪われる。だから悪いがこれが精いっぱいで、後は慎重に立ち回ると仰っておりましたよ。私からも探りを入れてみるから危険な事はしないようにと、念を押しておきましたし、このことは……幽閉されている間、王にも伝えておりません」
「その方は――安全なのですか?」
アシュレイが心配そうに尋ねると、マルブランシュ侯爵は静かに頷く。
「常日頃から祖母を倣って地方を回り慈善活動をしておりましてな。私が動く時期も王都に寄り付かないように立ち回ると。危険を感じたら逃げる、と笑っておりました。今は……偽の日程を伝え、私の領地に身を隠しております」
……なるほど。中々強かな人物のようだが。
ともかく、そこからは……マルブランシュ侯爵も色々腹を決めたらしく、色々独自に調べていったそうだ。先程話の出た裏の魔術師に話を聞いたりもしたそうだ。
口はかなり堅かったが、王は軍事大国化を諦めていないと語った。そうして軍事絡みの研究内容の実例として、王国が呪法によって異能を引き出した者達の事を少しだけ教えてくれたそうだ。
彼らは愛想を尽かして逃げ出してしまったが、薬を今でも必要としているだろうと。その作り方と保存されていた現物を……もしかしたら必要な時が来るかもしれないと、侯爵に預けてくれた、らしい。
同時に……侯爵が深入りして身を滅ぼさないか心配していたそうだが。だから……魔界だとかそのあたりのことについては教えなかったのか。それとも彼も知らされていなかったのか。
「だから、か。忍び込んだ時の状況を思い出せば、保管されていたのが離宮ではなかったのが気になっていたが」
「そんな人が……あの研究棟にいたなんてね。少しだけ……嬉しい、かも知れないわ」
スティーヴンが言うと、イーリス達もその人物に思うところがあるのか、目を閉じていた。
「薬は……私でも精製できるかもしれないと解読は進めていたからね。解読の前に君達に出会ってしまったから、引き渡したというわけだ」
……作り方は手元に写しさえあれば現物を渡してもまだ何とかなるからな。
その後は……4人の親しい宮廷貴族――つまり同僚の魔術師共々、王に呼び出しを受けたそうだ。5人が過去について研究していたことを勘付かれてしまったそうだ。
それはそうだな。最初期は歴史研究等と気軽に考えていたから、内密にしようという気もなく、初動に甘さがあったからそれが王の耳に入ってしまったのだろう。
王としてはそれ以上の深入りを止めるように釘を差す意味合いがあったのか、或いは侯爵を裏側に引き込むように説得するつもりだったのか。だがそこで逆に王を説得しようとしたところ、交渉も決裂。まとめて幽閉されてしまったらしい。
王にしてみれば余計な事を知り過ぎている、ということなのだろう。説得できない相手なら排除するしかない……ということか。




