番外338 獏の力
「これで大丈夫です」
と、アシュレイはマルレーンが儀式の際に少しだけ切った指先を、綺麗に治療して微笑む。
ありがとう、と言うようにマルレーンもにこにこと笑みを向けて、アシュレイと手を繋いだりしていた。
「こっちで一緒にいるなら、バクの名前も考える必要がある?」
治療が終わったところでシーラが言った。翻訳の魔道具でその内容は獏にも伝わるのか、ふんふんと首を縦に振っている。契約とは無関係であるが、名前が欲しいということなのだろう。
「そうなると男の子か女の子かが重要、でしょうか」
と、エレナが言う。
「ああ。それと……こっち風の名前が良いのか、ホウ国に近い名前が良いのかは、聞いておくのが良いのかな?」
そう尋ねると獏が鼻を持ち上げて……笛の音のような声を上げる。
女の子で、どっちの名前でも嬉しい、ということのようだ。頷いてからマルレーンに視線を向ける。マルレーンはにこっと俺に笑みを返すと、自分の胸のあたりに手をやって頷いた。
うん。今回は名前を付けるなら、俺より召喚者であるマルレーンの方が良いだろう。
マルレーンは少し思案を巡らしていたようだが、やがて地面に指で文字を描く。ホルン、か。
「ホルン……。角笛ね。鼻の形や、さっきの鳴き声から、かしら?」
ローズマリーが尋ねると、マルレーンは嬉しそうにこくこくと頷き、獏も何やら嬉しそうに再び声を上げた。どうやら気に入ったようだ。
「悪い夢を食べて目を覚まさせるって言うのなら、そういう意味でも合いそうね。角笛は目覚めや行動の時間を知らせたりとか、合図として使われるから」
ステファニアがにっこり笑って言った。例えば一部の集落や部族間、或いは軍隊などではそういった用途で使われる品である。目覚ましの角笛の事を暁角といったりするし、確かに意味は合っているな。
セラフィナは嬉しそうに横笛を吹いて、守護獣と一緒に飛び回ったりしているが。若干違うが笛繋がりということだろう。
「ところで……食べるのは悪夢だけでいいのですか?」
グレイスが尋ねると、ホルンは首をふるふると横に振った。
「悪夢の他に、草や果実……そして青銅等の金属も食した、と伝え聞いているがのう」
「青銅……となると、鉱石もかしら?」
ゲンライの言葉にクラウディアが視線を向けると、ホルンが頷く。……流石は霊獣というべきか。
コルリスが仲間、というようにホルンの肩のあたりに手を置いて、ホルンもまた嬉しそうに声を上げていた。ふむ。コルリスに関しては鉱石専門だが、ホルンは野菜や果物等もいける、と。
まあ、悪夢に関しては、用意しようと思って用意できるようなものでもない。いずれ食べてもらう機会があるかも知れないが、普段の食事に関してはそれらの用意もしておくか。
「――んー……」
何というか、ふわふわとした綿毛の中にいるような感覚があった。周囲に広がる風景も概ねそのようなもので、雲の上に座っているような状態である。
ここは――ホルンの能力で俺の意識を核に形成してもらった夢の中だ。
意識ははっきりしている。明晰夢、という奴だろう。
VRゲームや、オルジウスの支配していた本の中の世界にもどことなく似た雰囲気がある。
それらと決定的に違うのは、夢を見ているという実感がまずあって。夢の中だから驚くことも怖がることもない……というような、不思議な安心感のようなものがあった。
これがホルンの力が作用して見ている夢だということを踏まえれば、こういう柔らかな夢にもなるか。
近くにはホルンも姿を現していて。雲の上にちょこんと腰かけて、小首を傾げてこっちを見てくる。
「いや、面白いね。こうなるのか」
俺の言葉にホルンはこくんと頷いた。
獏であるホルンの能力を早速確かめておこう、というわけだ。
ホルンの能力としては、対象を眠りに誘ったり、こうして夢の世界を作りだしてそこに第三者と共に潜り込んだりも出来る。
カドケウスとウロボロス、キマイラコートにバロールにウィズ……と、魔法生物組もしっかりと一緒に夢の中にやってきているようだな。このあたりは、本の中に飛び込んだ時と同じ。意識を持つから同行できる。
と、ホルンが声を上げる。
言霊の魔道具が機能していないので翻訳の術式は意味を成さないが……夢の世界を構成するために意識が繋がっているので、何となく言いたいことも分かる。
「ええと。色がついている夢は珍しい?」
確認するとホルンが頷いた。
確か……テレビが普及する前は夢に色が無かった、という話をどこかで聞いたことがあるな。俺の夢だから、色がついている、というわけか。
こうして早速ホルンの能力を確かめているのは、誰かの夢の中に第三者を潜り込ませ、夢の世界を用いての聞き込みといった情報収集を可能としていたという逸話をゲンライから聞いたからだ。
相手に夢だという感覚を与えてから事情を聞けるのだから口も軽くなるし、タネを知らなければ夢の中で何を語ったとしても、それが現実で問題視されるという事もないという寸法である。しかも既に前例と実績がある。
閉鎖的なベシュメルクでは……冒険者や旅行者、商人等を装っても、余所者はどうしても目立ってしまうからな。その点、ホルンに力を貸してもらえるなら秘密裡に事を進められるというわけだ。
まあ、そういった情報収集の能力の他にも、霊獣として破邪の力を持っているので、対ベシュメルクにおいては相性が良いと想定されるし、東国の妖怪、霊獣なら西方諸国で想定していない能力を持っているから、相手方の対策を掻い潜りやすいという狙いもある。
ホルンとしてはどうなのかと言えば――夢の中で怖い事をしないのなら情報収集に使っても構わない、と言っていた。そのあたりは獏としての矜持なのだろう。
まあ、今は夢の世界の感覚やら性質やらを確かめさせてもらうとしよう。
手足を握ったり飛んだり跳ねたり。現実との感覚との違いを見てみたり、意識を向けて風景を雑多な街角に変えてみたりと、夢の世界での行動やコントロールを試みる。
こうして夢の中に入っても、取り込まれている者達の姿は現実世界そのままのようだ。
ホルンが主張するところによると……このあたりは意識ごと取り込む故の縛りのようなもののようで、干渉できないのは仕方がないこと、らしい。
腰に付けているマルレーンのランタンも……使えないようだ。やはり意思のない魔道具は、夢の中では機能しないということか。
そもそも幻影を投影して視覚的に見せるというタイプの幻術は、夢の中では意味がないし、意識に作用して幻覚を見せるというタイプの幻術は、獏の能力と競合を起こしてしまう可能性がある。
ホルンのアシストである程度の事はできるが、情報収集を行うなら、俺もその場に紛れるなり立ち会うなりしないといけない。
色々な状況を想定すると……変装方法を考える必要があるな。だがまあ、魔法生物達を一緒に連れて来れるのであれば、最初から問題にならないのだが。
「ウィズ。頼む」
と、声をかけるとウィズが変形。顔全体に巻き付くようにして仮面のようになる。普段はとんがり帽子型が基本で、本人も帽子であると自負しているが……必要とあらばこうして仮面状になる事も可能だ。
今は夢の中なのであまり関係がないが、顔を覆ってもらうような形状を取ると毒ガス等に対する備えにもなれるという……色々と多芸なウィズなのである。
顔はウィズに隠してもらった上で形を整えられるし、体型もキマイラコートやカドケウスに手伝ってもらえば偽装可能だ。ウロボロスも外側を覆って槍に偽装することができる。
これは、現実世界においてもベシュメルクでの潜入活動時に姿を見られても、問題ないレベルまで見た目を変える事が可能ということを意味している。
西方の近隣国には名前が売れてしまっているから、装備品等から正体がバレないようにする策でもあるのだ。
ベシュメルク国内で活動する時に、仮に戦闘になっても正体不明の黒尽くめの槍使い程度には偽装できる。
竜杖を持った魔術師では特徴からバレるが、槍を持った黒尽くめであるなら大分印象が変わるはずだ。
だが、夢の中では少々偽装する意味合いが違う。警戒心を与えないような形になるのが望ましい。俺は夢の世界だと最初から意識しているから風景等々をコントロールできるが、それを知らない相手の場合は意識ももう少しぼんやりしているらしい。
そこで声をかけて……意識を誘導してやるだけで相手が夢の世界を動かしてくれるというわけだ。そこから情報収集等もできるわけだが、こっちに警戒心や好奇心を向けられるわけにはいかない。
「となると、無害な動物とか愛嬌のある形状とか、或いは街角にあっても不思議はない物品が良いのかな……?」
というわけで身体全体を覆うようにしてカペラの顔や手足、尻尾を出させ、黒山羊の中に潜んでみたり、或いは四角い箱に潜んでみたりと、色々形状変化による偽装を試してみる。
ふむ。これは……案外夢の中でなくても使えるのではないだろうか?
キマイラコートの変形にしても、俺が術式で補助してやれば迅速な変形が可能だしな。
ホルンもこれなら大丈夫、とこくこくと頷いていた。
……うん。行けるな。他の人間の夢の世界が白黒だというのも、変装のしやすさを助長してくれるだろう。
「ん。大体わかった。それじゃ一旦起きるかな」
そう言うと、ホルンは頷いて前足で街角の地面を叩く。すると大きな扉のようなものが出現した。これを潜ればすぐに目覚める、ということらしい。
扉を開けて――眩い光の中に飛び込む。
そして暗転。身体の感覚が戻ってくる。薄く目蓋を開けると……そこは工房の仮眠室の寝台の上であった。
「お帰りなさい」
と、俺の実験を見守っていたグレイス達が微笑む。一緒に夢の世界に潜っていた魔法生物達も同時に目を覚ましたようだ。
「うん。ただいま。これなら大丈夫そうだ」
そう言うと、みんなも顔を見合わせて喜んでくれる。
姿形の偽装と、ホルンの能力。これならベシュメルクでも色々と動きやすくなるはずだ。