プロローグ
ようやく民間レベルで手軽に触れられるようになった全感覚没入型のVRゲームが、あっという間に市場を席巻し、すっかりVR隆盛な今日この頃である。
これらの物が誰に需要があるかと言えば従来通りヘビー、ライト問わずのゲーマーは当然の事として、格闘家や喧嘩自慢といったリアル戦闘民族、スポーツを手軽に楽しめない病人や老人、レクリエーションと家族サービスを両立させたい親子等々、多岐に渡る。今までのゲームよりも幅広いユーザーに受けていると言って良いだろう。
取り分けVRで人気があるのはMMOだ。VRとMMOという組み合わせは非常に中毒性が高い。他ジャンルのVRと比べても頭一つ抜きん出ている事からも解る。
何せ間口が広い。攻略を極めるのも対人を突き詰めるのもいいし、仮想世界でスローライフを楽しむのも有りだ。だから前述したような幅広いユーザーに受けているのだろう。
仮想世界で好みのアバターを設定し、好きなようにキャラをビルドして他のプレイヤー達と遊ぶ楽しみというのは、ちょっと他では味わえない。
俺も、そんなVRMMO『Break Force Online』にのめり込んでいる者の一人である。
BFOはオーソドックスな剣と魔法の世界というファンタジーものではあるのだが、多種多様な職業と、それに付随する装備、武技、魔法が魅力だ。
俺のアバター、テオドールは純然たる戦闘特化型の魔法職であるバトルメイジである。
今日も今日とてちょっとした外出から家に戻ってきた俺は意気揚々とヘッドギアを装着し、パワーをオンにした。そこで初めてセキュリティアラートに気付く。 プライベートエリア内に人がいる、と警告が出ている。え? 人?
VRのヘッドギアにはこういった機能がある。ログインしている間、周囲の異常をモニターしていてゲーム中でも知らせてくれるわけだ。例えば体温の低下や空腹であるとか、盗難や悪戯の防止機能として、設定されたプライベートエリア内に人が立ち入った場合も感知して教えてくれる。
だが玄関の扉には鍵が掛かっている。そして俺は一人暮らしだ。恋人などいないし、勝手に上がり込んでくるような不躾な友人もいない。つまり人の接近を知らせるアラートなど鳴るはずがない。普通なら。
「――え」
外部モニターを起動させてヘッドギアを付けたままで周囲を見渡すと、クローゼットから出てきた男と、視線が合ってしまった。
これは互いにとって不幸な出来事だと思う。アラートが反応したのがログインしてからであったのなら……俺の身体に自由は無く、泥棒が逃げていくところをただ見送るだけで済んだだろう。
しかし、ヘッドギアの電源を入れただけの状態では、まだ身体も動くし声も出せる。ヘッドギアごしではあったが、向こうも見られた事に気付いたらしい。
確か――大学の友人が言う所によると、近所で空き巣が多発している、だとか。
男の手には包丁が握られている。顔を見られたと判断したから、ログインするために横になっていた、俺へ向かって突っ込んできた。
「冗談だろ――!?」
何だって勝手にログインしたなんて勘違いをして姿を見せて、いきなり目撃者を消そうなどという短絡に走っているのか。そんなに顔を見られるのが嫌なら目出し帽ぐらい被っておけと、俺としては強く思う。
反射的に首を庇ったが、刺されたのは違う場所だった。脇腹に熱い衝撃が走る。男はヘッドギアについている、ログイン用のスイッチを押した。すぐに俺の身体から感覚が薄れていく。
これではシステムが処理を終えるまで身を守る事さえできない。構造的な欠陥に呆然としつつも、絶望的な気持ちでヘッドギアの処理が終わるのを見送った。何だってこんな事に。
――最初に感じたのは、身体を抱きかかえられるような感触であった。
全身が痺れたようになって、指一本動かせない。上下の感覚も無く、周囲の状況を確認しようにも景色がめまぐるしく変わって、何が何だかよく解らなかった。
ともかく、水の中にいる。息をする事も上手く泳ぐ事もできなくて目を白黒させていると、不意に高速で動いていた景色が止まる。腕を掴まれ、身体が浮上する。背中に、固い感触があった。
水から引っ張りあげられて、どこかに寝かされている。それは解ったが、どうしてそんなことになっているのかが解らない。
「テオドール様! しっかりしてください! テオドール様ッ!」
薄く眼を開くと金髪の美少女……グレイスの安堵したような顔が見えた。上体を起こして辺りを見回す。今いる場所はガートナー伯爵領の、街中のようだ。近くに水路があって、俺はそこから引き揚げられたらしい。
グレイスの髪と衣服が濡れている事から判断するに、彼女が水路から俺を助け出してくれたのだろう。周囲にも見知らぬ大人がいる事から、彼らも手伝ってくれたのかも知れないが。
自分はいったいどうなったのか。BFOにログインしているのか? このイベントは何だ?
いや、待て。ログインってなんだ。イベントって? 俺はテオドールじゃないのか?
……混乱があった。溺れている間、今いるこの場所がゲームの中であるという、どこか遠い世界の誰かの記憶を見ていたように思う。
霧島景久という名の、日本人の記憶を思い出した、という事だろうか? だけどそうするとテオドールとしての俺の、一〇年分の記憶とは矛盾するというか。
だってそうだろう。今いるこの場所がゲームの中という事を受け入れなくてはならない。だけど自分がテオドールに違いないという認識も、霧島景久に違いないという認識も、同時に存在していて実感として持っているのだ。
……わけが解らない。単なる輪廻転生で、前世を思い出した、みたいなものなら話は早いんだが。
刺されたはずの腹は、何ともない。
ログアウト、GMコールはおろか、インベントリを開く事さえできないから、異常があってもどうしようもないんだけど。
「だいじょう、ぶ」
俺が思案にくれていると、グレイスの表情がまた曇ってきた。そんな彼女を安心させるためにぎこちなく微笑みかけた。グレイスはガートナー伯爵家の使用人である。俺の部屋付きという奴で、あの家では数少ない俺の味方だ。
「おいおい、テオドール。大丈夫かよ?」
にやにやと笑いながら話しかけてきたのは異母兄のバイロンだ。その隣に、バイロンの弟であり金魚のフンの、ダリルもいる。
ああ。思い出した。誰かに水路に突き飛ばされたんだったな。ま、十中八九こいつらだろう。
今日は買い物に行くから荷物持ちを手伝えと言われて付き合わされた。俺付きの使用人であるグレイスを連れてきたのは、部屋付きの彼女の前で俺に恥をかかせたかったのだろう。
バイロンとダリルの馬鹿兄弟は、何かにつけて俺をいびってくる、ガートナー家の嫌な長男、次男と言ったところだ。
そして俺はガートナー伯爵の愛人の子。
母親が病気で亡くなったからガートナー伯爵家に引き取られたが、異母兄弟とは徹底的に反りが合わない。
反りが合わないというか最初から俺を犬猫みたいな扱いをしてくる連中と、どうやって仲良くしろというのかという話である。
BFOでは……キャラメイクの時にキャラクターの出自をかなり細かく設定、調整できる。それによってキャラクターの性格付けをする事で、初期能力値の調整ができるようになっている。
これはゲーム的には調整以上の意味合いは無く、ゲーム中でそれに合わせてロールプレイするかどうかは自由なのだが……今の俺にとってロールプレイも何も、紛れも無く現実である。
もし霧島景久の考えたキャラメイクの設定が今の俺にとっての現実になっているとするなら、こんな奴ら考えるな、と言いたいところだが……まあ自分の事だしな。俺の現実が向こうの俺に反映されたからこうなっているという事だってあるのかも知れない。
こういう幼少期を過ごしたからテオドールは力を求める傾向が強く、魔術師向きの初期能力値になったとか……調整の方向性として、景久はそういう風に考えていたわけだが。
さて。俺はこれからどうするべきか。手の中に魔力を集め、固め、転がしながら思う。
「泳ぎぐらいできなくちゃな。お前は仮にもガートナー伯爵家で厄介になっているんだから、恥ずかしくないようにしろよ」
と言ったのはダリルだ。徹頭徹尾俺を家族とは認めない物言いだ。上等だ。俺だってお前らなんか家族だなんて思っちゃいない。
さっきまでの俺なら頭を垂れて大人しくしていただろうが、今となってはもうどうでもいい。我慢する必要を微塵も感じない。
「……そういうお前は、水泳なんか覚えなくても水に浮きそうだな。脂身ばっかりで」
「あ?」
ダリルが顔を真っ赤にして歪める。俺が反論するとは思っていなかったのか、バイロンも眉根を寄せた。
「……おい。テオドール。お前自分の立場が解ってるのか?」
「いや、もう面倒でさ。一々お前らのアホ面を見てご機嫌伺いするのは真っ平なんだよ」
何せ毎日のようにいびられているからな。理由もなく殴られたりなんてしょっちゅうだ。
ガートナー伯爵家の中で俺のヒエラルキーは最下層にある。愛人の子であり、一番身体も小さい俺としては、随分肩身の狭い思いをしてきたが、もう我慢する必要もないだろう。
冷静に考えてみれば別に父さんは俺を嫌っていないし、少々暴れても許してもらえるだろうという目算もある。でなければ父が俺を家に呼ぶものか。
「の野郎……」
前に出ようとしたバイロンの足元を指差し――機先を制するように風の初級魔法エアバレットを発動させる。
「っ!」
風の弾丸が撃ち込まれて、地面が爆ぜる。バイロンの目が見開かれ、動きが止まった。
「……お前、いつの間に魔法なんて……」
いつの間にと言われれば「今さっき」だろうな。全く、BFO様々だ。霧島景久が習得してきた魔法知識がそのままテオドールの物になってるんだからさ。
魔力量はまださすがに少ないが、初級魔法の発動ぐらい問題なく無詠唱で使いこなせる。バイロンのような見習い騎士になった事が自慢程度の奴なら鼻歌混じりで嬲れる自信がある。対人戦の経験だってケタが違うし。
「これから大人しくしていてくれれば、俺としては仲良くできると思うんだがな」
そう言ってやると、バイロンは憎々しげに表情を歪めた。こういう連中は力関係をはっきりさせてやる方が良い。
「テオドール! お前ちょっと魔法が使えるようになったからって生意気だぞ!」
バイロンはある程度物が解るようだが、ダリルは力関係を理解するのには少し早かったらしい。
石をまとめて拾うと、こちらに向かって投げつけてきた。隣に居たグレイスが俺を石から庇おうと前に出ようとしたが、まあ心配はいらない。
逆に彼女の腕を掴んで引き戻し、ダリルに向かって吐き捨てる。
「失せろ」
発動させたのは先程と同じエアバレットだが、今度は集束させないように調整を加えている。風の弾丸と言うより、イメージ的には暴風の壁という感じだろうか。ダリルの投げてきた石を弾き散らし、そのまま奴を吹っ飛ばして水路に落とす。それぐらいは造作も無い。
悲鳴と水の音が響いた。
「ダリル!」
ふむ。まあまあイメージ通り、かな。
水路に落ちてもがいているダリルを親指で指差し、バイロンを横目に引っ掛けて言う。
「今度はお前が助けてやれよ、バイロン。可愛い弟だろ」
「……覚えてろよ?」
「さっさと行け。グレイスは手出しをしなくていい。バイロン。お前がもしここで伯爵家の威光を笠に誰かに命令するようなら、俺がお前を水路に突き落とすぞ?」
歯噛みしたバイロンが身を翻し、水路に飛び込む音が通りに響いた。
ま、意趣返しとしてはこんなものか。これから俺が快適に暮らすためには、馬鹿兄弟には今までの行動と考えを改めてもらうしかないしな。
けど、一緒に暮らすってのも、もう御免なんだよな。これからどうしようかね。正直こんな地方で腐っているのは時間の無駄だと思うんだ。