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青春スクエア ~柳葉李哉の片思い~ 小学生編8

 二月十九日の朝、李哉は目を覚ます。

目を覚まして一番最初に視界に入って来たのが天井ではなく――

藤森先生の顔だったので思わず驚いて飛び起きる。

その姿を見て藤森先生も少し驚いたようで、笑いながらも優しく李哉に声を掛けて来る。

「李哉君、調子はどうだい?」

「ええと…」

まだ驚きのせいで心臓が高鳴っているが、それ以外の身体の調子を確認する。

まだ足は痛い。

痛いが、痛みは前回の傷口を縫う手術の後ほどの威力だった。

「まだ少し足が痛いです」

「そうか。李哉君、おめでとう。手術は無事に成功したよ」

「え――?」

「一応再確認で言わせてもらうけど。後は痛みが引いていくから安心して。今日からは歩く練習をしてもいいよ。でもまだ、匍匐前進からだから、ね?」

藤森先生は匍匐前進の所をかなり強調したイントネーションで言い、人差し指を立てて見せる。

それからいつものように優しく微笑んで言ってくれる。

「大分落ち着いて来たから、もう大丈夫だよ。後は李哉君の努力次第で歩けるようになるよ。じゃあ、くれぐれも無理はしないようにね」

藤森先生はそう言うと、梅に頭を下げて病室から出て行った。

一瞬、何が起きたのか理解出来なかったが――

手術が成功して歩く練習をしても良いと言う事はわかった。

そしてそこで初めて、梅が病室にいた事にも気付く。

「李哉、良かったねぇ。足が治るんだよ」

梅が声を掛けてくれ、李哉はただ頷く。

すると、病室の扉がノックされる。

梅が返事をするとナースが朝食を持って病室に入って来た。

朝食の乗ったトレイを食台の上に置いてベットの上にスライドさせてくれる。

(ああ、どうしようか…)

またか、と言いたい気持ちを抑え込む。

あと何回、これを味わえばいいのだろうか。

正直言って、もう味わいたくない。

「あの、ナースさん…」

ベットを起こして背中に背当てクッションを挟んでくれたナースに李哉は声を掛ける。

するとナースは優しく聞いてくる。

「どうしたの? 李哉君」

「――俺絶対吐くんで、全部食べ終わってから片付け…お願いします」

そう言うと李哉はもう潔く柔らかいご飯に手を伸ばし、ご飯を口へと運んでから――

吐いてしまった。

もうナースも梅も驚きはしなかった。

李哉が手術をした後は吐く事は知っているし、その上に今回は吐く前に吐くと宣言していたのもあるが。

前回無理をして柔らかいご飯が食べられるようになったので、今回も頑張って口へと運ぶ。

次は念願の普通食だ。

だが今回は最初から五割ほど食べられた。

やはり身体も進歩をしている事に実感出来た。

 食事を終え、ナースに片付けをしてもらった後。

李哉は病室から出て行こうとしたナースに声を掛ける。

「あの、悪いんですけど…床に降ろしてもらえますか?」

「え?」

その言葉を聞いて、流石に梅もナースも驚いた。

驚く二人の顔を見ながらも李哉は続けて言う。

「歩けるための練習もしたいし、何より――自分でトイレに行きたいんです。いつまでも人に、って言うのは…。匍匐前進でも自分で行きたいんです」

確かにそうだ。

傷口を縫う手術をした辺りからその事は考えていた。

梅やナースに自分の便を取ってもらうのは屈辱以外の何者でもなかった。

だから匍匐前進が出来るようになった時点で這ってでも自分でトイレへ行くと決めていた。

李哉がそう言うとナースも納得してくれ、李哉を床に降ろしてくれる。

床に降ろされると李哉は匍匐前進を始める。

ナースは気遣ってくれて病室の扉を開けてくれて。

李哉は匍匐前進をして自分の力で病室から出て、トイレへと向かう。

ナースは病室を出て廊下を歩いている患者達に李哉に道を譲るようにお願いしてくれているのが聞こえた。

患者達から道を譲ってもらい、李哉は自力でトイレを目指す。

だが想像していたのよりも遥かに匍匐前進は辛く、もっと上半身を鍛えておけば良かったと思う。

それでも李哉は自力でトイレへ行き、用を足す事が出来た。

トイレに行けたのはいいが、李哉は病室には戻らずにそのまま匍匐前進の練習をするためにリハビリ室へと向かった。

まず、リハビリ室は遠く――

リハビリ室に行くまでで既に体力が切れてしまった。

これを毎日続ければ匍匐前進のスピードが速くなるだろうと思いながらも、昼食の時間に一度病室に戻り。

翼の来る時間にまた病室まで匍匐前進で戻る――

そんな一日を過ごした。

とにかく、食事の時間と寝る時間と翼と会う時間以外はずっと匍匐前進をしようと李哉は考えていた。

 その日の夕方。

翼が病室に来る時間が近付いて来たので李哉は必死に匍匐前進で病室に戻る。

だが、もう体力は尽きている。

それでも李哉は匍匐前進で病室を目指していた。

すると――

「李哉、頑張ってるんだ」

翼の声が聞こえて、翼が病室に来るまでに病室に戻れなかったと少し悔やむ。

だがそれを表には出さないようにして。

少し翼の方を見て笑う。

学生服姿の翼は少し屈んでそんな李哉に話し掛けて来る。

「――でもそんなに根を詰めたら身体壊すよ」

「今日はそんなに頑張ってないよ?」

「嘘。すごい汗だくだよ。それにもう、動けないんじゃない?」

やはり、翼にはバレてしまった。

汗だくなのは確かに見ればわかる。

ずっと身体を動かしているのだから。

その上に息も完全に上がってしまっている。

何処からどう見ても無理をしているようにしか見えない李哉の姿。

「――車椅子、持って来てあげるよ」

「いや、いい!」

「でも――」

「ごめん、気持ちはすごく嬉しいんだけどね。自分で病室から出たんだから自分の力で病室に戻りたいんだ」

「――そっか」

「でも、匍匐前進って意外と難しいんだね。実際にやってみて驚いた」

「一度も匍匐前進した事ない人が急にやっても上手くいかないよ。自衛隊は鍛えられてるから速く動けるけど」

「やっぱり、もっと鍛えていれば良かった」

そう呟いて李哉は壁の方まで自力で這って行き、壁に背を預ける。

少し、休憩をしよう。

そう思って李哉は翼と話す。

すると翼も李哉の隣に座ってくれて口を開く。

「――李哉は、誰よりも頑張ってるよ」

「え…?」

「今まで俺が見てきた患者の中で、一番。こんなにも必死に、努力を続ける人は見た事がない。だから……李哉の強さに驚いた」

「――――」

翼が褒めてくれたのは嬉しいが、翼の言葉に少し引っ掛かった。

翼が自分の事を言う時、いつも〝強い〟という言葉が出てくる事に。

それはまるで、自分と李哉を比べているように聞こえ、翼は自分の事を弱いと言っているように聞こえる。

そう感じたのはきっと、翼が病室で初めて涙を見せてくれた時に言った言葉のせいだろう。

『俺……李哉君みたいに強くないから。本当はすごく弱くて、何も出来ない奴だから……』

きっと、あの言葉のせいだろう。

それなら今も、翼は自分の事を弱いと思っているのだろうか。

「翼」

「何?」

「翼は、弱くなんかないよ」

「え――」

「なんだか、翼が俺の事を強いって言うと――まるで翼と俺を比べて言ってるみたいで聞こえて」

「李哉――」

翼は驚いた顔をして李哉の方を見てくる。

そんな翼の顔を見て李哉はちゃんと翼に伝える。

「俺、まだまだ翼の事は知らないけど…。それでも俺は、翼は強いと思うよ」

李哉がそう言うと翼は――

今にも泣き出しそうな顔をした。

だけども、翼は泣かなかった。

きっと、今は廊下だからだろう。

人前で涙は流したくないのだろう。

その代わりに翼は悲しそうな顔をして笑う。

その笑顔は何故か澄んでいて綺麗に見えた。

そして翼はそんな顔をして言う。

「ありがとう、そう言ってくれて」

そう言って翼は笑った。

何処か悲しそうに、何処か嬉しそうな顔で。

それからいつものように翼の話を聞いて、李哉はまた匍匐前進を始めた。

翼が帰る時間までには病室になんとか戻る事が出来たのだが。

病室に戻ると梅が凄い心配をしていた。

そして汗だくになった李哉の姿を見て無理はするなと何回も言って来た。

だが、李哉は無理をするなと言われても無理はしようと思っていた。

無理をした分だけ、翼に近付ける――

そんな気がしていたからだ。





 翌日、李哉は朝食を食べるとすぐに匍匐前進の練習を始めた。

今日もまたリハビリ室へ行って、戻って来るだけ。

それでもかなりの距離がある。

そして夢見る。

プレートを入れる手術を受けるかどうか迷っていた時に見た、歩行練習をしていた人のように歩く練習が出来る事を。

そのためにはまず、匍匐前進で速く移動出来るようにならなくてはいけない。

そう思って李哉は今日も無理をする。

必死に、這って行く。

すると。

誰かが走って来る足音が聞こえて来た。

それはナースや医師の足音だと李哉は思う。

少なくとも、こうやって這っているとよくナースや医師達が走っているのがわかった。

昨日もよくナースや医師が李哉の横を走って通り過ぎていた。

だから今日もそうだと思っていたのだ。

だが、今回は違っていた。

その足音は李哉に近付き――

そして。

ぐにゅっと背中を思いっきり踏まれたのだ。

「ぐっ!」

だが、成人ではない事はすぐにわかった。

きっと成人ならば気を失っている事だろう。

昨日は、踏まれる事はなかった。

行きはナースが道を譲るように呼びかけてくれたからだ。

帰りはみんなが李哉に普通に道を譲ってくれた。

もちろん、ナースや医師達も李哉を避けて通って行った。

だから、まさか踏まれるとは思いもしなかった。

初めて踏まれて、そのダメージの強さに李哉はそのまま動けずにいた。

すると――

「OH、ソーリー!」

男の子の声が聞こえた。

自分と同じくらいか、もう少し幼いくらいの子供の声。

少し痛みに耐えながら顔を上げてみて、その男の子の顔を見て驚いた。

顔を上げて、そこにいたのは――

美しい金色の髪に、海のように深い青色の瞳を持った少年がそこに居たのだ。

そして透けるような肌の白さ。

だが、両腕に包帯をしている。

右腕の方は首に三角巾を掛けて固定されており、左腕の方は包帯を巻かれていた。

そんなインパクトのある少年を見て、李哉は驚いた。

それに、外国人を見たのは初めてだ。

初めてだからどう対応していいのかわからない。

その上に李哉は英語は喋れない。

どうすればいいのかと必死に考えていると。

「マサカコンナトコニ人ガ寝テルナンテ……」

少年はカタコトでそう呟いた。

日本語が喋れるのがわかると少し安心したが。

やはり、どう対応していいのかわからない。

李哉がなんて言えばいいのかわからずにいると。

少年は本当に申し訳なさそうに言ってくる。

「ホントニソーリー。イツキカラ逃ゲテタカラフンデシマタヨ。ホントニソーリー」

「いや、そんなに謝らなくていいよ…。俺がこんな所に居たのが悪いんだし…」

「ホントニ、ソーリー」

それでも謝って来る少年にどう対応していいのかわからず。

どうすればいいのかと必死に思考を巡らせながら李哉が困っていると――

「ミー、バジル。ユー?」

そう言って、三角巾をしていない自由となっている左手で李哉の方を差して聞いて来た。

これは、名乗れと言う事なのだろうか?

李哉は戸惑いながらも一応答える。

「えっと…柳葉李哉、です…」

「オー! キシヤ! ヨロシク!」

そう言うと少年はまるで子犬のように可愛く笑った。

一瞬、この少年――バジルに犬の耳としっぽが見えたような気がした。

それほどまでに、バジルは犬と例えた方が良い人物だった。

「ア、モウ行ク。マタ!」

そう言って左腕を上げてバジルは走って行ってしまう。

李哉はバジルの姿を見ながら、少し不思議な気持ちになった。

外国人と言うのは、みんなあんなにフレンドリーなものなのだろうか?

だが、不思議と話し易かったような気がする。

そんな事を思いながらも李哉は匍匐前進を再開する。

しかし、とても印象的な少年だった。

美しい金色の髪に透けるような白い肌。

まるで海のように綺麗な深い青色。

なのに両腕には包帯。

倒れたらそう簡単には起き上がれそうに無かったので少し心配になる。

どうやら腕以外は元気そうな男の子だった。

ここの患者ならば、翼に聞けば誰だかわかるだろうか?

そう思いながら李哉は今日も一日匍匐前進の練習をしていた。

昨日に比べて、少しはスムーズに動けるようにはなった。

昼頃にようやくリハビリ室に着き、時計を見ると既に昼食の時間だったのですぐに李哉はまた病室へと戻る。

その戻る途中で、李哉の目の前に誰かが立って行く手を阻む人物が居る事に気付く。

なので李哉はその人を避けて移動しようと右に進もうとすると。

李哉の目の前に立っている人物も李哉と同じ方へ移動して前へ進めない。

一体誰が目の前にいるのかと思いながら少し顔を上げてみると――

「やぁ、李哉君。頑張ってるみたいだね」

そこには、可愛らしい赤いリポンの付いたカチューシャで前髪を上げている藤森先生の姿があった。

そこで、少し思う。

藤森先生が恐らく子供達から誕生日プレゼントにともらったヘアゴムやヘアピンにカチューシャをしても、その全てが似合うのが不思議に思う。

それはきっと、藤森先生が少し子供っぽい顔付きだからだろうか?

それにまるで女の子のような顔立ちをしている。

だから、そういうものが似合うのだろうか?

李哉がそう思いながら藤森先生の顔を見つめていると。

「李哉君。昨日からかなり頑張ってるんだね。どうだい? 身体の調子は」

「えっと、大分良くなったとは思います」

「そっかぁ。まぁ良くならないとそんなに無茶はしないだろうね。んー……多分李哉君は無茶をするなって言うほどに無茶をするタイプだろうねぇ」

「やっぱりダメ…ですか…?」

「そうだねぇ……」

藤森先生は少し屈んで李哉となるべく視線を合わせてくれる。

やはり、無理はいけないだろうか?

しかし、今の李哉に無理をするなと言うのは難しい事だ。

もうすぐ立てるようになるのだから、立つための練習は毎日したい。

出来る事ならば、もっと速く立てるようになりたい。

退院する時には既に歩けるようになって退院したい。

すると、藤森先生は困ったような表情をして溜息を漏らした。

「まぁ、足を人に踏まれないように。それから、足を絶対にぶつけたりしない事。その条件を絶対に守るって言うなら――いや。そんな事をしたら退院が長引くってわかるよね?」

「はい。わかります」

「じゃあ、それに気を付けてね。後は李哉君の努力次第だよ。頑張って」

そう言って藤森先生は優しく笑ってくれて。

それからすぐに立ち上がって行ってしまった。

そんな藤森先生の後ろ姿を見て、少し元気をもらったような気がした。

 夕方、翼が病室に来る時間帯になった。

昨日は翼が来るまでに病室に戻る事は出来なかった。

結局翼と一緒に病室に戻る事となった。

だが、今日は自分でも驚いていた。

昨日あれだけ必死に匍匐前進をしたせいか。

それとも今日は身体が慣れて来たからなのか。

翼と会ったのは病室と目と鼻の先でだった。

その姿を見た翼は驚いた表情をして口を開いた。

「――李哉、すごいね。一日でこんなに違うんだ…」

「あ、翼…あぁ~! 翼が来るまでに病室に戻れなかったぁ!」

翼の顔を見て、悔しさが襲って来た。

翼が病室に来るまでには病室に戻って来たかったのに。

あともう少しだったのに。

そう思っていると、翼が驚きながらも口を開く。

「いや、凄い進歩だよ」

「あ~、悔しい…。でもそう言ってくれると嬉しい。ありがとう翼。でも、明日は絶対に翼が病室に来るまでには病室に戻って来てるから」

「李哉なら出来るよ。でも、無理はしないように」

「わかってるけど…」

「そう言っても李哉は無理するんだろうけど」

翼はそう呟いて少し溜息を漏らした。

その反応が藤森先生と同じだったので思わず少し笑ってしまう。

どんなに無理をするなと言われても――

李哉は頑張りたかった。

頑張った先にはきっと、楽しい毎日が広がっていると信じているから。

頑張った分、報われると思っているからだ。

だからどんなに辛く苦しくても、乗り越えて行ける。

そう思いながらも李哉は残り少ない距離を移動して自分の病室に戻った。

病室に戻るとやはり梅が心配そうな顔をして李哉に聞いてくる。

「李哉、無理してるんじゃないのかい? 本当に大丈夫なのかい?」

「俺なら大丈夫。それにね、今すごい楽しいんだ。今日だってすぐそこまで帰って来れたんだ。明日は翼が来るまでに絶対に病室に戻って来るからね」

李哉はそう言って笑う。

すると、梅は困ったような表情をして溜息を零す。

――どうしてだろうか。

先程からみんなの反応が同じだ。

「ねぇ、どうしてみんなそうやって同じ反応をするの?」

「李哉はきっとやめろって言っても言う事を聞かないってみんな思ってるからだよ」

翼が少し笑いながらそう答えてくれた。

確かに、今みんなに何かを言われても絶対に匍匐前進をやめない自身がすごいある。

その事にみんな、呆れているのだろうか?

「そこが、李哉の良い所だから反対出来ないのもあるんだよ。李哉の努力はすごいよ。それに絶対に諦めないから」

翼にそう言われて、嬉しくなる。

翼は、自分の事をそう思ってくれている。

翼が自分の事を褒めてくれるとすごく嬉しい。

思わず李哉は少し照れて左手で頭を掻いていた。

すると翼が優しく聞いてくる。

「李哉、ベットに上げてあげようか?」

「え、いいの?」

「いいよ。李哉軽いし」

そう言うと翼が李哉の身体を少し起こしてくれて――

軽々しく李哉の身体を抱き上げた。

翼の顔がすごい近くにあって李哉は思わず翼から顔を背けてしまう。

心拍数が上がっていくのがわかる。

どうか、心臓の音が翼に伝わらないようにと願う。

そして翼は李哉をベットの上に寝かせてくれた。

更には優しく布団を掛けてくれる。

その時、痛みを感じた。

それはいつも感じていた左足の痛みではなかった。

その痛みの元を探し当てて触れてみるとそこは――

両肘だった。

少し服を捲ってその場所を見てみると。

両膝はまるで擦れたようになっていた。

どうしてそうなったいるのかと思っていると翼が口を開いた。

「匍匐前進をしてると床と服の間で腕が擦れるからそのせいだよ。消毒、してあげようか?」

そう言うと翼は持って来ていたのか、手にしていたランドセルの中から消毒薬と少し大きめの絆創膏を取り出した。

その姿を見て李哉は首を振る。

「いや、いいよ。気持ちだけで嬉しいから――」

「動かないで」

そう言うと翼の顔が目の前までに迫っていたので、驚く。

翼は李哉の顔をじっと見つめてくる。

見つめられて恥ずかしい。

目を逸らしたいのだが、翼の顔を見ると不思議と目が逸らせない。

翼の顔を見つめていると――

「いたっ…」

翼が消毒薬の染み込んだ綿で顔を拭ってくれる。

そこで、初めて気付いた。

擦れていたのは肘だけではなく、顔も同じように擦れていたのだと。

それに気付けなかったのはきっと、翼との未来ばかりを考えていたからだろう。

翼が優しく手当てをしてくれながらも聞いてくる。

「李哉、脇腹とかは大丈夫? そこも擦れてると思うから手当てを――」

「いや、そこはいい!」

そこまで翼に手当てをしてもらうとなると、羞恥でどうにかなってしまいそうだ。

あまりにも痛くなった場合はナースに手当てをしてもらおう。

今はとりあえず、肘と顔の手当てだけでいい。

それに――

梅の見られている所で脇腹辺りの手当ては、気が引ける。

「――そう。じゃあ肘と顔の手当てだけにする」

そう言うと翼は手馴れた手付きで手当てをしてくれる。

その様子を見ながら、李哉はふと思い出した。

今日出会った、あの外国人の男の子の事を。

とても不思議な――犬みたいな男の子。

翼に聞けばわかるだろうか?

「ねぇ、翼」

「やっぱり脇腹の方も手当てする?」

「いやっ、そうじゃなくてっ!」

少し照れながら李哉はそう答えると翼が少し笑う。

その笑顔に少し見惚れてしまう。

本当に、翼の顔立ちは綺麗に整っていて同じ男なのにかなり綺麗な顔をしている。

美男――というべきなのだろうか。

李哉が翼に見惚れながらそんな事を考えていると。

「それで、何?」

「え…? あ、ああ…。今日不思議な子に会ったんだ」

「どんな子?」

「えっと、綺麗な金髪に深い青色の瞳が特徴的な外国人の男の子。カタコトで喋って…両腕に包帯を――」

「ああ、バジル君か」

李哉の言葉を遮って翼がそう言った。

やはり、翼は知っている様子だった。

だが、前にクリスマスパーティーの時にあの男の子の姿は見なかった。

あの時は来ていなかったのだろうか。

李哉がそう思っていると。

「バジル君は今年になってから入院して来たんだ。それにバジル君は病院内で有名だよ。いつも逃げ回ってるから」

「そうなんだ…」

「はい、終わり」

翼は優しくそう言うといつも翼が座る椅子に腰を下ろす。

翼の手当てしてくれた腕を見てみると、まるでナースが手当てしてくれたかのように綺麗に手当てされていた。

「ありがとう。翼」

嬉しくて少し微笑んでそう言うと翼も少し微笑んで答えた。

きっと、この翼の手当てしてくれた腕を見る度に今日よりもずっと頑張れる。

翼と一緒に居れるためだと思えば、いくらでも頑張れる。

李哉は手当てされた両腕を見て強くそう思った――




 翌日。

李哉は朝日で目を覚ます。

目を覚まして一番最初に見るものは壁に掛けられた時計だった。

時計を見てみると、朝食の時間だった。

そしてすぐにナースが朝食を持って病室に訪れる。

ナースはいつものように朝食の乗ったトレイを食台の上に乗せて。

その食台をベットの上にスライドしてから、ベットのジャッジを上げてくれる。

李哉の前に柔らかいご飯と温野菜が置かれて、それを少し睨む。

また、食べると吐いてしまう。

もう繰り返したくない。

そう思いながらも、李哉は箸を手に取ってご飯を口へと運ぶ。

――――――

驚いた。

驚くと同時に実感する。

この身体は日を重ねる度に治っていっているのだと。

昨日まで食べたら吐いていたのに、今日は吐かない。

身体が、食べ物を受け付ける。

その事がまたもや嬉しかった。

また食べる事がこんなにも嬉しい事だと実感出来た。

嬉しさのあまりに思わず隣に居たナースの顔を見てみると。

ナースも嬉しそうに笑っていた。

このまま順調に治っていけば、退院もすぐだ。

そう思うと嬉しくなる。

朝食を食べ終えた後は、最近の日課となった匍匐前進だ。

ナースに床に降ろしてもらって這って廊下まで行くが――

両腕に痛みを感じる。

昨日までは夢中になって匍匐前進をしていたので気付く事が出来なかったが、今はかなりの痛みがある。

それでも李哉は匍匐前進をする。

上半身を鍛えないと前には進めない。

匍匐前進で速く動けるようにならないと、歩く練習は出来ない。

そう思い、今日もリハビリ室まで匍匐前進で進んでいく。

だが、三日目にしてかなり速く移動出来るようにはなっていた。

初日に比べたらかなり速く動けるようにはなった。

それでもやはりまだ遅かった。

前に進む度に両腕や顔、脇腹が痛む。

痛みに耐えられず、その場に突っ伏していると――

足音が近付いて来る音が聞こえた。

先程からナース達が走り回っていたので今度は医師が走って来たのかと思っていると。

鈍い痛みが背中に走り、一瞬息が出来なくなった。

「オー! ソーリー……ア、キシヤ」

カタコトで、昨日聞いた声が聞こえたのでその人物が誰なのかすぐにわかる。

それに、李哉を踏んで行くのは一人しか居ない。

痛みに耐えながらも李哉が顔を上げてみると。

そこには昨日会った少年が居た。

金色の美しい髪に、海のような深い青色の瞳。

透けるような白い肌に似合わない、痛々しそうな両腕の包帯。

すごく印象に残っている少年の姿がそこにはあった。

「アー! マタヤッテシマタ! 本当、ソーリーキシヤ!」

そう言って少年――バジルは頭を下げて来る。

少し、頭を下げ過ぎて前に倒れてしまうのではないのかと思うほどに。

倒れたらきっと、手を付いて立ち上がれないだろうと思い、バジルが倒れないようにと思って李哉は言う。

「いや、いいんだよ…。だから頭を上げて。ね?」

まだ踏まれたダメージが抜けず、少し顔を痛みで歪ませながらもそう言った。

するとバジルは頭を上げてくれたのだが。

少し悲しそうな表情をして口を開く。

「イツキカラ逃ゲテル時、周リ見テナイ……」

「大丈夫だよ。バジル君は悪くないから。俺がこんな所にいるのが悪いんだよ」

李哉はバジルを安心させるためにバジルに笑顔を向けた。

バジルはまだ申し訳無さそうな表情をしていたが。

李哉の顔を見てにっこりと笑ってくれた。

そしてバジルは気になったのか、李哉に聞いてくる。

「キシヤ、ドシテ床ニ寝テルカ?」

「これは寝てるんじゃなくて、匍匐前進をしてるんだよ」

「ホフク、ゼンシン……?」

バジルは不思議そうに首を傾げてみせる。

そんなバジルの頭の上には今にも大きなクエスチョンマークが出て来そうで、少し笑えてしまう。

あまり日本語を知らないバジルには、わからないのだろう。

ならば、匍匐前進とは何かを教えなければならない。

教えてあげようとは思うのだが、どうやって説明していいかわからず――

それでも必死に教えてあげようと思って口を開く。

「えっと…腕の力だけで床を這って移動する事を匍匐前進って言うんだよ」

そう言って、李哉は少し匍匐前進をして前に進んでみせる。

不思議と両腕や顔、脇腹の痛みが引いたような気がした。

そのおかげで前に進む事が出来た。

「こうやって、進むんだよ」

そう言って少し後ろにいるバジルに声を掛ける。

するとバジルは珍しいものでも見たかのように嬉しそうな顔をする。

そして李哉の隣に走って寄って来て、少し興奮しながら聞いてきた。

「ジャ、ドシテキシヤホフクゼンシンシテルカ?」

「歩くためだよ」

「歩ク……タメ?」

やはりバジルは首を傾げて、頭の上にクエスチョンマークが出て来そうで少し微笑ましい気持ちになる。

まるでバジルは何も知らない小さな子供のようで、バジルが聞く事は全部教えてあげたいと思う。

「そうだよ。俺の場合は歩くためには匍匐前進からしないといけないんだ」

「ヘェ……ア、ゴメン。モウ行クヨ。イツキガ来ルカラ」

そう言うとバジルは「マタ!」と言って走り去って行く。

だが――

少し離れた所で足を止めて、李哉の方を振り返った。

それを李哉が見ていると。

バジルは満面の笑みで李哉に向かって左手をぶんぶんと振り回した。

その姿を見て思わず李哉は笑ってしまい、李哉も左手で手を振って返す。

するとバジルは嬉しそうに笑って、走って行ってしまった。

そんな、バジルと仲良くなった日の事。

李哉はもっと早く足が治るように祈っていた。

早く退院出来る事を祈っていた――










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