青春スクエア ~柳葉李哉の片思い~ 小学生編11
突然、翼と逢えなくなった。
そして翼は病院に毎日来ているというのに、逢いに来てはくれない。
李哉にはその理由がわからなかった。
だから聞きたかった。
翼に直接逢って、その理由を聞きたかった。
これから翼と逢えないと言うのならば、自ら翼に逢いに行くまでだ。
藤森先生達が頑張って繋いでくれたこの足で翼の元へ行く。
翼と、並べるようになりたい。
並んで歩けるようになりたい。
それは、実際にでも。
心の距離でもだ。
立って歩けるようになるのが一番なのだが。
とりあえず、今の目標はそれだ。
翼に逢うまでに立って歩けるようになるのが、今の目標だ。
そう強く心に誓い――
翌日から李哉は掴まり立ちを始めた。
朝食を食べ終えてすぐに病室から匍匐前進で出て行き。
廊下にある手摺りにしがみ付いて、リハビリ室へと向かう。
立つ練習をする時はリハビリ室へ行くようにと藤森先生に言われたからだ。
李哉は匍匐前進でリハビリ室へと行くのではなく、少しでも早く立てるようになりたかったので手摺りに頼りながら向かう。
だが、立つ事が出来ないので結局は両膝を引き摺ってリハビリ室へ行くしかなかった。
そしてリハビリ室へ着き、立つ練習をするのだが――
やはり立つ事が出来ない。
抜糸の後に左足をギブスで固めてもらったので床に足を付いてもいいと言われた。
もう立ってもいいと言われたのだが。
どうしても地に足を付く事が怖く思ってしまうのだ。
その上に。
まだ腕の力が弱く、自分の身体を持ち上げるほどの筋力がないために。
手摺りにただ縋り付いているという現状だった。
そんな自分が情けない。
一週間以内には立てるようになりたい。
いや、五日以内にだ。
そう思いながら李哉は必死に立とうとしていた。
無理をして手摺りにしがみ付いて右足だけでも付こうと試みる。
だが――
足に力が入らず、そのまま倒れてしまう。
その時に床で頭を打ってしまった。
「つ~…」
左手で打った場所を擦るが。
すぐにまた手摺りにしがみ付いて立つ練習を始める。
すると――
「待てゴラァ!!」
「タスケテェ~~~!!!!」
バジルの声と、誰かが走って来る足音が廊下の方から聞こえた。
やはり反射的に身体が身構えてしまう。
手摺りにしがみ付いたまま身体を強張らせていると――
「ア、キシヤ。パジャマ違ッタカラスグワカラナカッタヨ」
バジルが李哉の姿を見つけ、リハビリ室の出入り口で立ち止まって声を掛けたのだ。
バジルの息は荒かったのだが、いつもと同じ様子だったので安心した。
そこでようやく身体の緊張が解けた。
逆に力が抜けすぎてその場に座り込んでしまったのだが。
「うん。昨日抜糸したから掴まり立ちの練習していたんだ」
「モウ抜糸シタノカ!」
「ほら、ギブス巻いてもらったよ」
そう言って李哉はギブスをしている左足をバジルに見せた。
バジルは最初驚いた様子だったが。
少し嬉しそうな表情をして口を開いた。
「足、治ッテイッテルンダ。良カッタナ、キシヤ」
「うん、ありがとうバジル」
その時。
バジルの背後から途轍もない殺気のようなものを感じた。
背筋が寒くなり、一体何が来たのかと思っていると――
「ば~じ~る~くぅ~ん~? 日本語のお勉強サボってなぁにをしてるのかなぁ~~~?」
その声を聞いてバジルがまるでネジを回すかのように。
ギギギ、と音が出そうな雰囲気で首を回して背後に立つその人物を見つめた。
バジルの顔が、物凄く青褪めていた。
李哉からはバジルに被ってその人物の姿が見えない。
それに、その人物が誰なのかもわからない。
「おいテメェ、そこで何してんだよ。早くこっち来いや。逃げた分今日は二時間延長で」
「ソンナ馬鹿ナァ!」
「逃げたテメェが悪ィんだろうが!!」
物凄く、ドスの聞いた声。
もしかして、こんなにもバジルが怯えていると言う事は――
この人物がイツキなのだろうか。
やはり想像していた通りに怖い人のようだ。
そしてバジルが犬のように怯えている。
きっと犬のしっぽや耳が見えたとしたら……。
耳は垂れており、しっぽは丸まっているのだろうと思う。
そして、李哉はこの状況をどうしていいのかがわからなかった。
「キ……キシヤァ! 助ケテヨォ~!」
そう言ってバジルが抱き付いて来た。
バジルは前から抱き付いて来て、李哉を離すまいと必死に抱き付いている。
そのおかげでバジルしか見えない。
どうやら、バジルも李哉も逃げられないようだ。
李哉がこの状況をどうしようかと考えていると――
「テメェ……いい加減にしやがれ!!」
そう言うと恐らくイツキらしい人物はバジルの服の襟を掴んで無理矢理バジルを李哉から引き離した。
バジルはそれでもジタバタと暴れてまだ逃げようとしている様子だった。
そんな様子のバジルに。
「もう逃がさねェぞこの野郎……」
「キシヤァ~……」
そこでようやく、イツキらしき人物の顔が見えた。
李哉はその人物の顔を見て驚いてしまった。
それは、イツキという人物が想像していたのと全く違っていたからだ。
「モウ! 逃ゲナイカラ放シテヨォ!」
「嘘付くんじゃねェよ。そう言ってテメェ、何回逃げたと思ってんだ? アァ? 今日こそ、そのムカつくカタコトを終わらせてやる」
そう、イツキは――
茶髪の、まるで雲のようにふわふわとした髪が肩に掛かるくらいの長さで。
茶色の瞳。
目付きは李哉の想像通りにすごく鋭かったが。
「じゃ、病室に戻んぞ」
「嫌ダァ!」
そう言ってバジルを引き摺って行こうとする人物は何処からどう見ても――
女の子だった。
声はドスを効かせていたから男のように聞こえたのだろう。
李哉の想像していたイツキと言う人物は。
目付きの鋭い、男だと思っていたのだ。
なので、女性だと知って驚いたのだ。
だが、やはり想像通りに怖い人には変わりなかった。
バジルを連れて行こうとしたイツキと、目が合った。
イツキは李哉の顔を見て今ようやく李哉の存在に気付いたような顔をした。
「キシヤァ、助ケテヨ~」
そう言われても、どうやって助けていいのかわからない。
それ以前に、イツキに逆らえる気がしない。
今回ばかりは助けられそうにないと思っていると。
「ああ、アンタがバジルの言ってたキシヤって人か」
イツキが口を開いてそう言った。
これは、自己紹介をしなくてはいけないのだろうか。
そう思い、李哉はほとんど反射的に自己紹介をしていた。
「初めまして…。柳葉李哉、です」
「おお。アタシは亜麻野樹姫。よろしく」
そう言ってイツキ――
いや、樹姫は小さく会釈してそのままバジルを引き摺って行ってしまった。
まるで、嵐が去ったかのような静けさに李哉は呆気に取られた。
それにまさかイツキが女性だったとは。
その事が一番の衝撃だった。
とても少し前までは体調が良くなかった人とは思えない。
すごく元気そうで丈夫そうな人だった。
そしてこちらに必死に助けの手を求めて伸ばしているバジルの手を見て李哉は一言。
「――バジル。ごめん」
謝る事しか出来なかった。
そして、立つための練習をするしかなかった。
ここはあえて、何事もなかったかのように練習をするべきなのかと。
少し疑問に思った李哉でもあった。
――遠くから、声が聞こえる。
李哉の名前を呼ぶ、誰かの声が。
「誰…?」
その声が、懐かしく思える。
誰かと思いながらその声が誰のものかと思い出そうとする。
「――――李哉」
ハッキリと、その人物の声が聞こえて李哉は反射的に飛び起きる。
そして嬉しさのあまりに涙が出そうになった。
もしかしたら、涙が出ていたのかもしれないが。
「――翼」
「李哉、ごめん。今まで来れなくて」
「ううん、いいんだ。翼が来てくれただけで」
嬉しい、愛しい。
嬉しさのあまりに翼に想いを告げてしまいそうだ――
気が付くと李哉は無意識に翼に向かって左手を伸ばしていた。
翼はいつものように優しく微笑んでいる。
翼に、触れたい。
出来る事ならば、抱き締めたい。
伸ばしていた手が翼に触れそうになった時。
いつの間にか開いていた窓から強い風が病室に入り込んで来た。
そして風はカーテンを大きく揺らし、李哉の視界を覆う。
「ッ…!」
思わず目を閉じてしまい、伸ばしていた手も引いてしまった。
しばらくして風が止み、カーテンの動きが落ち着いた時に目を開けてみると――
そこには翼の姿が何処にも無かった。
「…翼?」
辺りを見回してみても、翼は何処にも居ない。
先程まで目の前に居たというのに。
李哉の中に恐怖が渦を巻く。
もしかして翼は、もうこの世界の何処にも居ないのでは……?
そう思うと怖くて堪らない。
「め、ぐみ…」
気が付くと、涙が頬を伝う。
胸が酷く、痛む。
「翼ぃ!!」
李哉は悲痛な声で翼の名前を叫んだ。
どうかこの声が、翼に届けば良いと思い――
「ッ!!」
李哉は驚いて飛び起きる。
そしてすぐに辺りを見回す。
窓はちゃんと閉まっており、カーテンも綺麗に閉まっている。
それから高鳴っている心臓の鼓動を感じながら時計を見つめる。
そこでようやく気付く。
先程の事は夢なのだと――
(変な夢を見た…)
だが、夢であって良かったと安心している自分が何処かに居た。
きっとあんな夢を見たのは、翼に逢いたいと強く思っていたからだろう。
そう思いながら目を覚まそうとして目を擦ってみると。
目を擦った左手が濡れた。
「え…?」
驚いて右手でも右目を擦ってみると、やはり右手も濡れた。
どうなっているのかと思っていると。
「李哉君、朝ご飯――ど、どうしたの? 泣いたりして……!」
朝食を持って来たナースが驚いて、急に慌て始める。
ナースにそう言われて、初めて気付く。
どうやら眠りながら泣いていたようだった。
その事に気付いて李哉は涙を拭いながらナースに言う。
「大丈夫ですから。ちょっと、悲しい夢を見ただけなんで」
「本当に、大丈夫なの……?」
「心配しないでください。他には問題ないので」
そう言って李哉は笑ってみせる。
それでもナースは心配そうな表情をしていたのだが。
李哉は涙を拭っていつものように笑う。
今度は何も言わずに、ただ笑っていた。
そんな姿を見たナースはそれ以上追及せずに、朝食の用意をしてくれた。
そして李哉は朝食を食べる。
しかし、先程見た夢がどうしても頭から離れなかった。
もしもあのように翼が居なくなってしまったら。
そこまで考え、胸に痛みを感じて考える事をやめた。
止まっていた手を動かして朝食を食べ進め、今日も立つ練習をする事にした。
ナースに床へと降ろしてもらい、リハビリ室へと向かう。
手摺りにしがみ付き、両膝を引き摺りながら。
早く、立てるようになりたい。
立って、翼の元へ行きたい。
李哉はそう強く心に誓っていた。
しばらく移動し、リハビリ室の目と鼻の先で――
足早に歩く足音が聞こえてきた。
李哉はそれをナースか医者のものだと思い、特には気にしなかった。
だが。
「あ、アンタ昨日の――」
あまり聞き慣れない声が聞こえ、李哉は声の聞こえた方を見てみる。
李哉の視線の先に居たのは――
樹姫だった。
樹姫の姿を見て李哉は一瞬、どう対応していいのかわからなくなった。
どうやって声を掛けていいのかと困っていると。
「なぁ、バジルの野郎見なかったか?」
樹姫の方からそう言ってきた。
バジルの事を聞かれ、反射的に李哉は答える。
「え、バジル? 今日はまだ見てないけ――見てないですけど…」
李哉は一度、言葉を止めた。
その理由は樹姫に対して敬語を使うべきなのかどうか少し迷ったからだ。
結局、敬語にしたのだが。
樹姫は李哉の返事を聞いて軽く舌打ちをした。
その舌打ちに少し李哉は恐れを感じてしまった。
どうにも、樹姫の放つ殺気のようなものが怖い。
樹姫は少し辺りを見渡したながら呟く。
「くっそ……何処に行きやがったあのクソ野郎がァ……」
やはり、ドスを効かせて喋る樹姫は怖い。
だが、その感じる恐怖を表情に出すわけにはいかず。
李哉はただただ苦笑いをしているしかなかった。
「チッ……じゃ向こうの方か…。あの野郎見つけたら無理矢理連れ戻して消灯時間までみっちり勉強させてやる……!」
そう呟く樹姫の表情はまるで鬼のようだった。
恐ろしすぎてあまり顔が見られないほどに。
思わず樹姫から目を逸らしてしまうほどに。
「んじゃ、アタシ行くわ。バジルの野郎見つけたらすぐに言ってく――」
そう言って背を向けようとした樹姫は言葉を止め、李哉の背後のある一点を見つめた。
樹姫の視線の先が気になり、李哉も樹姫の見つめる先を見てみた。
振り返ってみると、そこにはバジルの姿があった。
何事もなかったかのように、平然と廊下を歩くバジルの姿が。
「やろっ……あんなとこに……」
そう呟くと樹姫はバジルに気付かれないようにしてバジルの背後へと回った。
バジルは、樹姫の存在に全く気付いていない様子だった。
李哉は心の中で必死にバジルに声を掛けていた。
早く逃げて、と。
しかし、李哉の声が届くわけもなく――
樹姫はバジルの真後ろに立った。
そして、バジルの頭を右手で掴んだのだ。
そこでようやくバジルは樹姫の存在に気付いた様子だった。
「おぉ~い? バ~ジルくぅ~ん? テメェ、こんなとこで何してくれちゃってんだァ? ああ゛?」
バジルはまるで機械のようにギギギ、と首を樹姫の方へと回した。
いや、回されたのかもしれないが。
バジルの表情が青褪めていた事は李哉のいた場所からでも確認出来た。
「ア……イヤ……アノ……サ、散歩ダヨ!」
「ほぉ~散歩、ねェ……」
「ソ、ソウダヨ……」
「人がせっかくお前のために日本語を教えてやろうとした時間に散歩、ねェ~」
そこまでは樹姫は大人しく。
だが、恐ろしいほどの威圧感は放っていたのだが。
声も明らかに怒りを表した声で喋っていたのだが。
女の子とは思えないドスの効かせた声で喋っていたのだが。
突然、堪忍袋の緒が切れたかのようにバジルを怒鳴り付けた。
「ふざけてんじゃねェぞゴラァ!!」
その上に樹姫はバジルの頭を思いっ切り左右に振り始めたのだ。
バジルはなんとか樹姫の手から逃れようとしていたのだが、どうやら樹姫の力が強いようで逃れられないようだった。
「アアッ! イツキ! 酔ウ! 酔ウヨォ!!」
「知るかァ! こっちゃ動き回って気分も機嫌も悪ィんだよ! 誰のせいだと思ってんだコノヤロー!!」
「ダカラゴメンヨォ!!」
そんなバジルの姿を見て、李哉はバジルに同情する。
だが、今の李哉にはどうする事も出来ない。
少し離れた場所に居るバジルを助ける事が出来ない。
やがて、バジルの頭を掴んで振っていた樹姫はバジルを解放した。
バジルは解放されて安心したようだったが、頭を振られたせいで軽く酔った様子だった。
だが、そんなバジルにお構いなく――
そのままバジルの右耳を引っ張って樹姫はバジルを引き摺りながら歩く。
「イダダダダ!!! 痛イヨォ!! シ、死ヌカラ!! 千切レルヨ!!」
「こっちの方が何倍も死にそうだわ!! テメェこそアタシを殺す気か!!」
そう怒鳴り付けながらも樹姫はバジルを無理矢理連れて行った。
またもや李哉はバジルの連れて行かれる姿を見ているしかなかったのだった――
翌日、本日もまた李哉は掴まり立ちの練習をリハビリ室にてしていた。
必死に立とうとするのだが、やはり足に力が入らずに膝や肘、顎――時には頭などを倒れる際に床に打ち付けてしまう。
それを見ていた、リハビリ室に居た医師が李哉を起こそうとするのだが。
李哉はそれを拒み、自分の力で起き上がってもう一度立つ練習に挑戦していた。
そしてまたも顎を打ち、そのダメージに耐えていると。
「李哉君、頑張ってるね」
聞き慣れた、優しい声が聞こえて李哉はすぐに声のした方へ顔を向けた。
李哉の視線の先にはやはり藤森先生が居た。
藤森先生は優しく微笑み、李哉の元へ来てくれる。
李哉の元へ来ると藤森先生は屈んで、李哉と同じ目線になって話をしてくれる。
「藤森先生」
「――頭とか、打ってない?」
藤森先生が心配そうに李哉の頭を撫でながら聞いてきた。
ここは、やはり正直に答えた方がいいだろう。
そう思いながら、李哉は素直に答える。
だが、素直に言ったら怒られるかもしれないと少し思いながらも恐る恐る答えた。
「えっと…さっき、軽く…打ちました…」
「頭は気を付けてね。基本的に頭を打つ事は良くないからね。打った時に脳に傷が付くかもしれないから。それに、李哉君の場合はすごく危ないから特に気を付けるんだよ?」
「はい、わかりました…」
藤森先生にそう言われ、李哉は少し悲しげな表情でそう言うと。
藤森先生はすごく心配そうな表情をしていたが、すぐにいつもの優しい表情に戻って李哉の頭から手を退ける。
それから優しく言ってくれた。
「でもこの様子だと退院までもうすぐだね」
「そうなんですか?」
「この調子ならもう少しで立てるようになると思うからね。だから、もう少しだから頑張ってね」
そう言ってくれると藤森先生はもう一度李哉の頭に触れた。
先程はただ頭を撫でてくれただけだったが、今度は先程軽く打った場所を優しく撫でてくれた。
藤森先生のその優しさが、すごく嬉しかった。
「ああ、それから……。李哉君、バジル君と樹姫ちゃんとは仲が良いのかな?」
「バジルとの仲は藤森先生はもう知ってると思いますよ」
「それもそうだね」
藤森先生は小さく笑いながらそう言う。
李哉の頭から手を引いて、腕を組んでから藤森先生は少し考えるような素振りを見せる。
少しして、藤森先生は李哉に聞いてきた。
「じゃあ樹姫ちゃんと拓海君とは、どう?」
「樹姫さんは…ちょっと苦手、です…」
李哉は樹姫の事を思い出して、少し恐怖を感じた。
やはり、あの人は李哉にとって怖い人という認識があった。
それを聞いた藤森先生が歯を見せて笑う姿が見えた。
「あははっ…まさか怒った時しか逢った事ないかな?」
「はい…」
「じゃあ、そう思うのも仕方ないかな。でも樹姫ちゃんは怒ってない時はすごく優しくて良い子だよ? 話せばすぐにわかると思うよ」
「はい。でも、その…。タクミさんとは逢った事も話した事もない、です…」
「ん~…拓海君は大人しい子だからね。問題はないと思うけど」
「とりあえず、怒っていない時の樹姫さんと逢う努力をします」
「あはははっ…! うん、じゃあ頑張ってね。でも、頑張り過ぎない程度に頑張って。無茶はしないようにね?」
そう言って藤森先生は爽やかな笑みを向けた。
そんな藤森先生に李哉は「はい」と答えた。
――よく考えてみると、このような藤森先生の表情を見た事がなかったので李哉は少し新鮮に思えた。
藤森先生は少しの間笑っていたが、笑いが収まると立ち上がり。
李哉に手を振ってから、リハビリ室から出て行った。
李哉は藤森先生に言われた事を糧にして頑張ろうと思った。
そして、また立つ練習を始めたのだった。
翌日。
朝食を食べ終えてすぐに李哉は廊下の手摺りにしがみ付き、下半身を引き摺りながら移動していた。
今日はいつものようにすぐにリハビリ室へ行くのではなく、トイレへと行こうとしていたのだ。
その後はやはりリハビリ室へと向かうのだが。
今まで匍匐前進でトイレまで行き、男性の医師に手伝ってもらって用を足していたのだが――
最近では身体を引き摺ってトイレへと行き、誰の助けも必要なく用を足せるようになった。
トイレへと行き、そのままリハビリ室へと向かう。
今日こそは立てるようになると、意気込んでから。
リハビリ室へ着き、すぐに立つ練習を始める。
だが……。
やはり足に力が入らず、立つ事は出来ずに倒れてしまった。
倒れそうになった時に藤森先生に言われた事を思い出し、反射的に頭を庇っていた。
それでもしばらく李哉は立つ練習をしていた。
もう少しで立てそうなのに立てない。
それが嫌だった。
右足に体重をゆっくりと乗せようとしたのだが。
足から力が抜けてしまい、結局倒れてしまった。
その際に肘を打ち、少し休憩をしようと思っていると。
「キシヤ、オハヨウ」
バジルの声が聞こえ、李哉はリハビリ室の出入り口を見つめる。
そこにはいつも通りのバジルの姿があった。
「あ、おはようバジル」
「ハァ……昨日ト一昨日ハ大変ダッタヨ。モウ地獄ダッタヨ、アレハ」
「昨日は逢わなかったけど、やっぱり樹姫さんと勉強を?」
「――ペナルティダヨ。一昨日逃ゲタ分ノ。一日中ズット勉強ダッタヨ……。病室ニアル物ガ全部飛ンデ行ッチャッタ…。割レル物無クテ良カッタヨ、本当ニ。デモタクミノ週刊誌ハ効イタヨ。アレハ痛カッタァ~……」
そんな事を無邪気に言いながらバジルは頭を擦る――
動作をしていた。
バジルは手に包帯を巻いているので、実際に擦る事は出来ない。
それを自分でわかっているからだろう。
バジルはその動作しかしない。
だが、バジルは基本的に喋る時に何かを現す動作をするのであまり気にならないが。
やはり、擦る動作は出来た方がいいだろうなとは思っていた。
するとバジルが少し悲しげに呟いた。
「……キシヤ、モウスグ退院カァ……。モウ三月ダヨ」
「そうだね」
「ソレニモウ立ツ練習シテルシ……」
「それがね、まだまだ立てないんだよ…」
「デモキシヤダッタラスグニ立テルヨウニナルヨ。ダッテ、匍匐前進モスグニ早クナッタヨ。ダカラ――」
そこまで言うと、バジルが悲しげな表情をして見せた。
李哉はすぐにバジルが何を言いたいのか理解出来た。
きっとバジルは――
『退院モスグダヨ。……本当ハ、寂シインダ』
少なくとも、それは今李哉が思っている事だった。
バジルが何も言わないのならば大丈夫だとバジルが安心する言葉を掛けようとして李哉が口を開こうとした時。
李哉が口を開くよりも先にバジルの声が聞こえてきた。
「ダカラ――頑張レヨ、キシヤ!」
バジルはまるで向日葵のように笑って、そう言ってくれた。
バジルの優しさが嬉しく、李哉はやはり――
「ありがとう、バジル。うん、頑張るからね」
そう言って左手を伸ばし。
バジルの頭を優しく撫でていた。
そうするとバジルはやはり嬉しそうに、無邪気に笑った。
そんなバジルの顔を見て李哉もつられて笑っていた。
その後、昼食の時間になったのでバジルと別れて一度病室へと戻った。
するとそこには。
最近ではあまり病室に訪れなくなった梅の姿があった。
久々に逢う梅の姿を見て李哉は最初驚いた。
「久しぶり、おばあちゃん。逢いに来てくれたんだね」
「それとね、ちょっと李哉に渡したい物があってね」
「渡したい物?」
ナースにベットの上へと上げてもらってそう聞くと。
病室の扉がノックされ、丁度他のナースが昼食を持って来た所だった。
ベットのジャッジを上げてもらい、食台をベットの上にスライドしてもらった。
その間、李哉は梅が喋るのを待っていたのだが梅は喋らず――
ナースが病室から出て行った後に、梅がようやく口を開いた。
「先にご飯を食べなさい。その後に渡すから」
「うん…」
李哉は少し気にはなったが、先に昼食を食べろと言われたので言われた通りにする。
昼食を食べながら、李哉は梅と色んな事を話した。
樹姫の事や、梅が来なかった間にあった事などを報告のように話していた。
李哉が楽しそうに話すと、梅も嬉しそうに李哉の話を聞いてくれる。
だが、梅は翼の事については全く触れて来なかった。
きっと梅はすごく察しの良い人なのだろう。
李哉が話題の中に一度も翼の話を出さなかったからだろう。
何かあったのだと、悟ってくれたのだろう。
その事に李哉は声には出さないが、心中で感謝の言葉を言う。
やがて、昼食を食べ終え。
李哉は改めて梅に聞く。
「おばあちゃん。渡したい物って、何?」
「それはね……これだよ」
そう言って梅は大きな紙袋を一つ、取り出した。
多分、李哉からは見えないようにベットの下辺りに置いていたのだろう。
梅は大きな紙袋を取り出し、それを李哉に渡してくれた。
李哉は渡された大きな紙袋をしばらく見つめ――
「中身、見ても良い?」
「もちろんだとも」
そう言われて李哉は大きな紙袋の中身を見てみる。
大きな紙袋の中に入っていた物は――
李哉はそれを見て、驚きのあまりに声が出なくなった。
そう、紙袋の中にはヘルメットと肘と膝用のサポーターが入っていたのだ。
「昨日ね、藤森先生から電話があってね。危ないからこういう物があった方が良いって言ってくれたんだ」
「ありがとう、おばあちゃん!」
藤森先生は本当に人をよく見ていて、気遣いが凄く良い。
藤森先生の気遣いも嬉しかったが。
何よりも梅がこのようにしてヘルメットなどを買ってくれた事が何よりも嬉しい。
だが、結局は藤森先生のおかげで買ってもらえたので今度逢ったらお礼を言おうと思った。
そこで、李哉は気付けたような気がした。
李哉は、色んな人に支えられて今ここに居るのだと。
そう気付けたような気がした。
それは多分、これから先もそうなのではないのだろうか。
退院した後こそ、一番それを感じられるのではないか。
李哉はそんな事を考えていた――
~To be continued~




