青春スクエア ~柳葉李哉の片思い~ 小学生編10
本日もまた、李哉は匍匐前進の練習をしていた。
早く歩けるために李哉は頑張っていた。
早く退院して、翼と同じ中学校に通えるようになりたい。
李哉はそう思っていた。
最近では結構早く匍匐前進が出来るようになっていた。
初めて匍匐前進をした時とは比べ物にならないほどに速くなっていた。
日に日に匍匐前進が速くなり。
日に日に李哉も成長して、足も治っていっていた。
今日も匍匐前進をしてリハビリ室まで行き、行って帰る。
だが最近では一つだけ変わった事がある。
最近ではリハビリ室から病室に帰る事をニ往復している。
朝食を食べ終えるとリハビリ室まで行き、昼食になったら帰る――
今まではそれだけで終えていたのだが。
最近では昼食を食べ終えた後にもまたもう一度リハビリ室へと行き、病室に戻るようになっていた。
そのおかげで、今では速く匍匐前進が出来るようになった。
それを嬉しく思う反面、少し寂しくも思い始めていた。
自分の足が治っていけばいくほど、この病院にはもう少ししか居れない。
藤森先生と話せるのも、バジルと話せるのも――
「キシヤ! 今日モ頑張ッテルネ!」
不意にバジルの声が聞こえ、匍匐前進をやめてバジルの方を見てみる。
バジルの方を見てみると、いつものように元気なバジルの姿がそこにはあった。
だが、どうやら今日は走って来てはいない様子だった。
「バジル。今日はイツキから逃げてないんだね?」
「ウン……。イツキ、今日ハ体調良クナイカラ……」
珍しくバジルが悲しそうに、元気なくそう言った。
確かに、同じ部屋にいる人の体調が悪くて喜ぶ人は居ない。
「イツキ、体調悪いの…?」
「ダカラ今日ハ日本語、教エテモラエナイ……」
バジルは少し悲しげにそう口にした。
李哉はまた匍匐前進を再開し、匍匐前進をしながらバジルの話を聞いていた。
悲しげなバジルに李哉はどうやって声を掛ければいいのかわからなかった。
だが、声を掛けなくてはいけないと思うのだが――
バジルに掛ける言葉が見当たらなかった。
どんな言葉を掛けようかと思考を巡らせていると。
不意にバジルが立ち止まり。
まるで向日葵のようにパッと明るく笑って言い出した。
「キシヤ! 日本語教エテ!」
「えっ!?」
驚きのあまりに李哉は声を上げてしまった。
その上に匍匐前進もやめてしまっていた。
そして李哉が驚いていると――
バジルは嬉しそうに笑いながら口を開く。
「ボク、キシヤニ日本語教エテモライタイ!」
柴犬のようなバジルを見ると、どうしても断れない。
寧ろ、バジルに自分の知っている事を全て教えてあげたいとさえ思う。
嬉しそうな――期待の眼差しで見つめられ。
李哉は断る事など出来なかった。
「えっと…。まぁ、いいかな」
「オオ! アリガトキシヤ!」
「お礼なんていいよ」
という事で、李哉はバジルに日本語を教える事になった。
ついでに言えば、休憩も含んで李哉は匍匐前進をやめて壁に寄り掛かってバジルに日本語を教える事にした。
そこで、ふと疑問に思う。
バジルはどんな日本語を教えて欲しいのだろうか。
どちらかというと、バジルは日本語を知っていると思う。
李哉がどんな日本語を教えればいいのかとバジルに聞こうとした時。
「ソレデキシヤ。〝アメ〟って二ツアルヨネ? アレッテ、ドウ違ウ?」
「ああ…飴玉のアメと降って来る雨の事?」
「ソウ。上手ク言エナクテ昨日、イツキニ怒ラレタ」
「う~ん…やっぱり日本語の発音って、聴いて覚えるのが一番良いと思うんだけど…」
「イツキ、イツモソウ。聴いて覚エサセテクレル。デモ、三回デ覚エナイト怒ラレル。三回以上ニナルト殴ラレル。ソウジャナカッタラ、物ガ飛ンデ来ルヨ」
「それは…大変、だね…」
バジルから聞くイツキと言う人物は、少し――
いや、かなり怖い人物だと想像してしまう。
それでもバジルはそんなイツキに懐いているのだから、イツキと言う人は良い人なのだろう。
しかもバジルが上手く日本語を喋れなかった時などはすごい怒るのに、ちゃんと毎回日本語を教えてくれるのだから良い人なのだろう。
それにバジルの言う日本語はどうやら日本語そのものではなく、発音の方のようだった。
「ジャア、頼ンデモイイ?」
「いいよ。飴玉の方は言えてるから降る雨の方だね」
「ウン!」
「じゃあ――雨」
「アメ」
「雨」
「アメ?」
「雨ね」
「アメ……」
「雨」
「ア……雨」
「お、言えたよ」
「雨! コレデイイカ?」
「うん。上手上手」
李哉は拍手をしながら優しく微笑む。
するとバジルは嬉しそうに、無邪気に笑う。
少し、飛び跳ねながらバジルは言う。
「ヤッタ! 言エタヨ!」
「他には、教えて欲しい発音の日本語はある?」
「アア、アルヨ。有ル無シノ有リト虫ノアリ」
「じゃあ虫の方が言えてないから教えてあげるね」
「ウン。ヨロシク」
「じゃあ…蟻」
「アリ」
「蟻」
「アリ」
「蟻」
「アリ……?」
「蟻」
「蟻!」
「そうそう! バジル上手だよ!」
バジルは李哉が褒めると嬉しそうに笑い、軽く飛び跳ねて喜ぶ。
その姿が本当に犬のようだ。
バジルはしばらく飛び跳ねていると。
李哉の方を見てガッツポーズをして左腕を少し李哉に向けて突き出して言う。
「ダッテ、スパルタナイツキニ鍛エラレテルカラナ!」
そう言ってバジルは無邪気に笑っていた。
その後も同じ言葉でも発音の違う日本語を教えてあげた。
昼食の時間になるまでバジルに日本語を教えてあげ。
昼食の時間になり、バジルが自分の病室に戻って行くとすぐにリハビリ室へと匍匐前進をして行き――
そのまま病室へと戻って行った。
いつもより数分遅れてしまったが、それでもかなり速く動けるようになった。
前回のようにベットの上に上がれない事がないようにナースステーションで声を掛けてから病室へと戻って来た。
するとナースが一緒に病室まで付いて来てくれて、病室に戻るとベットの上に寝かせてくれた。
そして昼食を食べるとまたすぐにベットから降りてリハビリ室へと行く。
夕方、翼の来る時間までには病室に戻る。
今日もそのメニューだった。
だが、最近では身体が慣れてバジルと話をしても時間内にはリハビリ室へ行って病室へ戻る事が出来るようになったので少し匍匐前進の距離を伸ばそうかと考えていた。
リハビリ室の少し先には小児科の病棟があり、明日の昼はそこまで行ってみようかと思い始めた。
夕方になり、李哉は自分の病室に戻っていた。
翼の来る時間には既に病室に戻り、ベットの上に横になっていた。
翼が来るまでの間、李哉は両肘を見てみる。
今では赤黒くなり、痛みがあるのだろうが感覚が麻痺してもう痛みを感じない。
最近では折れていない右足までもが痛くなっている始末だ。
そして着ていたパジャマは両肘の所が完全に破けてしまい、腕が丸見えの状態になっていた。
こんなになっても頑張れる理由はただ一つ。
翼と一緒にいるためだと思えば、どんな事でも耐えられる。
だから、翼と逢えると思うとこの待ち時間だって耐えられる。
翼に逢えるのならば、耐えられる。
そんな事を思いながら李哉は翼を待っていた。
だが、やはり待ち時間が長い。
その時間をなんとか潰そうと思い、李哉は翼の貸してくれた本に手を伸ばす。
本の表紙をなぞりながら少し思う。
翼の読んだ本を全て読んで翼と並びたい。
たくさんの知識を手に入れて、翼と同じ難しい話題を話せるようになりたい。
今はまだ、翼がお勧めしてくれる本を読む事しか出来ないが。
退院してからは少しずつで良い、翼の読んでいる難しい本も読むようにしたい。
そんな事を考えていると――
病室の扉が、静かにノックされた。
静かなノック音が誰のものかすぐにわかり、翼が来たのだとすぐにわかる。
「はい、どうぞ」
李哉が答えると、翼が静かに病室の扉を開けて入って来た。
翼は李哉の顔を見て、それから李哉の手の中にある本に視線を落として少し微笑んだ。
そして優しく聞いて来る。
「その本、読み終わった?」
「あ、まだ…なんだけど…」
「なら、その本李哉にあげるよ」
「え、いいの!?」
「また新しいの買うから大丈夫。それ、あげるから。良かったらまたあげるよ。今俺の家、本の置き場がなくて少し困ってるから」
「そうなんだ」
「売りたくもないし、かと言って捨てるなんて行為は必死に寝る間も惜しんで書いて本を作った作家や編集者達を侮辱する行為だから出来るわけないし――」
そう言って翼は少し頭を抱え込む。
その話を聞いて、翼が本当に本が好きで大切にしているのがよくわかる。
それに、翼が本を大切にしている事は今李哉の手の中にある本を見ればすぐにわかった。
今、李哉の手の中にある翼の本はまるで買ったばかりの新品の本――
いや、これは完全に新品の本だ。
しかし、前にこの本はどれくらい前に買ったのかと聞いた時に翼は。
『四年前に買った本。すごく気に入ってるから保存環境は良くしてた本なんだ』
そんなに気に入っていた本を、本当にもらってもいいのだろうか。
本当にそう思うほど翼は本を大切にしている。
それは、李哉が一番良く知っている。
「ありがとう。翼」
「いいって。今度またあげるから」
そう言って、翼は優しい笑みを李哉に向けてくれる。
その笑みを見ると、胸がときめく。
それから少し翼は今気に入ってる本の内容を少し話してくれた。
その本を今度持って来て李哉にくれると言う。
李哉はそれを楽しみにする事にした。
「それで、李哉。今日はどんな事があった?」
「ああ、俺は今日ね。バジルに日本語教えてあげてたんだ」
「そうか。李哉もバジル君に……」
「って事は、翼も?」
「樹姫の体調が悪い時とか、よく教えてたんだ。今でもたまに教えてる。バジルは俺から難しい言葉とか覚えてるんだよ」
「ああ~、なるほど…」
『一度アル事ハ二度アル。二度アル事ハ三度アル』
確かに、翼に教えてもらった言葉だと思う。
翼もバジルに日本語を教えていた事を知り、少し親近感が湧いた気がする。
そんな、李哉にとっては一時の癒しの時間。
翼との楽しい時間。
貴重な翼との時間を李哉は翼と過ごした――
翌日も李哉は朝食を食べ終えるとリハビリ室へと移動していた。
だがその日はバジルといつも逢う場所で逢えなかった。
今日はバジルとは逢えないのかと思いながらもリハビリ室へと向かっているとリハビリ室の目と鼻の先で――
足音が後方から聞こえて来た。
その足音を身体が覚えており、反射的に身構える。
だが。
「オー、キシヤ。大分速ク移動出来ルヨウニナッタナ」
いつもと同じバジルの元気な声が聞こえて李哉の前にバジルがやって来た。
そして気付く。
もう踏まれる事はないのだと。
その事に安心しながらもバジルに褒めてもらえたのでとりあえず礼は言う。
「ありがとう。バジル」
「速過ギテイツモ会エル場所デ会エナカッタラ驚イタヨ。本当ニ速ク動ケルヨウニナッタナ。キシヤ……」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
そんな風にバジルに返して、李哉は匍匐前進を始める。
最初はバジルが李哉のペースに合わせて歩いてくれ。
その次は李哉がバジルのペースに合わせて匍匐前進をして。
今ではバジルの方が李哉の後を小走りで追い掛けるようになっていた。
すると小走りで二歩ほど李哉の後ろを走っていたバジルが口を開いた。
「ソウイエバ。キシヤハ何歳? 聞クノ忘レテタケド……」
李哉は匍匐前進をしながら、バジルの質問に答える。
最初の頃はそんな事は出来なかったのだが、今では出来るようになっていた。
「俺? 俺は十二歳だよ」
「ジャア、年上ダ。ボク十一歳ダカラ」
「そうなんだ。あー…でも年下な感じは確かにするね…」
「ソレ、ドウイウ意味?」
バジルの声が聞こえたのと同時に後ろを走っていたバジルの足音が聞こえなくなったので少し匍匐前進をやめる。
そしてバジルの振り返ってみると、バジルが頭の上にクエスチョンマークを浮かべそうな顔をして首を傾げている姿が見えた。
その姿を見て李哉は少し前から思った事を口にした。
「なんだかバジルって、子犬ってイメージがあるから」
「犬? ドウシテ?」
「人懐っこいし、可愛いし…。もうちょっとしたら犬の耳としっぽが見えそうだから」
「犬カ! ボク犬カ! ボク、犬好キダカラ嬉シイヨ!」
そう言ってバジルは嬉しそうな顔をして少し照れる。
そんなバジルの姿を見ていると――
バジルの頭の上に柴犬の耳としっぽが見えたような気がする。
一瞬、バジルがしっぽを振っているのが見えて少し目を擦ってもう一度バジルの姿を見てみる。
だが、バジルには犬の耳もしっぽも生えてはいなかった。
そんな錯覚が見えるほどにバジルは本当に犬のようだ。
「――今、犬の耳としっぽが見えた気がした…」
「本当!? 嬉シイ!」
そう言ってバジルは無邪気に笑う。
そんな姿を見ていると、藤森先生がバジルを犬扱いする理由がわかるような気がする。
確かに思わずバジルを犬扱いしたくなる衝動に少し駆られる。
「ソッカァ、キシヤ年上カァ……。ジャアキシヤノ事、ニィチャンッテ呼ンデモイイ?」
「え。俺そこまで年上じゃないけど…」
「ニィチャンッテ呼ビタイナ……」
そう言って少しバジルが悲しげな表情をした。
そしてまたもや見えた気がした。
バジルの耳としっぽが少し垂れている姿が。
その姿を見て、にぃちゃんと呼びたいのだとわかる。
どうしようかと少し李哉は迷う。
しかし、バジルとは一つしか年が違わない。
兄と呼ばれるほど離れてはいない。
だが、一つでも年上ならば兄と呼んでもいいのだろうか?
そう考え、少し気付いた。
李哉は一つ年上の知り合いがいないと言う事に。
年上はいるにはいる。
藤森先生や、梅と言った少し極端な年上が。
藤森先生は確かに何処からどう見てもお兄さんだが――
一つ年上と言うのは、どうなのだろうか……?
そう考えてみたが。
少し考えるのが面倒にもなって来たので李哉は答える。
「バジルの好きなように呼んでもいいよ。いつも通りに呼び捨てに呼んでくれてもいいし、にぃちゃんって呼んでくれてもいいから」
「本当!? ヤッタァ!」
そう言ってバジルは無邪気に笑う。
そしてバジルと一緒にリハビリ室へ行き、そこから更に小児科病棟まで行く。
匍匐前進の距離を伸ばす事にしたのだ。
その事に少しバジルは心配していたが、一緒に着いて来てくれた。
バジルと一緒に小児科病棟まで行き、病室まで戻る。
そこでもやはり実感した。
昼食の時間までには病室に戻る事が出来た。
その事に実感しながら、抜糸の日がもうすぐだと思う。
抜糸が済むともう掴まり立ちが出来ると前に翼が言っていた事を思い出す。
もうすぐ、立つ事が出来る。
その事が嬉しい。
そしてもうすぐ普通食が食べられる。
昼食の柔らかいご飯と温野菜を食べながらそう思っていた。
ふと、カレンダーが視界に入ってそこで初めて気付く。
今日が日曜日だという事に。
そして箸を止めて小さく呟く。
「そっか…。今日は翼と逢えないんだ」
そう呟いて、胸に少し寂しさが襲って来るのを感じた。
――たった。
たった、一日逢えないだけなのにすごく寂しい。
たった、一日話せないだけなのに。
いつの間に、自分はこんなにも欲張りな人間になってしまったのだろうか。
少しだけ、自分が汚い人間になってしまったように感じられた。
だが、自己嫌悪に陥るほど醜くは感じない。
いつの間にそうなってしまったのだろうかと、それだけだった。
それでも翼に逢えないという寂しさは消えない。
病室で一人。
李哉は翼と逢えない寂しさに耐えていた。
早く、明日が来ればいいのに。
明日になれば、翼と逢えるのに――
翌日の夕方。
今日はバジルとは逢わなかった。
きっと、イツキに日本語のスパルタ教育を受けていたのだろう。
それか――
イツキの様子を気にしてずっとイツキの傍にいたか。
優しくて犬のようなバジルならばずっとイツキの傍に付いていた事だろう。
イツキの体調が悪いと昨日言っていたのを思い出して少し心配する。
もしも、バジルの同室のイツキが死んでしまったら。
きっとバジルは悲しむだろう。
李哉はいつの間にかイツキが元気になる事を祈っていた。
祈りながら、翼のくれた本を手に取って読みながら翼が来るのを待っていた。
本のページを捲る度に、李哉は時計を見つめる。
だが、読んでいるうちに話の展開の方が気になり。
気が付いた時には――
もう翼の来る時間は既に過ぎていた。
そして時計を見て驚いた。
時計の針が指していた時間は六時だったからだ。
翼が来たなら、すぐに気付くはずだ。
例えどんなに本に夢中になっていたとしても。
翼が来た事に気付けないはずがない。
翼の静かなノック音に気付けないはずがない。
つまり――
翼は今日病室へは訪れなかった。
そういう事になる。
翼が来なかった事にショックを受けて、李哉は手にしていた本を閉じて布団の上に置いた。
そして冷静になって考えてみる。
今日翼が病室に来なかった理由を。
(…翼だって忙しいだろうし。そう、今日は忙しかったんだよ。忙しかったから来れなかった。そうに…決まってる…)
そう、自分に言い聞かせる。
だが、自分でも驚くほどにショックが大きかった。
翼が来なかっただけで、こんなにもショックを受ける。
逆に翼が何も言わないで来てくれた時は夢かと思うほどに嬉しい。
ただ、翼に逢えないだけなのに。
ただ、翼が来なかっただけなのに。
それだけなのに――
胸がすごい痛む。
その痛みを感じるほどに。
悲しくなっていってしまう――
翌日の事。
目が覚めても昨日の痛みがまだ胸を襲っていた。
その痛みに耐えながら。
その痛みを隠しながら。
朝食を食べ終え、いつものように匍匐前進をする。
今日こそは、翼に逢えると信じていた。
昨日はたまたま、来れなかっただけだ。
そう思いながら匍匐前進をしていると――
ズキン。
「ッ!」
両肘が、頬が。
脇腹が、膝が。
匍匐前進をして擦れた場所が酷く痛む。
今まで、痛みなんてあまり感じた事がないと言うのに。
(ああ…どうしよう…)
少し、目が涙で滲んでくる。
(今日だけは、痛みに耐えられないかもしれない…)
人に、弱音は吐きたくない。
人に、涙は見せたくない。
だけれど今は――
心が弱っているからだろう。
ちょっとした事で、すぐに涙が出て来そうになる。
(泣いちゃ、ダメだ…。ダメ…なのに…)
涙が零れそうになる。
すると。
「キシヤ、オハヨウ!」
バジルの声が聞こえた。
バジルの存在に気付き、少し顔を上げるのを躊躇った。
だが、顔を上げないと不審に思われる。
李哉は服の袖で目を拭って顔を上げた。
「おはよう、バジル。今日も元気そうだね」
「――――」
いつものように振舞ってそう返したのだが。
バジルは少し不思議そうに首を傾げて見せた。
「どうしたの? バジル」
「キシヤ、何カアッタノカ?」
「え…?」
バジルの言葉に、心臓が跳ねた。
見透かされてしまった。
その事に動揺しながらも李哉はいつも通りに振舞って聞いてみる。
「どうしてそう思うの?」
「ナンカキシヤ、悲シソウナ顔シテルヨ? 何カ悲シイ事デモアッタ?」
「――――」
バジルはきっと、自分にも自分の心にも素直だから人の嘘を見破る事が出来るのだろう。
それは、李哉にも当て嵌まる事なのだが。
どうしても李哉は翼への想いを他の人には知られたくなかった。
だからこれだけは、隠し通す。
この感情は、自分だけが知っていれば良い。
だから、嘘を口から吐くのだ。
「今日、ちょっと悲しい夢を見てね。そのせいだよ」
「ドンナ夢ダッタノ?」
「ん~…。記憶を失う前の記憶、かな…? よく覚えてないけど」
「記憶ヲ失ウ前ノ……記憶……?」
バジルが理解出来ないように首を傾げてみせる。
その姿を見て、少し気分が和らいだような気がする。
その事について感謝の言葉を言いたかったのだが。
バジルには自分が記憶喪失だと言う事は教えていなかったのを思い出す。
なのでとりあえずバジルには自分が記憶喪失なのだと言っておこうと思った。
「実は俺、記憶喪失なんだ」
「キオク、ソウシツ……?」
やはりバジルは不思議そうに首を傾げて見せた。
その姿に少し李哉は笑う。
廊下の端まで匍匐前進をしてバジルに記憶喪失について教えてあげる事にした。
と言っても、自分でも記憶喪失についてはそんなに詳しく知らないのだが。
翼から聞いた事を自分なりにまとめて、それをバジルに教える事にした。
「記憶喪失って言うのはね。記憶がないって事なんだ」
「記憶ガ、無イ?」
自分でも思う。
なんて、説明が下手なのだろうかと。
改善したいと思うのだが、どうやって改善して良いかもわからない。
とりあえず、自分なりに説明はしてみようと思う。
「バジル君には、子供の頃の記憶があるよね?」
「ウン」
「自分を育ててくれたお父さんやお母さんの顔も、家族の思い出もあるよね?」
「ウン。アルヨ」
「俺には、その記憶がないんだ」
「エ!?」
「俺は、自分を育ててくれたのが誰なのか。それ以前に俺を産んでくれた両親の顔が思い出せないんだ。それ所か、一緒に過ごした思い出も思い出せないんだ」
「ソレガ、キオクソウシツ?」
「そう。これも病気の一つなんだって。でも時間が経てば記憶も戻るんだって」
「ソウ、ナンダ……」
「だから俺は、この病院しか見た事ないんだ。記憶を失う前は外で色んな物を見て来たんだろうけど。今の俺は、この病院しか知らない。この病院から外に出た事がないんだ」
一度だけ、病院から出た事はある。
翼に車椅子を押してもらって出た時だ。
あの時見た光景しか知らない。
翼と見た、あの雪景色しか。
だが、本当の意味では。
確かに外の世界がどうなっているのかを李哉は知らない。
病院以外の世界はどんなものなのか、知らないのだ。
知っているとしても、それは翼から聞いた話や。
翼の貸してくれた本の世界で知ったぐらいだ。
本当の意味では李哉は外の世界を知らない。
この――
白一色の世界しか、知らないのだ。
「……キシヤ、コノ病院シカ知ラナインダ」
「うん。そうなるんだ」
「ソレッテ、悲シイナ」
「え…?」
「オ父サントオ母サンノ顔ヲ知ラナイナンテ。ソレニ、外モ知ラナイナンテ……」
「でも、それが今の俺なんだよ」
「キシヤ。ボクデ良カッタラ話聞クヨ? マダワカラナイ事バッカリダケド、頑張ッテ日本語タクサン覚エルカラ。ボク、キシヤノ事知リタイヨ」
バジルが、真剣に。
屈んで李哉と目線を合わせてから。
真っ直ぐと李哉の目を見てそう言ってくれた。
一瞬、李哉は驚いた。
バジルがそんな事を言い出すとは思っていなかったからだ。
バジルの言葉が嬉しく、李哉は思わず――
「ありがとう、バジル」
そう言って、バジルの頭を左手で撫でていた。
するとバジルは嬉しそうに、無邪気に笑う。
その笑顔を見て、救われた。
きっとバジルに逢わなかったら、泣いていた事だろう。
その事に対してのお礼も込めて李哉は〝ありがとう〟と言った。
それからは昼食で一度バジルと別れ。
昼食を食べ終わるとまたバジルと一緒に居た。
今日ほど、バジルが居てくれて助かる事はなかった。
夕方になり、李哉の病室の前までバジルは一緒に居てくれた。
「ジャアキシヤ、マタ明日!」
「うん。また明日ね」
李哉がそう言うとバジルは元気良く手を振って走り去って行く。
そんなバジルを見送ってから。
病室に戻り、ナースにベットの上に寝かせてもらう。
そして――
翼からもらった本を手にして翼が来るのを待つ。
今回は本の内容が全く頭の中には入って来なかった。
時計を見つめ、窓の外を見つめたり。
時間が経つのをひたすら待っていた。
だが。
やはり、翼は来なかった。
六時になり、完全に来ないと断定する。
どうして、今日も来なかったのだろうか?
(忙しいから…だよ。だから、来れないんだ…)
ズキン――
李哉は自分の胸を左手で押さえる。
「……痛い」
そこで李哉は気付く。
どんなに左足の痛みが酷くても。
両膝がどんなに痛くても。
この胸の痛みの方が遥かに痛いという事に。
きっと、今日泣きそうになったのはあまりにも胸の痛みが酷かったからだ。
ああ、なんて自分は――
「弱い、なぁ…」
ただ、逢えないだけで泣いてしまうなんて。
本当に自分は弱い。
もっと、強くならないといけない。
泣かないくらいに、強く――
李哉はそう思いながら、それでも翼を待っていた。
更に翌日。
これで今日も翼が来なかったら三日も逢ってない事になる。
今日こそは逢える事を祈りながら、李哉は匍匐前進をする。
もしも、今日逢えないとしても――
抜糸の日には顔を見たい。
今日逢えないのなら、抜糸の日に逢う事を願っていた。
そう思いながら、李哉は匍匐前進をやめる。
バジルと逢う場所にいつもより早く来てしまったからだ。
廊下の端まで匍匐前進をして、壁に凭れてバジルが来るのを待つ。
流石に抜糸の日が近付いているのでもう匍匐前進は速くなった。
抜糸が終われば次は掴まり立ちが出来る。
翼に聞いた事を思い出しながら、李哉は思う。
退院する時にはもう歩けるようになっていると。
そのためには抜糸してからは今以上に頑張ろうと考えていた。
「キシヤ、モウ速過ギルヨ! イツモ僕ガ遅レテルヨ。ソンナニ早ク移動出来ルッテ事ハ足、良クナッタノ?」
「うん。大分良くなってきたよ。もうすぐ抜糸するんだ」
「バッシ……?」
またもやバジルは不思議そうに首を傾げて見せる。
その姿を見てバジルが可愛いと思う。
(本当、子犬みたい…)
だが、自分も抜糸と聞いてバジルと同じような反応をしたのだと思う。
そして翼に同じように聞き返したのを思い出した。
少し笑ってから李哉は自分なりに抜糸についてバジルに説明してあげる。
下手な説明だが、なるべく理解してもらえるような説明を心掛ける。
「抜糸って言うのは、傷口を縫った時に使った糸を抜く事だよ」
「糸、抜イテイイノ?」
「うん。いいんだよ。もう傷口が塞がってるからね」
「ソウナンダ。バッシ、楽シミダネ!」
「うん。そうなんだ」
翼が来てくれたら、もっと楽しいのだろう。
頭の隅で、李哉はそんな事を考えていた。
きっと翼が傍に居てくれたら、頑張れる。
翼が傍に居たら、痛い事なんてない。
「僕ハマダマダ治リソウニナイナ……」
バジルの声が聞こえて李哉は我に返る。
一瞬、バジルが何を言ったのかがわからなかったが。
すぐに思い返して理解する。
そして、バジルの両腕を見てみる。
そこで、一つの疑問が頭に過ぎった。
――どうしてバジルは両腕に包帯を巻いているのだろうか。
その事について触れていいのか。
聞いてもいいのかと迷い――
思い切って聞いてみる事にした。
「そういえばバジルってどうして両腕に包帯を巻いてるの…?」
「アア、コレネ」
そう言ってバジルは自分の両腕を見つめる。
そして、とんでもない事を何気なく口にしたのだ。
「コレ、右腕ハ折レテテ。左手首ハ脱臼シタンダ」
「だ…脱臼!?」
「ソウ。脱臼。日本ニ来テスグ車デ事故シテ、右腕ハ挟ンデ折レテ。左手首ハ身体ヲ支エヨウトシテ手ヲ付イタ時ニ――」
「ごめん。もういいよ…。なんか、ごめん」
バジルは悲しむ様子でもなく。
ましてや痛がる様子でもなく。
ただ単に、本当にいつも通りにあった事を無邪気に語るので逆に聞かなかった方が良かったと思えてくる。
そんな痛々しい話を、そんなにあっさりと話されると逆に辛く思える。
だがバジルは不思議そうに首を傾げて聞いてくる。
「ドウシテキシヤガ謝ルノ?」
「だって…痛いでしょ? その時の事とか思い出して」
「ン~……。別ニ事故ノ事ハ思イ出サナイケド、マァヤッパリ痛イ。デモ、ソンナニ痛クナイカラ大丈夫」
「そう…」
バジルはにっこりと笑ってそう言うので、脱力してしまう。
心配して、損をしたと少し思ってしまったのだ。
バジルはやっぱりどんな事があっても通常営業なのだと改めて思う。
そうじゃない時は、余程心配な事がある時だけなのだろう。
前回のイツキの時のように。
そこで李哉はイツキの事を思い出した。
前回、バジルはイツキの体調が悪いと言っていた。
イツキは、無事なのだろうか?
「ねぇ、前にイツキの体調が悪いって言ってたけど…大丈夫なの?」
「ウン。モウ大丈夫ダヨ。僕ニ物ヲ投ゲラレルクライニハ回復シタカラ」
「そう、なんだ…」
だが、バジルの様子からして元気になったのはなんとくわかったのだが。
バジルはイツキの話題を出すと今日はどんな物を投げられた等と言い出した。
その話をあまり聞きたくなく、李哉は反射的に話題を変えようとしていた。
だがそれよりも先にバジルの方が話題を戻してくれた。
「――キシヤハ、イツ頃退院スルノ?」
突然話題を戻したので話題を変えようとした自分が少し馬鹿らしく思えた。
だが、聞かれた事はちゃんと答えなくてはいけない。
そう思うのだが、正確な日にちは答えられないので覚えている範囲で答える。
「多分、三月頃かな」
「イイナ。退院早ク出来テ。僕ハマダワカンナイヨ。ダケド、病院デミンナト話スノ楽シイカラ好キ」
「うん。俺もバジルと話すの好きだよ」
李哉がそう言うとバジルは満面の笑みを浮かべた。
バジルの笑顔に釣られて李哉も笑うと――
バジルが急に寂しそうな表情をして見せた。
その事を不思議に思い、李哉はバジルの顔を見る。
どうしたのかと聞こうとすると。
「デモ、キシヤガ退院スルノ――嫌ダナ。寂シクナル」
バジルはそう呟いた。
その言葉にも李哉は驚いた。
――最近のバジルは、自分の想いを伝えて来るようになった。
前まではそんな事は無かった。
少なくとも、このような事は言わなかった。
そこで、李哉は少し思う。
自分は日に日に回復していっている。
バジルは、日に日に成長していっている。
今の自分と違うのは、多分そこではないのだろうか。
今の李哉は多分、成長し切ってしまったのではないのだろうか。
李哉はそう思っていた。
「確かに寂しくなると思うけど…。それは良い事じゃないのかな。元気になって、病院に居る必要がないって事だから。それに、もう二度と逢えないってわけじゃないんだし」
李哉は思った事を素直に口にしてみた。
するとバジルはまだ寂しげな顔をしていたが。
少し頷いてから。
「ソウダヨネ。ジャア退院スル時ハスグニ言ッテヨ。見送ルカラ!」
「うん。退院する時は言うね」
「ジャ、約束」
そう言うとバジルは包帯を巻かれた左手を差し出して来た。
多分、指切りをしようとしているのだろうが。
バジルの小指は包帯で隠れてしまっていた。
李哉がどうすればいいのかわからずにいると。
「手、出シテ」
そう言われたので李哉は反射的に左手を差し出していた。
するとバジルはその手に自らの包帯に巻かれた手を当てた。
「約束、ダカラネ」
そう言ってバジルは微笑んだ。
バジルの手――
いや、包帯はかなり固く巻かれており肌には触れ合えなかったが。
バジルの想いや心など。
そういう見えないものには触れられたような気がした。
そして、二月二十六日。
抜糸の日がやって来た。
抜糸は午後からで、面会時間になるとすぐに梅が面会に来てくれた。
あの日から翼とは一度も逢っていなかった。
そしてやはり、翼は来なかった。
抜糸が始まる前までには来てくれるだろうと思いながらも梅と話していた。
しばらく話していると梅が。
「そうだ! 李哉に渡したい物があったんだ!」
「渡したい物?」
「そうだよ。李哉、頑張ってるからね」
そう言うと梅は持って来ていた紙袋からある物を取り出した。
それを見て李哉は最初、驚いた。
次に、すごい嬉しく思えた。
梅が紙袋から取り出した物とは――
新しいパジャマだったのだ。
「おばあちゃん、これ…いいの!?」
「もちろんだとも。李哉のために買ったんだからねぇ」
「ありがとう、おばあちゃん!」
「じゃあ、さっそく着てみるかい?」
「うん!」
すぐに梅のくれたパジャマに李哉は着替えた。
水色と白のストライプ柄のパジャマだった。
それはすごく李哉に似合っていた。
鏡で新しいパジャマを着た自分の姿を見て、更に嬉しくなる。
まるで誂えたかのように李哉に似合っていたのだ。
「本当にありがとう、おばあちゃん!」
「礼なんていいんだよ。李哉、もうすぐ退院だからね。もうすぐだから、頑張るんだよ?」
「うん!」
これで――
翼が来れば完璧だ。
やはり頭の片隅でそう思いながら翼が来るのをずっと待っていた。
病室の扉がノックされる度に、異常に反応してしまうくらいに。
昼食をナースが持って来た時に翼かと思って嬉しそうに返事をしたりしていた。
そして――
病室の扉がノックされた。
今度こそ翼だと思い、李哉は嬉しそうに反応してみせた。
「どうぞ!」
李哉の返事を聞いて病室の扉をノックした人物が病室に入って来た。
病室に入って来たのは――
藤森先生だった。
予想が違い、少し落ち込んでしまう。
だが、すぐに時計を見て気付く。
――もう抜糸の時間だったのだ。
「李哉君、抜糸の時間だよ。準備はいいかい?」
「あ、はい…」
「じゃあ、車椅子に移動しようか」
「あ、あの…」
「ん? どうかした?」
藤森先生に翼の事を聞こうとしたのだが――
なんとなく、聞けなかった。
翼を見掛けなかったか、等と聞きたいのだが。
翼がどうして自分の元に来なくなったのか、等と聞きたいのだが。
翼の事ばかり聞く自分の事を、藤森先生や梅はどう思うだろうか?
そう思うと聞こうと思っても聞けなかった。
「あ、李哉君。新しいパジャマだね。柳葉さんにもらったのかな?」
「あ、はい…」
「――もしかして、抜糸が怖い?」
「確かに…ちょっと怖いです…」
翼の事が一番気になったが。
確かに抜糸への恐怖もあった。
初めての抜糸。
それは、やはり痛いものなのだろうか。
今までずっと痛い事ばかりだったのでやはり痛みが伴うのだろうか。
そう思っていると――
藤森先生が少し笑った。
どうして笑うのかと聞こうと口を開くと。
「大丈夫。抜糸は糸を抜くだけだから痛くないよ。あ、引っ張ってるなって感覚しないからね」
「あ…そうなんですか…」
不安の一つが消えて、少し安心した。
痛くないのならば、良かった。
だが、一番の問題はまだ解決しない。
抜糸した後に、翼は来てくれるのだろう。
そう思いながら李哉は藤森先生に車椅子へと乗せてもらった。
「じゃあ、処置室に行くね。そこで抜糸するから」
「はい」
藤森先生に車椅子を押してもらって、処置室へと向かう。
その間も翼について聞こうかどうかと迷ったが――
結局聞けずに処置室へと着いてしまった。
処置室に着くと藤森先生は李哉を診察用のベットの上に寝かせてくれた。
そして優しく声を掛けてくれる。
「じゃあ抜糸するから動かないでね」
そう言われて、李哉は藤森先生に言われた通りにする。
だが、初めての経験なので不安で心臓が高鳴る。
その事にすぐに藤森先生は気付いたようで。
優しく微笑んで言ってくれる。
「緊張しなくても大丈夫だよ。すぐに終わるから」
藤森先生の笑顔で、少し緊張が解けたような気がした。
それからすぐに藤森先生は緊張を解いてくれるためだろう。
何でもない話を始めてくれた。
「抜糸が終わると、掴まり立ちが出来るからね。立てるようになったら退院もすぐだよ」
「どれくらいで、立てるようになりますか?」
「それはやっぱり、李哉君の努力次第だね」
少し笑いながら、藤森先生はそう言う。
そのように、藤森先生は緊張を解いてくれる。
だが、やはり李哉は翼の事が気になっていた。
この処置室から出た時に、翼が待っていてくれたらなんていいだろう。
いや、そうなのだと思い込む。
そうでないと、嫌だ。
そう思っていると――
「――――翼君の事、考えてる?」
「え…?」
「さっき、翼君が来たと思ったからあんなに嬉しそうな顔したんだよね?」
藤森先生にそう言われて、やはり気付かれたのだと思う。
そして、顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
反射的に顔を隠したいと思ったが、今藤森先生は抜糸の最中なので李哉の顔は見ていなかった。
それが唯一の救いだった。
「翼君と何かあったのかい?」
藤森先生の優しい声が、部屋に響く。
何か、あったといえば何も無い。
だがあるといえばある。
そんな曖昧な返事になるのが少し嫌だったが――
翼の事について聞くなら今しかないと思った。
思い切って藤森先生に翼について聞いてみる事にした。
「翼、急に俺の所に来なくなったんです。藤森先生、翼について何か知りませんか…?」
「え――」
藤森先生の、驚く声が聞こえた。
それと同時に、藤森先生が顔を上げた。
藤森先生の顔は声と同じで驚いていた。
李哉はどうしてそんな顔をするのかがわからず、藤森先生の顔を見つめていると。
藤森先生は一瞬だけ、李哉から目を離してすぐに李哉の顔を見た。
それから、抜糸をするためのピンセットを置いた。
翼に、何かあったのだろうか――
李哉がそう聞こうとした時。
「翼君、李哉君と逢ってないの?」
藤森先生がそう聞いてきた。
静かな部屋に、藤森先生の声だけが響き。
李哉は頷いて答える。
「はい。逢ってません」
「今日も……?」
「はい、逢ってません」
李哉の返事を聞いて藤森先生は完全に目を逸らした。
藤森先生の視線の先を辿ってみると――
そこは部屋の扉だった。
その先には、廊下がある。
もしかして、すぐそこに翼がいるのだろうか?
「翼君、毎日病院に来てるけど。今日だって翼君に逢ったし――本当に逢ってないのかい?」
「え…?」
藤森先生の言葉が、理解出来なかった。
藤森先生が、翼と逢った?
確かに、そう聞こえた。
ならばどうして藤森先生とは逢って、自分とは逢わないのだろうか?
どうして、自分の元には来てくれないのだろうか。
色んな疑問が頭の中に浮かんで来てパニックになりそうだ。
「今度、翼君に逢ったら聞いてみるね」
藤森先生は、それだけ言った。
だが、そんな言葉はもう李哉の耳には入っていなかった。
何時だって翼は、自分の事を優先にしてくれた。
なので、こんな事は有り得ない。
病院に居るのに、逢いに来てくれない事は一度もなかった。
(どうして翼はそんな事を…?)
その理由を、翼に聞きたい。
直接会って、翼に聞きたい。
気が付くと抜糸は終わっており、もう掴まり立ちの練習をしていいと言われたのだが。
どうしてもそのような気分にはなれなかった。
ただ、李哉はずっと考えていた。
翼はどうして自分の元に来なくなったのか。
どうして病院に居るのに自分に逢いに来なくなったのか。
そして思う。
直接翼に逢って、その理由を聞きたいと。
翼の元へと行って、理由を聞きたい。
翼に逢うまでに歩けるようになって、翼の元へ行って聞きたいと強く思った。
そして明日から今まで以上に立つための練習をすると李哉は心に誓ったのだ――
~To be continued~




