婚約破棄された私に、未読のまま返事を書き続けた男が、最後にだけ既読をつけた夜
「好きだったのは、俺じゃなくて、俺に合わせてるお前自身だろ」
その言葉が、私の三年間を一秒で終わらせた。
テーブルの上には、冷めたコーヒーと、来月の式場の見積書。窓の外では雨が降り始めていた。田中啓介は私の目を見ていなかった。最初から最後まで、一度も。
「紗季、お前は都合のいい女すぎる。恋愛してる感じがしない」
恋愛してる感じ。
私は、何かを言い返そうとした。でも言葉が出てこなかった。三年間、彼の機嫌を損ねないように、彼の友人に好かれるように、彼の家族に認められるように、そうやって積み上げてきたものが、「恋愛してる感じがしない」の一言で、形のないものに変わっていくのがわかった。
怒鳴ることも、泣き崩れることもしなかった。ただうなずいて、見積書をバッグに入れて、「そう」とだけ言って席を立った。
外に出たとき、雨が傘を持っていない私の肩を濡らしていった。
――それが、四ヶ月前のことだ。
今の私には、決まった習慣がひとつある。
仕事終わりに、駅前の「カフェ トレ」に寄ること。
頼むのはいつもホットのアールグレイ。窓際の一人席。それだけで、一日のしゃがれた気持ちが少しだけ戻ってくる気がして、足が向くようになった。
その男に気づいたのは、通い始めて二週間が経ったころだった。
カウンター端の席に、いつも同じ人がいる。三十代前半くらい。背が高くて、読書か、ノートに何か書いているか、どちらかをしている。静かな人だった。騒がしくないという意味じゃなくて、自分の中に軸を持っているような、そういう静けさ。
マスターの田口さんに、さりげなく聞いてみたことがある。
「あの方、よく来るんですか」
田口さんは少し笑って、「朝比奈さんね。うちができたときからの常連さん。もう六年になるかな」と教えてくれた。
朝比奈さん。
名前だけ知って、それで終わりになるはずだった。
話しかけたのは、私の方からだった。
彼が読んでいた本のタイトルが、私の好きな作家のものだったから。ただそれだけの理由で、「あの、その作家、好きなんですか」と声をかけた。自分でも驚くくらい自然に、言葉が出た。
彼は顔を上げて、少し間を置いてから「ええ」と答えた。
「どの作品が好きですか」
「全部、という答えは卑怯ですか」
そう言って、ほんの少し笑った。
それが朝比奈遼との、最初の会話だった。
それから、カフェで顔を合わせると短く話すようになった。本のこと、仕事のこと、たわいもないこと。彼は聞き上手で、私が話すと、ちゃんと聞いていた。「ちゃんと」の意味が、最初はうまく説明できなかったのだけど、今はわかる。彼は私の言葉が終わるまで待ってくれる人だった。被せない。急かさない。ただ、待つ。
田口さんの仲立ちで、連絡先を交換したのは一ヶ月後だった。
「よかったら」と遼さんが言って、「はい」と私が答えた。
帰りの電車の中で、スマホを握りしめたのを覚えている。なんだか、胸がきゅうっとなって、それが久しぶりすぎて、最初は体の不調かと思った。
最初のメッセージを送ったのは、その翌日だった。
おすすめの本があって、タイトルを聞こうとした。それだけのことだったのに、送信ボタンを押すまでに三回、文章を書き直した。
既読がつかなかった。
一日経っても。二日経っても。
私の中の何かが、ひゅっと縮んだ。
ああ、そうか。カフェで話すのは好きだけど、それ以上ではないんだ。連絡先を交換したのも、断りにくかっただけかもしれない。私はまた、都合のいい存在になろうとしていたのか。
三日後、返信が来た。
「遅くなってごめんなさい。その本、読みました。最後の一章が特に好きで」
それだけだった。
私は少し考えて、「私もそこが好きです」と送った。また既読がつかなかった。
パターンが見えてきたのは、一ヶ月ほど経ってからだ。
遼さんからの返信は、必ず遅い。早くて翌日。長いときは四、五日かかる。でも返信が来ないことは一度もなかった。そして来た返信は、いつも丁寧で、私が送った内容をちゃんと読んでいることがわかる言葉だった。
友人の奈々に愚痴った。
「四日未読ってありえなくない? 興味ないってことでしょ、それ」
奈々は即レスの人だ。既読がついて三秒で返ってくる。彼女の中では、未読=無関心、という等式が成立している。
私も、どこかでそう思っていた。
でも。
「なんか、来る返信がすごく……ちゃんとしてるんだよね」
「ちゃんとしてる?」
「私が言ったこと、全部覚えてて、それに対して言葉を選んでる感じ」
奈々は少し黙って、「それはそれで怖いな」と言った。
笑ったけど、笑えなかった。
転機は、十一月の終わりだった。
カフェで田口さんと話していたとき、なんとなく遼さんの話になった。
「朝比奈さんって、連絡遅いですよね」と私が言ったら、田口さんは意外そうな顔をして、「あれ、紗季ちゃんそれ知らないの」と言った。
「何をですか」
「朝比奈さんね、返信するとき、何度も書き直すんだって。本人から聞いたよ。相手の言葉をちゃんと受け取れたかな、自分の言葉は伝わるかな、って考えてると、なかなか送れないって」
私は、手の中のカップをじっと見た。
「それで、遅くなるんですか」
「そう。軽く扱いたくないから、だってさ。少し不器用だよねえ、あの人は」
田口さんはそう言って笑った。厨房に戻っていく背中を見ながら、私は動けなかった。
軽く扱いたくないから。
その夜、スマホを開いて、遼さんとのトーク画面を最初までスクロールした。既読がつくのがいつも遅い。でも返信は、必ず、来る。そしてその言葉は、いつも、私の言ったことへの答えだ。
啓介のことを思った。
彼はいつも即レスだった。でも返ってくる言葉は、私が言ったことに対してではないことが多かった。「それよりさ」「そういえば」「で、今どこにいる」。私の言葉は、彼の中を素通りしていた。
既読がついていても。
その夜、何かが弾けるように、気づいてしまった。
私は今まで、「既読がつくこと」を「受け取られること」と勘違いしていた。
でも、そうじゃなかった。
既読は、見たという証拠に過ぎない。受け取ることと、見ることは、全然違う。
遼さんは、未読のまま何日も置いている。でもその間、私の言葉を、ちゃんと受け取ろうとしていたんだ。
考えて。書いて。消して。また書いて。
それが、彼の「返事をする」ということの意味だった。
私は、泣かなかった。泣く感情じゃなかった。何か大事なものを、ようやく正しい場所に置けた感覚だった。
翌日、カフェで遼さんと会った。
「昨日、田口さんに聞きました」
座ってすぐそう言ったら、彼はコーヒーカップを置いて、少し困ったような顔をした。
「何を、ですか」
「返信、何度も書き直すって」
沈黙が落ちた。外では師走の風が、ガラスを叩いていた。
遼さんはしばらく黙っていて、「恥ずかしいですね」と静かに言った。
「いいえ」
「迷惑でしたか」
「全然」
私は首を振った。本心から、そう思っていた。
「むしろ、嬉しかったです。私の言葉を、ちゃんと受け取ろうとしてくれてる人が、いたんだって」
遼さんはまた黙った。今度は少し長く。窓の外を見て、また私を見て、それから言った。
「紗季さんの言葉は、重いんです。重いっていうのは、軽くないっていう意味で」
「どういう意味ですか」
「言葉の一つひとつに、ちゃんと意味がある。だから、軽く返せない」
私の心臓が、静かに、大きく鳴った。
啓介に「恋愛してる感じがしない」と言われたとき、私は自分のことが、薄くて軽い人間なんだと思った。誰かの隣に置かれる装飾品みたいな。でも遼さんは今、私の言葉を「重い」と言った。軽くないと言った。
同じ「軽い」という言葉が、こんなに反対の意味を持てるなんて、知らなかった。
雑に扱われない、という優しさが、こういう形をしているとは、思っていなかった。
年が明けて、一月の半ば。
私はカフェで、一冊の本を読んでいた。遼さんが「好きかもしれない」と教えてくれた作家の、新しい短編集。読み始めたら止まらなくて、気づいたら閉店間際になっていた。
田口さんに「ごめんなさい、もう出ます」と言いながらコートを羽織っていたとき、スマホが震えた。
遼さんからだった。
「今夜、少し時間がありますか」
普通のメッセージだった。でもいつもと違うことがひとつあって、それは、送られてきた時刻が、ほんの数分前だということだった。
つまり、即レスに近い。
私は少し笑って、「あります」と返した。
五秒で既読がついた。
「よかった」
それだけ来て、また少しして、「実は話したいことがあって」と続いた。
心臓が、また鳴り始めた。
「カフェが閉まるので、外にいます」と私が送ると、「向かいます」と返ってきた。それも、すぐに。
外は寒かった。
カフェの看板の明かりが消えて、駅前の人通りも減っていた。白い息を吐きながら待っていたら、五分もしないうちに遼さんが来た。コートの襟を立てて、少し早足で。
「寒い中、すみません」
「いいえ」
「話したいことって」
「少し、歩きながら話せますか」
並んで歩き始めた。駅とは逆の方向、川沿いの道。街灯が水面に落ちて揺れていた。
遼さんはしばらく黙っていた。私も黙っていた。沈黙が怖くなかった。彼との沈黙は、いつも話す前の準備運動みたいな、そういう沈黙だった。
「紗季さんのことが、好きです」
川の音と、風の音の間に、その言葉が落ちた。
私は足を止めた。遼さんも止まって、私を見た。
「気づいてましたか」
「……少しだけ」
「少しだけ」
「でも、確信が持てなくて」
遼さんは、少し眉を下げた。「僕の伝え方が悪かった」
「違います」と私は言った。「私が怖かっただけです。また、都合のいい解釈をして、傷つくのが」
「傷ついたんですね、前に」
「はい」
「僕は」と遼さんが言った。「紗季さんのことを、都合よく扱いたいとは、一度も思ったことがないです」
わかってる、と思った。わかってたから、怖かった。
「遼さんの返信、毎回、ちゃんと来るんです」と私は言った。「遅くても。必ず。私が言ったことへの言葉で」
「はい」
「それが、すごく怖かった」
遼さんが、首を少し傾げた。
「怖い?」
「こんなに丁寧に扱われたことがなかったから。信じていいのかわからなくて、でも信じたくて、そのせめぎ合いが、怖かったです」
遼さんは少し考えて、「そうですか」と言った。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ、そうですか、と。
「もう少し早く言えばよかった」と彼は続けた。「何度も書いて、消しました」
「告白も?」
「はい。三ヶ月くらい書いては消してました」
私は笑ってしまった。声に出して笑ったのが、いつ以来か、わからないくらいの笑い方で。
遼さんも笑った。川の向こうで、電車が橋を渡っていった。
「好きです」と私は言った。
言えた自分に、少し驚いた。合わせたわけじゃない。空気を読んだわけじゃない。ただ本当のことを、本当のこととして、口にした。
「紗季さん」
「はい」
「一つだけ、約束してもいいですか」
「なんですか」
「返信は、これからも遅いかもしれない。でも、必ず返す。受け取ったものは、ちゃんと持ち帰って、ちゃんと答える。それだけは、約束できます」
私は、息を吸った。
「それで、十分です」
十分どころか、それが全部だった。
見られること、より、受け取られること。既読がつくこと、より、ちゃんと届くこと。私が三年間、ずっとほしかったのに、名前を知らなかったものを、遼さんはずっと、静かにくれていた。
家に帰ったのは、九時を過ぎていた。
コートを脱いで、スマホを見たら、遼さんからメッセージが来ていた。別れてから、まだ三十分も経っていない。
「今夜、話せてよかった」
私はすぐに「私も」と返した。
既読がついた。すぐに。
また少しして、メッセージが来た。
「もう一つ、言えなかったことがあって」
「なんですか」と私が返すと、また既読がついた。今夜の遼さんは、早い。
「紗季さんが最初に声をかけてくれた日、あの本、紗季さんが好きそうだと思って、わざと見えるように持っていました」
私は画面を見つめた。
「……え」
「恥ずかしいので忘れてください」
「忘れられないです」
「そうですか」
「そうです」
しばらく間があって、「おやすみなさい」と来た。
私は「おやすみなさい」と返して、スマホをソファに置いて、天井を見た。
笑いが止まらなかった。一人で、声を殺しながら笑い続けた。
あの静かな人が、六年通ったカフェで、本を選んで、見えるように持って、私が気づくのを待っていたのか。
未読のまま何日も、言葉を選んでいた人が。
翌朝、スマホを見たら、深夜一時ごろに遼さんからメッセージが来ていた。
「実は一度だけ、今夜告白できなかったらもう諦めようと思っていました。何度も書いて消した言葉を、ちゃんと届けられてよかった」
未読のまま、一晩置いてしまっていた。
私は笑いながら、「起きました」と送った。
「おはようございます」とすぐ返ってきた。
「昨夜のメッセージ、今見ました。諦めないでいてくれて、よかったです」
既読がついた。少し間があって。
「もう待たせたくない。今から会いに行っていいですか」
私は、画面を見つめた。
返信しようとして、やめた。
「はい」とだけ打って、送信した。
既読がついた。一秒で。
コーヒーを淹れる時間もないまま、コートを手に持って玄関に立ったとき、私はふと思った。
三年間、誰かに合わせて、空気を読んで、それでも「恋愛してる感じがしない」と言われた私が、今、コートも着ないまま玄関に立っている。
胸がいっぱいで、足先が震えていて、会いたくて、早く会いたくて、そわそわが止まらなくて。
これが、恋愛してる感じ、なんだと思う。
チャイムが鳴ったのは、それから二十分後だった。
ドアを開けたら、遼さんがいた。コートの肩に、少し粉雪が積もっていた。
「走ってきました」と彼は言った。
私は何も言えなかった。
玄関先で、ただ二人で立っていた。
遼さんが、「寒いですよ」と言って、私の手を取った。コートをまだ着ていなかった私の手を、彼の両手で包んで、「入れてもらえますか」と言った。
「はい」
ドアを開けながら、思った。
未読のまま、何日も、言葉を選んでいた人が、今朝は走ってきた。
その違いが、全部だった。
私に向き合える時間まで、ちゃんと届けたかった人が、「もう待たせたくない」と走ってきた。
タイミングじゃなくて、気持ちの問題だったんだ。ずっと。
窓の外で、雪がやんでいた。
四ヶ月前に婚約破棄されたあの雨の日から、季節がひとつ変わっていた。
私は、変わっていたのかな。
変わったとしたら、一つだけわかることがある。
誰かに合わせて言葉を選ぶことと、誰かのために言葉を選ぶことは、全然違う。
私が欲しかったのは、後者をしてくれる人だった。
既読がついても、受け取られていない言葉を、三年間送り続けていた。
そして今、未読のまま何日も置かれた言葉が、ちゃんと私のところに届いていた。
受け取られていた。
ずっと。
「コーヒー、淹れます」
「ありがとうございます」
「雪、積もりそうですね」
「そうですね」
たわいもない言葉が、部屋の中を満たしていく。
急がなくていい。合わせなくていい。ただここに、いていい。
そう思えた朝が、こんなに温かいなんて、知らなかった。
未読のまま返事を書き続けた男が、最後にだけ既読をつけた夜のことを、私はきっとずっと覚えている。
あれが、始まりだったから。




