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婚約破棄された私に、未読のまま返事を書き続けた男が、最後にだけ既読をつけた夜

作者:
掲載日:2026/06/10

「好きだったのは、俺じゃなくて、俺に合わせてるお前自身だろ」

 その言葉が、私の三年間を一秒で終わらせた。

 テーブルの上には、冷めたコーヒーと、来月の式場の見積書。窓の外では雨が降り始めていた。田中啓介は私の目を見ていなかった。最初から最後まで、一度も。

「紗季、お前は都合のいい女すぎる。恋愛してる感じがしない」

 恋愛してる感じ。

 私は、何かを言い返そうとした。でも言葉が出てこなかった。三年間、彼の機嫌を損ねないように、彼の友人に好かれるように、彼の家族に認められるように、そうやって積み上げてきたものが、「恋愛してる感じがしない」の一言で、形のないものに変わっていくのがわかった。

 怒鳴ることも、泣き崩れることもしなかった。ただうなずいて、見積書をバッグに入れて、「そう」とだけ言って席を立った。

 外に出たとき、雨が傘を持っていない私の肩を濡らしていった。

 ――それが、四ヶ月前のことだ。

 

 今の私には、決まった習慣がひとつある。

 仕事終わりに、駅前の「カフェ トレ」に寄ること。

 頼むのはいつもホットのアールグレイ。窓際の一人席。それだけで、一日のしゃがれた気持ちが少しだけ戻ってくる気がして、足が向くようになった。

 その男に気づいたのは、通い始めて二週間が経ったころだった。

 カウンター端の席に、いつも同じ人がいる。三十代前半くらい。背が高くて、読書か、ノートに何か書いているか、どちらかをしている。静かな人だった。騒がしくないという意味じゃなくて、自分の中に軸を持っているような、そういう静けさ。

 マスターの田口さんに、さりげなく聞いてみたことがある。

「あの方、よく来るんですか」

 田口さんは少し笑って、「朝比奈さんね。うちができたときからの常連さん。もう六年になるかな」と教えてくれた。

 朝比奈さん。

 名前だけ知って、それで終わりになるはずだった。

 

 話しかけたのは、私の方からだった。

 彼が読んでいた本のタイトルが、私の好きな作家のものだったから。ただそれだけの理由で、「あの、その作家、好きなんですか」と声をかけた。自分でも驚くくらい自然に、言葉が出た。

 彼は顔を上げて、少し間を置いてから「ええ」と答えた。

「どの作品が好きですか」

「全部、という答えは卑怯ですか」

 そう言って、ほんの少し笑った。

 それが朝比奈遼との、最初の会話だった。

 

 それから、カフェで顔を合わせると短く話すようになった。本のこと、仕事のこと、たわいもないこと。彼は聞き上手で、私が話すと、ちゃんと聞いていた。「ちゃんと」の意味が、最初はうまく説明できなかったのだけど、今はわかる。彼は私の言葉が終わるまで待ってくれる人だった。被せない。急かさない。ただ、待つ。

 田口さんの仲立ちで、連絡先を交換したのは一ヶ月後だった。

「よかったら」と遼さんが言って、「はい」と私が答えた。

 帰りの電車の中で、スマホを握りしめたのを覚えている。なんだか、胸がきゅうっとなって、それが久しぶりすぎて、最初は体の不調かと思った。

 

 最初のメッセージを送ったのは、その翌日だった。

 おすすめの本があって、タイトルを聞こうとした。それだけのことだったのに、送信ボタンを押すまでに三回、文章を書き直した。

 既読がつかなかった。

 一日経っても。二日経っても。

 私の中の何かが、ひゅっと縮んだ。

 ああ、そうか。カフェで話すのは好きだけど、それ以上ではないんだ。連絡先を交換したのも、断りにくかっただけかもしれない。私はまた、都合のいい存在になろうとしていたのか。

 三日後、返信が来た。

「遅くなってごめんなさい。その本、読みました。最後の一章が特に好きで」

 それだけだった。

 私は少し考えて、「私もそこが好きです」と送った。また既読がつかなかった。

 

 パターンが見えてきたのは、一ヶ月ほど経ってからだ。

 遼さんからの返信は、必ず遅い。早くて翌日。長いときは四、五日かかる。でも返信が来ないことは一度もなかった。そして来た返信は、いつも丁寧で、私が送った内容をちゃんと読んでいることがわかる言葉だった。

 友人の奈々に愚痴った。

「四日未読ってありえなくない? 興味ないってことでしょ、それ」

 奈々は即レスの人だ。既読がついて三秒で返ってくる。彼女の中では、未読=無関心、という等式が成立している。

 私も、どこかでそう思っていた。

 でも。

「なんか、来る返信がすごく……ちゃんとしてるんだよね」

「ちゃんとしてる?」

「私が言ったこと、全部覚えてて、それに対して言葉を選んでる感じ」

 奈々は少し黙って、「それはそれで怖いな」と言った。

 笑ったけど、笑えなかった。

 

 転機は、十一月の終わりだった。

 カフェで田口さんと話していたとき、なんとなく遼さんの話になった。

「朝比奈さんって、連絡遅いですよね」と私が言ったら、田口さんは意外そうな顔をして、「あれ、紗季ちゃんそれ知らないの」と言った。

「何をですか」

「朝比奈さんね、返信するとき、何度も書き直すんだって。本人から聞いたよ。相手の言葉をちゃんと受け取れたかな、自分の言葉は伝わるかな、って考えてると、なかなか送れないって」

 私は、手の中のカップをじっと見た。

「それで、遅くなるんですか」

「そう。軽く扱いたくないから、だってさ。少し不器用だよねえ、あの人は」

 田口さんはそう言って笑った。厨房に戻っていく背中を見ながら、私は動けなかった。

 軽く扱いたくないから。

 その夜、スマホを開いて、遼さんとのトーク画面を最初までスクロールした。既読がつくのがいつも遅い。でも返信は、必ず、来る。そしてその言葉は、いつも、私の言ったことへの答えだ。

 啓介のことを思った。

 彼はいつも即レスだった。でも返ってくる言葉は、私が言ったことに対してではないことが多かった。「それよりさ」「そういえば」「で、今どこにいる」。私の言葉は、彼の中を素通りしていた。

 既読がついていても。

 

 その夜、何かが弾けるように、気づいてしまった。

 私は今まで、「既読がつくこと」を「受け取られること」と勘違いしていた。

 でも、そうじゃなかった。

 既読は、見たという証拠に過ぎない。受け取ることと、見ることは、全然違う。

 遼さんは、未読のまま何日も置いている。でもその間、私の言葉を、ちゃんと受け取ろうとしていたんだ。

 考えて。書いて。消して。また書いて。

 それが、彼の「返事をする」ということの意味だった。

 私は、泣かなかった。泣く感情じゃなかった。何か大事なものを、ようやく正しい場所に置けた感覚だった。

 

 翌日、カフェで遼さんと会った。

「昨日、田口さんに聞きました」

 座ってすぐそう言ったら、彼はコーヒーカップを置いて、少し困ったような顔をした。

「何を、ですか」

「返信、何度も書き直すって」

 沈黙が落ちた。外では師走の風が、ガラスを叩いていた。

 遼さんはしばらく黙っていて、「恥ずかしいですね」と静かに言った。

「いいえ」

「迷惑でしたか」

「全然」

 私は首を振った。本心から、そう思っていた。

「むしろ、嬉しかったです。私の言葉を、ちゃんと受け取ろうとしてくれてる人が、いたんだって」

 遼さんはまた黙った。今度は少し長く。窓の外を見て、また私を見て、それから言った。

「紗季さんの言葉は、重いんです。重いっていうのは、軽くないっていう意味で」

「どういう意味ですか」

「言葉の一つひとつに、ちゃんと意味がある。だから、軽く返せない」

 私の心臓が、静かに、大きく鳴った。

 啓介に「恋愛してる感じがしない」と言われたとき、私は自分のことが、薄くて軽い人間なんだと思った。誰かの隣に置かれる装飾品みたいな。でも遼さんは今、私の言葉を「重い」と言った。軽くないと言った。

 同じ「軽い」という言葉が、こんなに反対の意味を持てるなんて、知らなかった。

 雑に扱われない、という優しさが、こういう形をしているとは、思っていなかった。

 

 年が明けて、一月の半ば。

 私はカフェで、一冊の本を読んでいた。遼さんが「好きかもしれない」と教えてくれた作家の、新しい短編集。読み始めたら止まらなくて、気づいたら閉店間際になっていた。

 田口さんに「ごめんなさい、もう出ます」と言いながらコートを羽織っていたとき、スマホが震えた。

 遼さんからだった。

「今夜、少し時間がありますか」

 普通のメッセージだった。でもいつもと違うことがひとつあって、それは、送られてきた時刻が、ほんの数分前だということだった。

 つまり、即レスに近い。

 私は少し笑って、「あります」と返した。

 五秒で既読がついた。

「よかった」

 それだけ来て、また少しして、「実は話したいことがあって」と続いた。

 心臓が、また鳴り始めた。

「カフェが閉まるので、外にいます」と私が送ると、「向かいます」と返ってきた。それも、すぐに。

 

 外は寒かった。

 カフェの看板の明かりが消えて、駅前の人通りも減っていた。白い息を吐きながら待っていたら、五分もしないうちに遼さんが来た。コートの襟を立てて、少し早足で。

「寒い中、すみません」

「いいえ」

「話したいことって」

「少し、歩きながら話せますか」

 並んで歩き始めた。駅とは逆の方向、川沿いの道。街灯が水面に落ちて揺れていた。

 遼さんはしばらく黙っていた。私も黙っていた。沈黙が怖くなかった。彼との沈黙は、いつも話す前の準備運動みたいな、そういう沈黙だった。

「紗季さんのことが、好きです」

 川の音と、風の音の間に、その言葉が落ちた。

 私は足を止めた。遼さんも止まって、私を見た。

「気づいてましたか」

「……少しだけ」

「少しだけ」

「でも、確信が持てなくて」

 遼さんは、少し眉を下げた。「僕の伝え方が悪かった」

「違います」と私は言った。「私が怖かっただけです。また、都合のいい解釈をして、傷つくのが」

「傷ついたんですね、前に」

「はい」

「僕は」と遼さんが言った。「紗季さんのことを、都合よく扱いたいとは、一度も思ったことがないです」

 わかってる、と思った。わかってたから、怖かった。

「遼さんの返信、毎回、ちゃんと来るんです」と私は言った。「遅くても。必ず。私が言ったことへの言葉で」

「はい」

「それが、すごく怖かった」

 遼さんが、首を少し傾げた。

「怖い?」

「こんなに丁寧に扱われたことがなかったから。信じていいのかわからなくて、でも信じたくて、そのせめぎ合いが、怖かったです」

 遼さんは少し考えて、「そうですか」と言った。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ、そうですか、と。

「もう少し早く言えばよかった」と彼は続けた。「何度も書いて、消しました」

「告白も?」

「はい。三ヶ月くらい書いては消してました」

 私は笑ってしまった。声に出して笑ったのが、いつ以来か、わからないくらいの笑い方で。

 遼さんも笑った。川の向こうで、電車が橋を渡っていった。

 

「好きです」と私は言った。

 言えた自分に、少し驚いた。合わせたわけじゃない。空気を読んだわけじゃない。ただ本当のことを、本当のこととして、口にした。

「紗季さん」

「はい」

「一つだけ、約束してもいいですか」

「なんですか」

「返信は、これからも遅いかもしれない。でも、必ず返す。受け取ったものは、ちゃんと持ち帰って、ちゃんと答える。それだけは、約束できます」

 私は、息を吸った。

「それで、十分です」

 十分どころか、それが全部だった。

 見られること、より、受け取られること。既読がつくこと、より、ちゃんと届くこと。私が三年間、ずっとほしかったのに、名前を知らなかったものを、遼さんはずっと、静かにくれていた。

 

 家に帰ったのは、九時を過ぎていた。

 コートを脱いで、スマホを見たら、遼さんからメッセージが来ていた。別れてから、まだ三十分も経っていない。

「今夜、話せてよかった」

 私はすぐに「私も」と返した。

 既読がついた。すぐに。

 また少しして、メッセージが来た。

「もう一つ、言えなかったことがあって」

「なんですか」と私が返すと、また既読がついた。今夜の遼さんは、早い。

「紗季さんが最初に声をかけてくれた日、あの本、紗季さんが好きそうだと思って、わざと見えるように持っていました」

 私は画面を見つめた。

「……え」

「恥ずかしいので忘れてください」

「忘れられないです」

「そうですか」

「そうです」

 しばらく間があって、「おやすみなさい」と来た。

 私は「おやすみなさい」と返して、スマホをソファに置いて、天井を見た。

 笑いが止まらなかった。一人で、声を殺しながら笑い続けた。

 あの静かな人が、六年通ったカフェで、本を選んで、見えるように持って、私が気づくのを待っていたのか。

 未読のまま何日も、言葉を選んでいた人が。

 

 翌朝、スマホを見たら、深夜一時ごろに遼さんからメッセージが来ていた。

「実は一度だけ、今夜告白できなかったらもう諦めようと思っていました。何度も書いて消した言葉を、ちゃんと届けられてよかった」

 未読のまま、一晩置いてしまっていた。

 私は笑いながら、「起きました」と送った。

「おはようございます」とすぐ返ってきた。

「昨夜のメッセージ、今見ました。諦めないでいてくれて、よかったです」

 既読がついた。少し間があって。

「もう待たせたくない。今から会いに行っていいですか」

 私は、画面を見つめた。

 返信しようとして、やめた。

「はい」とだけ打って、送信した。

 既読がついた。一秒で。

 コーヒーを淹れる時間もないまま、コートを手に持って玄関に立ったとき、私はふと思った。

 三年間、誰かに合わせて、空気を読んで、それでも「恋愛してる感じがしない」と言われた私が、今、コートも着ないまま玄関に立っている。

 胸がいっぱいで、足先が震えていて、会いたくて、早く会いたくて、そわそわが止まらなくて。

 これが、恋愛してる感じ、なんだと思う。

 

 チャイムが鳴ったのは、それから二十分後だった。

 ドアを開けたら、遼さんがいた。コートの肩に、少し粉雪が積もっていた。

「走ってきました」と彼は言った。

 私は何も言えなかった。

 玄関先で、ただ二人で立っていた。

 遼さんが、「寒いですよ」と言って、私の手を取った。コートをまだ着ていなかった私の手を、彼の両手で包んで、「入れてもらえますか」と言った。

「はい」

 ドアを開けながら、思った。

 未読のまま、何日も、言葉を選んでいた人が、今朝は走ってきた。

 その違いが、全部だった。

 私に向き合える時間まで、ちゃんと届けたかった人が、「もう待たせたくない」と走ってきた。

 タイミングじゃなくて、気持ちの問題だったんだ。ずっと。

 

 窓の外で、雪がやんでいた。

 四ヶ月前に婚約破棄されたあの雨の日から、季節がひとつ変わっていた。

 私は、変わっていたのかな。

 変わったとしたら、一つだけわかることがある。

 誰かに合わせて言葉を選ぶことと、誰かのために言葉を選ぶことは、全然違う。

 私が欲しかったのは、後者をしてくれる人だった。

 既読がついても、受け取られていない言葉を、三年間送り続けていた。

 そして今、未読のまま何日も置かれた言葉が、ちゃんと私のところに届いていた。

 受け取られていた。

 ずっと。

 

「コーヒー、淹れます」

「ありがとうございます」

「雪、積もりそうですね」

「そうですね」

 たわいもない言葉が、部屋の中を満たしていく。

 急がなくていい。合わせなくていい。ただここに、いていい。

 そう思えた朝が、こんなに温かいなんて、知らなかった。

 未読のまま返事を書き続けた男が、最後にだけ既読をつけた夜のことを、私はきっとずっと覚えている。

 あれが、始まりだったから。

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