第9話 空白の防犯カメラ
「ない……! 本当にないわ!」
ロビーに駆け戻った俺たちの目の前で、女将が泣き崩れていた。
源泉の脇に設置された頑丈そうなガラスのケース。その扉が無惨にも開け放たれ、鎮座していたはずの家宝『龍神の涙』は、影も形もなくなっていた。
残されているのは、赤いベルベットの台座だけ。
「警察には通報しました! 山の下の署からすぐに来てくれるそうです!」
リゾートバイトの高田君が、受話器を握りしめたまま叫んだ。
だが、警察が到着するまでには少なくとも三十分はかかる。この山奥の立地が、今は完全に裏目に出ていた。
「慌てないで! まずは現場保全よ!」
パニックになる従業員たちを制したのは、女将でも俺でもなく、須磨跡子だった。
彼女は鋭い眼光でロビーを見渡し、素早く指示を飛ばす。
「出入り口を封鎖して。今、館内にいる人間を全員ロビーに集めるの。犯人はまだこの中にいるかもしれないわ」
「は、はい!」
「それから女将さん、防犯カメラの映像は? ここを直接映しているメインカメラがあるはずでしょ」
跡子の手際は見事だった。まるで刑事ドラマの捜査官だ。
俺がオロオロしている間に、彼女は完全に場の主導権を握っていた。
女将が震える手で、管理室から持ってきたタブレット端末を操作する。
「こ、これがロビーのメインカメラの映像です。録画データを確認します……!」
俺たちもその画面を覗き込んだ。
画面には、現在のロビーが映し出されるはずだった。
だが。
「……なっ!?」
画面は、真っ白だった。
まるで濃霧の中にいるかのように、何も見えない。
「故障ですか!? 何も映ってませんよ!」
「いえ、時間は進んでます。……巻き戻してみましょう」
跡子が画面をスワイプして時間を戻していく。
映像が早送りで逆再生される。
そして、時刻表示が『10:45』を示した、その瞬間だった。
プシューッ。
画面の端から、黒い手袋をした何者かの手が伸び、カメラのレンズに向かって白いスプレーを噴射したのだ。
視界が白く塗りつぶされ、そこで映像は途絶えた。
「十時四十五分……」
女将がハッと息を飲んだ。
「チェックアウトのピーク時間です! 今日は団体のお客様もいらしてて、フロントも玄関も戦場のような忙しさでした……」
「なるほどね。全員が接客に追われ、モニターを確認する余裕がない時間帯を狙ったわけか」
跡子は腕を組み、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「決まりね。これは計画的な犯行よ。内部事情に詳しい人間か、または数日前から下見をしていたプロの窃盗団。チェックアウトの混雑に紛れてカメラを無力化し、死角を作ってから、今の今まで潜伏していたのよ」
「せ、潜伏……?」
「ええ。そして、私たちが昼食で気が緩んでいる隙にダイヤを盗み、裏口から逃走した。……間違いないわ」
彼女の推理は、非常に論理的で説得力があった。
真っ白な画面、計算された犯行時刻、鮮やかな手口。
従業員たちの顔に、「なるほど」という納得の色と、「外部犯なら自分たちは疑われない」という安堵の色が浮かぶ。
「見貫君、あなたは私を手伝って。裏口のドアノブや窓枠に指紋が残っている可能性があるわ。警察が来る前に私たちが確保するのよ」
「えっ、俺? いや、俺は……」
「何よ、怖気づいたの? 『巨悪を暴く』んじゃなかったの?」
跡子に挑発され、俺はぐっと言葉に詰まった。
確かに、彼女の言っていることは正しいように思える。それに比べて俺は、ただ突っ立っているだけだ。
俺はチラリと、自分の背後に視線をやった。
「……平良夏さん、どう思います? これってやっぱり……」
俺が意見を求めようとした、その時だった。
カリッ。サクゥッ……。
緊迫した空気の中に、場違いな音が響いた。
軽快で、小気味よい、揚げたての衣が砕ける音。
「…………」
全員の視線が、音の発生源に釘付けになった。
ラウンジのテーブル。
そこには、騒然とするロビーを背に、一心不乱に箸を動かす平良夏つくしの姿があった。
「……んぐ、んぐ。……よし。まずは土台の制圧完了」
彼女は、巨大なかき揚げの五分の一を、すでに胃袋に収めていた。
口の端に天つゆをつけ、恍惚の表情を浮かべている。
この状況で。家宝が盗まれ、犯人が潜伏しているかもしれないこの状況で。
「ちょっと! あんた何やってんのよ!」
跡子が金切り声を上げた。
「事件よ! ダイヤが盗まれたのよ! 悠長にご飯食べてる場合!?」
「……うるさい」
つくしは箸を止めず、冷淡に言い放った。
「事件が起きたからって、天ぷらが冷めるのを待ってはくれない。……揚げ物は時間との勝負。衣が空気中の水分を吸着し、グルテンの結合が変化して食感が劣化してシナる前に、最適解で処理する必要がある」
「はあ!? 信じらんない! 食いしん坊がすぎるわよ!」
跡子は呆れ果て、俺を睨みつけた。
「見貫君、あんたの連れはどうなってるの? こんな非常識な人、捜査の邪魔よ。そこに座らせて動かさないでおいてよ」
「あ、ああ……すまない」
俺は頭を下げるしかなかった。
だが、つくしは全く意に介さない。むしろ、跡子たちが裏口へ向かおうと背を向けた瞬間、俺にだけ聞こえる声で呟いた。
「……見貫。あの女、声が大きい。……耳障り」
「文句言うなよ。彼女なりに良かれと場を仕切ってくれてるんだから」
「……仕切る? あんなの間違いだらけの妄想よ」
つくしは冷めたエビ天を齧りながら、ボソリと言った。
「……スプレーの色。塗り方。……犯人の心理が透けて見える」
言いながら、彼女は素早く動いた。
女将がテーブルの上に置きっぱなしにしていたタブレット端末。
それを、天ぷらの油でギトギトになった手で、サッと引き寄せたのだ。
「おい! 勝手に触ったら……!」
「……シッ」
つくしは人差し指を唇に当て、俺を制した。
その目は、すでに「ON」になっていた。
さっきまでの食い意地の張っただけの目ではない。獲物を追い詰める、冷徹な狩人の目だ。
彼女はタブレットを操作し、メインカメラ以外の映像――廊下や裏口を映すサブカメラのログを高速でスクロールし始めた。
「跡子は『外部犯』という派手なストーリーに酔っている。……だから見落とす」
つくしは画面の一点をタップし、映像を止めた。
「……見貫。よく見ておいて。……これが、『空白』に隠された真実よ」
彼女が見つめる画面。
そこには、まだ誰も気づいていない、決定的な違和感が映り込んでいるようだった。
俺が画面を覗き込もうとしたその時、
「行くわよ、見貫君! 裏口の現場保全に付き合いなさい!」
遠くから跡子の怒声が飛んできた。
俺は「はい!」と返事をしつつ、つくしを見た。
彼女はニヤリと不敵に笑い、巨大なアナゴ天を口に咥えながら、ウインクしてみせた。
「……行ってらっしゃい。あなたが時間を稼いでいる間に……このタワーと謎、両方とも平らげておくから」
俺は覚悟を決めて走り出した。
この変人探偵が、デカ盛りを食べて犯人が逃げられるわけがない。
彼女の胃袋が満たされる時、きっとこの事件も「消化」されるのだと信じて。




