第7話 サービスエリアの予行演習
「……見貫くん、警告する」
「はい? なんですか、藪から棒に」
「……私の血糖値が、デッドラインを割る。……あと三百秒以内に炭水化物を供給しないと、私はこの車のシートのシミになる」
関越自動車道をひた走るレンタカーの助手席で、その小柄な体はボソリと呟いた。
平良夏つくし。
時々天才、実態は燃費最悪の元科捜研研究員。そして現在は、俺――見貫泰三が担当する、手のかかるお荷物ライターだ。
「死んで液体になるって意味ですか? 人はそう簡単に液状化しませんから安心してください」
「……冗談じゃない。……脳が、自己消化を……始めている……」
「はいはい、分かりましたよ! ちょうど次のサービスエリアまであと二キロです!」
俺はハンドルを握り直すと、アクセルをじわりと踏み込んだ。
俺の特技の一つに「シルキードライブ」がある 。助手席の人間が熟睡していても絶対に首がカクンとならない、絹のように滑らかな運転技術だ。
だが、今の同乗者に必要なのは安眠ではない。急速な燃料補給のようだ。
今回の取材先は、北関東の山奥にある老舗温泉旅館『龍神閣』。
編集長・碁鵜海仁からの指令は、「名物の爆盛り天ぷらタワーを攻略し、読者の度肝を抜け」というものだった 。
だが、俺の心配事は別にある。
胸ポケットに入っている茶封筒。会社から渡された仮払金だ。
(……足りるか? これ)
前回のカレー屋での惨状が脳裏をよぎる。あの時、彼女は2.5kgのカレーを平らげただけでなく、事前のコンビニで数千円分を「前菜」として消費していた 。
今回は、旅館に着く前に予算が尽きるのではないか。
俺の胃がキリキリと痛むのと同時に、巨大な「P」の看板が見えてきた。
+++
サービスエリアのフードコートは、平日にもかかわらず賑わっていた。
香ばしい醤油の焦げる匂い、揚げ物の油の匂い、甘いソフトクリームの香り。
車から降りるなり、ゾンビのようにふらついていたつくしの背筋が、ビシッと伸びた。
「……ターゲット、多数確認」
「平良夏さん、あくまで『つなぎ』ですからね? 旅館の夕食が本番なんですから」
「……分かってる。アイドリング程度に済ませる」
そう言った彼女の「アイドリング」は、俺の常識の範囲外だった。
十分後。
俺たちが確保したテラス席のテーブルは、茶色い絨毯と化していた。
「ジャンボフランクフルト三本、北関東名物・焼きまんじゅう五串、佐野ラーメン大盛りチャーシュー増し……あと、デザートのチョコソフトクリーム」
俺はレシートを震える手で確認した。しめて三千五百円。
「これのどこがアイドリングなんですか! 普通の成人男性のフルコースですよ!」
「……うるさい。消費カロリーと摂取カロリーの収支計算くらい、私の方が正確よ」
つくしは割り箸をパチンと割ると、ラーメンの丼に顔を近づけた。
眼鏡が湯気で白く曇る。
「……スープ表面の脂膜、厚さ二ミリ。……麺の縮れ具合によるスープ絡み率、良好。……いただきます」
ズゾゾゾゾゾッ!!!
凄まじい吸引音がテラスに響き渡る。
彼女の食事スタイルは、味わうというより「取り込む」に近い 。
麺が滝登りのように口の中へ吸い込まれ、咀嚼というプロセスを極限まで省略して胃袋へと落ちていく。
続いて、焼きまんじゅう。甘辛い味噌ダレがたっぷり塗られたパンのような饅頭を、串から直接ガブリといく。口の周りが味噌だらけになるのも構わず、次々と串を裸にしていく。
「……ん。味噌の塩分と、饅頭の発酵による糖分。脳のシナプスが発火する味がする」
「食レポになってるような、なってないような……」
俺が呆れて見ている間に、フランクフルトも消滅した。
すべての皿が空になるのに、十五分もかからなかった。
つくしはソフトクリームをスプーンで掬いながら、ふぅ、と満足げな吐息をついた。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
肌がつやつやしている。
死んだ魚のようだった瞳に、怜悧な光が宿っている。
一時的な覚醒状態、「ON」モードだ 。
「……ごちそうさま。脳内グリコーゲン、三十パーセント充填」
つくしは眼鏡を中指でクイッと押し上げ、じろりと俺を見た。
その視線は、さっきまでの「お腹すいた」と訴えるだけの子供のような目ではない。あらゆる情報をスキャンし、解析する科学者の目だ。
「見貫くん」
「は、はい」
「昨日の夜、何してた?」
「え? 家で普通に過ごしてましたけど……」
「嘘ね」
彼女はソフトクリームをペロリと舐めながら、断言した。
「あなたは昨夜、深夜一時過ぎまで起きていた。それも、自宅のリビングで、過去の『月刊ジャンボ』のバックナンバーを読み漁りながら。夕食はコンビニのサラダチキンとプロテインバーのみ。……違う?」
「なっ……!?」
俺は言葉を失った。
図星だ。昨夜は今回の取材に備えて、過去のデカ盛り記事の傾向と対策を練っていたのだ。夕食も、節約と体型維持のために簡素に済ませた。
だが、なぜそれを?
「ど、どうして分かったんですか? ストーカー?」
「観察と推論よ。単純なこと」
つくしはスプーンの先で俺を指した。
「まず、あなたの目の下のクマ。コンシーラーで隠そうとした跡があるけど、血色の悪さがカバーしきれていない。睡眠不足の証拠。そして、右手の人差し指に微細な紙による切り傷。電子書籍派のあなたが紙で指を切るのは、古い雑誌を大量にめくった時くらい」
「……ぐっ」
「決定的なのは、匂い」
「匂い!?」
「あなたのジャケットから、微かに湿布薬の匂いがする。それも、筋肉疲労用の強いやつ。……私(お荷物)を運搬するために、事前に背筋と足腰の筋トレ強化をしたんでしょ?」
つくしはニヤリと笑った。小悪魔的な、いや、すべてを見透かす魔女のような笑みだった。
「ご苦労なことね。そんなに心配しなくても、私の体は太らない体質なのよ」
「……平良夏さん、食べてさえいれば本当に天才なんですね」
「何よその言い草。癪よ……さて、燃料も入ったことだし、行くわよ。本番の『天ぷら』が私を待ってる」
彼女は立ち上がった。
その足取りは軽い。だが、俺の心は重かった。
こんな鋭い洞察力を持つ人間が、なぜ普段はあんなにポンコツなのか。そして、この「予行演習」だけで三千五百円。
俺の財布のライフポイントは、すでにイエローゾーンだった。
+++
車は山道を登り、目的地の温泉街へと入った。
硫黄の匂いが漂う湯けむりの向こうに、威風堂々とした日本家屋が見えてくる。
創業百年を誇る老舗旅館『龍神閣』だ。
玄関をくぐると、そこは別世界だった。
高い天井、磨き上げられた木の床。
そして何より目を引くのは、ロビーの中央を流れる「水路」だった。
「うわぁ……これはすごい」
俺は思わず声を上げた。
ロビーの奥にある岩組の源泉から、透明な水が滔々《とうとう》と湧き出し、竹で作られた水路を通って中庭へと流れていく。
これこそが、この宿の名物「龍神の流しそうめんレーン」だ 。
毎夜ここを素麺が流れ、宿泊客が箸で掴むという優雅なイベントが行われているらしい。昼は見栄えがいいように、水だけは清らかに流れている。
そして、その源泉のすぐ脇。
立派な台座に、ひと際強く輝く物体があった。
「あれが……家宝の『龍神の涙』か」
拳大の水晶に乗せられた、親指ほどの大きさのダイヤモンド。
ライトアップされ、水面の揺らぎを反射してキラキラと輝いている。推定価格は数億円とも言われる代物だ。
「……ふーん。炭素の結晶。ただの硬い石、食べられないから興味ない」
俺の背中におんぶされているつくしは一瞥しただけで、興味なさげにあくびをした。
どうやら、さっきのラーメンのエネルギーは移動中に消費され、再び「省エネモード」に移行しつつあるらしい。
俺がチェックインの手続きをしようとカウンターへ向かった、その時だった。
「あら、見貫くんじゃない。奇遇ね」
毬が跳ねるような、しかしどこか棘のある声が降ってきた。
ロビーのソファから立ち上がったのは、スタイリッシュなパンツスーツに身を包んだ女性。
艶やかな黒髪をかき上げ、勝ち気な瞳でこちらを見据えている。
「須磨……!」
須磨跡子 。
ライバル誌『カフェ通信』の編集者であり、俺の同期。
効率と「映え」を最優先し、泥臭い取材を信条とする俺とは水と油の関係にある天敵だ。
「まさか『月刊ジャンボ』も取材? 相変わらず脂っこい企画をやってるのね」
跡子はフフンと鼻を鳴らし、俺の背中でウトウトしているつくしに視線を移した。
「……で? その背中の物体はなにかしら? 随分と重そうなお荷物だけど」
彼女の視線には、侮蔑と、隠しきれない「探るような色」が混じっていた 。
俺は直感した。
今回の取材、ただの大食い記事では終わりそうにない。
波乱の予感が、硫黄の匂いと共に立ち込めていた。




