第4話 本場の味と本場のマナー
つくしの細く白い指が、重厚な銀色のスプーンを掴んだ。
目の前にそびえ立つのは、標高二十センチを超えるカツカレーの山脈。対して、彼女の手つきはあまりにも華奢で、頼りなく見えた。
だが、その瞳だけは違った。
焦点の定まらないうつろな瞳の奥で、微かな、しかし確かな闘志の炎が揺らめいている。
「……いただきます」
クマムシの鳴くような声と共に、彼女はスプーンを動かした。
金属の先端が、漆黒のルーと白米の境界線を掬い取る。
そして、ゆっくりと口へと運ばれた。
パクり。
小さな口が閉じられる。
俺と店主は、固唾を飲んでその様子を見守った。
咀嚼。ごくり。
喉が小さく鳴る。
「…………」
沈黙が落ちた。
美味しいとも、マズいとも言わない。
ただ、つくしは小さく首を傾げた。眉間に、紙一枚分の微かな皺が寄る。それはまるで、完璧に解けるはずの数式において、末尾の数字がわずかに合わなかった時のような、純粋な「違和感」の表情だった。
「おい、どうした? やっぱり味が、ソレなのか?」
俺が恐る恐る声をかけると、彼女はゆっくりとスプーンを睨み、そして――。
カラン。
乾いた音を立てて、スプーンをテーブルに放り出した。
「……しょうもない」
「は?」
「夾雑物。……ノイズが混じる」
彼女は気だるげに呟くと、次の瞬間、とんでもない行動に出た。
スプーンではなく、自分の「手」を伸ばしたのだ。
「……直で行く」
「はあ!?」
俺と店主の目が点になる。
彼女は躊躇なく、揚げたての巨大ロースカツを素手で鷲掴みにした。
「ちょっ、平良夏さん! 何考えてんですか!」
「お嬢ちゃん、そいつは揚げたてであっちぃぞ! 火傷すっぞ!」
俺たちの制止など、彼女の耳には届いていないようだった。
カツを掴んだ指先から、ヒリヒリと熱が伝わっているはずだ。だが、彼女は熱がる素振りすら見せない。
そのまま、野生動物が獲物に喰らいつくように、カツにかぶりついた。
ザクゥッ!!
小気味よい破砕音が、静まり返った店内に響き渡った。
分厚い衣が弾け飛び、中から閉じ込められていた熱々の肉汁が溢れ出す。
「……ん」
つくしの喉が、艶めかしく上下した。
そこからは、圧巻の一言だった。
彼女はカツを齧り取ると、今度は指先を熊手のようにして、ライスとルーを器用にまとめ上げた。
「いや待って! マナー違反にも程がありますよ!」
俺が叫ぶが、彼女は止まらない。
指先で掬い上げたカレーの塊を、ポイと口に放り込む。
インドだ。
俺はふと、そんなことを思った。
本場のインドでは、右手を使ってカレーを食べるという。であれば、あながちマナー違反とも言い難い。指先で温度や感触を確かめながら味わうのが、最も美味い食べ方だと聞いたことがある。
彼女の姿は、まさにそれだった。
一見、野蛮に見える。だが、その所作には一切の無駄がなかった。
スプーンという無機質な媒介物を排除し、指先という高感度センサーで食材に直接触れることで、彼女は料理の情報をダイレクトに脳へインストールしているようだった。
「……んぅ……」
つくしが恍惚の声を漏らす。
湯気が、彼女の顔を柔らかく包み込んでいた。
濃厚なギーの香り。クミンやコリアンダー、カルダモン。焙煎されたスパイスの刺激的な匂いが、熱気と共に立ち昇り、彼女が動くたびに周囲へ撒き散らされる。
掴む、食べる。掴む、食べる。
それは食事というより、一種の儀式だった。
カツの断面から覗くピンク色の豚肉が、彼女の小さな口に次々と吸い込まれていく。
とろりとした漆黒のルーが、白米の峰を崩落させ、彼女の指先で混ざり合い、消えていく。
指についたルウすら、計算されたタイミングで舐め取られ、一滴のカロリーロスも生まない。
さっきの客たちは「マズい」「苦い」と吐き捨てていった。
だが、今の彼女の表情を見ていると、それが嘘のように思えてくる。
一心不乱に、ただ「美味い」という事実だけを証明するように、彼女は胃袋というブラックホールへ料理を転送し続けている。
見ているだけで、口の中に唾液が溢れてくるような光景だった。
「す、すげぇ……」
店主が呆然と呟いた。その目には、涙すら浮かんでいるように見えた。
自分の料理が、これほどまでに求められ、平らげられていく。料理人として、これ以上の喜びはないのかもしれない。
俺もまた、その「捕食」の光景に目を奪われていたが、ハッと我に返った。
見とれている場合じゃない。俺の仕事は「お世話係」だが、本分はあくまで記者だ。
彼女が食べている間に、少しでも情報を集めなければ。
「店主さん。……さっきのお客さんたちの反応、あれが初めてじゃないんですよね?」
俺は声を潜めて尋ねた。つくしの咀嚼音がBGMだ。
「あ、ああ……ここ数日、あんな調子なんだ。みんな一口食べては『苦い』『変な味がする』って。でも、俺が味見しても異常はない」
「厨房を見せてもらっても?」
「構わねぇが、何も怪しいもんはないぞ」
俺は厨房に入り、寸胴鍋の中を確認した。
ぐつぐつと煮えるカレーは、艶やかで食欲をそそる。異臭もしない。
棚のスパイス、冷蔵庫の食材。どれも整理整頓されており、衛生管理に問題があるようには見えない。
洗い場の方を見る。
あの茶髪のアルバイト店員が、背中を向けて皿を洗っていた。
小柄で気弱そうな男だ。俺が近づくと、ビクリと肩を震わせて横にずれた。
「……あの、お疲れ様です」
「は、はい……」
男は俺と目を合わせようとしない。手元がおぼつかず、皿を落としそうになっている。
挙動不審だ。だが、それだけだ。
彼はただ皿を洗っているだけで、カレーの鍋には近づいていない。
もし毒や異物を混入させるとしたら、配膳のタイミングしかないが、彼は厨房の奥に引っ込んでいることが多い。配膳は主に店主がやっているようだ。
「……謎が多いな」
地上げ屋の嫌がらせなら、もっと分かりやすくガラスを割るとか、異物を混入させるとかするはずだ。
「味覚だけがおかしくなる」なんて、そんな魔法のようなことができるのか?
店主の舌が狂っている? いや、つくしは今、猛烈な勢いで食べている。つまり、カレー自体は正常な味だということだ。
では、なぜ客だけが?
俺が頭を抱えて客席に戻ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……ごちそうさま。補充完了」
カチャン。
つくしが、綺麗に舐めとられた指を拭き、手を合わせた音だった。
テーブルの上には、鏡のように磨き上げられたステンレスの皿が鎮座している。
あの2.5キロの茶色い山脈が、更地になっていた。
わずか十分足らず。
つくしの腹部が、大きく膨らんでいるのを見て、ようやくそれが現実であると実感が湧いてきた。
「は……?」
「嘘だろ……?」
俺と店主の声が重なった。
つくしは満足げに吐息を漏らし、テーブルに置かれた紙ナプキンで丁寧に口元を拭った。
そして。
ずり落ちていた眼鏡を、中指でクイッと押し上げる。
その瞬間。
空気が、凍りついた。
さっきまで、だらしなく垂れ下がっていた白衣のような上着を、彼女はバサリと翻した。
姿勢が良くなる、というレベルではない。
背骨に一本の鋼鉄が通ったかのように、彼女の存在そのものが鋭利な刃物へと変貌したのだ。
どんよりと濁っていた瞳の奥に、冷たく、理知的な光が灯る。
肌艶が良くなり、全身から「知性」のオーラが溢れ出している。
大量のカロリーが、一瞬にして脳細胞の燃料として点火されたのだ。
「血中グルコース濃度、安定」
凛とした、冷ややかで美しい声だった。
さっきまでの「……むにゃ」という寝言のような声とは別人の響きだ。
「――ニューロン正常、思考回路接続。これより、事象の解明プロセスに移行する」
つくしはスッと両手を目の前の空間に掲げた。
右手の指先が、何もない空中に複雑な数式を書き殴り始める。
『P + 1/2ρv^2 = constant……』
『F = qE + q(v × B)……』
目に見えないペンの軌跡が、彼女の周囲に光の数式となって浮かび上がるような錯覚。
そして、左手。
左手は、見えないそろばんの珠を弾くように、激しく、リズミカルに動いている。
パチ、パチ、パチパチパチッ!!
乾いた音が聞こえてきそうだ。
右手の理論式に、左手の数値を代入し、恐るべき速度で解を収束させていく。
デカ盛りカレーのエネルギーが、純粋な思考能力へと変換されていく瞬間。
「……エネルギー充填率、120パーセント。……思考回路、全領域展開」
つくしが呟いた。
そして。
パチンッ!
左手のエアそろばんを、強く弾き切った。
計算終了。
同時に、右手が空中に『Q.E.D.(証明終了)』の三点を打ち込む。
小玉スイカほどに張り出たお腹を突き出した彼女の視線が、鋭く厨房の奥に向けられる。
その眼光は、X線のように壁を透過し、洗い場で震えているアルバイト店員を正確に射抜いた。
「大盛りカレーを平らげ尽くした私が、その謎も平らげてあげるわ」
決め台詞のつもりなのだろうか。彼女はビシッと立ち上がる。
膨らんだお腹の重さなど微塵も感じさせない、優雅で力強い足取り。
俺は息を呑んだ。
これが、平良夏つくしの「ON」モード。
謎の経歴を持つ彼女が、その本性を現した瞬間だった。




