第3話 老舗洋食屋『マンモォス』
洋食屋『マンモォス』は、商店街の端、少し奥まった路地裏にひっそりと佇んでいた。
店の前には、紫外線で色褪せた食品サンプルが並ぶショーケース。ナポリタンのフォークは宙に浮いたまま時が止まり、ハンバーグのドミグラスソースは紫外線で薄く変色している。
昭和の香りを色濃く残す、といえば聞こえはいいが、正直に言えば「寂れた」という言葉が似合う店構えだった。
「……ここか」
俺、見貫泰三は、肩に食い込む重みに耐えながら、店の看板を見上げた。
看板には、マンモスのイラストと共に『挑戦者求む! 胃袋の限界を超えろ!』という勇ましい文字が踊っている。だが、今の俺の限界を超えているのは胃袋ではなく、背筋と大腿四頭筋だった。
「平良夏さん、着きましたよ。……おーい、聞いてますか」
「……むにゃ……カレーの匂い……スパイスの……黄金比……」
背中の平良夏つくしは、俺の首元に顔を埋めたまま、うわ言のように呟いている。コンビニでの「前菜」摂取から数十分。彼女の燃費の悪さは異常で、移動の揺れだけで既にエネルギーの大半を消費したらしい。再び「省エネモード」という名の屍に戻ってしまっていた。
カランカラン。
乾いたドアベルの音と共に、店内に足を踏み入れる。
瞬間、鼻腔をくすぐったのは、長年染みついた油と、幾重にも重なったスパイスの香りだった。古いが、不潔ではない。正しく使い込まれた洋食屋の匂いだ。
だが、店内の空気は、その芳醇な香りとは裏腹に、鉛のように重く、どんよりと澱んでいた。
「……いらっしゃい。ああ、庶凡書房の方だね」
奥の厨房から出てきたのは、白いコックコートを着た初老の男性だった。
店主の頑固そうな親父さんだ。本来なら「頑固一徹」という言葉が似合いそうな太い眉と、職人特有の厳格な顔つきをしているのだが、今はその表情全体に濃い影が落ちている。目の下には隈があり、頬もこけて見えた。
俺は背負っていたつくしを、一番奥のテーブル席にドサリと下ろした。
彼女はテーブルに突っ伏すと、即座に「……すやぁ」と寝息を立て始めた。顔がテーブルクロスにめり込んでいるが、気にする様子もない。本当にこれから2.5キロのカレーを食べる気があるのだろうか。
「見貫です。お電話で伺っていた取材の件で――」
「ああ、悪いね。こんな時期に来てもらって」
《《こんな時期》》?店主は力なく笑い、お冷を運んできてくれた。
コップを置く手が、微かに震えているように見える。
店内を見回すと、客入りはまばらだ。昼時のピークタイムだというのに、数組のサラリーマンがいるだけで、空席が目立つ。BGMのジャズが、やけに虚しく響いていた。
「実はな、もう店を畳もうかと思ってるんだ」
「えっ? そ、それはまたどうしてですか」
俺が驚いて尋ねると、店主はカウンターの隅にある請求書の束に視線を落とし、重い口を開いた。
「借金だよ。地上げ屋がうるさくてな。この辺り一帯を更地にしてマンションを建てたいらしい。毎日毎日、嫌がらせのような電話や訪問が続いててな……」
「そんな……警察には?」
「相談はしたさ。だが、奴らは法に触れないギリギリのラインを攻めてくる。それに加えて最近、ネットでうちのメニューが炎上してるんだ」
店主は悔しそうに拳を握りしめ、スマホの画面を俺に見せた。
そこには、グルメサイトの口コミ欄が表示されていた。
『味が落ちた』
『変な味がする』
『腐ってるんじゃないか?』
『二度と行かない』
星一つの評価がズラリと並んでいる。投稿日はどれも、ここ一週間に集中していた。
「マズい……ですか?」
「ああ。俺は何も変えちゃいない。創業以来、四十年継ぎ足してきた自慢のデミグラスソースと、独自配合のスパイスだ。味には絶対の自信がある。だが、客足は遠のくばかりで……」
店主の声が震えた。職人としての誇りを、正体不明の悪意によって踏みにじられている悔しさが滲んでいる。
その時だった。
「おい親父! なんだこれ!」
店内に怒声が響き渡った。
入り口近くのテーブル席にいたサラリーマン風の二人組が、スプーンを投げ出して立ち上がっていた。ガタン、と椅子が倒れる音が静寂を引き裂く。
「腐ってるんじゃないのか!? すげぇ苦いぞ!」
「えっ?」
店主が弾かれたように厨房から飛び出す。俺も思わず腰を浮かせた。
客の顔は怒りで赤く染まっている。単なるクレーマーの剣幕ではない。本当に不快なものを口にしたという生理的な拒絶反応が見て取れた。
「そんなはずはねえ! 今朝仕込んだばかりだ! 火入れだって十分にしてある!」
「じゃあ食ってみろよ! こんなもん金取って食わせる気か!」
客の一人が、食いかけのカレー皿を突き出す。
店主は戸惑いながらも、コック服の胸ポケットにあった味見用のスプーンを取り出した。
緊張が走る。
店主はそのカレーを一口すくい、口へと運んだ。
ゴクリ、と喉が鳴る。
俺は固唾を飲んで見守った。もし本当に腐っていたら、店はおしまいだ。
だが、店主の表情は、苦悶ではなく困惑に染まった。
「…………いつも通りなんだが?」
店主はきょとんとして言った。演技ではない、心底不思議そうな顔だ。
「何も変わっちゃいねえ。いつもの、スパイスと甘みが調和した『マンモォス・カレー』だ」
「はあ!? ふざけんな! 舌がイカれてんのか!」
「もういい、行こうぜ! 二度と来るかこんな店!」
客たちは代金も払わず、怒り心頭で店を出て行ってしまった。
バタン! と乱暴にドアが閉まる音が、弔鐘のように響く。
残されたのは、呆然と立ち尽くす店主と、凍り付いた空気だけ。
厨房の奥では、茶髪の若いアルバイト店員が一人、チラリとこちらの様子を窺っているのが見えた。怯えているようにも見えるし、どこか他人事のような冷めた目つきにも見えた。
「……どうなってるんだ、一体」
店主ががっくりと肩を落とし、カウンターに手をついた。その背中は、見るからに小さく萎んでしまっていた。
「俺の舌がおかしいのか? もう、潮時なのかもしれねぇな……」
俺はかける言葉が見つからなかった。
今のやり取りを見る限り、店主の芝居には見えなかった。だが、客の怒りも本物だった。「苦い」と言っていた。腐った味ではなく、苦い?
まさか、本当に地上げ屋の嫌がらせなのか? それとも、見えないところで何かが起きているのか?
その重苦しい静寂を破ったのは、テーブルに突っ伏していた物体――もとい、平良夏つくしの声だった。
「……ねえ」
「ひっ!?」
突然、彼女が顔だけを上げて言った。
眼鏡がずれて、焦点の合わない瞳が俺を捉える。まるで井戸の底から這い上がってきた地底人のような形相だ。
「……早く。タダ飯」
この状況でそれかよ!
俺は心の中で盛大に突っ込んだ。
店が潰れるかどうかの瀬戸際だというのに、彼女の頭の中にはカロリーのことしかないらしい。いや、逆にこのブレなさが頼もしくすらある……のか?
「あー、すいません店主さん! とりあえず、取材用の『アレ』をお願いします!」
俺は場の空気を無理やり変えるべく、努めて明るい声を出した。
店主はハッと我に返り、力なく首を振った。
「……ああ、そうだったな。すまないね、見苦しいところを見せて。……約束通り、特大のやつを出すよ。これが最後の一皿になるかもしれんが」
店主は寂しげに笑うと、重い足取りで厨房へ戻っていった。
数分後。
厨房の奥から、地響きのような音が聞こえてきた。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
それは、料理を運ぶ音というより、土木工事の現場で資材を運搬するような重厚な響きだった。ステンレスのワゴンが、その重量に耐えかねて悲鳴を上げている。
「お待たせしました。当店名物、『特盛マンモォス・カツカレー』です」
ドンッ!!
テーブルに置かれた瞬間、食器とテーブルが、そして俺の常識が粉砕される音がした。
「…………」
俺は絶句した。
分かってはいた。資料にも書いてあった。総重量2.5キログラム。
だが、実物は想像という名の生ぬるい枠組みを軽く超えていた。
直径四十センチはある巨大なステンレス皿。それはもはや皿ではなく、お盆だ。
そこにそびえ立つのは、ライスの山脈。その標高は優に二十センチを超えているだろう。完璧な円錐形ではなく、荒々しく盛り付けられたそれは、まさに活火山。
山肌を覆うのは、漆黒に近い濃厚なカレーの溶岩流。具材の野菜や肉がゴロゴロと転がり、湯気という名の噴煙を上げている。
そして頂上火口には、レンガのようなサイズのロースカツが二枚、鎮座している。サクサクの衣を纏ったカツは、まるで山頂を守る城壁のように威圧感を放っていた。
これは食事ではない。一種の災害現場だ。
カロリーの暴力。炭水化物の要塞。
「……こ、これを、本当に食べるんですか?」
俺は恐る恐るつくしを見た。
彼女はまだテーブルに顎を乗せたまま、うつろな目でその茶色い山を見つめている。
華奢な体躯の彼女と、巨大なカレーの対比があまりにも残酷だ。どう見ても、胃袋の容量が物理的にかみ合っていない。あんな細いお腹に入れたら、皮膚が裂けてしまうんじゃないか?
だが。
俺は見た。
眼鏡の奥、つくしの瞳孔が、カッと開かれるのを。
彼女の鼻がひくついた。
芳醇なスパイスの香りを吸い込み、脳内のスイッチが切り替わる音が聞こえた気がした。
「……ターゲット、視認」
つくしが呟いた。声のトーンが、低く変わる。
「……推定カロリー、三千五百。……質量、申し分なし。……戦闘準備」
「戦闘って……食事ですよ」
俺のツッコミなど聞こえていない。
彼女はのそりと身を起こした。だらりと下がっていた白衣のような上着が、エアコンの風に揺れる。
その目は、もはや獲物を前にした猛獣のそれだった。
「……スプーン」
つくしが短く言った。
「え?」
「……スプーン、こちらへ」
彼女の手が、亡者のように俺の方へ伸びた。
その手は震えていたが、それは空腹による衰弱ではなく、これから始まる「捕食」への武者震いのようにも見えた。
俺はワゴンに乗っていた特大のスプーンを手に取り、彼女に渡そうとした。
その時、ふと違和感を覚えた。
スプーンの柄が、少しベタついている? いや、気のせいか。厨房の湿気だろう。
つくしは俺の手からスプーンをひったくるように奪い取った。
そして、巨大なカレーの山に向き直る。
彼女の背中から、ゆらりと黒いオーラが立ち昇ったような錯覚を覚えた。
いよいよ、開戦だ。
この店の運命と、俺の常識をかけた、大食いバトルの幕が切って落とされようとしていた。




