第27話 紫キャベツと協力者
「……いただきます」
静寂に包まれたホテル『インペリアル・トーキョー』のメインバンケット。
平良夏つくしの声が凛と響いた瞬間、彼女のフォークが銀色の閃光となって走った。
ザシュッ!
肉の巨塔『バベルの塔』。その山腹から、数枚のローストビーフが鮮やかに取り剥がされる。
彼女はそれを大きく開けた口へと運び、躊躇なく放り込んだ。
「……ん」
咀嚼。
低温調理で極限まで柔らかく仕上げられた赤身肉が、彼女の口腔内でほどけ、濃厚な旨味エキスを放出する。
つくしの喉がゴクリと鳴る。
その瞬間、会場を支配していた空気が変わった。
VIPたちが、筆島専務が、そして俺――見貫泰三が、息を呑んでその光景を見守る。
白いドレスの美女が、獣のように優雅に、10キロの肉塊を喰らっていく様を。
「……タンパク質の結合、良好。……ミオグロビンの鉄分が、血流に乗って脳へ酸素を運搬する」
つくしは呟きながら、猛烈な速度でフォークを動かし続けた。
だが、俺はすぐに異変に気づいた。
彼女の狙いが、肉だけではないことに。
「……平良夏さん? なんでそんなに付け合わせばっかり……?」
バベルの塔の周囲には、彩りとして大量の野菜が盛り付けられている。
プチトマトの山。そして、鮮やかな紫色をした紫キャベツのマリネだ。
つくしはローストビーフを三枚食べるごとに、この紫キャベツを大量に口に運んでいた 。
「……酸味。クエン酸回路を加速させる」
シャキシャキと小気味よい音を立てて、彼女は酢漬けのキャベツを咀嚼する。
「……そして、この紫色。……アントシアニン」
彼女の目が、怪しく光った。
「……抗酸化作用だけじゃない。この色素には、もっと重要な『化学的性質』がある。……今の私には、この紫の試薬が必要なの」
試薬?
俺が首を傾げている間にも、塔の標高は目に見えて下がっていく。
筆島専務が顔をしかめた。
「……野蛮な。神聖なパーティー会場を、なんと心得る」
専務の不快感などどこ吹く風で、つくしは食べる手を止めずに、視線だけを横のテーブルへと走らせた。
そこには、うやうやしく置かれた『小田切教授の手紙』がある。
「……おかしい」
つくしが、マリネを飲み込みながら呟いた。
「……教授は万年筆を愛用していた。インクにはこだわりがあったはず。……なのに、この手紙のインク、光の反射が安っぽい」
彼女はフォークを左手に持ち替え、右手でポケットからスマホを取り出した。
「見貫。……壁を作って。撮影する」
「は、はい!」
俺はつくしの前に立ち、周囲からの視線を遮った。
その隙に、つくしはスマホのカメラを起動し、展示されている手紙にギリギリまで近づけて接写した 。
高解像度のマクロ撮影。インクの滲み、紙の繊維まで鮮明に切り取る。
「……リカ。起きてるわよね」
つくしは画像を送信すると同時に、通話ボタンを押した。
数コールもしないうちに、画面が切り替わる。
映し出されたのは、いつもの研究室と、白衣姿の美女――科捜研の善地リカだった。
『……あんたねぇ。もう夜よ? またどうでもいい推理の手伝い?』
リカは呆れ顔でコーヒーカップを手にしていた。
いつもなら、ここで不当な報酬要求合戦が始まるところだ。
だが、今回のつくしは違った。
「……リカ。報酬は『雪辱』よ」
つくしの声色が、スッと低くなった。
「……送った画像を見て。小田切教授の最後の手紙。……これを受け取った人間は、教授を殺した犯人かもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、画面の向こうのリカの表情が一変した。
気だるげな態度は消え失せ、研究者としての鋭い眼光が宿る。
彼女もまた、かつて小田切教授殺害事件を追っていた一人であり、つくしの過去を知る数少ない理解者だ。
『……小田切教授の……?』
リカがマグカップを置く音が、ゴトッ、と重く響いた。
沈黙は一瞬だった。
『……分かったわ。報酬はそれでいい』
リカは白衣の袖をまくり上げ、キーボードに手を添えた 。
『とうとう雪辱が晴らせるのね。……任せて、徹底的に解析するわ。三年前の借りを、利子をつけて返してやりましょ』
頼もしい言葉と共に、猛烈なタイピング音が聞こえ始めた。
つくしは一度通話を切り、再び『バベルの塔』攻略に戻った。
食べる。食べる。食べる。
10キロあった肉の山が、すでに半分以下になっている。
会場のざわめきが、どよめきに変わっていた。
「おい、あの細い体のどこに入ってるんだ?」
「化け物か……?」
周囲の視線など意に介さず、つくしは紫キャベツのマリネを皿ごと傾け、紫色の汁まで飲み干した。
そして、再びスマホが震えた。
リカからのビデオ通話だ。
『……出たわよ、解析結果』
画面には、複雑な波形グラフが表示されている。
『手紙のインク、肉眼ではただのブルーブラックに見えるけど……「ハイパースペクトル解析」で見たら一発だったわ』
リカが画面上のグラフを指し示す。
『……ビンゴよ、つくし。このインク、波長500から600ナノメートルの反射特性がおかしい。通常の鉄・没食子酸インクの成分じゃないわ』
彼女は断言した。
『……植物由来の「アントシアニン」色素が、不自然なほど大量に混入されている』
その言葉を聞いて、つくしは口元についたソースを拭い、ニヤリと笑った。
まるで、難解なパズルの最後のピースがハマった時のように。
「……アントシアニン。……やっぱり、そう来たか」
「あ、あの、平良夏さん? どういうことですか?」
俺が尋ねると、つくしは紫キャベツの空いた皿を指差した。
「……アントシアニンは、天然のpH指示薬なのよ」
彼女は理科の教師のように解説した。
「……赤キャベツの煮汁に酸を入れると赤くなり、アルカリを入れると青や緑になる実験、やったでしょ? それと同じ性質を持つ色素が、このインクには仕込まれている」
画面の向こうで、リカが頷く。
『ええ。酸性やアルカリ性の溶液に触れることで、色が劇的に変化する。……ただの手紙に、わざわざそんな不安定な色素を混ぜる理由は一つしかないわね』
つくしとリカの声が重なった。
「「隠されたメッセージを、浮かび上がらせるため」」
俺は鳥肌が立った。
あの友好的な手紙は、表の顔に過ぎない。
その裏には、科学的なトリックを使った「真実」が隠されているというのか。
「……ありがとう、リカ。これで迷いなくぶちまけられるわ」
『礼はいいわ。……派手にやっておしまいなさい!』
通話が切れる。
つくしは立ち上がった。
目の前の『バベルの塔』は、もはや残骸と化していた。
10キロの肉塊と、山のような野菜が、彼女の胃袋の中に消えていた。
だが。
「……あれ?」
俺は違和感を覚えた。
いつもなら皿の上のソース一滴まで綺麗に食らいつくす彼女が、今回は皿の隅に「あるもの」を残している。
レモンだ。
ローストビーフの味変用に添えられていた、くし切りのレモンが数個、手つかずのまま残されている 。
「平良夏さん、レモン残ってますよ?」
俺が指摘すると、つくしはスッと立ち上がり、バサリとドレスの裾を翻した。
「……見貫。これは『食べ残し』じゃない」
彼女は残ったレモンへ鋭いまなざしを送った。
「……これは、最後の仕上げに必要な『鍵』よ」
つくしの纏う空気が一変した。
満腹の幸福感は消え失せ、そこにあるのは真実を暴く執行人の冷徹さ。
彼女はスッと両手を目の前の空間に掲げた。
右手が、ペンのように動く。
空中に、化学反応式が光の文字となって刻まれていく幻影が見える。
『Anthocyanin + H+ ⇌ Flavylium cation (Red)……』
そして、左手。
見えないそろばんの珠を弾く指先が、高速で躍る。
パチ、パチ、パチパチッ!
インクの成分、紙の吸水率、レモンの酸度、そして筆島専務の思考回路。
全ての変数が、彼女の脳内スーパーコンピューターで処理され、一つの解へと収束していく。
「……エネルギー充填率、120パーセント。……思考回路、全領域展開」
パチンッ!
つくしが左手のエアそろばんを弾き切った。
計算終了。
同時に、右手が空中に『Q.E.D.(証明終了)』の三点を打ち込む。
彼女は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、会場の奥で談笑する筆島専務を、鋭く射抜いた。
「……解けたわ。この手紙に隠された、小田切教授の『ダイイング・メッセージ』がね」
つくしはレモンを睨みつけたまま、不敵な笑みを浮かべた。
純白のドレスが、スポットライトを浴びて輝く。
そして、大玉スイカほどに膨らんだ大きなお腹を突き出した彼女はお決まりの、しかし今夜は一際重みのある決め台詞を放った。
「10キロのバベルの塔を平らげ尽くした私が、この雪辱も平らげてあげるわ」
右手でレモンを掴み、左手でお腹を支えながら彼女が歩き出す。
その先にあるのは、偽りの友情で飾られた手紙と、それを誇示する権力者。
いよいよ、最後の推理が幕を開けた。




